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【学移連ALL】 書籍「農学と戦争」(東京農大関連) その2 早稲田OBの加藤さんからのお便りです。
書籍「農学と戦争」に付いてのその2も字数オーバーでその3に継続することにしました。加藤さんから問題提起として農大OBだけでなく多くの学移連メンバーの杉野先生所縁の多くの皆さんのコメントが届いています。圧巻は、何と云っても著者の小塩海平先生の加藤さんへの返信が届いたことでそれに対する熱血漢振りを発揮している加藤さんの発言です。まだまだ本件に付いては、発言が続くと思いますのでその3に続行することにします。何方か手元にあればこの書籍の表紙の写真を送って下さい。その3の写真として使わせて頂きます。その2は、適当な写真が無くブラジル稲門会相田名誉会長と同期3人組の富田、故谷君との写真を使うことにしました。


和田:学位連ALLの皆さん 早稲田OBの岡本さんの書き込みから始まり農大の吉原さんの書き込み、駒井さん、農大ネットでは、口止めされていた松栄さん、カリフォルニアの村さん始め村さんが転送して呉れた農大関係者多数の書き込みを纏めて40年!!の学移連関係欄に残して置くことにしました。下記がそうですが、制限字数1万語の関係で全部収録できませんでしたので続編で残り及びこれから投稿される関係コメントを続編に残して置くことにしました。カリフォルニアの村さんには、各種情報を送って頂き感謝しています。抜けているコメント等があれば教えて下さい。宜しくお願いします。

吉原:加藤仁紀様、 駒井 明様、 佐藤卓司様、 学移連 ALL の皆様、
書籍「農学と戦争」のついてのコメント、ありがとうございます。 同書籍を、皆様に紹介した者として、私のコメントを書きます。 私は、最初の投稿時、皆様に先入観を与えないよう、私のコメントは書きませんでした。 同書籍の内容が、重く 悲惨な事実なので、正直なところコメントがむつかしいのです。
1) 同書籍の著者たちと、岩波書店が出版した勇気に脱帽です。
2) 先ず、大東亜戦争末期の「満蒙開拓」については、計画・実施・引き揚げなどを正しく検証し、 再び同じ過ちを犯してはならない、犠牲者を出してはならないと思う。 (戦後、ドミニカ移住政策の失敗があった。)
3) 杉野忠夫先生が、満蒙開拓に計画・実施に関与されたことを、明確に知った。
4) 当時の東京農大が、「正規授業の実習」として新入生を「東京農大満州報国農場」に送り込 みながら、終戦時に救助できず(せず)、20 歳前後の実習生が辛酸を舐め逃避行し 50 余 名の犠牲者が出たでたことを知った。 その責任を取らなかったは事実か?
5) 戦後の東京農大の経営陣は、上記犠牲者に対し、慰霊碑を建て慰霊祭を敢行したが、表に 出さない部分があった。
6) 新農業拓殖学科の開設に、杉野先生が尽力された。 新しい南米移住の形を実践指導された、派米農業実習や日本学生移住連盟を指導された。 授業は面白く、他学科の学生が潜り込んで満員大盛況であった。私は「これが大学の授業 なのだ」聞きほれた。
7) 杉野先生は 1965 年亡くなられた。私は 1962 年入学(拓殖 7 期)、先生の最終期の教え 子であった。当時、学生たちは「東京農大満州報国農場」の失敗について、杉野先生や 吉崎先生の戦前の活動に対する疑念を持たなかったと記憶している。 杉野先生は満州報国農場については、お話されなかった。卒業後もこのことは OB 達の話題にならなかった。
8) 同書籍には、農業柘植学科創設期に、杉野先生の影響下にあった先生達(鬼籍者あり)と、 教え子達(農業拓殖学科 1 期〜10 期)の取材が記載されていない。 これは、今後の研究と発表に期待したい。
9) 当時、日本は非常事態下、この計画が実施された時期は、軍部の力が強く、加えて日本は敗 戦濃厚状態、そして軍人・官吏はもとより市民は、言論と行動の自由を奪われ、黙ってお国 ・政府に献身することを強制された。 この時期のことを、約 70 年後に、自由な発想で検証する場合、時代背景を考慮する必要が あると思う。
10) 私が参加している東京農大 農業柘植学科 OB達が中心のソーシャルネットでも、喧々諤々 の議論があった。 吉原久雄 (東京農大 農業拓殖学科 7 期生)

