第41回バーチャル座談会『新春放談、行く年来る年2020ー2021』その4
|
|
バーチャル座談会その4は、皆さんの参加で面白くなって来ました。五十嵐さん、藤沢さん、榎原さん、吉田さん、松江さん、石田さん、須貝さんと広橋さんの遣り取り、久留米のはなさん、しゅくこさんの女性軍の参加もあり、最後はしゅくこさんの書き込みと杉井さん、松栄さんのコメントで終わったいます。既に次回に回した吉田さんの長い街の名前だけで2千字近くなって居りその5も直ぐに公開する必要がありそうです。特筆すべきは、丸木さんの書き込みでバーチャル座談会の進行役を務めて頂いており、60年安保に付いての発言を促され私も娘たちに送る山の歌を通して60年安保に付いて語る機会がありました。丸木さん有難う。写真も徳力さんの知って置きたい日本の歴史に使われていた60年安保で国会議事堂前を埋め尽くしたデモ隊の写真を使わせて貰いました。 |
|
五十嵐:東海林さん 小生の長い作文<40年!!286および287>をお読みになり、それに加えて貴名文に続いて書きました<タンゴとブエノスでの思い出>に過分のお褒めの言葉を頂いて恐縮しております。お言葉に甘えて、出来たらそれに続く短文の<288>もお読みいただけたらなお幸せに存じます。と、いうのは小生の感じるブラジルの風土、そこに住む心優しい人達への思いを述べているので、この国を愛する貴兄の共感も得られるのではないか、と思われるからです。なお、288には丸木兄などメール仲間との写真も付いており、最前列左側の眼鏡をかけた白髪爺が小生です。
和田: 五十嵐さん その3をリリース後に届いたメールでその4のトップに使わせて貰いました。3部作の最後288を落としていましたね。失礼しました。掲載写真の左側の手前に五十嵐さんが移っています。そのお隣が駒形さん。右側の手前が広橋さん、小山さん、一番奥に古谷さんの姿が見えます。
パンデミックが収まればまた集まってだべりたいですね。288のURLは、下記です。
私たちの40年!! あるぜんちな丸同船者寄稿集 (nikkeybrasil.com.br) コントロールキイを押しながらクリックしてください。
藤沢: 榎原さん 早速のご返信ありがとうございます。信玄公は、信玄堤を建設して民生に気を配ったかと思えば、家康を恐怖のあまり糞を垂れながしながら敗走させたりと、とにかく稀代の政治家にして軍略家だったようです。こういう前知識があったので、信玄公の銅像が余計に威厳たっぷりに私の眼に映ったものと思います。
深沢七郎は人間でさえも「物」として描く独特の作風の持ち主なので、その作品には薄気味悪さも漂います。しかしこれも、甲州人としての深沢なりの健全な郷土愛のなせる業なのではないかと、と思ったりしています。
*****************
(ついでですので、以下を追加します)
郷土愛は心の拠りどころみたいなものですから、多かれ少なかれ、形を変えてでも、誰でも持っているはずです。「フーテンの寅さん」もあちこち旅ばかりしていても、いつでも思い出すのはふるさとの土地、人々であり、決してフーテンなどではありません。
私の母親は封建制だとかには無頓着な人間でしたが、それでもふるさと岩手県の南部家の人たちのことを口にするときには、ちゃんと
「南部さんのあの方は・・・」と敬称をつけて呼んでいました。
榎原: 藤沢さん 同感です。どんな日本人でも、程度の差こそあれ郷土愛は持っていると思います。私は「笛吹川」を今度読んでみて自分自身が藤沢さんの感じたことを自分が感じられるかどうか楽しみにしているところです。
