HOME  HOME ExpoBrazil - Agaricus, herbs, propolis for health and beauty.  Nikkeybrasil  編集委員会  寄稿集目次  寄稿集目次  通信欄  通信欄  写真集  リンク集  準会員申込  em portugues




第41回バーチャル座談会『新春放談、行く年来る年2020ー2021』その3
新春放談は、前哨戦を終えその3に入りました。BATE PAPOの結果として古谷さんが退会されましたが、論客の古谷さんがおられなくなると淋しいですが、ご本人の意思を尊重することにします。一度退会手続きをした榎原さんは、戻られて浅海さんの連載に毎日コメントしておられ、新春放談でも活躍されています。今年は、丸木さんが進行役を引き受けて呉れており要所、要所上手くコメントして呉れています。広橋さん、石田さん、吉田さん、松栄さん、五十嵐さん、東海林さん、藤沢さん、榎原さん等のご発言が続き新春放談らしくなって来ました。これに女性軍が加わると賑やかになるでしょう。写真は、榎原さんの故郷、甲府の牧岡からの富士山の写真が届いているので使わせて貰うことにしました。皆さんのご発言をお待ちします。


和田: 2回に渡る荒れた前哨戦を終え愈々新春放談に入ります。普段と違ったパンデミアの年、コロナ禍で異常な8ヶ月を過ごした2020年は、皆さんにとっても忘れ難い1年だったのではないかと思います。私の2020年を一人一人に語って頂きたいと思います。女性軍の皆さんのご発言をおまちします。時系列に捉えられること無く皆さんのご発言を拾い集めてその3に掲載させて頂きます。適当な写真があれば添えて下さい。お便りお待ちします。

和田:自宅で使用している一番新しいPC(恵子が買ってくれた)のOUTLOOKが表示されなくなり使えなくなっています。ここから発信できるかテストしてみます。

倉八: 和田さん 久留米からはなです。届いてますよ〜

斎藤:和田さーん、おはようございます、届いています、何時もご苦労様です。          斎藤秀一ハンク齋藤

工藤:和田さん 最近、和田さんはじめ、ブラジルニュースが途絶えて、大変寂しく、大変心配していました・・・ メールが在って良かったです。ブラジルニュースをお待ちしています。
もっとも残念なのは、今年は和田さんご夫妻が日本へお出で下さらないことです。
コロナが落ち着き次第に、日本へお出で下さい。皆様がお待ちしています。謝  謝

和田:工藤さん ご心配おかけしました。事務所で使っていたPCを持ち帰り使用しています。何とか新春放談を続けたいと思います。宜しく。
コロナが収まれば80を過ぎますがまた旅行をしたいです。死ぬ前に後何回か訪日、3女のいるニュージランドとお隣のオーストラリア、ヨーロッパにももう一度位行きたいですね。実現すると良いのですが。。。先ず日本に行き工藤さん始め皆さんとお会いしたいですね。早く来い!です。

榎原:和田さん こんばんは。恐れ入りますが、再入会の方法を教えてください。トライしていますが、入会方法がわかりません。

和田: 榎原さん 50年への再入会手続きを終了しました。このメールが、50年!!で届けば完了です。ご確認下さい。浅海さんの連載が終わるまではメンバーとしてお付き合い下さい。現役で働いておられお忙しいとの事、何時でも退会は、ご自由です。ご自分でして下さい。原則ですので2度は追いかけませんのでご安心下さい。今後とも時間を見つけてお付き合い下さい。

