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【栄光の陰に涙あり】 東海林正和
神戸高校時代に馬術部で活躍、インター杯で優勝の経歴を持ち18歳で移民船に乗りブラジルのサンパウロの城島商会に勤務、神戸高校の先輩、後輩と切磋琢磨ブラジルに定着し色々な人生経験を積み現在は、サントスの対岸にあるグアルジャ島に悠々自適、好きなゴルフ三昧の生活を送る。
ブラジルから日本に出稼ぎに行く日系2世、3世の為に日本で読めるポルトガル語の新聞JONAL TUDO BEMと月刊誌MADO IN JAPANを東京で発行された東海林さんの人生における生涯の座右の銘【栄光の陰に涙あり】を送って呉れました。
コメント集に丸木さんと榎原さんの書き込みを一緒に収録して置きます。
写真は、グアルジャのご自宅の床の間に飾る中国人の書家に描いて貰った座右の銘【栄光の陰に涙あり】を使わせて貰いました。


「栄光の陰に涙あり」中学校に入学した最初の授業で、いきなり先生が大きく黒板に書いた言葉だ。「涙が滲むような厳しい練習と、負けて流す悔し涙があってこそ、栄光を手にすることが出来る」先生の説明に、12才の私は、深い感銘を受けた。その中学校は、陸上競技で県内では知られた存在で、その先生は陸上部の顧問だった。私は、この言葉を心に刻み込ませ、それを「座右の銘」として、スポーツのみならず、人生の折々で、思い出しては励みにしてきた。
私のように、日本で社会人の経験が全くなく、高校を卒業したその年に移民船に乗ってブラジルに渡った者にとって、日本という国が良いとか悪いとか、または、好きだとか、嫌いだとか評価するベースとなる知識すら持ち合わせていなかった。私にとっての日本とは、両親と兄弟姉妹からなる家庭と、高校で、先生たちから見聞して得た知識の域を出る物ではなかったし、日本人とは、会社存続のために懸命に働く父親と、常に父をたてながら、黙々と子供たちの世話をする母親、秀才でスポーツにも秀でていた3人の兄たち、しとやかで優しかった姉たちであり、そして生徒たちを優良な大学に入学させるために、真摯に教鞭をふるう先生たちと、勉学とスポーツに励む同窓生たちであった。日本の美徳とか文化の特徴について、親や先生から習った記憶はないが、家庭と学校にいない時間には馬場で馬に跨っていたので、スポーツ(馬術)を通じて、競争に勝つためには何が必要かを学んだ。その基本になったのは、「栄光の陰に涙あり」の言葉で、300回を超える落馬や、競技で負ける度に流した悔し涙も、必ず勝利に結びつくプロセスであるという信念があった。
たったそれだけの中身を鞄につめた若者が、単身でブラジルに渡って、「日本人らしく生きよう」という思考に至る道理がない。私にできたのは、「どんなことがあっても生き延びよう」と、腹を括ることで、具体的な処世術があったとすれば、目の前に現れた仕事(例えば、便所掃除のような、どんなにつまらないことであったとしても)に、常にベストを尽くすということだった。後から振り返ってみれば、それが生きる道を見出すキッカケになったのだが…
日本、もしくは日本人のことを意識するようになったのは、ブラジルに日系人社会があったからだ。ブラジルという異国の中での特異な社会の存在と、その活動状況を邦字新聞などを通じてつぶさに観察することによって、日本人が、ブラジルでどのように生きてきて、今、どのように生きているのかを知り、自分がどのように生きていけば良いのかを模索する参考にした。その為には、日本人を客観的に見る必要があると思われたので、自らすすんで日系人コロニアにドップリと浸かることを避けた。ちなみに、私は、文化協会、県人会、援護協会などに足を踏み入れたことは一度もなく、いかなる日系人の団体や親睦会にも所属したことがない。
その一方で、ブラジル人たち側からは、日本人をどのように見ているのかを観察した。そして、概ねのブラジル人たちは日本人に好意的であることを知り、その原因は、初期移民以来、日本人が正直・誠実・勤勉であることを、ブラジル人社会に強く印象づけた結果であるということを知った。しかしそれは、大概の日本人が持ち合わせていることなので、自分にとっては特に難しいことではない。次に、ブラジル人たちが持っている特性に注目した。一口にブラジル人(貧困層を除く)といっても、そのルーツは千差万別であるが、一つ共通している点があるとすれば、彼らはブラジルにチャンスを求めてやってきた移民もしくはその子孫であるということだ。その特徴は、日常生活で常に新たなチャンスに目を光らせており、総じて「期を見るに敏」である。また「ジェイチーニョ・ブラジレイロ」という言葉があるように、臨機応変で創意工夫に長けている。機転が利くので、ユーモアを交えた会話が上手い。
その結果、「正直・誠実・勤勉の日本人の特性(とブラジル人たちが思っている)を基本に、ブラジル人の特性である、常に新たなチャンスに気を配り、物事に臨機応変に対応して、柔軟性を持って生きていく。」というのが私なりに考えたブラジルに於ける処世術であった。
出稼ぎブラジル人たちを対象に、ポルトガル語新聞を発行するために日本に滞在した1992年から2004年までの間に、バブルがはじけて日本は空前の不況に陥った。テレビや新聞では連日の様に、従業員の給料が払えないために自殺する中小企業経営者のニュースが後を絶たなかった。私は、そんなことで命を絶っていたら、自分の命はいくつあっても足りなかっただろうと思った。それらのピンチは、「ジェイチーニョ・ブラジレイロ」でなんとか切り抜けて来た。逆境や失敗にも挫けず「栄光の陰に涙あり」を信じ、常にベストを尽くすことを信条として生きてきた気がする。日本人であったからこそ出来た「生き方」だったのではなかろうか、と思っている。
東海林
写真は、中国の書家に依頼して書いてもらった「座右の銘」で、自宅の居間に置いています。