昨日の投稿でも少し触れましたが、私は山梨の会員450名位の「甲州弁愛好会」の会員として、日々甲州弁に触れています。若いころには、家庭でもなるべく方言を使い、学校教育でも小学校から英語を学ぶよりも方言や地域の名前の由来、そして、郷土の発展に尽力した歴史上の人物を教えるべきです。小さいころの郷土愛は大人になったら愛国心に変わります。地方の良さも認識するようになります。そうすれば、都市集中型社会から地方分散型の社会に変わります。こういう社会の変化は、第1次産業の活性化や高学歴主義の衰退にも効果が出てきます。オレオレ詐欺やいじめ問題も無くなってきます。政府が税金を使って対処療法的な解決策を取るよりも、ずっと効果があります。私はコロナ禍が始まって、国民の価値観が変わることを期待していたのですが、残念ながらどうも期待薄の気がしています。
和田:徳力さん 皆さん 土曜日に出るはずの「知っておきたい日本の歴史=徳力啓三が2週間飛び心配していましたが今日22がWEB版に掲載されていたので遅くなりましたが掲載して置きました。
急いでいたのでLIVEDOORのBLOGのURLが新春放題その3に成っていました。正しくは、下記です。
http://wadayoshiji.livedoor.blog/archives/8508546.html
丸木で~す 60年安保のデモ隊の写真には和田さんも居られたのですね
和田: 丸木さんの誘いに乗って少し書いてみます。60年安保、懐かしいですね。神戸から58年に東京に出て大隈講堂の裏にあった予備校早稲田ゼミナールに1年通い1浪で赤い絨毯を目指して早稲田の政治経済学部第1政治学科に入学、早慶戦とデモに明け暮れしました。部活では、雄弁会、政治学会に入り雄弁会では、小渕恵三先輩に可愛がって貰いブラジルでも2度お目に掛かりました。最初は、サンパウロの高井先輩のお宅で高井家の家訓に従い先に帰ったものは、ソファーに寝るが、後から帰ったものは、床の上で寝ることになっており、朝目が覚めると床にカバさんのような小渕先輩が床に寝ていました。二度目は、竹下総理の名代でアルゼンチン大統領の就任式に日本政府代表で参加する帰りにサンパウロに立ち寄りブラジル稲門会の歓迎会の席でした。
デモでは、清水谷に集合した学生は、明治大学生を先頭に早稲田が続き国会前に進軍?するのですが、機動隊と直接ぶつかる段になると明治の学生はどこかに消えており、早稲田が先頭に立ってぶつかります。どうしてですかね?早稲田のラグビー部は、練習の場がなくなり困っているでしょうね。首相官邸の塀を乗り越え乱入した事もあり、神戸高校の2年先輩の東大生樺美知子さんが警官に圧殺されたのを抗議して神戸高校稲門会のプラカードを持ってデモっていたらNHKがその写真を『高校生のデモ参加、政治意識をどう思う?』とか云う番組に流していました。稲門会ですのでれっきとした大学生だったのですがね。61年の6月18日は国会前に野宿しました。懐かしい早慶戦とデモに明け暮れた青春時代を思い出しました。60年安保の後、早稲田の海外移住研究会に谷君と一緒に入り、『移住思想啓蒙遊説』と題して九州七県の農業高校、工業高校等を二一日間掛けて遊説して回り、本で仕入れた知識で移住を勧め目を輝かせて聞いていた丸坊主の学生、騙されて?移住した学生さん達への罪滅ぼし?に六二年から自らブラジルに移住、もう五八年にもなります。面白い人生を送って来たと感謝しています。
石田:広橋様、 博多は東側、商人の町。福岡は西側、武士の町。およそ、こんな感じですか。
丸木で~す 福岡勤務時代には東中洲や西中洲ではしご酒してましたが。中洲は博多でしょうか?