榎原: 和田さん お手数をお掛けしました。有難うございました。宜しくお願い致します。

石田: 榎原さん、 帰ってくれて、嬉しいです。無理せず、仲良く、情報交換。
w50で、私は多くを教て頂きました。和田さん、ありがとう。

東海林:五十嵐さん、和田さん 40年!!286と287を読ませていただきました。
生粋の技術者として生き抜かれた方だったのですね。「人生チャラ」という言葉があって、どのような人生を歩もうが、最終的には勝ち負けなしのチャラで終わるということのようですが、私のように行き当たりバッタリで人生を歩んできた者からすると、「その道一筋」の人生を歩まれた方には、少なからず憧憬を覚えます。唯一共通点があるとすれば、その場その場で直面した状況で、常にベストを尽くして生きてきたという点でしょうか?ご尊名を存じ上げなかったのには理由があります。私はブラジルに来てから、日系人社会と深く関わることを避けてきました。その理由は、自分の人生が他人によって左右されることを避けたかったからです。「先人たちが、こうした、ああした」ではなく、人は人、吾は吾で、自分独自の人生を歩みたかった。ちなみに、私は、文協、援協、県人会などに一度も足を踏み入れたことがありませんし、同時期に移民で来られた他の方たちが、どのような人生を歩んでおられるかということに興味をもったこともありません。そうゆう意味では、和田さんの「モグリ移民」のご評価は、当たらずとも遠からずかも知れません。五十嵐さんの筆調が、今でもかくしゃくとしておられるのは、技術者として、常に自分の脳を最大限に活用して生きてこられたからだと思います。人から、ああしろ、こうしろと命令されて生きてきた方たちは、往々にしてボケがくるのが早いのではなかろうかと思います。

東海林:五十嵐さん 大変、失礼をしてしまったようです。ハッと思い出して、旧メールをひもといてみたところ、以前に「タンゴ」に関するコメントを読ませていただいていました。ただ、そこではお年には触れておられなかったので、今回のコメントとイメージがだぶらずに、大変失礼をいたしました。その節は、私の「情熱のタンゴ」の内容にもご共鳴いただきましてありがとうございました。遅ればせながら御礼を申し上げます。これからも五十嵐さんを目標にして、筆調に若さを失わないように、努めたいと思っています。

石田:広橋さんは、会社を起こし、立派な業績を、上げたと聞きました。どんな、お仕事ですか? 教えて下さい。
私は、1977年、技術移民。機械エンジニア、専門は、冷凍空調技師、リストラの専門家(経験8回)、ミナス州ベロオリゾンテ2年、
サンジョゼ ドス カンポス9年、クリチーバ33年。子供3人。

広橋:石田 さん 私は立派な業績を上げる力など持っていません。
医療業界関係の仕事が立派な様に見せてくれるんですね。
私自身の過去を思い出し、思い出して列記します。その機会を石田さんにいただき感謝します。こんな機会も良いですね。
人生の最初の頃、凄く幸運に恵まれました。今考えますと、人生全体が幸運だったですね。
なるべくカッコ良く(自慢げに)見せて記しますので、それを考慮して読んでください。
1945年3月、11人兄弟の末っ子として誕生!まだ戦争中で名前を”勝造”と名付けられ。乳が出なくなった40半ばの母に代わり近所のおばさん、姉ちゃん達の乳を吸って回って(好き嫌いがあったらしい)(美味しさが分かっていたのかな?)、兄弟に守られ順調に育つ!
1) 1964年の最初の東京オリンピック開催に間に合うよう、新幹線(東京ー大阪間515キロ)開通を目指し、電力供給用の変電所の遠方監視制御装置に (まだ、ゲルマニウムトランジスター時代の)半導体を初めて使用した設計チームに緊急に組み込まれる。自分の意志ではなく、時代の流れで、素晴らしいプロジェクトチームの一員に組み込まれた。
2) その後、新築の渋谷NHK放送センターの放送自動化システム、神奈川県相模湖水利用テレメーター及び制御システム、日本石油開発の新潟油田緊急テレメーター、イラク電力線監視制御装置、etc’s と、テレメーター、遠方監視制御装置の企画、設計専門家として成長。
3) 1969年インテルサットIII のアポロ11号月面着陸の中継で、ペルーの衛星通信地上局と、首都リマまでのマイクロ通信装置とテレメーター装置の現地調整と現地要員トレーニングを任され6ヵ月滞在、吉か凶か知りませんが南米を知りました。
4) 1970年、帰国すると、ペルー行きに抜擢してくれた部長が定年退職していた事で、直接的な借りのある人物がなくなり、ペルーで知った南米に憧れて移住を決意。
5) 1971年4月12日、第38回戦後移住に就航した”あるぜんちな丸”でサントス港に、単身技術移民として上陸。既に日本で決まっていた東芝イルネ(発電機、大型モーター設計製造)社に入社。
6) 1971年7月、東芝イルネを3ヶ月弱で退社、それから3ヶ月半、無職、就活。
7) 同年11月、サンパウロ電話会社への就職に成功。生ぬるい半官半民の会社事情を8年間経験。
8) 1978年、電話公社関係のソロカバ市の会社の通信装置の設計に従事。(7人の日本人技術者を呼び寄せ招集)
9) 1982年、ミナスBH市の電話関係の会社に移籍。
10) 1986年、サンパウロ市で学童用文房具製造会社を他の日本人と建ち上げ。
11) 1990年、輸入解禁がなされ、中国製が市場に氾濫、即座に閉社。
12) 1990年、同船者(麻生さんの友人)に紹介された医療関係会社に籍を置く。
13) 1995年、現在の会社(透析関係専門)を設立。
14) 2010年、65歳で年金収入を目当てに社長席を書類上辞退。そのすきに、次男に主導権を剥奪され、会社が業績向上。
15) 2011年、和田さんからW50への入会許可。
16) 2012年、脳梗塞経験。
17) 2013年、2回目の脳梗塞経験、生き残る。
18) 2020年、75歳、会社の一室を何とか占拠して、サンパウロの東洋街を舞台にしたアクション小説家として再起を目指し頑張っているがヒットなし、一銭も収入なし。次男から頂戴するお小遣いとブラジル年金と日本厚生年金で細々と暮らし、弁当持参で支出を抑え、金曜日夜のただ一つの楽しみの飲み会の経費をなんとか捻出し、死守しながら現在に至る。
です。人生朝露の如し、ですね。
石田さんも、この形式で自身の人生を教えて下さい。

