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≪野球移民の思い出≫ 東海林 正和
東海林さんは、神戸高校時代は、馬術部で活躍、インターハイで優勝するとか華麗なスポーツマンとして名を馳せており、高校卒業と同時にブラジルに移住、城島商会で丁稚奉公をしていたブラジル移民初期の時代に熱を入れていたのが野球だったそうで我々の同船者の10名の豊和工業の野球移民と彼の所属したチーム明星と何度も対戦したそうです。「いつも接戦にはなったものの、結局一度も勝つことはなかったが、野球移民たちとの交流は、私の青春時代に彩りを添えてくれた」そうです。いにしえの紅顔の野球青年も現在は、サントス対岸のグアルジャに住み、好きなゴルフで78歳で65回のエイジーシュートを記録来年には100回を記録、日本で行われるベテランのマスター大会で80歳のブランケットで優勝することを目指して頑張っている。写真は、明星チーム所属当時のユニフォーム姿の雄姿を送って呉れています。


五十嵐さんの「祝・W40」に添付されていた、「同船者(移住者)関係の寄稿と話題」の中の「(5)海を渡った高校球児たち」に目が留まった。
https://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=53

1962年に、ブラジルにやって来た彼らのことは、鮮明に記憶に残っている。というのは、その頃、私は野球に没頭しており、彼らが所属する豊和とは、何度も試合をしたからだ。
私がブラジルに着いたのは1960年で、就職先はサンパウロのJ商会だった。最初の仕事場は倉庫だったが、チーフがジュリオさんという日系二世で、ある日、棒切れで素振りをしている私に目を止めた彼が「ショージは野球をするのか?」と訊いてきた。私は、中学で一時期、野球部に籍をおいていたことがあるので「SIM(イエス)」と答えると、ジュリオは、彼が所属している野球チームに誘ってくれた。その時初めてブラジルに野球が普及していることを知った。
週末にジュリオと向かったのはイピランガ区にあるだだっ広い野原で、野球場が10面はとれるくらいの大きさがあった。野原の片隅で、10数名のこげ茶色のユニフォームを身につけた二世の若者たちが、「ôba, ôba」と、日本では聞きなれない、掛け声とともに、キャッチボールをしていた。チーム名は「アギア(鷹)」で、サンパウロの二部リーグに所属しているとのことだった。ジュリオから皆に紹介され、すぐにキャッチボールに加わった。彼らの日本語は片言で、私はポルトガル語を全く話せなかったが、野球に言葉は要らない。すぐに打ち解けて、一か月後には一部への昇格がかかった試合に臨んだ。私はピッチャーで完投し、チームは勝利して一部への昇格を決めた。やがて一部リーグのトーナメントが始まった。最初の相手は「明星」という、一世たちばかりのチームだ。試合は接戦になり僅差で敗れたが、私は活力に溢れた「明星」というチームに魅力を感じた。試合後、私が一世であることを知った「明星」の監督から「是非」と勧誘されて、私は「アギア(鷹)」から「明星」へ移籍することを決めた。

「明星」に入って野球に情熱を燃やした日々は、私の人生で最も忘れられない時間であった。メンバーは20〜25才の、多少なりとも日本で野球をかじったことのある連中で、私と同じ「新移民」として、新天地で生きる道を模索する過程にある人たちだった。それぞれの職業は異なっていたが、週末になると全てを忘れて野球に没頭する状況に共通点があった。チームにはスポンサーが居て、野球がある週末の食費を心配する必要が無かったことも、薄給で耐乏生活を余儀なくされていた私にとっては、ありがたいことだった。野球が鬱積のはけ口になって練習にも気合が入り、二世のチームに負けてたまるかという対抗意識も、チームが強くなる原動力になっていた。ちなみに当時、世界野球選手権大会に出場が決まっていたセレソン・ブラジレイラ(ブラジル選抜)、との壮行試合で「明星」が一対ゼロで勝利して関係者を驚かせたこともあった。また、全伯大会では、パラナの菅田やノロエステの小笠原など、当時のブラジル球界を代表する名投手たちと対戦して互角に戦った。下積み時代にあった私にとって、野球は唯一の楽しみであり、情熱を燃やす対象であった。野球の後にメンバーたちと酒を酌み交わし、とりとめのない話でお互いを励まし合って、月曜日には、またそれぞれが厳しい現実(仕事)に戻っていった。野球を通じて培われた友情は、その後も末永く失われることが無かった。

野球移民がブラジルにやってきたのは、丁度その頃だ。年令に余り差が無く、中には甲子園に出場した選手もいるとのことで、その実力の程には興味津々で、対決の日を心待ちにしていた。そして遂に豊和との試合が決まった。勇躍試合に臨んだが、流石に鍛えられた高校球児たちは強かった。試合には負けたが、選手たちの洗練されたプレーが強く印象に残った。その後の試合でも、いつも接戦にはなったものの、結局一度も勝つことはなかったが、野球移民たちとの交流は、私の青春時代に彩りを添えてくれた。
東海林



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