HOME  HOME ExpoBrazil - Agaricus, herbs, propolis for health and beauty.  Nikkeybrasil  編集委員会  寄稿集目次  寄稿集目次  通信欄  通信欄  写真集  リンク集  準会員申込  em portugues




【学移連ALL】 書籍「農学と戦争」(東京農大関連) 早稲田OBの加藤さんからのお便りです。
書籍「農学と戦争」に付いて早稲田OBの加藤さんから問題提起として学移連ALLに問いかけておられ学移連の指導者としての杉野先生に付いて皆さんのご意見を聞いておられます。1回の次数が1万語までとなって居り言い出しペーの吉原さんの纏めの言葉が入りきらず本文のBLOGコメント欄掲載になってしまいました。写真は、問題提起の加藤さん送付の写真をそのまま使わせて貰いました。続きそうなら続編を掲載しますが一応これで終わらせます。


皆さま 元気でお過ごしですか。早大OBの加藤仁紀です。
昨日、東京は大雨と雷で大荒れでした。しかし、夕刻晴れて西陽が輝き、自宅付近(多摩市)に見事な二重の虹がかかりました。スマホで慌てて撮った下手な写真ですがご笑覧下さい。コロナ収束の吉兆であればと期待します。
さて、私だけではないと思いますが先般来些か気になったことがあり、メール差し上げます。ご承知の通り、昨年12月、学移連OB会岡本幹事長経由で東京農大OBの吉原久雄氏から下記のメールが転送されてきました。「農学と戦争」という本の紹介です。添付をご覧下さい。
ネットでも概要が紹介されていますが、私も読んでみました。
お読みになった方も多いかと思いますが、書中、学移連の指導者だった杉野忠夫先生が事実上糾弾されています。敗戦後、満州からの引揚中に亡くなった東京農大生を実習のため送り出していた先「満州報告農場」は杉野先生の発案で作られ、敗戦末期にも学生を送り続けて犠牲者を多く出した農大に対する内部告発的内容です。先輩教授(杉野先生)を同じ禄を食む後輩教授らが当時のことを調べ今の時代から見て指弾しているのですが、甚だ疑問です。
先日松田前会長がお亡くなりになり、私もお迎えが近いかも知れないと思うとき、気になっていたので勝手ながらコメントさせて頂きました。
なお、私は学生時代学移連活動とは縁遠かったので杉野先生にお目にかかったことはありません。なので僭越な点はお許し下さい。
<追>たまたま私も5歳で家族とともに満州引揚中、父を亡くしました。
以上、長々失礼しました。

(コメント集)
吉原:農大ネットの皆様、お元気でお過ごしですか。新型コロナ感染が拡散し、略1年を経過しました。一部の国々でワクチン接種が始まったとは言え、未だ予防法・治療法が確立されておらず、コロナ対応と国民生活と経済活動について、日本と世界中の国々が対応に苦慮しています。
私は、自分が罹病して医療関係者に負担を掛けないよう、注意を払い千葉県の田舎 印西市(成田市の西隣)で暮らしています。 さて、今日は同期清水さんが教えてくれた本を紹介します。「農学と戦争 知られざる満洲報国農場」著者は、東京農大 国際農業開発学科の足達太郎教授、小塩海平教授、京都大学 人文科学研究所 藤原辰史准教授。発行は、岩波書店。 私が一部断片的に知っていたことは「戦時中に東京農大拓殖科(旧)の学生達が満州に渡った。終戦になり命からがら脱出し、帰国した。しかし多数が途中で亡くなり帰国できなかった」
著者たちは、この事実を深く良く調べ、掘り下げ、農学と戦争を論じています。そして、国と東京農大における旧拓殖科関係者の責任、同関係者が新農業拓殖学科の教授陣に就いた同学科の教育組織の在り方に大きな疑問を投げています。私は、よくぞ、この問題を調べて著述し発表したと、脱帽しています。 私の知っている旧拓殖の先輩たち、杉野忠夫元教授、京都大学の橋本傳左衛門元教授の名前が出ています。 この、歴史的事実について、今まで私が興味を持たず、よく知らなかった出来事です。私の学生時代には、このことは殆ど表面に出てこなかった。東京農大として、農業拓殖学科として、真実を話す先生達はいなかったようです。個人的に、当時台湾の航空隊パイロットだった大谷先生が、「戦争はひどいことだ」と呟かれたことを覚えています。 今、拓殖7期の同期生に該書を勧め、感想をお願いしています。海外移住を実践された方々の、当事者としてのご意見をぜひお聞かせください。
