≪学移連との若干の関わりについて≫ 北村 孝 記
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北村 孝さんから長いブラジルとの付き合いを学移連を通じての関わりと題して興味深い記録を50年!!メーリングリストを通じて送って頂きましたのでホームページに残して置くことにしました。北村さんの略歴と写真も無理を言って送って頂きましたので掲載させて貰うことにしました。
北村さんの略歴は、下記の通りです。
北村 孝 略歴
1934年 福井県生まれ
1949年 福井県立武生高等学校併設中学校卒業
1952年 武蔵高等学校卒業
1952年 東京大学教養学部理科U類入学
1956年 東京大学農学部農業経済学科卒業
1956年以降 日本海外協会連合会、海外移住事業団、国際協力事業団(含 関連業務)勤務。日本国内(東京、横浜、大阪)通算21年間。海外(ドミニカ、ブラジル(3回)、アメリカ、トルコ、アルゼンチン)通算25年間
2003年 サンパウロにて隠居生活(途中一時帰国)
2014年 東京にて終活生活・・・・・現在に至る
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<学移連との若干の関わりについて≫ 北村 孝 記
1964年(昭和39年)秋私が海外移住事業団 総務部調査課(港区赤坂田町7丁目/溜池の信和ビル)に勤めていた時(学移連と関係のない部署なのに)何故か学移連第4次南米実習調査団の帰国報告を兼ねた四国遊説班の前半行程(香川・愛媛県)に同行するよう出張命令を受けた。
その時初めて「学移連」について次のようなことを知った。
私が大学入学時 昭和27年(1952年)頃からか、若干の大学では海外雄飛を夢見る学生たちが海外事情研究会や海外移住研究会などのサークル活動を行っていたところ (私は在学中そのようなことを全く聞いたことがなかったが)
昭和30年(1955)年6月25日衆議院議員会館において麻布獣医大学・神奈川大学・神戸大学・上智大学・拓殖大学・中央大学・天理大学・東京農業大学・日本大学・早稲田大学から30数名が出席して日本学生海外移住連盟(略称:学移連)の設立総会が行われた。また東京大学の海外研究会を中心とした旧帝大系の学生が設立の準備を進めていた組織もこれに合流し一本化した。
その後外務省の補助金の交付もあり本格的活動が開始され、加盟校も徐々に増え、昭和35年(1960年)には第一次南米学生実習調査団が派遣されるようになった。・・・・・・・・・
昭和39年(1964年)秋、第4次南米実習調査団の四国遊説班の団員は松田潤治郎(拓大、第3次派遣で2年間現地実習)、四方征紀(日大)、福永都(大阪府大)、安房、田口の諸君でした。その同行中諸君の南米における活動状況等を聞き、また諸君と雑談をし、非常に参考になった。
その後、松田君は海外移住事業団に就職し、私と同じセクションで務めたこともあり、長い付き合いになっている。
四方君と福永さんは結婚し、パラグアイ・アルトパラナ移住地に入植し営農に励んでいた。 私はプラジル勤務の時1978年ごろ同移住地の四方宅を訪れ四方夫婦と語り合った。1988年サンパウロにて中南米日本語教師研修会が開催された際、同会にパラグアイから参加した都さんと再会した。
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{ 日本海外協会連合会(略称:海協連)や海外移住事業団では東京本部のほか海外支部や国内事務所勤務のことも
多く、同一職場で過ごさないことが少なくない。}
私が海協連ドミニカ支部勤務中(1956〜1962)日本不在の時期に海協連に就職し、後年私の同僚・友人となった高橋順治郎・堀口進一の両氏は学移連初代委員長と2代目委員長であったと1965年春頃知った。
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私がサンフランシスコ勤務(1970〜1972)の時、サンフランシスコの対岸バークレイに国際農友会の事務所があり、日本農家の子弟および若干の東京農大学生とブラジル日系農家の子弟をアメリカ(主としてカリフォルニア州)農場で1年間実習させるプログラムを実施していた。東農大出身の本田親盈・村松義夫・石井 某・(ブラジル農友会派遣の)ネルソン斎藤の4氏が実働チームとして車を駆使して実習生受入れ農場を駆け巡っていた。
