和田さん。アクセス600万回記念、おめでとうございます。川越 しゅくこ 20.10.21
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私たちの40年! ホームページの600万回アクセスの祝辞第3弾として川越しゅくこさんの以前から約束して頂いていた書き下ろしを送って頂きました。題して「しゅくこのジャカランダと少年の心をもったおじいちゃん」です。80歳にして作家の川越しゅくこさんの作品の主人公になるのは、光栄です。それも「わたしたちの50年」管理人の和田さんですと写真まで添えて頂いております。なかなかの大作ですので2回に分けて掲載させて頂きます。一部しゅくこさんご自身の書き込みを使わせて頂きます。
タイトルは「しゅくこのジャカランダと少年の心を持ったおじいちゃん」。フィクションとノンフィクションが混ざり合って、時系列も都合のいいように、読みやすいようにと勝手に並べ替えて、内容も思い込みの激しい作文ができあがった。
和田さん、みなさま、勝手ですが、こんな稚拙なものでもよかったらお祝いの言葉に替えさせていただければとおもいます。
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和田さ〜ん & みなさまへ
しゅくこです
これからも「わたしたちの50年」が長続きし、実り多いものでありますように。
みなさまが健康で過ごされますように。メンバーの一人として、遠い日本から。
つたない言葉ですが、お祝いのメッセージを添付で送らせていただきます。
なにか気の利いた言葉でお祝いを述べたいのは山々ですが、わたしは美辞麗句の宝箱を持ちあわせていません。
われらがブログの管理人である和田さんについて、私の思うことをみなさまに読んでもらいたいな、と想いつつこれを書いています。
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先日のある記事で北米・南米を中心に海外移住者や日系人が推定360万人以上、そのうちの約213万人は中南米にいるという。
われらが和田さんは1962年の春、神戸からあるぜんちな丸で681名の移民の方たちとブラジルへ移住された一人である。
わたしはその年の夏、神戸に帰港した同じあるぜんちな丸に乗ってアメリカに留学したが、その船にも移民の方たちが161人乗船していてその存在を生まれて初めて知った。生っちょろい留学生のわたしはかれらの野性的ともいえる露わな生命力に圧倒された。
それから60年近く、和田さんの考え方も感じ方もかなり日本からブラジル風に変わったかもしれない。しかし、もともと実行力のある、おおらかな方だった。かれは18年前にブログ「わたしたちの40年」を開設して同船者仲間の消息をたどり、連絡を取り、精力的にその枠を広げて、いろんな人が投稿できるようすべての時間を捧げてきた。
和田さんはブラジル南部のポルト・アレグレという街に住んでいる。そのポルトアレグレを舞台にしたブラジル映画「ぶあいそうな手紙」(原題 Aos olhos de Ernesto)が日本でも連日放映されており、先日、宝塚のシネ・ピピアまでそれを観に行ってきた。
映画にでてくる街角の風景は、ブログで見ていた並木通りと同じ場所だった。映画は、視力のほぼなくなった老人とそれを助ける若い女性の物語だが、わたしにとってはあのジャカランダの咲いていた並木道として特別に心に残っている
風景である。
映画が始まって、思い出が頭の中を回り始めました。
そうだ、ポルト・アレグレを舞台に、和田さんが主役のあのストーリーを残しておこう。ふと気づくと、その数秒間の映画のシーンだけが飛んでいた。
タイトルは「しゅくこのジャカランダと少年の心を持ったおじいちゃん」。フィクションとノンフィクションが混ざり合って、時系列も都合のいいように、読みやすいようにと勝手に並べ替えて、内容も思い込みの激しい作文ができあがった。
和田さん、みなさま、勝手ですが、こんな稚拙なものでもよかったらお祝いの言葉に変えさせていただければとおもいます。
「しゅくこのジャカランダと少年の心をもったおじいちゃん」
1) 雪の夜のメッセ――ジ