どうぞ、良き新年をお迎えください。吉原久雄 柘植7期
マツエさん、第三者に当メールを勝手に転送しないで下さい。

駒井:加藤仁紀様  「農学と戦争」への御意見拝読させて頂きました。
私も、2019年7月7日日経新聞書評を読み早速購入しました。
書評には「近代日本の農学がもたらした痛恨の失敗の歴史を再考せずして今後の日本の農業を議論することの危うさを、本書は指摘してやまない」と、衝撃を受ける書き出しでした。。
また、本書には我々の知らない杉野忠夫が連綿と綴られ、戦前特高に追われていたマルキストだったなど驚くことばかりでした。
先生が戦前特高に追われていたマルキストだったことを知り、私も驚きましたが同時に初めて先生を尊敬するに値する人物と思いました。ご承知の様に転向・転身して後年大をなす人物は珍しくありません。マスコミ界で言えば読売新聞の現総帥渡邊恒雄氏は、東大で日本共産党のリーダー、産経新聞初代社長水野成夫氏も東大出の共産党員で赤旗の編集長であったことはよく知られています。転向前の経験が非常に活きていると述懐されています。杉野先生も然り、彼らは筋金入りで腹の据え方が違うのでしょう。先生の優れた一面を見た思いです。
その年の10月著者の小塩研究室まで訪ねましたが、生憎台湾に出張中でお会いすることは叶いませんでしたが、戦後の杉野先生は、東京農大茂原校舎で農業拓殖学科長に始まり世田谷校舎に移り今日の農大の繁栄をつくったのも事実です。(2018年12月のサンパウロ新聞学移連外史転換期に詳しい)この資料を研究室の院生に預けてきました。後日小塩氏からメールが届きましたが未だにコロナ禍でお会いするのは叶いません。
貴兄が、もし今後小塩教授にお会いされる機会があれば、ついでに可能であれば次の点をお尋ねいただき、後日お知らせ頂ければ幸いです。
御意にそぐわなければご放念下さい。
仮の話として、戦時中、もし小塩先生が農大の担当教官であったとして国策に応じ国家の期待に応える立場にあった場合、どのように学生を指導された
と思われるか。
学問の自由とはいえ、同じ大学の先輩教授(のお陰で今日の農大があり小塩先生もそこで碌を得てる)を糾弾するのであれば、同じ禄を食まず、潔く
学外に去ってからすべきという外部からの批判にどう思われるか。
即ち、本著から我々は杉野忠夫の一面のみを語り観念的に捉えていたのではないでしょうか?客観的な杉野忠夫の思想を研究された学移連のお方はおられるのだろうか?小塩氏と面談しても小賢しい表面的な言葉では論破できないのではないでしょうか?
加藤さんは「先輩教授(杉野先生)を同じ禄を食む後輩教授らが当時のことを調べ今の時代から見て指弾して」と、ありますがこの本を出版させた東京農大の寛大さに敬を表するべきではないでしょうか?また、著者の小塩教授はいまだに勤務されています。
ご存知か分かりませんが、以前学移連OB会幹部から聞いたことがありますが、2010年頃、同会が杉野先生の「偲ぶ会」を催すため、当時の松田農大学長にメッセージをお願いしたところ、同学長は、杉野先生を「農大生を満州に送った」として農大当局と同様に批判的に扱った内容のものが送られてきたためボツにしたという経緯があったそうです。「農大がこの本の出版を許した寛大さに敬を表すべき」とことですが、許したというより、学長を中心に今も大学ぐるみでこの様な考えに基づき学生を指導しているのではないかと憂慮します。その流れに乗って小塩先生らもこの本を出版されたという理解が近いような気がします。私は、もし機会があれば(先ず無理と思いますが)、小塩教授ではなく学長を相手に申し入れをしたい心境です。
所で、私の両親も満州からの引き揚げ者で、父は新京から3度目の召集令状で済州島に渡り、母は親戚と一緒に顔を墨で塗り長男を片手に必死で本土に辿り着いたと聞かされておりました。
学移連のOB諸兄の親族が引き揚げ者と言う事は大にして聞きますが、広い土地に憧れ移住研に入ることが宿命だったのでしょうか?