私は彼等が巡回に出掛ける際、3回ほど車を運転し同行させて貰った。アメリカの農業や農場、カリフォルニア州内各地の事情などの一端を知ることが出来有難かった。 また、彼等とゴルフに興じることもあった。
後年 村松さんが学移連の熱心な活動家であった(本田・石井さんは不詳)と知った。
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昭和50(1975)年〜昭和52(1977)年私がJICA移住第2業務部移住広報課長の時期
移住広報課(当時新宿三井ビル45階)の業務は 海外移住に関する情報の収集整理、マスコミ等関係者との接触、「海外移住」新聞(月1回)の発行、懸賞作文の募集・選考・表彰、有識者の海外派遣、高等学校の海外教育、関係団体との連絡のほか 学移連の活動支援も所掌しており、学移連南米実習調査団派遣経費の一部は事業団予算に計上されていた。また学移連本部事務所が所在していたため、学移連幹部諸君(40数年前のことであり名前忘却)が多数出入りしていた。
学移連顧問教授会第2代会長の後藤連一教授(日本大学農獣医学部拓殖学科)とは懇意にしていた。 同教授に誘われ三重県志摩の日本フロンティア・センター(後藤教授が自費を投入し、志摩半島の一角の土地を購入し、海外を志向する青年を育成する場として作った)で開催された学移連夏季研修会に出掛けたことがある。 私の後任は高橋順治郎課長。
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私がサンパウロ勤務(サンパウロ市東洋街文協ビル6階)時昭和61(1986)年〜平成2(1990)年、多数の学移連出身者と出会い、屡々接触する機会が多かった者(名前忘却)もいた。そのうち明確に学移連出身者として認識していた者は、移住事業団に就職したが短期間で辞職しサンパウロに移住していた大槻洋志郎(玉川大学)とサンパウロ新聞社専務取締役の後独立してジャーナリストになった日下野良武(熊本商科大学)の両氏である。
昭和63(1988)年6月18日サンパウロ市パカエンブ―競技場において日本人ブラジル移住80年祭がサルネイ・ブラジル大統領、礼宮文仁親王殿下ほか多数の高官も臨席され盛大に開催され、その後ジャミック(JICA現地法人)工業移住センターの跡地に建設された日伯友好病院の落成式がサルネイ大統領・礼宮殿下等も同様に臨席され盛大に挙行された。
パカエンブ―競技場から日伯病院への移動には大勢の人が大会運営者手配のバスを利用したが、偶然そのバスの中で中南米専門旅行会社アルファインテル南米交流の佐藤貞茂社長と知り合った。佐藤さんは東京農大、学移連出身でアマゾン地域各地の農業実習調査に加わったことがあるという。
(なお、サルネイ大統領がバス右側1番前の席に座り移動するのを見て驚いた。)
1990年3月末私は後任の堀口進一所長との事務引継ぎを終え、関西支部(大阪市北区堂島2丁目近鉄堂島ビル14階)に転勤のため帰国した。
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ブラジル日本移民100周年記念イベントの一環として平成20(2008)年11月8日(土)雪村いづみ・(大衆演劇の第一人者)沢 竜二・宝塚OG4人娘・丹下セツ子による公演がサンパウロ文化協会大講堂にて開催された。
その翌9日(日曜)サンパウロ市内モルンビ地区にある早田慎一郎氏(ハヤタ外国為替トレーディング社長)邸宅の広い中庭にて一行の歓迎昼食会が開かれ関係者や早田氏の友人も多数招待され賑やかに開催された。
その際アルファインテルの佐藤貞茂さんと再会することになった。
(2020.12〜2021.1)眞砂 睦さん(学移連第11期委員長)執筆の「ブラジル移民のたどった道」に感銘し、同人誌「燦河」に掲載することを発案し、同誌編集部の矢島 章氏に強力に働きかけたのは早田さんである