博多の 広橋勝造です: 難しい質問です。丸木さんみたいに呑み助でなかったので、中間のあのあたりの事情は知りません。
丸木さんに当時を振り返って、呑み助は侍だったか、そうでなかったか思い出してください。私の想像では、金払いのきっぷの良さからして、呑み助は侍だったかな、とすると福岡ですね。
倉八: 広橋さん 久留米からはなです。
お久しぶりです。お元気のようで何よりです。私もコロナに負けず何とかやってます。
福岡出身でない私ですが、興味を持って調べてみました。
確かに市内を那珂川が流れ、その那珂川と博多川の真ん中にできた洲が中州のようですね。
おっしゃるように那珂川を境に東側を博多とするなら中州は博多。住所も福岡市博多区となってますね。
我が家のご先祖様は黒田藩の武家であったそうですから、広橋さん宅と同じ西側の福岡ですね。
ご先祖がご近所だったりして〜想像すると面白いです。博多の方が人懐かしい感じですね。
博多川端のぜんざい、飾り山傘を眺めながら食べたものです。
昨年皆様にお知らせした「ジャカランダ」も中州で咲いてます。コロナが収まったら又見に行きたいものです。
広橋: はなさん いつも故郷からのお便りありがとうございます。
”しゅくこ”さんや”はな”さんからいつも素晴らしい日本の風景写真や園芸写真を付けてもらって日々のごく普通の幸せな暮らしを伝えていただき幸せです。
特にブラジルでは味わえない日本の季節の変わり目のすばらしさに、涙が出そうな時があります。
W50への投稿メールでは強がりを言っていますが、内心は・・・です。
それを、いつも癒していただきありがとうございます。
日本から遠く離れたサンパウロ 広橋勝造
須貝:広橋勝造 さん 質問です。下記の通り先端のプロジェクトチームで働いたとのこと、貴台は工業高校出身ですか?それとも大学は工学部関係(機械、電気、化学、等々)でどこの大学の出身であるか教えてくださると参考になります。
またサンパウロ電話会社に1971年に就職したとのことですが、どんな職種でしたか?技術者関係の職でしたか? 技術者(Engenheiro)としてですか?
広橋:須貝さん 質問内容、私の一番コンプレックスの件です。
私は工業高校出(福岡電波高校=船舶の通信が主だった、モールス信号まで習得、3年間船で通いました。まだあるかな?)です。
皆さん凄い努力で大学を卒業されておられるのに、大学に行かなかった(行けなかった?)のは、できが悪く、勉強嫌いだったからです。一生の恥になりました。
ブラジルでは、高校の卒業証書と成績表を公証翻訳したものを電話局は提出を求めました。その結果、給料カテゴリー14から二階級上がって16をくれました。相当数の外国人(嘘があったのか?)がカテゴリーを落した中で、私は幸運でした。
参考;大学出の電気、電子専門の”エンジニェロ”はカテゴリー18 医者”メジコ”はカテゴリー16 工業高校出”テクニコ”はカテゴリー14でした。もう、私の恥さらしを止めましょう。その内、『貴方のモノは何センチか?』なんて質問が出そうです。
内緒:治療中で測定不可能の 広橋勝造
須貝:広橋勝造 さん 早速のご返事ありがとうございました。細かいこと聞くわけでありません。小生も1960年代の後半よりブラジル国の政府で働くよう努力しました。問題はブラジル国の学校を出ていないことです。小学校、中学校、高等学校、それに大学の卒業証明書がないことです。すなわち、ブラジル国においては文盲でした。文盲は雇ってくれません。しかし、ブラジル国では州の教育局指定の学校で認証検定試験(Revalidação) をしてくれます。小、中、高の認証検定試験はサンパウロの教育局でドンペドロセグンド高校でその試験をやり合格しました。科目はポルトガル語、ブラジル国人文地理それにブラジル国歴史でした。大学の認証検定試験(Revalidação)はミナス州ヴィソーザ連邦大学で教授会の審査後6っ科目試験させられて合格し卒業証明書を認可されました。これでブラジル国のエンジェネイロになりました。法律、5194で定められいる技術者手帳(CREA)を所持しています。更に、政府で働くために上級試験( CONCURSO )をし,合格しています。それでは。
