「W – 40」600万回のお祝いを申し上げます。 村松 義夫
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私たちの40年!! ホームページ600万回アクセス達成の祝辞第5弾がカリフォルニアの村さん事、村松義夫さんから届きました。1963年4月(ちょうど私たちのあるぜんちな丸第12次航から1年後)に新造移民船さくら丸に乗船して米国農業実習生として114名の若者の皆さんと意気揚々とサンフランシスコに向かい14日の船旅の間、船内新聞を発行されていたそうです。その後もアメリカとの繋がりが続き、現在は、ロス郊外にお住みで50年!!のメーリングリストの主力メンバーのお一人です。村さん祝辞に寄せてもう57年も前の事を昨日のように報告してもらい有難う。当時の記念写真を送って頂いていますので使わせて貰います。 |
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和田 様
「W – 50」600万回のお祝いを申し上げます、これからも益々お元気で更なる更新をご期待申し上げます。この会への投稿は新参者ですが麻生大先輩からのご紹介に預かり参加させて頂けたこと感謝致しております。米国からの投稿者はテキサス州在住の富田先輩とカリフォルニア州在住の小生の二人ですが、今後とも相変わりませぬご指導ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。和田さん達の南米への移住は1962年のアルゼンチナ丸と聞いています、私も移民船で翌年横浜港を出発した事で「W-50」600万回記念の駄文投稿をお送りする失礼をご容赦ください。
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1963年4月横浜港から大阪商船の移民船「さくら丸」にて全国から選別推薦された100名の第十二回米国農業実習生(日本農業の後継者)と特別枠参加の(農大生12名)、日大生(2名)が乗船し、米国サンフランシスコ港に向け出航した。1950年60年代は多くの海外移住希望者が多く、この船には先に建造され多くの移住者を南米に送り届けていたアフリカ丸、ブラジル丸、アルゼンチ丸等の移民船に追加して建造された処女航海の移民船であった。
出航前一週間を「増上寺前」の「日本女子会館」で合宿オリエンテーションがあり、実習生事業の目的、米国農業と諸事情、英会話等の講習が早朝から夜間までビッシリと組まれていました、特に早朝「増上寺」の庭での体操や重量挙げに汗を流す事も含まれていた、そして出発前日は全員が港に停泊する「氷川丸」(大東亜戦争戦前、戦中時北米からの帰国者、戦後満州、支那からの引き揚げ者輸送船)で一泊し、西洋式体験訓練があり音を立てない「フォーク」「ナイフ」「スプーン」の使い方まで教えられた事を思い出しています。
出発日の船上には既に神戸港で乗船された移住者の多くがおられた、横浜港の桟橋は移住者の家族、親族、友人達、そして海外移住組織担当者、また我々一年間の米国実習生の家族や友人、都道府県の関係者で溢れんばかりであった。中でも農大からの乗船者には全員の氏名を書いた祝渡航の大きな垂れ幕が掲げられ、応援団や後輩達の学歌と大根踊りで桟橋は大いに盛りあがった。
船内は一等船客と一般船客に別れており、勿論移住者と我々実習生は一般船室であった、その後解った事は外国人や出張公務員、商社マン、観光目的裕福層旅行者、実習生引率者達は一等船室であった。三度の食事は時間が決められ我々実習生は団体で食事が用意されていた、出発日は皆甲板に出て次第に遠ざかる日本を眺め想いに浸る姿が見られた、また船内ではこれから過ごす14日間の居場所を整理したりで過ごした。
翌朝甲板に出ると既に見えるものは海だけとなり、船も揺れが始まり乗船者の往来が次第に増し船酔いが始まり特にトイレに行く数が増えて行った。我々農大グループの中に「少林寺拳法師範者」がおり希望者を募って早朝甲板で指導してくれた、これには実習生だけでなく移住者の多くが参加していた。私は県からの派遣者2名と一緒に船長に掛け合って船内新聞の発行許可を得て取材を始めた、お陰で一等船室や機関室、キッチン等にも入場訪問でき取材活動ができた.集めた取材を船内事務局室で蝋引きのガリ版に特殊なペンで書き込みローラーを使って刷出す方式で印刷し、数カ所の船内掲示板に貼り付けるボランテア活動を14日間続けた。