駒井: 小塩海平先生 お早う御座います。
以前(2019年10月)に研究室をお尋ねし、お会いできずメールを頂いた駒井明(工学院大移住研OB)で御座います。
コロナ禍収まらず今に至ってしまいました。今回メールを差し上げたのは、先生の著書に付いてやり取りしています。
以下の件、大変ご多忙の所、御返信頂きましたら幸いに存じます。

駒井:加藤仁紀様 小塩海平教授から加藤さんの問い合わせをお送りした処、学移連ALLに掲載可として返信が有りました。
以下御覧下さい。
駒井 明さま
気になっていましたが、連絡できずにおりました。ご寛恕ください。杉野については、あの本の共著者である藤原辰史さんが『農の原理の史的研究:「農学栄えて農業滅ぶ」再考』を今年1月に出版され、さらに詳しい検討がなされています。機会がありましたら、ご参照ください。
頂いたメールについて、私の意見を書かせていただきますが、こういうやりとりが出来ることは、私にとって有り難いことです。対抗して論破しようという主旨ではなく、互いに学びを深めたいという率直な気持ちで書きますので、気分を害されるかもしれませんが、誤解がないようにお願いできればと思います。
1)「先生が糾弾されるということは私たちのレーゾンデートルに関わること」に同意します。杉野と彼の強い影響によって生み出された学移連との関係は、杉野と彼が初代学科長を務めた私が属する国際農業開発学科の関係と同じ構図になっていると思います。しかし、生みの親が決定的な影響を与えることは確かですが、子の人生は、やはり本人の責任です。そして親を乗り越える必要があるのではないかとも感じます。その意味では、私たちが杉野が考えたことや語ったことを、彼の生き様から検証することは、意味があることだと思います。この点で、今後も、ともに議論を深められれば幸いです。
2)「薫陶を受けたOBの方々は戸惑って声を上げにくい、あるいは上げたくない、上げるに値しない」ということについては、コメントする立場にないかもしれませんが、何人かのOBからは、よく書いてくれたという評価も頂いています。反論(?)を頂いたのは、今回が初めてで、大変うれしく思っています。
3)「転向・転身して後年大をなす人物は珍しくありません」とのことですが、杉野は転向していませんし、大をなしてもいません。そもそもマルキストであったといえるかどうかも微妙です。彼の学位論文に対する評価については、先ほどの藤原さんの本に詳しく考察されていますが、学術的な価値は高くないといわざるを得ないと思います。はっきり言ってしまえば、自分の過去を正当化するために書いたような論文です。
4)「筋金入りで腹の据え方が違うのでしょう」というのは、どういう意味でしょうか。私は杉野はあわれな小心者だったと思っています。彼の戦後の言動を検討すると、自分をごまかしごまかし生きていたように思います。腹が据わっているように見せたかったことは事実かも知れませんが、筋金ではなくメッキに過ぎません。ちなみに、「腹が据わっていた」と考えられるのは、どんな点でしょうか。彼は満洲から生還してきた学生に会うこともせず、面と向かって謝罪することもしていません。口先では「自分のせいだ」というようなことをいったことが何度かありますが、級友を葬り、やっとの思いで生還した人たちに対して、最後まで誠実に向き合うことをしませんでした。このことは、今なお、お元気な数名の生存者全員から証言をきくことが可能です。
5)「仮の話として、戦時中、もし小塩先生が農大の担当教官であったとして国策に応じ国家の期待に応える立場にあった場合、どのように学生を指導されたと思われるか」との質問は、「おまえもあの当時の状況であれば、杉野と同じになったはずだ」ということを問いたいのでしょうか。杉野は、こういう国策を作り出した元凶であり、しかたなく国策に従った人々とはわけが違います。国家があやまりを冒すとき、抵抗することがいかに困難であるかを私たちは歴史から学ぶわけですが、そうであるがゆえに、私たちは『戦争と農学』という本を著して、農学という学問が国策を煽る手段にならないようにしなければならないと願っているわけです。質問にあえてお答えするならば、今私が国策に応じて国家の期待に応えなければならないと言われたら、たとえ、それによって職を失ったり、命を落としたりしても、最後まで協力を拒んで抵抗すると思います。今回の本は、そういう覚悟を持って書いた本です。ただ、改めて書きますが、杉野は煽動した側の人間であり、殉難した人々や生還した人たちに対する責任だけでなく、満洲で土地を取り上げられるなどした多くの現地人に対しても、直接的な大きな負い目をもっており、同情の余地はありません。