吉田:≪ コロナが終わった後の世界≫ マツエさん コロナビールス下でいろいろな制約があり思うようにうごけませんね。でも中国のワクチンは1月に接種されるそうですから自由に動ける日も近いと思います。私は毎日歩いたり器械体操をしたり足が弱らないようにしています。毎日歩く道にはカンポス ド ジヨルドン鉄道があったりセントラル線があったりします。果物もたくさんなつています。
コロナビールスの後はぜひエビの養殖を始めて下さい。エビが好きなので食べに行きます。
松栄: みなさん 今日、仕事と本家仕事が終わっての帰宅が午後7時前でした。
水曜木曜は昼だけの営業なので、仕事を朝10時頃から、2時に私だけ上げさせてもらって、本宅に行き、農業の真似事と昼寝をしています。
体が(しんどくて)付いてこないので、1時間くらい休まないと何もできないわけで、誰もいない閑散とした家で、畑仕事、と言っても60m₂の位の広さの庭仕事をやってます。
金曜土曜日は、午後も夕方5時から8時まで営業するので後片付けしていると9時半から、場合によっては10時頃まで店で何かしています。昼も仕事で、同じく2時から4時半ころまで本宅で,、犬に餌やったり、仏さんを拝んだりしています。
これが、6月から店を開けて、今日11月26日までの毎日のスタンスでした。多分明日からも。
日曜は、前日の仕事が厳しいせいか。昼頃まで寝ています。
そしてゴソゴソ起きて、みんなでマーケットに息抜きに出かけるか、また寝てしまうか・・・です。
月曜は何もしないか、先々週は500km(往復)運転して農場に行ってきましたので、日曜に出て、月曜日の晩に帰ってきました。
1950年生まれなので、ちょうどこの8月3日が70歳の記念する誕生日でしたが、このようなコロナ閉鎖の年になる、とは思っても見ませんでした。
恐らくあと一か月もしたらワクチンが届いて、3か月もしたら。あのコロナ騒ぎは何だったのか、という時代がくるだろうと期待しています。
苦し事というのは、けっこう簡単に忘れそうなので、その時を予測して今の記録を、しっかり残しておきたい、と思っています。
幸いにも、麻生さんのお陰で、麻生さんが亡くなられた昨年10月4日だったからのコロナの様子を毎日、ブラジルニュース に残していますので、全部を纏めてみたいなー、と思っています。
多分自分には貴重な記録になるのではないか、と思っています。
しかし、このコロナ騒ぎが終わったとしても、かなり世の中が変わっているだろう、と思います。
今を大事に暮らしてゆきたいと思いますが、毎日がアッという間に過ぎてしまって、もう1年が過ぎてしまった、これからも1年があっという間でその来年の今頃、何を考えているのかを、楽しみに、これを書いています。
それにしても、痛くも痒くもないのですが、気持ちの、落ち方の厳しい年になったなー、と思って、今書いています。
今日、帰宅して、そんなことを書いて置きたいなー 、と思っていました。
相変わらずの、とりとめのない文章になりました。
吉田: マツエさん 私の手違いでマツエさんえ返信してしまい、お手数をかけ申し訳ありません。写真が容量オーバーとのことですが、もう一度watasitatino50nenの方に送ってみます。
私は毎朝この器械運動場まで歩き各種の運動を100回します。マツエさんは200回できるのですね。すばらしいです。この近くにカンポス・ド・ジョルドン鉄道の始点があります。10年位前、観光列車が山を降りるときブレーキが利かなくなり、谷底に転落し運転士が死んだので、それ以降旅客用の列車は山裾のピラクアマ(20KM)までしか行きません。日曜日の観光列車は復活しましたが、今はパンデミアのため運行されていません。この鉄道は1914年に創業され今年で106年になります。狭軌鉄道で建設には大勢の日本人が働いたといいます。建設が終わった後は幾人かの日本人は沿線の駅にとどまり、農家をやったと聞きました。1990年ごろその子孫たちがお祖父さんの本籍を調べて欲しいと言って、お祖父さんの持ち物を全部持ってきたこともありました。そんな山の中に日系人が住んでいたなどとは知らなかったのおどろきました。それからセントラル線も近くを通っています。1985年までは毎晩リオ行きの寝台列車が走っていました。私のいつかそれに乗ってリオに行きたいと思っていましたが、突然客車が廃止になり貨物だけになりました。単線では旅客輸送は無理だったのでしょう。新幹線の話はジウマ大統領の時に競売がありましたが、誰も応募しなかったようです。そのプロジェクトではピンダモニャンガーバに駅は無く、サン・ジョゼ・ドス・カンポスの次の駅はアパレシーダでした。