加藤さん気に掛るところあればご指摘下さい。余り貴兄の意図にそぐわない意見でご免なさい。
駒井 明 工学院大移住研75年入学

佐藤:加藤仁紀 様 「農学と戦争」についてのコメント、とても興味深く拝見させていただきました。
その本を読んでおらず、何を言っていいのか分かりませんが、少なくとも杉野忠夫先生が、満州開拓で批判をされているということに対して、少し私の気持ちを伝えさせて下さい。
杉野先生の人生で、満州開拓への軌跡と苦衷を知らなければ、戦後、農大に乞われて農業拓殖学科を立ち上げた先生の意思を理解できないと思うのです。
私は、杉野先生が亡くなった翌年に、農業拓殖学科11期生として入学しました。杉野先生の影響力は、とても強く学科と移住研には漂い、先生、先輩たちから、先生の人となりについて、いろいろなことが聞けました。 勉強しない学生でしたので、当時は、先生の著書を読んでもいませんでした。手元に現在、「海外拓殖秘史」-ある開拓運動者の手記- 杉野忠雄著(昭和34年)や、「杉野忠夫博士遺稿集」(昭和41年)、「杉野忠夫先生追悼文集」海外移住研研究部(昭和41年)があります。これらの書籍に目を通してみると、今なお、杉野先生の軌跡から真の開拓への情熱が伝わってきます。
杉野先生が満蒙開拓へその初期から関与されていたのは事実です。昭和15年には満州国開拓総局参与を任じられています。多くの開拓民入植に奮闘し、満州を飛び回っていたのですが、拓殖秘史には、「長白山麓の一夜」という項で、先生が長白山麓の開拓団建設で勤労奉仕団派遣のために馳せ参じたこと時のことを記しています。その際、安図県の朝鮮出身の知事さんから、日本人とみれば殺して回っていたという金日成も殺さずにいる日本人農家のことを知らされたそうです。その人は開拓団の来る前から、朝鮮からそこに移り住み、水田を開き、その地方は冷害で三年に一度しか米が採れないのに、稲作を成功させて、周囲の人たちから先生と呼ばれ慕われていたそうです。知事さんからは、こういう人をどしどし送って下さいと頼まれ、そして付け加えて言うのには「日の丸と鉄砲で支えられている開拓者は、日本の国力の弱くなったとき、ひとりも大陸にはとどまらいであろうが、現住民から慕われる開拓者なら皆がひきとめるだろう。量より質ということを考えて下さい」と言われたとあります。ここでの一夜のことは、開拓政策に疑問を募らせていたことと重なり、開拓者の教育の方向を量より質へ転換すべきと、自分に命じたそうです。しかし、もう自分一個の力では、どうにもならない体制になっていたことを述懐しています。それから、間に合うかどうかは分からないが、後半生に一人でもよい、そうした人を養成できればという思いがつのり、上司、友人のひきとめをふりきって、昭和19年9月に満州から両親が疎開していた故郷の能登半島の山村に戻り、県の建てた農業研修道場で青年たちとの開墾生活に入ったとあります。後から見れば終戦を見越した帰国のようになってしまったものの、帰国当時は、戦局の真相を知る由もなかったそうです。ひたすら、満州開拓のために内原方式に頼らない教育を念願していたとあります。しかし、満州に再び戻り骨を埋めるつもりが、戦局の悪化、終戦となり満州への渡航は叶いませんでした。
昭和32年5月11日に、「旧拓殖学科殉難学生の慰霊祭」が千葉三郎学長を祭主とし、杉野先生が副委員長となり、農大全学をあげて厳粛に行われています。杉野先生は、この慰霊祭にあてた思いを、東京農業大学報第2号に載せています。その中で、満州開拓に尽くした悔恨、自責の念について、当然死すべき一命を不思議にのこされ、混乱の祖国にとどめられたことは、祖国再建のために、開拓途上に倒れた同士の志をいつかはふたたび実現するために、一命をささげるべきだと思いなおしたとあります。
この思いが、農大拓殖学科の創設を引き受けて、学生の指導に心魂を込めた原動力なのです。
もし、この「農学と戦争」の著者先生たちが、この熱い思いのいくばくかを引き継いで学生の指導に当たってくれているならば、嬉しいことです。しかし、農業拓殖学科を継承した「国際農業開発学科」では、学科創設の経緯と杉野先生のことを、今の学生、教員たちから聞くことができません。