6)「学問の自由とはいえ、同じ大学の先輩教授(のお陰で今日の農大があり小塩先生もそこで禄を得ている)を糾弾するのであれば、同じ禄を食まず、潔く学外に去ってからすべきという外部からの批判にどう思われるか」については、質問の主旨がよく理解できません。まず、今日の農大は、杉野のお陰で存在しているのではありませんし、私は杉野から給料をもらっているのでもありません。かりにそうであったとしても、大学には自由に批判ができる雰囲気が必要です。私は農大において研究と教育を行い、少しでもこの世界が、この時代がよくなるように社会貢献をしたいと願っています。そのためには、かつて農大のリーダーであった横井や佐藤、杉野などの間違った点を剔抉して、あやまちをくりかえさないようにすることが必要だと思っています。私は与えられた農大という職場において、同僚や後輩の教員たち、あるいは大学で学んでいる学生たちにどこまでも誠実でありたいと願って、勤務しています。農大のよいところを伸ばし、変えなければならないところを変えるためには、外部から無責任な批判をするだけではいけないと思っています。お察しできるとと思いますが、あの本を書いたことにより、私と足達教授は大学当局から疎まれ、白眼視されています。例えば、日本農業新聞があの本のインタビューを申し込んできましたが、大学の広報部は、それを拒否し、あの本は東京農大の教授が書いたものだが、東京農大とは一切関係ないとオフィシャルにコメントしています。これは広報部の意向というよりも、学長や理事長を含む大学理事会の意向です。「農大がこの本の出版を許した寛大さ」とありますが、農大はそれほど寛大な大学ではありません。私と足達さんは、大学における出世コースを抛棄し、当局からにらまれることを覚悟であの本を書きましたが、幸い、いまのところ、それほど大きな圧力はありません。
7)松田学長をはじめ、その後の農大の学長たちがどういう考えを持っているのかは、おおよそ分かっているつもりです。現学長の野先生は、母親が満洲からの引揚者ということもあり、生還者に会うことを拒みませんでしたが、私が知っている限り、歴代の学長たちは、農大の満洲報国農場に関しては、触れて欲しくないという立場です。行方不明者を捜そうともせず、過去の記録を確認しようともしていません。33回忌の時に慰霊碑を作ったきり、それを最後に生還者に対してすら、何の連絡もしていません。今度、新しく学長に選ばれた江口先生には、かつて大学が満洲報国農場の生還者の方たちに約束をした「永遠にこの悲劇を語り伝える」という約束を必ず果たして欲しいと申し入れています。
8)いずれにせよ、私たちがあの本を書いた動機は、生還者の方々に対して、現役教員として何らかの応答をしなければならないという責任感によるものでした。生還者の方々は湖北会という会を作っておられ、現在4人がお元気なのですが、ある方は「あの本によって満洲の地に埋もれている友人の骨が掘り出されたような思いがする」とおっしゃり、別の方は「自分の棺桶にあの本を入れて、満洲で先に死んだ仲間に報告をするのだ」とおっしゃいました。あの事件に深く関わった人たちが、そのような評価をして下さっていることも、知っていただけると有り難いです。
とり急ぎ、以上、お返事致します。
東京農大 国際農業開発学科 小塩海平
追伸:国立公文書館の資料から、茂原分校を開設することになった経緯など、いくつかの文献を手に入れました。まだ精読できていませんが、いずれ概要をお伝えしたいと思っています。

