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【学移連ALL】 書籍「農学と戦争」(東京農大関連) その3 早稲田OBの加藤さんからのお便りです。
書籍「農学と戦争」に付いてのその3も制限字数1万語に直ぐに到達してしまいました。加藤さんから問題提起を小塩海平先生に繋いだ駒井さんに嚙み付く加藤さん、佐藤さん、桂さん、前田さん、村松さん、須貝さんと一方的な小塩先生への苦言が続いてその3が終了してしまいました。これで終了するのか小塩先生の返信が出てまた一揉めするのか様子を見る必要が出てきたようです。続けばその4、その5と継続するのは問題ないのですが、困るのは写真です。既にお願いしていますが適当な写真は出て来ません。検索で見つけた「農学と戦争」の表紙を使用することにしました。


佐藤:加藤仁紀様 「農学と戦争」についてのコメント、とても興味深く拝見させていただきました。
その本を読んでおらず、何を言っていいのか分かりませんが、少なくとも杉野忠夫先生が、満州開拓で批判をされているということに対して、少し私の気持ちを伝えさせて下さい。
杉野先生の人生で、満州開拓への軌跡と苦衷を知らなければ、戦後、農大に乞われて農業拓殖学科を立ち上げた先生の意思を理解できないと思うのです。
私は、杉野先生が亡くなった翌年に、農業拓殖学科11期生として入学しました。杉野先生の影響力は、とても強く学科と移住研には漂い、先生、先輩たちから、先生の人となりについて、いろいろなことが聞けました。 勉強しない学生でしたので、当時は、先生の著書を読んでもいませんでした。手元に現在、「海外拓殖秘史」-ある開拓運動者の手記- 杉野忠雄著(昭和34年)や、「杉野忠夫博士遺稿集」(昭和41年)、「杉野忠夫先生追悼文集」海外移住研研究部(昭和41年)があります。これらの書籍に目を通してみると、今なお、杉野先生の軌跡から真の開拓への情熱が伝わってきます。
杉野先生が満蒙開拓へその初期から関与されていたのは事実です。昭和15年には満州国開拓総局参与を任じられています。多くの開拓民入植に奮闘し、満州を飛び回っていたのですが、拓殖秘史には、「長白山麓の一夜」という項で、先生が長白山麓の開拓団建設で勤労奉仕団派遣のために馳せ参じたこと時のことを記しています。その際、安図県の朝鮮出身の知事さんから、日本人とみれば殺して回っていたという金日成も殺さずにいる日本人農家のことを知らされたそうです。その人は開拓団の来る前から、朝鮮からそこに移り住み、水田を開き、その地方は冷害で三年に一度しか米が採れないのに、稲作を成功させて、周囲の人たちから先生と呼ばれ慕われていたそうです。知事さんからは、こういう人をどしどし送って下さいと頼まれ、そして付け加えて言うのには「日の丸と鉄砲で支えられている開拓者は、日本の国力の弱くなったとき、ひとりも大陸にはとどまらいであろうが、現住民から慕われる開拓者なら皆がひきとめるだろう。量より質ということを考えて下さい」と言われたとあります。ここでの一夜のことは、開拓政策に疑問を募らせていたことと重なり、開拓者の教育の方向を量より質へ転換すべきと、自分に命じたそうです。しかし、もう自分一個の力では、どうにもならない体制になっていたことを述懐しています。それから、間に合うかどうかは分からないが、後半生に一人でもよい、そうした人を養成できればという思いがつのり、上司、友人のひきとめをふりきって、昭和19年9月に満州から両親が疎開していた故郷の能登半島の山村に戻り、県の建てた農業研修道場で青年たちとの開墾生活に入ったとあります。後から見れば終戦を見越した帰国のようになってしまったものの、帰国当時は、戦局の真相を知る由もなかったそうです。ひたすら、満州開拓のために内原方式に頼らない教育を念願していたとあります。しかし、満州に再び戻り骨を埋めるつもりが、戦局の悪化、終戦となり満州への渡航は叶いませんでした。
昭和32年5月11日に、「旧拓殖学科殉難学生の慰霊祭」が千葉三郎学長を祭主とし、杉野先生が副委員長となり、農大全学をあげて厳粛に行われています。杉野先生は、この慰霊祭にあてた思いを、東京農業大学報第2号に載せています。その中で、満州開拓に尽くした悔恨、自責の念について、当然死すべき一命を不思議にのこされ、混乱の祖国にとどめられたことは、祖国再建のために、開拓途上に倒れた同士の志をいつかはふたたび実現するために、一命をささげるべきだと思いなおしたとあります。
この思いが、農大拓殖学科の創設を引き受けて、学生の指導に心魂を込めた原動力なのです。
もし、この「農学と戦争」の著者先生たちが、この熱い思いのいくばくかを引き継いで学生の指導に当たってくれているならば、嬉しいことです。しかし、農業拓殖学科を継承した「国際農業開発学科」では、学科創設の経緯と杉野先生のことを、今の学生、教員たちから聞くことができません。
杉野先生は、拓殖(開発と言っても良し)の本義を、新渡戸稲造が植民の終局目標とした「地球の人化」であるとしています。
この言葉は、古びているように私は感じません。
アマゾン川流域地区(Bacia do Rio Amazonas)の森林破壊では、CO2 以上に亜酸化窒素などの排出が増大し、同森林が地球環境を調整できる限界点を超えてしまうそうです。その限界点とは、アマゾン森林破壊が元に対し2割減だそうです。この最近の研究のことで、ナショナルジオグラフィックでは、まだ遅くない、植林拡大などの手を尽くすべきとの警鐘がされています。
開発が進み過ぎて、人が住みにくくなってしまうことは、「地球の人化」に反します。住みやすい地球にしていくために、ここでも拓殖、開発の本義「地球の人化」が求められているのではないでしょうか。
農業開発学科の教員には、自虐的な批判に留めず、そこから杉野先生が命をかけて拓殖教育に尽くしたことを伝承して頂きたいと願ってやみません。
ベレン在住 佐藤卓司