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2014年4月サンパウロでの隠居生活を終え、東京に引き揚げてきてから私もまだ元気だったので数回JICA横浜の海外移住資料館を訪れた。
同資料館の説明ボランティアは曜日毎の交替で勤務しており、JICA移住OB仲間数人とその他見知らぬ人が何人かいた。
(リオデジャネイロ勤務2回目(1977〜1980)の時付き合いのあった東京銀行の河村憲一さんがボランティアになっているのに30年振
りに出会った。)
JICAOBのうち学移連出身は高橋順治郎、堀口進一、松田潤治郎の3氏であり、高橋さんとは顔を合わせる機会がなく2016年5月他界(享年82歳)されたと後日聞いた。 堀口さんとはJICA資料館で少し話す機会があった。 松田君とは何回か出合わせよく話をした。学移連OB会会長に選ばれているとも聞いた。
松田君が学移連でサンパウロとパラナ州、JICAでベレンとミナスジェライス洲の田舎町で過ごした体験をもとにして書いた童話「ハチドリの歌」を恵送して貰い、読んだ。 彼が過ごしたベレンとミナスの町には丁度彼の勤務時に訪れたことがある。ベレンはパラー州都でアマゾン河口にある大都市、ミナスの町とはミナスジェライス州都ベロオリゾンテ市南方93kmにあるイタウナという田舎町。
2019年10月「ハチドリの歌」が第22回日本自費出版文化賞特別賞を受賞したとの喜びの声を聞いた。そして「第22回・・・・特別賞受賞 子どもたちに伝えたい・・・・・」との帯封が付いた初版第2刷2020年12月25日発行の「ハチドリの歌」が我が家に届いいたのは2021年1月10日頃であった。 (彼がその1ヵ月余 後に死去するとは全く予想できなかった。)
インターネット検索により「学移連OB会」を調べて、「学移連OB会第五回全国大会」の項目を見ると・・・・・
平成26年(2014年)6月28日横浜JICA(海外移住資料館)にて学移連OB会第5回全国大会(創立60周年記念大
会)が24大学97名の学移連OBが参加し開催された。・・・・創立60年を記念して上智大学卒の堀口進一氏が「創立
60年を回顧する」と題して創立当時の学移連の思い出を話した後、役員改選にて新会長に松田潤治郎(拓殖大学卒)、
副会長に宮本修(鹿児島大学卒)が満場一致で選出された。・・・・・
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2016年何月であったか、JR新橋駅近く(新橋2-8-17和田ビル6F)にあるアルファインテル社に佐藤貞茂社長を訪ね暫く歓談したことがある。その際、同社事務所に学移連OB会事務局が置かれていると知った。 なお、昨年同社は近く(西新橋1-20-10エクセルビル7F)に移転した由。
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2020年8月、前述のサンフランシスコ勤務時代の友人村松義夫さんが「私たちの50年!!」の配信リストに私のアドレスを加えて戴いた。その結果貴重な多数のメールを拝見することが出来感謝している。
村松義夫さんの投稿により、村松さん自身は、高校生の時東京農大拓殖学科初代主任教授である杉野忠夫教授の著書を読み感激し、東京農大拓殖学科に入学、在学中は杉野教授に師事、学移連活動にも従事し、学移連顧問教授会初代会長も務められた杉野教授提唱の“work before study”を実践し、在学中にアメリカ農場にて1年間働いた由。
杉野教授の影響を受けた東京農大生、特に拓殖学科生の多くは北中南米(特にブラジル)への移住を心掛けたと覗われた。
「私たちの50年!!」にて頻繁に配信されてくる富田真三さんのアメリカ便り」をいつも興味深く拝見していたところ、2020年10月頃「アメリカ便り」アーカイブの2018年5月を何気なくクリックすると「岸総理南米訪問講演会(昭和34年/1959年)の顛末記」に出合わせ、興味深い内容なので一気に読了した。富田さんが早稲田大学在学中 学移連にて奮闘した様子が記されている。