和田:駒井さん ご無沙汰しております。お元気にご活躍されておられるようで嬉しく存じます。加藤さんの質問に丁寧にご返信頂いた書籍「農学と戦争」の著者小塩海平教授のお便りを是非40年!!ホームページに残して置きたいとの思いで続編を掲載することにしました。既に半分の5千字に達しており来週には、掲載させて頂く予定です。この話題が続くと良いですね。有難う。

加藤:駒井 明様 思わぬメールがきて唖然としています。
貴兄は農大教授小塩氏のメールを学移連ALLに掲載する許可を同氏から得たとのことですが、私は貴兄宛の私のメールを同氏に転送することを許可した覚えはありません。また、杉野先生をこの様に誹謗中傷する同氏の意見を学移連OB会の了解を得ずにALLに流しても良いのですか。ご確認下さい。
ところでせっかくなので氏のメールを真面目に読みはじめましたが途中で(下記赤字のところで)止めました。
私は、氏の杉野先生の責任を追及する姿勢はともかく一廉の故人でかつ同大学・同学部の先輩教授をここまで侮辱し冒涜する様な品性・知性・教養を欠く人物の人間性とその人物を雇用している大学当局を疑うと同時に指導を受ける学生が憐れに思われます。貴兄はなぜ、この様なメールを私や学移連OBの皆さんに転送したのですか。転送するのであれば先ずは、同氏に赤字部分の撤回(できれば謝罪も)をさせてからにして下さい。でなければ貴兄も疑われかねません。私はその様なレベルの手合いと対応するつもりはなく、初めから貴兄に偽りのない心境を通知していた通りです(下記緑字部分)。このメールは許可しますので貴兄の責任で同氏に必ず転送して下さい。撤回があればともかく、これでは語るに足る相手とは到底思えず、時間の無駄なので返信は一切無用にして下さい。
●私は杉野はあわれな小心者だったと思っています。彼の戦後の言動を検討すると、自分をごまかしごまかし生きていたように思います。腹が据わっているように見せたかったことは事実かも知れませんが、筋金ではなくメッキに過ぎません。
●私は、もし機会があれば(先ず無理と思いますが)、小塩教授ではなく学長を相手に申し入れをしたい心境です。

駒井:加藤仁紀様 大変失礼致しました。私の配慮が足りなかったようです。お許しください。
然し乍ら、この学移連ALLに流れることは、色々な方向に御自分の意志とは関わり無く、流れてしまうように思います。ですから、細心の注意を払っていかねばなりません事でした。
小塩海平教授には早速転送します。

