ボリビアに入られた同船者浅野美和子さん(旧姓吉永)が旧神戸移住センターを訪問して呉れました。
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神戸の旧移住センターで毎週日曜日に語り部として訪問者をアテンドしておられる出石美知子さんが、58年も前に神戸からあるぜんちな丸第12次航でご家族と一緒にボリビアのサンファン移住地に8歳の時に乗り込まれた浅野美和子さんの訪問を受けられました。美和子さんは、現在愛知県に住んでおられ姫路城を見学した帰りに旧移住斡旋所の建物だけでも見られたらと立ち寄られたそうで出石さんの丁寧なアテンドと神戸から乗船された同船者の記念写真5枚の中から8歳の頃のご自分を見つけて写真を大事に持ち帰られたとのこと。サントスからバウル経由ブラジルとの国境のコルンバを超えてサンタクルスまでのマキで走る汽車の旅が7日間掛かったとの話を覚えていて話してくれたとの事。写真は、出石さんが送って呉れていた美和子さんの写真をおかりしました。8歳の頃の美和子さんの面影は?との質問ですが「ううん。。。」ですね。 |
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和田さん みなさん 神戸、出石です。
今日は愛知県から日系のご家族の方がそれぞれ3組も来られて忙しく楽しい日でした。
その中のボリビアに移住された浅野(旧姓吉永)美和子さんが、1962年4月2日に神戸を出航した「あるぜんちな丸」だったと言うことです。
お父さんは吉永幸男さん、お母さんが一子さん、7人家族で移住したそうです。
下記は乗船者名簿から取りました。
美和子さんは8才だったと言うことで、船内新聞を発行していた「和田さん」を知りませんか?と聞きましたが、子供だったので覚えていないと言うことでした。
乗船記録をプリントアウトして、あるぜんちな丸の集合写真5枚を見せたのですが、美代子さんは8才の自分の写真を見つけられませんでした。
虫眼鏡も貸してあげたのですが中々見つけられませんでした。
一緒にご主人と娘さん夫婦も来ていたのですが、娘さんがある写真の一番前にしゃがんでいる女の子の写真を見て「まるで私かと思ったからこれがお母さんじゃない?」と見つけました。確かに傍に妹さんを膝に抱いた美和子さんのお母さんも映っていたので、みんなで「これだ、これだ」と喜んで持って帰ってもらいました。
姫路城を訪ねた帰りに、「建物だけでも見て帰ろう」と来られたそうです。
「まさか中には入れてこんなにしていただけるなんて・・」と喜んでもらいました。
美和子さんの従姉妹に「石沢珠恵」さんと言う方がいるそうです。
ご主人の浅野敬士さんは昭和33年9月2日出港のぶらじる丸で行かれた方ですが、石沢さんと一緒に来られた和田さんに一度会ったことがある様に思うと話されていました。
「どうして知り合ったのですか?」と聞いたら「家が隣同士で親が結婚しろと言ったから」との返事でした。
でも、とっても面白い話を聞きました。
美和子さん達はサントスで船を下りてから、列車でボリビアに向かったそうです。
当時の列車は「マキ」で走る汽車で、速度がとてもゆっくりだったそうです。途中で薪がなくなったら乗客たちは列車を降りてそこらから薪やたきぎ等を拾ってきて、ゆっくり走る汽車に飛び乗るのだそうです。
それでも登りに差し掛かると汽車はズルズルバックするそうです。で、みんなでまた薪を集めに走ったそうです。
そんな状態でブラジルを走っている時、先に移住していた日本の人たちが追っかけて来て、長〜いフランスパンやジャムやおにぎりを差し入れしてくれたそうです。それがとてもうれしかったと言うことでした。
でも、おにぎりは米がパサパサで手に持ったら崩れてしまうのがおかしかったと言ってました。
係の人に「いつボリビアに着くのか?」と聞いたら「運転手が眠たがっているのでいつになるのかわからない」と言われたそうです。
後の方で機関車がディーゼル車に切り替えられてからは順調に走って、サントスからサンタクルスの移住地迄1週間もかかったと話していました。
汽車の様子など本当に面白くおかしく話されてみんなで大笑いしながら聞きました。
“私たちの40年「あるぜんちな丸寄稿集」”をネットで見るように伝えました。
「写真をブラジルに送ってもいい?」と聞いてOKを頂いたので送ります。
右から2人目が美和子さんです。8才の頃の面影は?
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