桂:学移連OBの皆様方へ 御参考までに下記の書籍が手元にあり、読み返しております。
そこにはかつてのJICAの前進の姿や、我々の学生海外移住連盟の活躍等が記されております。今回の杉野先生から後藤先生に至る歴史をわたしたちはきちんと見直す必要性があると存じます。 国際協力の誕生ー開発の脱政治化を超えてー』北野収著 創成者新書46 創成社 2011年
(北野氏は1962年東京生まれ、独協大学教授とか。市民参加のまちづくり等の著書で有名みたいですね。)
桂良太郎
京都外国語大学卒、第二次カナダ総合実習調査団員(BC州ヴァンクーバー島にて先住民と共に暮らす。)
日越大学/フエ大学客員教授(今年でベトナム暮らし5年目に入りました。コロナで帰国できません。)
(国際協力、国際福祉論、サスティナビリティ学)
フエにて

駒井:加藤仁紀様 富田博義様からも御意見賜り感謝申し上げます。
今回の議論が久々に高次元であったことがうれしく思う次第です。学移連の存在意義、また、我々の立場が何であったのか、唯、残念なのは議論への参加者が少なかったが、それぞれの皆さんの考えがどのようであったかと言う事です。加藤さんの意見に賛成の方、小塩先生に賛成の方と単純に別けられない問題も孕んでおりました。
僭越ながらこのように纏めさせて頂いて良いものか迷いますが、この次、何らかの方法で議論が出来るなら幸いと存じます。これまでお付き合い頂き皆さまに深謝申し上げます。
尚 小塩海平先生には上記の件お伝えいたします。