岸総理私邸訪問時の写真も掲載されており、総理の真後ろに堀口進一・富田真三の両人が並んで写っているのを見て驚き、早速堀口に電話したところ「当時のことはよく覚えている。その時は既にOBであったので裏方の仕事をしていた。富田とは中学・高校が一緒で、大学は早稲田と上智に分かれたが学移連でまた一緒になった。富田一家とは親密で、真三の弟・博義も早稲田で学移連委員長を務めた。等々・・・・・・」久し振りの会話で長話となり、昔話に花が咲いた。
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2021年2月上旬上記眞砂睦さんへの連絡に関し、岡本健一さん(学移連OB会幹事長、早稲田大学海外移住研究稲門会OB会会長)とのメール・電話交信の機会が生じた。
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コロナ禍が続き各種会合は取りやめとなり、横浜の移住資料館も閉鎖となり、外出自粛で、特に高齢者では知友間の
顔合わせは出来ず、電話やメールが消息を知るほぼ唯一の手段となった期間が長く続いている。
松田潤治郎君とは時折メール交信をしており、2020年12月29日照会メールを送信したところ即刻回答返信が来たので、相変わらず元気でいることと思い込んでいた。
年が明けて2021年2月11日些細な照会メールを送信したが、なかなか返信がないので2月15日自宅に電話したところ息子さんから「父は入院中です」とのことだったが、息子さんとは初めての会話であり、詳細なことを尋ねるのは憚られ、重篤な状態になっているとは露思わなかった。
学移連OB会幹事長岡本健一さんからOB会皆様宛て「2月16日松田潤治郎会長逝去」の通知及び松田会長逝去に関する何人ものOB会会員の弔意メールを2月21日「私たちの50年!!」の通報により、知ることになり、吃驚仰天するとともに、松田君との長い付き合いの中で生じた数々のことが思い浮かび、衷心よりご冥福を祈った。
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<余談1>学移連設立以前のこと
{畏友・故稲田耕一とツバロン港 サンパウロ 1997年8月 森田左京} によると
森田左京と稲田耕一は東大ヨット部の仲間であった。
森田は工学部機械工学科を昭和28(1953)年に卒業し、電業社原動機製造所に入社した。
稲田は肋膜炎で1年留年し理学部数学科を昭和29(1954)年に卒業し、「ブラジルに行く」と宣言して、7月にオランダ船のテゲルベルグ号で横浜を出発した。
見送りに行った時、船上で「後から来てくれよな」と言われ、「うん」と答えたのが、私にとってブラジルとの始まりだった。昭和30(1955)年10月に電業社は東芝に吸収合併されることになり、9月末で退社し、翌年3月にテゲルベルグ号で稲田より1年8ヵ月遅れで昭和31(1956)年5月ブラジルにやってきた。
稲田は南米銀行、移住振興会社(現JICA)を経て1958年からパシフイック・コンサルタント・ド・ブラジル(PCDB)に移った。 森田は三井物産(当時は第一物産)の機械課で働いたが、誘われて1959年4月からPCDBに移り、稲田と一緒に仕事をすることになった。
40年ほど前には、田舎の鉱山会社に過ぎなかったリオドセ会社が、現在、時価評価100億ドル以上、鉄鉱石年産1億トンに達する世界の一流企業になったのは、(エスピリト・サント州の)ツバロン港無くしては実現できなかったであろう。これはエリエゼル・バチスタの天才的な構想に支援を惜しまなかった日本の製鉄業界、その架け橋になった稲田たちの努力の成果ともいえる。
(日伯間の鉄鉱石取引の唯一の障害は海上輸送運賃で、それを下げるためには大型鉱石専用船の採用が不可欠で、またその大型鉱石船が
接岸できる埠頭が必要である。そのための、リオドセ社内の企画調整、日本からの調査団派遣、駐伯安東大使への説明、日本の製鉄業
界への説明・交渉等々につき稲田の訪日(森田も訪日)を含めた活動詳細は省略)
ブラジル政府は稲田に対し南十字星勲章を贈ってその貢献に報いた。
エリエゼル・バチスタが日本政府より勲一等瑞宝賞を贈られた際、授賞式における挨拶で「日伯関係における今日の自分があるのは稲田氏のおかげである」と言った由。
その後、稲田は伊藤忠商事に入り、間もなくリオデジャネイロ支店長になったが、その間日本が戦後初めて開発した双発機YS―11の売り込みや、セニブラ(日伯紙パルプ)のスタートを手がけた。