雪の夜だった。パソコンを開いて、いつものように自分の属するブラジル関係の「わたしたちの40年」のブログに目を通していた。管理人の和田さん(当時77)夫妻の住むブラジルの南端、ポルトアレグレはいま真夏の朝である。かれの投稿文のところにきてふと目が止まった。散歩道で出会った一本の小柄なジャカランダの樹が釣鐘(つりがね)のような紫の花をたくさんつけている。その木を「しゅくこのジャカランダ」と名付けた、という投稿。寝耳に水だった。たぶん、少し前にわたしが大事に育てていたジャカランダが寒さに負けて枯れてしまったことをブログに発表していて、しかも偶然その日がわたしの誕生日でもあったことから、その思い付きは、励ましの気持ちと遊び心で気楽に名付けられたのであろう。
ジャカランダは世界三大花木の一つで、よく見る写真では背が高く青紫色の雲海のように花を咲かせる。
こんな手の届くところに花房や種がある小ぶりの種類はとても珍しいとあった。わたしはその写真をアップにしてまじまじとみつめた。その見事な房は動物的で妙に表情がある。花房の先がピンと上向きになっているのは若いお嬢さんの乳房のようで、はっきり言ってわたしの名はそぐわない。しかし、和田さんの少年のような無邪気で純粋な人柄をつねづね尊敬していたので、このさい素直に受けることにした。
「いつかぜひブラジルまで行って、その花にご挨拶したいです。夢のようです」と送った。すぐに返信がきた。
「もしこられるなら、どんな予定もたてずに待っています」と。それ以来、わたしもその花木のことをフォローする楽しみが増えた。私が行けなくなっても、草花のすきな孫のリンに「しゅくこのジャカランダ」がブラジルの南端、ポルトアレグレという街にいるよ、と教えてあげればいつか彼女に会いに行く機会がくるかもしれない、などと夢が膨らんでいった。
ところが翌日から事態は意外な展開をみせはじめた。このブログの会員であるプロの植栽家であり、さまざまな研究と実践を重ねている鹿児島の前田さん(故人)から投稿が入った。
前田さんはその夜、グーグルで3時間かけて、「しゅくこのジャカランダ」の全体の姿とその周辺をあぶりだし、数枚の画像をブログのメンバーに紹介した。それは主にイタリアやドイツ系移民の住むこぎれいな並木道のある交差点で、センターラインの角に植わっていた。それが初めて見る、ポルトアレグレの街角と「しゅくこのジャカランダ」であり、わたしの頭の中にしっかりとインプットされていた。
その写真を見たメンバーの1人、鹿児島大学農学部の名誉教授、有隅先生がさっそく投稿してきた。まず、隣りの桑の木が「しゅくこのジャカランダ」の上半身にもたれかかり、枝が上部を覆い(おおい)、さらに幾種類かの寄生植物か着生植物らしき気味の悪いコケやツタがぴつしりおおいかぶさって窒息状態であること。樹は下半身だけで必死で生き延びようとして自己更新を図っている。ただちにそれを除去しないと死んでしまうでしょう、と。
樹の下半身の手の届くところだけに花房が咲いていたワケはそこにあったのかもしれない。ついでに「しゅくこのジャカランダ」はかなりの老木であると言われた。これは正直、残念な報告で笑いながらずっこけるしかなかつた。しかしそのおかげで、わたしのその樹がずっと身近になり、この薄気味悪い衣服を裸の自分に着せられたようなぞっとする気持ちも同感できるようになった。
前田さんは個人メールでもときどきわたしのバカな質問にお叱りの、あるいはユーモアあふれる軽妙な文章でいろんな植木のことを教えてくださった。「しゅくこのジャカランダにもたれかかっている樹が、雄の樹か雌の樹か気になる樹ですね」こんな短いメールをもらうたびにわたしはよく笑ったものだ。
この話の一部始終はしばらくブログの話題をさらった。
日本はもちろん、アマゾンの昭子さんやサンパウロをはじめブラジルの各地から、カナダの丸木さんからも、このジャカランダを助けてあげてと書き込みが入り、わたしの目にはパソコンの画面がいつもより弾けているように見えた。
和田さんはその樹の前に立って、下半身のツタなどをひきちぎりながら考える。この樹は市の管轄で無断で切ったりすると条例に反して罰金になる。ブラジルに移住して弁護士の資格を取得した和田さんのこと、そんなことは百も承知であった。
悩んでなんかいられない。もたれかかっている樹を切り落とす体力は自分には無い。でもなんとかなるだろう、と。
その間、成り行きを心配してくださった前田さんは癌を患いながらも植栽の実験や来客の応対に忙しく、自慢の歌を動画で発表したり、毎朝の登山ウォークもこなしていらっしゃった。また当時なにかご自分の研究課題でお忙しかった有隅先生もできるだけの応援をしてくださった。