加藤:駒井 明様 <貴兄の今回のメールに関し以下苦言を呈します。>
1 貴兄は「今回の議論が久々に高次元であったことがうれしく思う次第です。」とのことですが、勘違いされては困ります。
➀そもそもことの発端は、貴兄が私のメールを私に無断で小塩に送り、それを読んだ小塩が頼みもしないのに私が貴兄に話した私見に対し、勝手に逐一・直接私に返事を寄越したことです。 
➁しかもその返事の内容が杉野先生に対する常軌を逸した罵詈雑言と私への挑発的言動だったので、私が門前払いしたのです。私は小塩ごときと議論した覚えはサラサラありません。
Bまた、貴兄は「残念なのは議論への参加者が少なかった」とのことですが、それはこのヤリトリをご覧になった学移連OBの皆さま(以下、「OB」)が唖然として議論に入る余地が無かったという
ことではないですか。杉野先生から親しく薫陶を受けた一部の方々から堪り兼ねてALLに事実上の抗議が寄せられたのであってこれまた高次元の議論をしたことになりません。言わば稀に見る低
次元の論争(にも値しない?)だったということではないですか。
Cさらに言えば貴兄には、われわれと小塩を焚き付けて面白がっている印象があります。貴兄の責任は大きいです。(既に私は貴兄から謝罪は受けましたが)貴兄が私に無断で私のメールを小塩に転
 送し、小塩の反論を知って興味を覚えた貴兄が学移連ALLに(小塩の了解だけを取って)流したことはモラルに反しませんか。しかも貴兄は「加藤に賛成とか、小塩に賛成云々」とのことです
が、貴兄は先ずご自身の立ち位置を明らかにすべきです。このままでは、貴兄は小塩側に立っていると理解されるだけです。別にそれでも一向にかまいませんが。
2 お粗末な小塩の言動
 ➀小塩が何故“初対面”の私に、それも貴兄と私の間に勝手に割り込んできてあれほど激しい杉野先生攻撃をしてきたか貴兄はお分かりですか。
➁小塩は貴兄から学移連OB会の存在を知って、これは「本が売れる」と直感したからです。恰好の宣伝媒体と思い、チャンスとばかりに興奮して筋違いかつ異常な挑発を私に仕掛けてきたのです。
貴兄は余りにも不用意でした。利用されたのです(あるいは貴兄もそれに加担したと取られても仕方ありません)。しかし、私はその手に乗るはずがなく小塩を門前払いしたことはご承知の通りで
す。われわれがこの問題に関わるほど本が売れて小塩の思うツボとなるからです。
B小塩は著名な杉野先生を足蹴にすれば自分が偉くなれる、また本が売れると錯覚している人物です。この様な人格では必ずしっぺ返しを受けるでしょう。
C従って、今後は小塩を一切無視することが肝要です。
3 小塩のミス
 ➀小塩は頭でっかちの未熟者だったため失態を演じました。図に乗って馬脚を現し、自ら教育者失格を演じ自分で勝手にこけてしまったということです。小塩の著作物が仮に評価できるとしても著作
者の人格がその程度だったということが世間に知られてしまった現在、小塩の弱みになったということです。将来仮にこれら一連のことが公になった場合、あの罵詈雑言は小塩に確実に不利に働く
でしょう。場合によっては致命傷になりかねず小塩は今頃ほぞをかんでいるはずです。
➁OBもはじめは事の成り行きを見守っておられたかも知れませんが、あるいは仮に小塩の意見に賛同する方がおられたとしても、死人に口なしとばかり、世界的な実績を上げて既に半世紀以上も前に亡くなられた偉大な杉野先生への小塩の偉そうな言動を知って恐らく興覚めしたはずです。
Cしかし、杉野先生のご遺族のお気持ちを思うと小塩は許しがたいです。ご遺族が侮辱罪で訴えることができるか検討の余地があるかも知れません。
D論文を数多く書いて教授になれても人間的修行が足りなければ教育者ではありません。ここが杉野先生と小塩の決定的な差です。サンパウロの富田博義氏、ベレンの佐藤卓司氏の卓見を小塩に熟読玩味させる必要がありますが、所詮その人格では理解できないでしょう。
4 また貴兄は、「この次、何らかの方法で議論が出来るなら幸いと存じます。」とのことですが、これも勘違いされています。
➀OBに芽生えたと思われる小塩に対する嫌悪感・不信感が払拭されない限り、仮に小塩が謝罪撤回してきても誰も議論する気にはなれないでしょう。貴兄は事態を甘く・軽く見ています。もう少しOBの心情に思いを馳せて下さい。
➁老婆心ですが貴兄もこれ以上疑いを招かない方がよろしいかと存じます。ここに至っては小塩に関わるほど貴兄の仲間内での信用が損なわれることを憂慮します。同時に失礼ながらくれぐれも貴兄がこれ以上小塩から組みし易いと侮られることが無いように切に願います。貴兄が貴兄の言う「まとめ」を小塩に送るとのこと、これは愚の骨頂です。舐められるだけです。
 B無論私も反省しています。あの著書が私を含むOBのレーゾンデートルに関わることなので看過できなかったということは前にも述べた通りですが、縷々述べたように想定外の話に発展したことは慙愧の至りです。とくに農大OB諸兄等には申し訳なく思っています。私もこれ以上小塩を相手には致しません。あの本が売れることは私の望むところではありません。
5 最後になりますが、現在海外日系人が世界で活躍し、発展を遂げて日本の国益に大きく寄与していますが、それは杉野先生の偉大なるご功績と思っています。ブラジル在住の須貝吉彦氏のご意見はごもっともです(ご存知の通り氏は世界的に有名なブラジルのセラード開発にJICAとともに関わった指導者のお一人です)。
6 このメールは、小塩に転送してもしなくても構いません。しかし、決して小塩からの私への返信は直接・間接を問わず無用にして下さい。小塩にとってもその方が身のためでしょう。加藤仁紀