石田:広橋さん、どちらのお生まれですか?
11人兄弟とは、凄いです。今、何人生きてますか?
仲の良い、話し辛い兄弟は?
新幹線、開業、変電所の遠方監視装置?
どんな会社にお勤めになりましたか?

広橋:石田さん 生まれは博多です。
生きているのは私を入れて4人です。
一言で言いますと、末っ子は幸せです。
今、改めて考えると、兄や姉さん達は私を甘やかせマスコットにしてましたね。
会社はNECエンジニアリングです。
この世に生を授かった時、世界は焼け野原でした。
新生の幼い勝造はこれがあたりまえの人間の世界なんだと理解し、何も苦になりませんでした。
その最低の世界の私の視点からは、今日まで毎日が右肩上がりの世界に見え、苦労したと思いませんでした。
時には、夫婦で一つのアラビアパンを分け合ったて食べた(会社を潰した頃)時代もありました。あのパン美味しかったなー。

石田:広橋様、 博多と福岡の違いが解らない人間です。美味しい食べ物の豊富な土地ですね。
私は東京生まれ、育ちましたが、本籍は、山口県徳山市、小学生の時、ブルートレイン、あさかぜ号が発足、毎年、子供だけで帰省してました。
博多の名称は、あさかぜ号の終着駅として、懐かしい響きがあります。
当時のNECは、電電公社指定の一流企業、昭和の時代を、颯爽と駆け抜けた、技術者。選ばれてペルーの電話工事に従事、素晴らしいです。
私の唯一の移住同期生、高原幸雄さんが、貴方の会社の、社員として、お世話になっている模様です。世の中は、狭いです。

石田さん 福岡の 広橋勝造です
博多と福岡の違;福岡市のド真ん中に那珂川が流れてします。その川を境目に東側が博多と言い、西側を福岡と言います。
福岡: 黒田城がある西側はむかーし、侍が多かった城下町です。護国、赤坂、大濠、Etc’s堅苦しい町の名前が多いです。
博多: むかーし町人(商人)の町で、呉服町、鍛治町、魚町等、今もその名残の町名が多くあります。
国鉄の駅が福岡駅でなく、博多駅なのは、東側にあるからです。
私鉄(西鉄)で福岡駅が西側にあります。
食べ物;家が貧乏でしたから、博多の美味しい食べ物を知りませんでした。大阪に始めて行ってビックリしました。
私の実家は福岡側ですが、出身地を尋ねられると、博多と言いたいです。
尋ねる方にもより:正式な堅苦しい方には”福岡” 正式でなく、それからなじみのある方には”博多”と私は使い分けます。
”博多”だと相手の方も凄くリラックスしてくれて話がはずみます。