わたしにしてみればこのお二人が「頼みの綱」的存在であった
以下はその当時のブログに投稿された有隅先生の書き込みである。 「和田さん。こんど訪日される折に「しゅくこのジャカランダ」の穂(ほ)木(ぎ)(つぎきをするときの上につなぐ部分)を持って来て貰えれば、私が接木をし、その苗をしゅくこさんに差し上げてはどうでしょう。接木が成功しさえすれば、ポルトアレグレにある親木そのもの(遺伝的に全く同一物)が日本で復元できるので、最善の方法ではないかと考えたからです」
この言葉にはハグして感謝したいほどではあったが、寄生植物と着生植物の違いさえ知らなかったわたしたちは、他人からもらった苗木などをなんども枯らせてしまつた悲しい経験がある。また枯らしてしまうかも・・というトラウマに似た懸念があったので、和田さんはていねいにお断りすることになった。
しかし、偶然の気楽な遊び心とはいえ、わたしの名前がついてしまった以上、そしてまわりがこんなに注目している以上、わたしとしても黙って手をこまねいているわけにはいかなかった。
この瀕死のジャカランダを救ってやってほしい、そのためには隣でもたれている樹を整備してほしい、ツタやコケをは取り払って太陽にあててやってほしい、そんな内容の英語、日本語で書いたわたしの市長への嘆願書に添えて、同じ内容のものをわたしの先生である日系二世のブラジル人にポルトガルで書いてもらい、合計3通の嘆願書を和田さんにパソコンで送った。かれはブラジルの国民性の温度をわきまえている。その判断でしばらく手元に置くことになった。
2) 陽気なイタリア人の助っ人たち
和田さんは汗をふきふきその場に足しげく通い、手の届くところのまとわりついた植物を素手ではがしにかかった。不思議なことに、行動を起こす人には、その舞台が用意されているものである。その木の前に金具屋があった。彼はさっそく中に入っていった。
5-60代のご主人と近所の友人らしき若いイタリア人がカウンターにもたれてしゃべっていた。自分と同類の感覚をもつ人種であると直感した和田さんは2人に事情を説明して小型の鉈(なた)を買った。店のご主人は面白がって脚立を提供してくれた。若い方のイタリア人が鉈(なた)をもって脚立に登っていく。和田さんは下からそれを支える。陽気なブラジル移民のやんちゃ坊主たちの仕事がはじまった。罰金覚悟でやる決心はついていた。
鉈(なた)が振り下ろされるとそのまとわりついた蔦(つた)や苔(こけ)状のものがバサバサと和田さんの頭に落ちていく。古いカビで湿ったような匂いのするボロ衣服が脱がされていく。こうして、樹の中央くらいまでの絡みついたものははがされて、見上げる上部に強烈な夏の青空がぽっかりとのぞいた。
「しゅくこのジャカランダ」は金色の光のシャワーを何年かぶりで浴びることができたのである。和田さんは50レアル(約1500円)をイタリア人にお礼として渡した。脚立を返却し、足元に落ちた枝葉などを片付ける慣れない作業に汗だくになり、息も乱れた。とりあえず、今日はできることはやってみた。幸い市条例に反したと逮捕される目にもあわず、気の良いイタリア人の助っ人まで現れたのだから、これでよしとしよう。このやんちゃ坊主たちは機嫌よくカメラに収まって、たがいに名前の交換までした。一人はマルコと言った。
和田さんは考えた。家にかえったら愛妻に罰金覚悟でやった面白話しを聞かせてやろう。そしてシャワーを浴びて冷たいビールで喉を潤そう。
かれの足はステップをふむように軽やかに家路にむかった。
しかし、かれを待っていたのは愛妻のカミナリだった。和田さんは決して言い返したりしない。無邪気な顔でア〜、とかハァ〜とかまるで音楽でも聴いているようなニコニコ顔でやりすごす。あんまりこたえていない。叱っても叱りがいのない夫。奥さんはあきれてものがいえなくなる。(恵子さん、かつてな想像でごめんなさい)
ただ、この一部始終は当時360人あまりのメンバーのいるブログに
オープンに紹介されている。だれもがどうなることかと面白半分でひやひやしながら応援していた。
とつぜん私の名が無断で登場したことに、驚きと戸惑いはあったものの、もうそんなことはどうでもよかつた。小さなことにはこだわらない陽気なブラジルカラーがわたしの心をいつの間にか染めていたのである。
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