前田:農大ネット 村松さん、石井さん、皆様 拓殖7期の前田昭男です。
昨年から書籍「農学と戦争」についての記述で、特に我々世代が直接多大な影響を受けた杉野先生のことが、学移連関係者も巻き込んで論評の対象になっております。
私は、同期の石井君の考え方に同感です。杉野先生が良く話された言葉、「百年後の日本国はどうなっているか?それに対して諸君はどのように対処して行くのか?」と言う命題を自分なりに理解して、「世界は個人の自由を基調として平和でなければいけない」、そして「倉廩満ちて礼節を知る」ということを自分の行動の原動力に出来たものと思っています。正に先生方には大恩を感じます。
移住者の中には「杉野先生に騙された?」とか、「学校は移住後何もしてくれない?」とか批判する方もあったようですが?自分が移住を決意したこと、自分の人生を歩んできたことについては、責任は自分にある。との言葉には正に同感です。
「杉野節に踊らされた」とか言う人もいるようですが、自分の人生進路決定についての責任を他人に擦り付ける所業の一つでしょう。
杉野先生への評価は、杉野先生が逝去された直後に起きています。その一例が、学科の杉野先生の同僚である教授が我々の授業において「杉野は転向者であり、云々」と無様に言いつのったことが一つです。その表現に対して我々学生の側から抗議が出されています。
私は1966年卒業後助手として2年少々、農学部研究職・農業拓殖学科熱帯殖産研究室を職場として勤務しましたが、この杉野先生に対する批判を始めとした、拓殖学科の職員のぐらついた姿勢に対する学生の不満が出始めていました。これが私の離職後に学科の内紛までに拡大したのでしょう。
結局栗田先生が矢面に立たれて、正に職を賭して学生を穏便に説得したものと推測します。(当時ネパール片田舎の農大農場におり、情報は殆どありませんでした。後輩卒業生が何名か赴任して来た時に聞いた)。
「杉野先生が学生のころは新人会のメンバーであり、特高が常に張り付いていた」とかは悪口ではなく、賞賛の声のように受け止めていました。また農大の拓殖学科創設(あるいは再興?)に当たっての先生の関りは、村松さんの報に詳しい。
当該書籍の著者たちが今後どのような生き方をするのか、気にかかりますが。研究者の責任はどうあるべきか?
乱文失礼 前田昭男拝

村松:前田さん、皆さん、 農大現役の二教授(助教授、講師?)の出版された本「農学と戦争」について様々な意見が出てきました、また著書の一人から学移連OBの質問の返信があり読んだところです。
 この著書はコロナ禍で海外では取り寄せ不可能状況ですので読んでいませんが、学移連OBとの更新であ内容を察することができます、国家の満蒙開拓政策に従事された杉野先生を糾弾する内容のようである。
 杉野門下生として60数年の長きに渡り海外で生きてきた者にとっては”なぜ今になってかかる本が出版されるのか”大いに疑問である、まさに裏切り者、リベラルの教育者が農大にいたのかと残念でならない。
 確に現代社会においては ”言論の自由” が保証されているので、誰がどんな出版物を書こうが、何を言おうが許されるような社会になっている、どのような理由によってこの出版物を世に出したのであろうとも感知しない、ただ出版者二人の農大教育者(?)には農大を辞して頂きたいことだけを願う。
 私は決心した:どんな意図があってかかる本を出版したのか知らないが、私は当然 ”買わない”、”読まない”。村松義夫(在CA, USA)