東海林:広橋さん 履歴書(?)読ませて頂きました。変化に富んだ半生だったようですね。ただ一貫して、若い時に身に付けられた技術に裏付けされた、一本の筋が通った人生のように感じられました。どんな事情があったにせよ、東芝イルネを3か月で辞められたことは、正解だったのではないでしょうか?というのは、私は、日本を離れ、日本企業から離れてこそ、真の海外における人生への挑戦になるのではなかろうかと常々思っているからです。そこから本当の挑戦が始まり、失敗と挫折を繰り返しながら何かを学び、さらに新たな創意工夫が生まれて挑戦を続けることによって成功への道が開けていくのではないでしょうか?「次男に主導権を剥奪された」とありますが、「剥奪」という言葉は穏やかではありませんが、興された事業を息子さんが継ぐということほど、幸せなことはなことはないではありませんか?実は私も、ある日娘たちに「パパ、給料はそのままにしておくから、よかったら会社に来ずに、ゴルフを楽しんでいてもいいのよ」と言われ、頭に血が上ったことがあります。しかし冷静になって考えてみたら、これほど有難い話はないことに気付き、受け入れることにしました。今は、自分が興した事業を、子供たちが継いでくれたことに対し、人生でこれ以上の幸せはないと思っています。

広橋:東海林さん 全て仰る通りです。
東柴イルネを出た理由の第一は、私の履歴書は読まれていなかった事です。日本語が喋れる者であれば、誰でもよかったのです。就業中に、駐在員の方がエレベーターの中で我々の前でゴルフを打つ格好をしておられるのを観て、何処かで見た日本の雰囲気と同じじゃないか、日本を出た意味がない、と気付き即刻辞表を出しました。何事も自分の所為でそうなったのですから当然です。後で、給料を上げてやるとか色々言われましたが、時すでに遅し、無一文で飛び出しました。その後、IBM,NEC,EMBRATEL等を回って職を探していると、電話局が雇ってくれました。条件は”ポルトガル語を二年後に試験する”、でした。その試験は行われませんでした。
たぶん、言葉によるミスが幸運にも人身事故に及ばなかったからだと思います。一番苦労したのはブラジル人の主任だったようです。
私に 「心配して夜も眠れなかった」 と後で言われました。良いブラジル人達にも恵まれました。
脳梗塞に二度襲われてからの私の口癖は:
『俺が死んだら広橋勝造は幸せいっぱいで生き、あの世に行った。と伝えてくれ』です。
人生をふり返るチャンスを与えた皆さんに感謝の広橋 サンパウロ

丸木で~す あの頃に東芝では、僕が駆け出し当時の東芝セールススクールの講師の本郷さん、後に本社社長会長歴任された佐波さんやアメリカ現地法人社長になられたがロシア潜水艦事件で更迭された石坂さんなんかが居て、重電の東芝イルネ、軽電の東芝イーマン、東芝メディカルが設立されましたが、兼松の大原さんが社長になったメディカル以外は成功しませんでした。駐在員は駐在意識ですから根無し草で現地法人はうまくいきません。トップが永住のつもりで来てる会社は根が生えてますから広橋さんのように成功するのですね。永住のつもりだった大原さんはオーストラリアに転出されメディカルだけでなく全社統合の親会社の社長に昇進されました、為念。