私は初回リオ勤務(1967~1970)の際稲田さんと知り合った。
やがて、伊藤忠を辞めてコンサルタントとして独立した。
(1997年3月14日東京・虎ノ門病院にて死去)
森田はツバロン港プロジェクトに協力した後、1965年4月から1974年まで東芝にて勤務した。
1966年4月リオ出張の機内で、新聞が4月1日ツバロン港に日本からの第1船を迎えて完成式を行ったというニュースを伝えていた。エリエゼルは1964年の革命で実権を握った軍事政権に忌避されて、リオドセ社を去っていた。勿論、エリエゼル抜きのリオドセ社は考えられず、1979年から1986年まで再び社長に返り咲き、カラジャス計画や関連事業の多角化に手腕を振るったのは周知の事実である。
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私がサンパウロ勤務の時期(1986〜1990)森田左京さんと知り合った。その時は上記レポート記述の詳細は承知していなかったが、東大出身で早期にブラジルに移住され、電力関係コンサルタントをされているとは理解していたが、実際には、左京さんを頼って移住してきた実弟の時夫さん(学習院大学)との付合いが多かった。 森田兄弟とサンパウロ・グアラピランガ・ゴルフ場でプレイすることもあった。
時夫さんはブラジル有数のサンパウロ州技術研究所(IPT)に化学技師として研究に精励するとともにIPTの日本との技術協力業務推進に重要な役割を果たしていた。
1988年であったか、残念ながら自動車事故死した。私はその葬儀に参列した。IPTは彼の死を悼み、IPTへの貢献を高く評価し、彼が勤務していた建物にEdificio Tokio Morita(森田時夫ビル)と命名した。
(彼が学習院大在学中 学移連に係わっていたか否かについては聞き漏らした。)
後年森田左京さんはサンパウロ人文研の監事をされ、日本人ポルトガル語学習者及び戦前・戦後の移住者にとってほぼ唯一とも言える「葡和辞典」・「和葡辞典」編纂者・大武和三郎氏について自ら資料を集め、関係者を訪問し、その調査研究に地道な活動を続け、それにより2008年にはブラジル日本移民史料館に「大武和三郎常設コーナー」が新設されるに至った。
(私自身もブラジル勤務時代(1967〜1970,1977〜1981,1986~1990)大武・葡和辞典を日々手放せなかったが、「現代ポルトガル語辞
典」(池上岑夫ほか共編、白水社発行)が1996年2月発行され、2003年以降はそれを愛用している。)
森田左京さんは2008年11月13日サンパウロにて死去(享年78歳)された。
森田さんや稲田さんが在学中、東大に海外研究会が存在していたのか、また海外研究会に関係していたのか等については聞きそびれてしまった。
<余談2>その他のこと
私は平成4年(1992年)〜平成8年(1996年)トルコで農業プロジェクトに従事した。1996年6月頃のことだったか、あるJICA調査団が来訪し、その団員の一人がパラグアイに勤務したことがあると言うので、「アルトパラナ移住地の四方という人を知っているか」と尋ねると、「私の妻は四方の長女です」と答えたので、その奇縁に驚いた。
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前記の私がサンフランシスコ勤務時期(1970〜1972)に、国際農友会による農場実習制度に関連し付き合いのあったブラジル派遣のネルソン斎藤さんについて、その後私のブラジル勤務(1977〜1981)と (1986〜1990)の8年間も消息不明のまま過ぎたが、2003年サンパウロで隠居生活を始めてから上記の早田慎一郎さんと知り合うことが出来、毎月の夕食懇談会もあり、交誼が深まり、2008年8月の頃であろうか、早田氏との会話の中で「早田の三男の妻がネルソンの娘である」と判り、互に驚いた。そして、前記の雪村いづみ等の昼食歓迎会が早田邸で開催された時、私は36年振りにネルソン斎藤さんと会うことが出来た。
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