佐藤:村松先輩 おっしゃる通りです。こんな教員を置いて、農大の存在価値を否定していて良いのでしょうか。更に横井時敬先生の批判書物も出そうとしているようですし、情けない大学になったものです。ベレン 佐藤卓司

村松: 佐藤さん、皆さん。 この本「農学と戦争」の内容を察するに、今流行りの日本の歴史を紐解いてリベラル、左派思想の元に湾曲し世に出回っている事例と同類であると察する、例を挙げれば 韓国が主張する戦前戦中の朝鮮半島における売春婦問題を日本軍による”従軍慰安婦”と主張する、又日本企業への自らの応募労働者で同一賃金を受けた応募工労働者を”強制徴用工強制労働者”と訴え補償を得ようとする、これとまったく類似している、この発端はすべて日本のリベラル左翼勢力から発せられたもので事実と異なるが”言論の自由”が保証されている。
 ここ米国でもリベラル左派勢力と極左勢力の民主党によって選挙戦が多くの不正事実が声高に叫ばれたが、左翼勢力は大統領を当選させ、連邦上下院で過半数確保してしまった、その為米国の歴史を湾曲しはじめ数々の指摘を提示している、初代大統領ワシントン、16代大統領リンカーン、南北戦争当時の将軍達、そして白人の歴代大統領の多くが批判の対象となって一部肖像の破壊や低学年学校教育での歴史教育の歪曲が行われ出している。
 今回の農大の二人の教育者は全く上記思想の者達と同類であると認識する、現代社会では歴史を洗えば幾らでも歪曲した本が書ける、本当にこんな社会になって行くことは、未来を背負って立つ若者に対する責任ある教育者と言えるであろうか、まして農大の農業拓殖学科設立から70年近くを経て自らこの学科に学び同じ大学で教鞭をとり、歴史を歪曲する出版物を世に出すということは納得できない、即、農大の教職を辞してほしいと願う。
 我々の時代は左派勢力による学生運動が始まり各大学に拡大していった時代で、保守を信条とする農大にもこれらの学生達が侵入してきた、それを阻止するために多くの正常な学生は立ち上がった、そのため学生運動は農大では一部を除き阻止することができ、正常な学生生活を送ることができた。
 出版は誰でも”言論の自由”が保証されているというが、我々の学んだ農業拓殖学科の恩師を60数年経過して糾弾する事には到底納得ができない、海外雄飛を夢見て海を渡った先輩後輩諸兄はこの教育者に対して如何に思われるか問いたい。 村松義夫(在CA, USA)