和田:やっと年末年始の新春放談らしくなってきましたね。もう6000字近くなりその3をUPしないと思っています。広橋さんの人生を振り返ってみる良い機会になったとのコメント、特に『俺が死んだら広橋勝造は幸せいっぱいで生き、あの世に行った。と伝えてくれ』です。私も同じような思いを山の歌に寄せて私たちの40年!!ホームページに娘達に贈る「山の歌」として18年前に書き残しています。
https://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=51
お父さんの好きな山の歌「いつかある日」の歌詞をおまえ達に残して置くので気が向いた時、思い出した時に歌って下さい。お父さんに取って「山」とは、こよなく愛しているブラジルの国であり、究極的には人生とも云えると思います。
1) いつかある日、山で死んだら
古い山の友よ、伝えてくれ!!
2) 母親には、安らかだったと
男らしく死んだと、父親には
3) 伝えてくれ、愛しい妻に
俺が返らなくても、生きて行けと
4) 娘達に(息子達に)俺の踏み跡が
故郷の岩山に、残っていると
5) 友に贈る、俺のハンマアー
ピトンの歌声を、聞かせてくれ
6) 友よ山に、小さなケルンを
立てて墓にしてくれ、ピッケル立てて
7) 俺のケルン、美しいフェイスに
朝の日が輝く、広いテラス
皆さんの投稿をお待ちします。

丸木で~す カナダに住む斎藤さんと僕は、以前ニッケイ新聞に連載されてた広橋さんが書かれた 日本の水が飲みたい を翌日が待ち遠しいと話してたものです。広橋さんの処女作(題名を忘れました)に感動した僕は、著者ご本人から登場する店の風(そよ風)や金太郎(桃太郎)に案内され楽しかったです。モジダスクルーゼスを舞台にした小説 微生物 も立派な作品で、いずれもトロント日系文化会館の図書室に寄贈してあります、為念。

松栄: みなさん 私の名前の読み方のいろいろから、おかしな状況になってしまったのですが、・・・ 和田さん、古谷さん、丸木さん、広橋さん、申し訳なく思っています。
何卒、ご容赦、お願いします。
ーーーーー
このコロナの閉塞状況の時間で、いろいろの新しい展開が予想されるのでは、ないかと思って過ごしています。
まず、最近の日本の学問状況(学術問題も入れて)から社会の構成条件も、このコロナが過ぎた頃から変わってくるのではないか、と想像します。
最近、ネットで言われることが多くなった、東大筆頭の日本の大学のレベル低下、というより、全ての面で、世界での日本のランクの下降、が言われ始めて、同時に資金が
学問に回らなくなって、今後5年10年で、日本はもっと酷くなるという予想もあります。
既に日本がアメリカに次いで、何でもかんでも世界2位、というランクが凡そ全ての面で低下してしまって、どこまで下がるか、という時代に突入してしまった、と思います。
バブルの崩壊で、その時期を境に、全てが下向きになって失われた30年という平成の時間の間に、中国、韓国に技術文化の日本の培った、ノーハウ、をタダで全部持ってかれて、令和に入って、その影響が国民にジワジワ押し迫ってきて、現在に至りました。
このコロナが閉塞したころには、時代が変わってしまっているのではないかと私には思えるこの頃です。
しかし、日本人には日本人の発想、ひらめき、思考回路、その他独特の何かを持っている、と私は感じています。
でないと、とことん徹底的に燃やし尽くされ、原爆や東京大阪空襲で焼き殺され、荒廃の原野から,2-30年で回復し、アメリカに次いで世界2位の地位を回復できなかった、と思います。
日本は、ディ―ㇷ゚インパクトのような、直線・最後方一機、という追い込み、が出来る国だ、と思っています。
一時の英国が、そんな日本が経済回復した当時、今の日本と同じような不況状況で、失われた大英帝国、と言われていたのを、思い出します。
コロナが終わったら、また改めて出直すことを考えるべき時期でなないか、と今は思います。
そんなことを考えているのですが、皆様はどう思われるでしょうか。

和田:松栄さん お気にしないでください。お名前の記載を間違えたのは私ですから私の責任です。それにしても色々ありましたね。雨降って地固まるの諺通り晴れて良かったです。今日の散歩は小雨に振られ寒い1日になりましたが。
今見たら古谷さんがご自分で50年!!を退会手続きをされたようですが、榎原さんの例に従い今、古谷さんのアドレス kgfurutani56@gmail.comを再登録して置きました。
古谷さん お手数を掛けますが、退会方法は、勉強されたようですのでどうしても50年!!退会意思が固いようであれば退会手続きをして下さい。2度は追いかけません。悪しからず。。。