≪ コロナが終わった後の世界≫ ピンダの吉田さんからのお便りです。 | 私たちの50年!! (ameblo.jp)
https://ameblo.jp/yoshijiwanchan/entry-12643104302.html
松栄:みなさん 今日は、昔懐かしいワインの話です。私のワインとの出会い、みたいな感じです。
小さいころ、ワイン と言えば赤玉ポートワインしかなかった記憶があります。
父が晩酌に飲んでいたのを、味見した経験でこれが葡萄酒なんだ、と思っていたのですが、小学生だったころは、食生活も貧しいもので、・・・
でもあのころ食べた、サバの煮つけや、クジラの醤油のつけ焼き、イワシのめざし、なんか、は美味しかった、と今でも記憶にあります。
宝塚に住み始めたのが、多分私が5歳ころだったか、と思います。その当時阪急の宝塚には、市場はありましたが、品そろえが少なく、値段もけっこう高かったので、電車で次に駅、清荒神(きよしこうじん)まで行ったりしました、そこの駅前に大きな市場があって。
そこから。荒神さんへの参道が始まります。
その市場には新鮮で、種類もたくさんあって、何しろ宝塚より格段安かった。
その頃、近所に毎週2回か、オート三輪に食料を山ほど積んで売りに来る、当時、消費組合、と母は言ってましたが、食料品の万屋さん が来て、行き止まりの通りの奥で、店を広げます。
野菜、果物、魚、乾物、…たいていのもがありました。
何を思ったか、秋の暮れのある日、その消費組合から黒いブドウ、確かキャンベル、というブドウだったと思う。のを、母が3箱くらい買ったのです。
「おかん、こんなに買うて 何すんのん?」と聞いたら、「これ みんな潰して葡萄酒作るんや」と言いました。
家に帰って、井戸端まで、大きなタライを持ってきて、そのブドウを全部ぶち明けて、水をガッチャンガッチャンつぎ込んで奇麗に洗って、ごみなんかを洗い流して、全部ザルに上げる。
空になったタライに、今度は一粒ずつ、ブドウを手でつぶすわけです。口にもっていって、指でグッと潰して食べるのを、タライに食べさすわけで、時々それが口に行ったのを、覚えています。
それを、今度は裸足になって足をきれいに洗って、そんな潰れたブドウがイッパイのタライの中に入って、グッチャグッチャ潰し
始めるわえです。
「イヤー 凄いことするんやなー」と思いました。
それを1週間くらい、毎日一回くらいだったと記憶しますがやり続けて、凄い匂いがし始めたら、布で濾して、雑物をこしとった紫色の液体を、一升瓶に入れて、邪魔にならないところに隠しておくわけです。
それから1か月くらいたっただろうか。突然母が一升瓶を食卓にもってきて、コップに次ぎました。
「みんな どんな味やろうか」と言いながら飲みました。
とても美味しかった記憶があります。そんなことが小学生の頃にありました。
宮岡: まつえ様 清荒神神社 懐かしいですね。母とよくお参りに行きました。今も帰国のたびにはタカラヅカの友人を訪ねますがね。
神社の境内に富岡鉄斎の書画がズラーと並べられていました。お寺よりもこの方が印象的でした。
松栄:宮岡さん みなさん メールありがとうございます。
清荒神と富岡鉄斎の関係を全く知りませんでした。まず富岡鉄斎さんのこともあまり知らなかった。
荒神さんに、鉄斎記念館が出来た、ということは知っていた気がしますが、私がブラジルに来たのが1974年末ですので、記念館開館が75年としたら、つじつまが会いませんが・・・
今度宝塚に帰ることがあれば(コロナで予定が付かない)是非この 鉄斎記念館と、手塚治虫記念館 に行ってみたいと思っています。
しゅくこ: 杉井さ〜ん & みなさまへ 杉井さんは良いところでお住まいですね。
甲山は登りやすい親しみのある山としてすぐそばにあって、いつの時代の子供から年輩の人たちも、「甲山」と口にするとき、その響きのなかに誇らしい愛情が感じられます。
わたしも18〜20才の間、すぐ近くに住んでいました。この50年にも丸木さんはじめこの文教的な土地に青春時代を送られた方たちが多いですね。