杉野先生は、拓殖(開発と言っても良し)の本義を、新渡戸稲造が植民の終局目標とした「地球の人化」であるとしています。
この言葉は、古びているように私は感じません。
アマゾン川流域地区(Bacia do Rio Amazonas)の森林破壊では、CO2 以上に亜酸化窒素などの排出が増大し、同森林が地球環境を調整できる限界点を超えてしまうそうです。その限界点とは、アマゾン森林破壊が元に対し2割減だそうです。この最近の研究のことで、ナショナルジオグラフィックでは、まだ遅くない、植林拡大などの手を尽くすべきとの警鐘がされています。
開発が進み過ぎて、人が住みにくくなってしまうことは、「地球の人化」に反します。住みやすい地球にしていくために、ここでも拓殖、開発の本義「地球の人化」が求められているのではないでしょうか。
農業開発学科の教員には、自虐的な批判に留めず、そこから杉野先生が命をかけて拓殖教育に尽くしたことを伝承して頂きたいと願ってやみません。
ベレン在住 佐藤卓司

松栄:和田さん 私たち50の皆様、農大ネットの皆様。ご転載、ありがとうございます。
先月頃まで、農大ネットでその話題が出まして賛否両論のご意見が数人の先輩方からありました。
私は、杉野先生を存知あげないので、論評は出来ないと思っています、が、・・・ ここまで話が出てきたら、私の意見を一言書かせていただきます。私の意見としましては、ご本人を知らない方が資料だけを元に他人を批判する、というのは筋が違うのではないかと思います、それで、意見は控えさせてもらったのですが・・・私、個人的には、何をもって批判の対象にされているのか、・・・まして書かれた方が、農大の農業拓殖学科卒ということをお聞きして、世の中も変わったものだなー、との実感があります。
以前聞いた話に、梅毒に罹って頭がおかしくなった人が木に登って、自分の乗っている枝を鋸で切っている、という話がありましたが、そういう感じで捉えました。どうなるのかなー・・・?
農業拓殖学科を10期(杉野先生から直接授業を受けた)までの方々で、ご卒業された先輩方の大半の方々の気持ちとしては、
「知らない者が何を言う、もっと勉強しないと、肩書きが泣きはしないか」
と思われた方々が大半ではないか、と思っています。
少なくともブラジル在住のOBの方々の大半は、そうおもわれていると思います。
1974年農業拓殖学科14期卒生、としてブラジルに移住してきまして、200人以上の先輩方と親しくさせていただきましたが、・・・
2-3人の方が 「杉野先生に騙された」 という話をされましたが、残り約198人の先輩方々は、素晴らしい先生だった、という論評があります。
本を出される前に、実際に授業を受けた方々からも意見を聞いてほしかったなー、というのが今、感じていることです。本は出てしまった段階で一人歩きを始め、その本を書いた人の人間性が判断されてしまいます。怖いことですが。未だ、その実本は読んでいませんが、読んでみよう、とも思いません。 
忘れていた話で、蒸し返しても何もならない感じがします。農大農業拓殖学科14期卒で、杉野先生が亡くなられた拓殖10期入学時先輩とは、すれ違いですが、そういう感想を持つに至っています。ブラジル在住の農大農業拓殖OBの一人として、意見を述べさせ
て頂きました。こういう意見もある、ということを聞いていただきたかったからです。   サンパウロ在住  マツエ

村松:和田さん、皆さん、 早稲田大OB加藤さんからの便りの「農学と戦争」著書について、農大卒業生の農業拓殖学科卒業生の吉原君から杉野教授を知るOBへの質問便りに答えて私の投稿です。杉野忠夫農大教授は「学生移住連盟」を組織化された指導者ですので「学移連」関係者で教授をご存知の皆さんのお声も拝聴させて頂けたらと存じます。