和田:松栄さん このメール届いていますか? 私の所には、配信されていない(戻って来ている)用ですので転送で再送して置きます。
尚、古谷さんからは、下記返信が私宛に届いています。退会の意思は固いようですので今後は、古谷さんは、メンバーではないのでご了承下さい。
和田さん 古谷です
再考しましたが、意を覆すに至りませんでした。
和田さんには大変お世話になり、厚く御礼を申し上げます。
折角、「再考するように」とのお勧めまで戴き乍ら、お受け出来ず、意地を通す愚鈍さをご寛容願います。完。

藤沢:榎原さん 榎原さんがこのML退会を突然宣言されたとき、思わず「しまった」とほぞを噛んでしまいました。榎原さんと作家の深沢七郎が同郷同窓の間柄だといつか書いておられたので、彼の作品で描かれている甲斐の地と人間にについてお聞きしようと思っていたためです。何かをしようと思うならばすぐにしなければならないとまた思い知らされました。しかし幸いにも復帰されるとのこと、お聞きしようと思っていたことを最後に記しますので、いつでも結構ですのでご教示くだされば幸いです。これで一安心です。
深沢の『笛吹川』をもう一度読んでみました。武田信玄から勝頼までの六、七十年の間の戦火の絶えなかった武田家の興亡と、果てしない戦乱に巻きこまれた農民一族の悲劇を、深沢特有の無表情な筆致のなかで描いています。しかし全体として見れば、山梨というより甲斐の国の人たちを愛おしく思う気持ちが強くにじみ出ているように思えました。
表面的には武田家の身勝手さを批判しているように読むこともでき 
そうです。しかし戦国の世では、あのような光景はどこにでも見られたであろうことを考えれば、私の読み方は間違いということになります。山梨では、今でも武田信玄を「信玄」と呼び捨てにすると、地元の人たちは不快な表情をみせたり、あるいは面と向かって抗議する人もいると聞きます。甲府駅前の広場の「信玄公」の威厳のある座像の前に立った時、その気持ちも分かるような気がしたのを憶えています。
前置きが長くなりましたが、ここからが質問です。山梨の人たちは 
深沢の作品をどのように評価しているのでしょうか。信玄公は日本の歴史に多大な影響を与えた人物なだけに関心があります。

榎原: 藤沢さん、お久し振りです。日本に26歳まで住んでいた時に、実際に身近な知り合いと彼について議論したこともなく、又私が彼の作品を読んだのは若い時代であり彼の作品を理解できるほどの人生経験はなかったのか全体的に結構重い作品という印象しかありません。それらの前提に立っての私の個人的な山梨県民や同窓生の彼への評価についてですが、彼の作品や人生に関心を寄せている県民は少ないと思います。通常、全国区で有名になった県民は、県庁主催の講演会、同窓会主催の講演会の依頼があるのが一般的です。しかし、私の知る限りでは、彼がこういった講演会での講演をやった話は聞いたことがありません。矢張り、田舎者の堅苦しいことが嫌いな県民には、彼の思想や考え方が馴染めないのではないかと思っていました。
しかし、藤沢さんの「全体として見れば、山梨というより甲斐の国の人たちを愛おしく思う気持ちが強くにじみ出ているように思えました」の感想が強烈に心に響きました。どうも、彼の作品を理解するには、ある程度の人生経験とか生きてきた年輪が必要かも知れません。一度、「笛吹川」を読み直してみたいと思います。その時に、自分がどういう感想を持つのか楽しみです。藤沢さんの問い合わせに対する回答はこの位になってしまいます。再度読み直した後の感想をまたお知らせします。
因みに、地元の友人が送ってくれた武田信玄公の銅像と富士山の写真を添付します。私は山梨県に住む県民を中心にした450名位の「甲州弁愛好会」に参加して、彼らと甲州弁限定の投稿をみたり、投稿に添付される地元の写真をみたりして楽しんでいます。写真で多いのは、富士山、武田信玄公銅像、甲府盆地の夜景、田園風景です。



アクセス数 7492413 Copyright 2002-2004 私たちの40年!! All rights reserved
Desenvolvido e mantido por AbraOn.
pagina gerada em 0.0244 segundos.