いつから、いにしえの山々がそこにあったのでしょうか。
外国の友達が訪ねてきたとき、日本の山々の多さに驚いていましたが、わたしもコロナ禍の今頃になって、つくづく山に囲まれた素晴らしい国に生まれて改めて感謝の気持ちです。(自然災害のある時はこんな国逃げ出したい、と思ったりしますが)
写真左は甲山をのぞむ学校のある通り右はわたしが昔幼稚園の先生になろうと思っていたころ、実習にいったことがあるプロテスタント系の幼稚園かもしれない
今日は生まれて初めて初心者用の登山靴をお勧めに従って買ってきました。
いままで信頼していたウォーキングシューズ。なんども神戸の東急ハンズに修理に出しては愛用していた。
その靴も毎日の散歩には今まで通り使うつもりですが、ここはもうすぐ閉店。どうなるのでしょうか。
わたしの足指は一見おとなしそうな田舎娘みたいな顔をしていますが、靴屋でぴったりサイズと思って買ってもかならず一週間後くらいから文句をいいはじめてわたしの足をいためつけるのです。
なのでどれを買ってもお蔵入りか廃棄処分。いま履いているのはそんななかでもはじめて気に入っている靴なのです。
今日何年ぶりかで買ったこの新しい登山靴に、わたしの指が駄々をこねないように祈っています。
なにしろ高いものですから。
お天気つづきなので、県立陶芸美術館からぬくもりの郷温泉、その後、播州清水寺(627年建立)をハシゴしました。
温泉のあとのアイスクリーム 黒豆とムラサキ芋、しあわせ!
丸木さんやマツエさんのお話に出てくる宝塚〜三田間の生瀬、武田尾近辺。
宝塚歌劇までのフラワーロード 日曜画家たちがキャンパスを前に筆を動かしています
コロナはいつまでつづくのか、「Go to 山歩き」はいつまでつづくのか
杉井: しゅくこさん 写真の関学正面の大通りは今は「学園花通り「」と命名されていて、丸木さんの母校の県立西宮高校と甲陵中学が向かい合ってこの大通りに面しています。消防署は関学の裏側に移転しました。実習に行かれた幼稚園は仁川幼稚園ですね。今も存続していて梅林で有名な甲東公民館の隣です。
新しく買われたキャラバンの赤い登山靴は家内が履いているのと同じです。家内は外反母趾ですがキャラバン製は足幅が広くて
履き良いです。ただC-02はアッパー材料が人工皮革スエードで軽いのですが、岩場歩きが多いと破れる可能性があります。また
靴底の張替えは出来ません。私はキャラバンのGrand Kingの皮革アッパーの靴を使用していますが、岩場でも破れず丈夫です。
一昨日は阪急御影から天狗岩尾根を登って極楽茶屋から紅葉谷を有馬温泉に下って金の湯に入って来ましたが、コロナで入場制限をしていて30分程待たされました。有馬―宝塚のバスも蓬莱峡経由は運休になっていて山口ー北六甲台―名塩経由が一時間に一便しか無く、宝塚まで1時間も掛りました。
松栄: シュッキーさん みなさん 楽しい旅行案内、ありがとうございました。
添付頂いた2枚の川の写真、鉄橋が映っている景色は武田尾でしょか。橋の横に小さな道があったのが、こんなにお広くなったのかな、と思いました。駅の横に、ヨロズや、みたいな食品店が一軒あったのをしっかり覚えています。
虫取りに何度も訪れたので、川の風景はよく覚えています。 チョウはいなかった。
河の中に出ている大石が見えますが、武庫川の上流になるので、この石の下にもウナギがいっぱいいます、アユも手網でたくさん獲れます。
多分今でも。
武田尾は、有馬と並んで関西の奥座敷と言われた時代があって、数戸の民家と確か2軒の温泉宿があったはずです。
その一軒の方の旅館が、私の小学校の同級生の旅館で、そこの一人娘さんだった。ちょっと大柄の可愛い女の子でした。一人だけ、そんな山奥から汽車に乗って宝塚まで通ってきていました。
確か本田さんと言って、中学はどこか別の学区に行って、消えられてしまったのですが、何度か武田尾に行った折、ココが本田さんの家だ、と思って見ていた記憶があります。
初恋の人、ではありませんが、この川岸の景色を見て思い出した切ない思い出です。
もう彼女も70歳になっているはずですね。
書きだしたら終わりませんので、またの機会に聞いてください。
懐かしくて、切ない記憶の映像、ありがとうございました。
|
|