 1955年から1970年の間、農大農業拓殖学科及び他学科卒業生の多くはブラジル、パラグアイ、アルゼンチン、米国、カナダへ移住していった、1970年に入ると国内経済発展と共に国内産業雇用機会が増加し海外移住は終焉を迎え、農大の農業拓殖学科の名称を海外農業開発学科と変更された、そし国策として外務省傘下の青年海外協力隊員としてアフリカ、東アジア、中南米等の途上国へ農業関連指導員として期限限定での派遣に参加していき現在に至っている。 
 この著書は現役の農大教授によって書かれた物で、当時国策であった満州の報国農場と杉野教忠夫氏について書かれた様であるが、我々海外移住者のOB/OGにとり、コロナ禍の影響で著書を読する事適わぬ状況である。今は亡き恩師杉野忠夫教授を知る先輩諸氏に置かれてましては是非、教授について知る事を投稿下されば有難く存じます。  村さん-CA

藤田:藤田・茨城・拓17期 吉原先輩・皆様ご無沙汰です
隣の市にあります図書館は優秀と申しますか紹介された図書が新購入書コーナーに有りました
借り出す人が無いことを良しとして継続・継続貸し出しで1か月以上かかりほぼ読み終えました
鎮魂の石碑とは多分あれだろうと言うぐらいの認識しかなかった事の重大さを教えられた思いです
時代に翻弄されずに生きてゆくことは、時として生命の危機にみまわれる
ことでもある大方の、いや私など生活の維持の中で時代の流れに流される致し方のない部類に属している
しかし、時が移り客観的に振り返れるときに至ったのであれば、次世代に引き継ぐために事の検証と確認反省は欠くことができないと思う(杉野先生に直接教えを受けた諸先輩の中には、今頃こんなことを書きやがってと思う方々もいらっしゃるとは思うのですが・・・)
我々が集い卒業した柘殖の「戦前・戦後」同じ拓殖を最終部類で卒業した後輩から突き付けられた本書は、卒業生、科名を引き継いだ開発学科生にとっても論を尽くしてゆくべき課題と思う
本書を上梓したお二方が開発学科内におられることは、現役学生にとって幸いであるとも思う
人は変わるし、変われる存在である そのどこで出会うかによって評価も違ってくるように思う
言葉としての反省が見つけられなかったとしても、初代学科長を受けてったったところに新生拓殖の芯がありはすまいか 本書を購入した井上君読み進めていますか
NHK制作のドキュメンタリードラマ「開拓者たち」4部作が主人公満島ひかりの目を通して満州入植・戦乱引き上げ・国内再入植を描いており、通り一遍かもしれませんけど理解を助けます
これも隣の市の図書館から借りたのですが、つたやでもレンタル有るらしいです参考まで
それと写真いいね、ありがとう

村松:吉原さん、藤田さん、農大 NET 諸君へ、
農業拓殖学科卒5期の村松です、現在米国カリフォルニア州在住者です。1959年4月、農業拓殖、畜産、林学の学科が茂原分校から世田谷本校に合流しての2年目1960年我々5期生が本校に入学したが、2期3期生はまだ茂原分校での教育が続けられており、1期生は既にカリフォルニア州に実習に出たり、ブラジルへ移住実習で海を渡っていた、数名は大学に残ったり、家庭の事情で実家に帰ったりで、茂原在住の先生方は4期5期6期生への教育科目によって長時間掛け、または前日に世田谷本校に通って来られていた。 覚えている授業は杉野教授の拓殖原論、移住論、小林先生、津川先生の経済、農業経済学、吉崎教授の開拓論、そして栗田研究室での熱帯農業講座が殆どであり、特に杉野教授の講義には他の学科からの聴講生も出席しており、一番人気があり記憶に残った講義であった。講義の半分はブラジルへ渡った先輩達からの手紙紹介と解説であり、農業拓殖学については杉野教授が経験してこられた国策の満州農業開発事業に企画実施を直接担当された経緯の内容も含まれており、この講義だけは普段アルバイトに忙しい仲間達の顔が合流した。