松栄:和田さん 村松さん 農大ネットの皆さん 私たち50年の皆さん みなさん。
杉野先生の論評で、お騒がせしています。どう考えたら良いのか、先日来悪い頭をこねくり回して考えているのですが、冷静に?考えたら、10人10色で、誰が何を考え、何を言い何を書いても自由! なんですよね。そう思いました。 最近は頭が固くなっていけません。
ある人を、尊敬する人もいて、馬鹿にする人、もいて、罪人扱いみたいな表現までする人、、、しかし一線を越えた表現は名誉棄損とか、いろいろありますから
いけませんが、論評するのは自由だと思います。
杉野先生をどう評価するか、どのように論評するかということが今回の話題で、そういう論評で引っかかっているわけです。
思うのですが、農大を創設された榎本先生も、杉野先生と同じような立場ではなかったか、と思います。
幕府軍を率いて新政府軍に対抗して、五稜郭で自決寸前、黒田清隆さんに、引き留め助命され、罪一刀を減じられ、最後には大臣にまでなられ、北海道開拓から、海外開発雄飛を常に考えられていた。、
そんな夢を実現するために、農学校を作り、幕府残党子弟を預かって、夢の実現にため、生徒をメキシコに移住させたメキシコ移民。
そんな榎本移民当時の末裔が、未だにメキシコで活躍しているという。
杉野先生も、日本の食糧不足を補うために、満州に学生を送って、何とか理想の食糧補給地を作成しようと考えられた。。。それは当時では正解だったと思います。
しかし、結果はロシアの条約違反によりなだれ込んだロシア兵に、農大生が皆殺しとなった、そんな責任、どうするのか、という話が、あるのかもしれません。
満州移民の農大生が殺された、この時の杉野先生の心境は、五稜郭で敗戦した榎本先生と同じような感じだった、と想像しています。
そんな、死を覚悟して石川県の志雄に逼塞されていた杉野先生を当時の千葉学長が声をかけられて、もう一度大陸雄飛の夢を考えられた。今度はブラジルに!
そして満州で亡くなった農大生を常に思いながら最大の努力をされて、ブラジルに確か当時2度も来られて、移住者の家を一軒一軒周られて、農大生の受け入れを懇願して歩かれています。未だに当時の話が、ブラジルでは聞けます。そんな大学の先生がどこにおられたか。批判するのは簡単です。
農大農業拓殖学を教える傍ら、移住研を組織されて、他大学の学生さんにも、できる限り応援努力された。この功績は、ブラジルに日本人が頑張っている限り伝えられることではないか、と思います。
未だに、メキシコの榎本移民の末裔が活躍していると同様に、ブラジルでは杉野先生の励ましを受けた人たち、その子孫が後世に残って行く、のは当然だろうと思います。
もう一つ、聞きかじりですが大きな貢献をされています。拓殖10期の頃に起こった、ワンダーフォーゲル事件です。
結果的には、この事件の解決に当たられて体力、気力を使い果たされて、若い60歳代で、この世を去られることになったことです。
農大ワンダーフォーゲル事件、で入力すれば簡単に出てきます。ウイッキペジアで詳しく出ています。悲惨な事件だったようです。
大学のクラブ活動で起きたリンチ責任を、農大本校がもろに受けた時、杉野先生の東大時代の友人が助けを出して、学校法人取り消し、という噂が流れている折に命を張って、農大を守られた、ということを聞いています。
これさえなければ、我々14期生も直接先生の授業、薫陶を受けられたのではないか、と残念です、が、その時杉野先生が農大にいなければ、どうなっていたか・・・ そんなことも、考慮に入れて考えねばならない、と思います。
というわけで、拓殖30期の方? が何を書かれようがそれは自由であって、かまわないと思います。
じっくり考えて、後世に残るのはいったいどちらの杉野先生の批評、であるか、を考えてみました。
農大農業拓殖学科生100余名と、移住連盟のどのくらいの数の方か知りませんが、その人たちに与えた杉野先生の
功績、をじっくり考えたら、・・・
別にわいわい討論することも無いのか、無意味なのか、と思うに至った今の状況です。 サンパウロ   マツエ

富田:駒井さん 駒井さん,加藤さん、小塩先生の皆様の杉野先生の学問についてのご高説を拝読しました。
私は学生時代に少なからず杉野先生のご謦咳に接する機会を持たせていただきましたが文化系の私はご専門についての知識をお伺いする機会を得ませんでしたのは不勉強のなせる業です。
日本学生海外移住連盟の役員をしているとき杉野先生が設立なさった石川県能登半島羽咋市の経営伝習農場での移住連盟の第一回全国合宿にご参加くださる先生を何人かの学生とともに2等車に乗ってくださらない先生を満員の3等夜行列車でお守りし先生はいつも冗談で我々とお付き合いくださいました。通路に寝た学生には翌朝目覚めると多くの女学生が君をまたいで通ったのに君はいびきをかいてたと悔しがらせたのでした。
先生との関係は移住連盟の活動についてのご相談やご教授でした。私は大学卒業後ブラジルへ移住して60年近くなりますので今話題の「農学と戦争」は拝読していません。
私が先生にご相談したのは農業でなく文科系の私でも移住する価値はあるのかということでした。先生は何事であろうと頑張って事業などで相手国の成長に尽くせば立派な移住だと言ってくださり救われたものでした。
先生の学問の価値の有無を問うことは無意味です。先生の価値は学生の夢の実現に力になり人に永遠のエネルギーを沸かさせるところにあるのです。これこそがたぐいまれな教育者のもって生まれた才能なのです。机上の学問知識で学生に与えることができない、人間の力です。これが我々が先生に求めたものなのです。失礼ながらこれを後輩先生がたはおわかりになっていません。つまらぬことを書きました。お笑いください。富田博義