お陰で南米に移住する多くの移住者の独身男性、夫婦、家族、そして花嫁移住者にインタビューができた、また既に現地で成功した移住者の元へ行く人達や仕事先が決まっていた関係者は到着を心待ちにしておられた、特に現地での受け入れ先がまだ決まっていない人達や写真や手紙の交換での結婚で行かれる女性はどこか不安を抱えていた。一名の中年女性作家が毎日素晴らしい原稿「天声人語」を下さり掲載する事ができたので新聞の評判が良く多くの人が読んでくれた、船長への毎朝のインタビュー記事も記載し一度は船長室でお茶を頂き我々の発行を感謝して頂いた。
7日目の朝甲板が賑っていたので行ってみると、目の前に広がる美しい緑と椰子の木々の島が見えた「ハワイのオアフ島」である、殆ど全員が甲板に出て眺める中船はゆっくりとホノルル港到着であった、此処では給油と食材や資材の積み込みの為暫しの時間があった、乗客も入国検査を受け夜の出発まで下船出来た。我々実習生はハワイ大学の農学部長「バロン後藤教授」の出迎えを受け、プログラムが企画されていて貸切りバスで大学」の農業試験場訪問や熱帯果樹、パイナップル農園を視察する事ができた。「ハワイ」の第一印象は日本の街並みとは全く異なり、全てが整備され特に道路や信号機、歩道等の完備、住宅と庭の整備には驚きであった。当時の日本特に東京は翌年のオリンピック開催を控え改装計画の真只中でありその違いは歴然としていた。東京にいた我々学生にとってはこの改造計画工事への夜間と週末のアルバイト先が確保され、衣食住は全て足り故郷からの仕送りは殆どいらなかった。
翌朝「ハワイ」を後にして船は「サンフランシスコ」に向かった、日中は連日海と空だけの景色であったが、夜間甲板に出ると素晴らしい星空が見渡せた、「ハワイ」では「南十字生」が最南端の空にそして「北斗七星」が北の空に見えた、南米にいかれる方々にとっては「北斗七星」は見修めだと言って空を見つめていた、暗闇の中では若者達が集まって会話に忙しく、中には独身女子をつかまえて囁き合っていた様子も見られた、船という限られた空間は誰も寂しい状況にかられるのか、人との会話が弾む場所だと理解した。
13日目の夕刻前方に明かりが見えるとの呼び声で皆甲板に出た、沢山の明かりが眩い程に横一面に輝いている、アメリカ大陸到着だと興奮した叫びも声も聞こえるが船は停泊し一夜を過ごす、翌朝動き出し乗船者全てが甲板で見つめる先に長い大きな真っ赤な橋が見え近ずくに連れて沢山の自動車が走行する様子が見えた、「金門橋」である、この長い橋を見て皆驚きの声をあげた、行く手には消防船が二隻両側から船に向かって放水し「さくら丸」を歓迎してくれた、そして船はサンフランシスコの岸壁に向かってゆっくりと進んでいた、船内放送では下船準備をと放送されていた、私はしばし甲板に残っていたがその先に見える「金門橋」より更に巨大な橋を見つめ恐ろしさを感じた、「日本はこんな国と戦争をしたのかよ」と、その橋は「サンフランシスコ・ベイ大橋」と呼ばれていた。
14日間の船旅を終えた「さくら丸」は我々実習生と米国で降りる客の下船を始めていた、この後南米に向かう人達は船に残ることになる、私は知り合った数名の移住者に別れを告げ下船した。我々は一年間だけの滞在で帰国するが南米に向かう移住者の気持ちを察すると申し訳ないような気持ちであった、頭の何処かに移民という言葉に寂しさや不安さを感じていたが、恩師「杉野忠夫教授」の言葉を思い出していた、「日本人は世界中に出かけて行き」、「そこに住む人々と共存共栄の社会を築く事」、「それが将来の日本がこの地球上で生きていく使命を授かっているのだ」と言われた言葉を。
そして翌年1964年3月、我々米国派遣農業実習生は1名の死亡者を出したが「プレジデント・ウイルソン号」の豪華客船で無事帰国した、「さくら丸」との違いは国力の違いである事を1年間の農家での体験比較と共に確実に理解できた。
1968年私は再び、サンフランシスコの地に今度は航空機で降りたった。
<カリフォルニア州、ロスアンジェルス在住、村松義夫>
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