 この国家による満蒙開拓事業は全国府県毎に一総合農場を建設する「報国農場」が企画推進され、農大は旧拓殖学科を有していたため農大報国農場が許可された、全国の報国農場計画が農林省傘下で実行され現地責任者として、石川県農業経営伝習農場長をされていた杉野忠夫先生が昭和14年満州開拓総局参与の責任ある職責を受け満州国に着任された、農大報国農場は太田助教授が担当された。昭和20年8月終戦と同時に不可侵条約提携にも拘らずソ連が突然満洲の地に軍事侵略を開始する、農場内の開拓団員達は飛散するが多くの犠牲者を出す事になる、農大報国農場も然りで太田助教授をはじめ多くの卒業生の犠牲者を出す結果となった。杉野先生はこの年の始め会議のために帰国しており、一命を免れたが報国農場の多くの犠牲者を出したことで責任を自覚し、石川県農経営伝習農場に戻り自害も考えたとの事であったと。
 昭和31年農大に農業拓殖学科開設が認可され、戦前ブラジルに農場を持っていた千葉三郎学長から学科長就任を依頼され文部省へ申請されたが、当時はGHQの影響下があったが担当の山崎課長は即受理許可した(杉野教授とは農林省台湾製糖時代の友人、後2代目農業拓殖学科長就任)。満蒙開拓で多くの農大生の犠牲者を出したことにも重き責任を感じておられたが、他国民族領土への浸入である満洲開拓の国策の失敗を反省し、農大農業拓殖学科は日本の優れた小農技術と高等教育を受けた平和の使者を養成し、途上国の移住先国で共存共栄の社会建設を目指す「ゴリラの如く逞しく、神の如き愛と英知に輝く人間像」の養成に身を投じると覚悟され茂原分校へ赴任された。翌年の昭和32年には農大本校にて「旧農大拓殖学科卒業生満蒙開拓団犠牲者慰霊祭」が千葉学長の祭事のもと開催された、多くの学生犠牲者の家族親族が出席され、涙と嗚咽に責任感のある杉野先生は責任の重圧を抱え立って居られず倒れてしまわれたと。先生は満洲の荒野に眠っている同胞からの声に報いるため、彼らからの激励と無限の力を与えられ、戦後の農業拓殖活動に平和の使者の育成を誓ったと言われた。海外移住政策は昭和27年に戦後海外からの引揚者や農村の二三男対策に国策として海外移住が始められた、これに杉野先生は実践と高学歴を備えた卒業生を「拓殖一家」として送り出すための教育に邁進することを決心された。
 昭和40年4月私は卒業(5期生で北米農業実習、学移連ブラジル派遣者は1年休学のため6期と同時卒業)その2ヶ月後の6月に杉野先生は亡くなられた、農学卒の村田君と共に西多摩の徳農家で実習中であり、今でも記憶にあるがその日は晴れていた、突然真黒な雲が現れ雷が鳴り雨が降り出し農作業を中止した。夕刻学校から杉野先生の死を知らされた、青山での葬儀には杉野先生、栗田先生を尊敬する亀井農場長と共に3人で出席した、多勢の参列者の中には軍服姿も見られた。
 農大生を含め数多く全国からの開拓者を満洲に送り「報国農場」の企画遂行に直接関わった杉野先生を非難される教育関係者、被災者の家族もおられ、先生に対する責任追及もされた様であるが、当時の日本の食糧確保のためには満洲国での食糧生産は欠かすことのできない国策であり、適任者として石黒農政により杉野先生が任命されたわけであり、何故非難されなければならないかと我々先生の教えを受けた者達は反論したい。杉野先生は吉崎先生を2年間の臨時講師として農大に呼ばれ、満洲の農業開拓の講義をしてくれた、先生は満洲のソ連との国境の「千振」の開拓団長、戦後は栃木県那須の国有地を払い下げてもらい犠牲者を出した「千振」からの帰国者団員の地とし、獣医師でもあった吉崎先生によって有畜農業として成功した、先生は農大在籍終了後パラガイのイグアスに移住し「南米開発牧場」に挑戦し大成功を成し遂げた、先生は現在満洲の同胞の眠る那須の「千振」に眠られている。 村松義夫
是非「杉野忠夫博士遺稿集」をお読み頂きたい、農大の図書館にあります、先生の生の声が答えてくれます。写真を添付します、橋本伝右衛門氏の「序」文、大槻正男氏の「編集後記」締め文章は拡大してご覧ください。



アクセス数 6201605 Copyright 2002-2004 私たちの40年!! All rights reserved
Desenvolvido e mantido por AbraOn.
pagina gerada em 0.1110 segundos.