加藤:富田博義様 貴重なご意見に敬意を表します。私の一存で学移連ALLに転送させて頂きますのでご了承下さい。

村松: 石井国雄さんは東京農大農業大拓殖学科1968年卒業(拓殖7期生)では米農業実習生事業米国駐在員、後日米開戦農業コンサルタント専門家、定年後の現在カリフォルニ州サンフランシスコ湾岸都市在住者です。杉野忠夫教授研究室、海外移住研究部所属者、吉原久雄さんと拓殖7期同期生、下記コメントを送ってくれました。村さん-CA

石井:村松先輩、吉原くん、
中国発の世界的規模にて人類に多大の犠牲を強いているコビット19に貴重な人生を奪われないように自粛しながら元気に過ごしております。
この度、恩師、杉野先生に言及される本が出版され多くの農大拓殖卒業生に波紋を投げかけているようでありますが私は読んでないので具体的な意見、感想を表明できませんが私自身、87歳まで生きてきまして幸いにも出会えた傑出した存在の人物が幾人もおられますが若き20代の前半に杉野先生のような慈愛に満ちたスケールのでかい方にお会いできたことは私の人生にとって、人格形成上、まことに大きな影響があったと思い感謝しておりますしラッキーでありました。拓殖学科を卒業し海外に移住し、人生を振り返り、何を思うかについては、あるがままに自分の人生を受け入れておりますので先生の影響もあるかもしれませんが自分が選んだ自分の人生ですので責任は自らのもであります。将来を見通すクリタルボールはありませんから誰しも自らが選ぶ人生の正否に関しては予測できません。自分は不幸せであったとしてもそれを他人のせいにすることはできません。あの当時の世界情勢からすれば日本民族の選択として満蒙開拓は決して悪いものではなかったはずですし、むしろ大成功の可能性があったと思います。しかし戦争と予期せぬ連合国側の画策により、それはルーズヴェルトの判断の過ちにより邪悪なスターリン率いるソヴィエト軍の侵攻を許し、あのような犠牲を強いられ我が民族の遠大なる計画は失敗に終わりました。その中に農大生も数ず多くおられたのでありましょう。しかしそれを杉野先生の責任であると糾弾するのはちょっとおかしいと思うのであります。戦争があのような結果に終わらず日本にとって良き方向に行っていたらあの遠大な計画は農業に優れた日本民族によって大農業生産国家を築き上げていたでしょう。結果が良かったから良い、結果が悪かったから悪ではなくその道を選んだ人の人生に対する価値観と信念ではないかと思います。それにしても現在の日本人は民族としての誇りと責任感、覚悟において独立主権国家の民族としてかけるものがあります。杉野先生の考えに賛同し、海外に雄飛したような人たちはむしろ祖国に対する愛国心が強いと思います。戦後の日本人にはスケールのでかい人、責任を取れる胆力のある人がおりません。民族の活力を感じられません。北方領土問題にしてもソビエトが崩壊した時に国家的見地のスケールの大きな考え方のできる(杉野先生のような)政治家がいたならば絶好調であったあの当時の日本の国力からすれば買収できたのです。中国に3兆8000億もの金をつぎ込み、結果としてとんでもない共産国家を誕生させ、日本領土をも狙う怪物となさせてしまいました。そのような金を支払えば崩壊したソビエトは1兆円くらいで北方領土を返還したでしょう。タイミングを逃し続けるスケールの小さい政治家たちは我が祖国をダメな国にしてしまいそうです。藤本大統領のように日本民族の移民の中から一国の大統領が誕生したらならばできる限りの援助をして彼の国を南米有数の経済国家に成長させることも可能でしたが姑息な自分の利益ばかりを考えるちっぽけは政治家も、経団連の指導者もそのようなスケールのでかい援助を思いもつかなかった。物事のエッセンスはタイミングです。要するに杉野先生のようなスケールのでかい人材は今は皆無です。そんなスケールの小さな人たちはとてつもなく大きなスケールの考え方をする人を非難はするが理解はできないでしょう。私は先生の教えの結果大きな尺度で物事を理解できる人間になれたと感謝しております。石井





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