佐藤:駒井 明 様 ベレン在住の佐藤卓司です。
私は、加藤仁紀様の論評が納得でき、敬意を持って賛同します。
私は、杉野先生が亡くなられた翌年度の農大拓殖学科へ入学しました。1971年に移住して、50年になろうとしています。
在学中は、杉野先生のことを諸先生、先輩からよく聞かされていました。 杉野先生のお墓が、サンパウロ、トメアスー、モンテアレグレにあります。各地のそのお墓を詣でると、私ども校友が、杉野先生と繋っていることに感慨を覚えます。
小塩という開発学科の教員から、貴兄宛のメールを読んで、私も唖然とした一人です。先生の生前を知っている先輩たちからは、あまりにも独りよがりの糾弾に対し、厳しい声が届いています。
小塩が、杉野先生の博士論文が体をなしていないとまで言っていますが、杉野先生の「海外拓殖理論と教育」は、今も我々に、拓殖活動について教え続けていることを知っているのでしょうか。杉野先生の万分の一でも、この小塩の学位論文が長く人に役立っているのでしょうか。こんな調子で、初代学長横井時敬の、批判書を書こうとしているなら、潔く農大を去ってからにして欲しいものです。私共が慕っていた故松田藤四郎理事長へも批判的なことを記していましたが、松田先生ほど農大の伝統を守ろうと努めた方を知りません。こんな教員たちが開発学科に巣くっていたからでしょう、母校から研修、実習に来た学生たちが、全く当地と母校の関係を知りませんでした。何故こんなに卒業生が海外に多いのか驚いていました。またトメアスーがアグロフォレストリーのメッカであると聞き、多くの学生が来ました。
しかし、移住地の創設功労者の一人、千葉三郎先生(第4代学長、農大中興の祖、戦後の農業拓殖学科の新設者)も、杉野先生の名前も知らされていませんでした。千葉先生のお墓は、トメアスーにあります。トメアスーの十字路街には、千葉広場があって先生の銅像まであるのですが、全くその由来も知らされていませんでした。母校への誇りなど、今の教員は持ち合わせていないのでしょうか。
小塩は、杉野忠夫は小心者で偽善者、周囲をごまかして生きていたとまで断じています。我々など、先生が亡くなった後に農大に入った者すら、こうして半世紀を経ても、先生の教えが古びていないと感じているのは、本物の持つ力ではないのでしょうか。
当地で、他樹種が混入している熱帯林の再生を行っているのですが、極相林にもある樹種で、しっかりと育っている木、本物の木、親分の木(宮脇昭先生の口癖)があると、周りには、子分の木たちも育ち易くなります。杉野先生の人格が偽物であったなら、60年を超えて、拓殖一家の諸校友をつなぎとめてこれたとは、断じて言えません。こんな教員が巣くっていては、母校存亡の危機だと思っております。

駒井:佐藤卓司様 佐藤さんの強い思い拝読致しました。小塩先生へお伝えいたします。
所で、杉野先生は南米特にアマゾンで究極的には何を成したかったのでしょうか?夢に掲げるユートピアを目指していたのでしょうか?ご本人からお聞きしたかった。

須貝:【学移連ALL】 農学と戦争、知られざる満州報国農場 出版書に関して 
農大ネットの皆さん、特に教職員、学生、学長、理事、校友会、農大OBの皆さん:東京農業大学の現職の2人の先生、小塩海平と足達太郎が大変な本を出版したので驚愕しています。また、早稲田大学OBの加藤仁紀氏の駒井明氏をとうしての小塩海平への質問の回答では全く目も当てらません。農大の海外農業拓殖学科及び開発学科の創設構築者、杉野忠夫博士論文が理解できず暴言の数々です。杉野忠夫博士論文は我々、海外に移住した者、ブラジル国(200人近くいる)、パラグアイ、アルゼンチン、ペルー、ボリビア、その他のラテンアメリカの国々、米国やカナダそしてアジアの国々と日本国内で拓殖し開発に従事し就職した者たち、我々自体が彼の論文である。他大学の人達も含む。非常に重要な問題はこの二者のような教育者が大学の拓殖学科や開発学科を創設構築したものを破壊していることである。小生、杉野忠夫博士論文、開発原論にそってブラジル国で生活しているものである。ここ20年来、東京農業大学よりただ一人の卒業生が移住してこないのである。この理由はこの2人先生に禄をくれて破壊してもらっているとは、正に彼らの証言には驚愕いたしました。。。。加藤氏への文面から見て、小塩海平は自分で腹を切る勇気もなさそうですので、大学当局、学長、理事会を通じて、拓殖学科ー開発学科を救うべく即刻に辞職してもらうべく皆さんのご協力をお願いいたします。
富田博義大兄、ご心配かけて申し訳ない。加藤大兄にはお世話になっています。学移連の皆様それに50年移住者の方々、皆さんは杉野忠夫博士の論文そのものですので今後ともよろしくお願いいたします。
須貝吉彦
東京農業大学農業拓殖学科卒、農学士、拓殖5期、1964年
伯国ヴィソーザ連邦(国立)大学農学部卒、農学士(評議会登録コード:13.055/D)
米国アイオワ州立科学と技術の大学、経済学博士
伯国ヴィソーザ連邦(国立)大学応用経済学部、応用経済学博士




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