(コメント集)
丸木で~す 僕も移住してからは海外出張ばかりで日本人との付き合いが殆どありませんでした。その反動でしょうかアプゼントしてからは、歌声喫茶の会の世話人はじめ、猛虎会理事、紅白に出場したり、認知症予防の歌の会やネットカラオケの会とか日系社会にどっぷり浸かって暮らす様になりました。

榎原:明治時代、大正時代を生きた日本の若者達には、日本の独立を守る為には日本の道徳や文化の素晴らしさを分かっていながらも、それを否定して過去を否定して西欧文化を積極的に取り入れなければならいと感じていた。140年前の日本人の若者には、それなりに日本を守る使命感や国家観を備えていたことになります。一方、現代の殆どの日本人や若者には、失礼ながら国家観とか日本を守る意識がやや欠如している風に感じられます。
私事になりますが、40年前にブラジルに移住して来ました。特に、移住目的は無くどちらかというと日本の全てを否定しての移住でした。最初の20年も日本を否定してブラジル社会に同化する様務めて生活していました。しかし、余り良い人生ではなかったように思います。事業も上手く行かずに、日系社会とブラジル人社会を中途半端に生きていた20年でした。その後の20年は、日本や日本人に対する意識が180度変わりました。日本人としての誇りを持ってブラジル社会で生きて行く。この意識を持ってブラジル人と接すると彼らとの関係も良くなってくる。自分達に同化するよりも、日本人らしく生きている日本人の方を彼らは評価してくれる。何故かと考えると、我々日本人という民族は本来素晴らしい民族ということになります。しかし、全てが素晴らしいわけではありません。他国で生活するうえでは、正すべきところもあります。正直と言う日本人の美徳も時々邪魔する場合も出てきます。しかし、心の基軸は日本人であるべきだと思います。もし、私がブラジルに永住せずに日本に住み続けていたら、間違いなく日本を否定して文句を言いながら人生を過ごしていたことは間違いありません。一方、ブラジルに永住してきたお陰で、2つの国を好きになることが出来ました。私はそれだけでもブラジルへの移住が大成功だと思っています。
人間は生まれ持った性格や人間性が、生きて行く過程で変わる、変わらないの2つの説がありますが、どちらかというと変わらない説が一般的と言われますが、私は変わる説を信じています。その根拠は私が変わったからです。ですから、日本に住む日本人も何かをキッカケに変わることが出来ると信じています。日本人なら、そういう感性を備えている筈です。



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