【学移連ALL】 書籍「農学と戦争」(東京農大関連) その4 早稲田OBの加藤さんからのお便りです。
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書籍「農学と戦争」に付いてのその4をリリーズします。ブラジリアの須貝さんの書き足しから始まり、村松さんが送って呉れた吉原さんと同期の石井さんのご意見、駒井さんの加藤さんのコメントに対するコメント、小塩先生の弁明と続きベレンの佐藤さんのコメントで字数に到達、松栄さん、丸木さん、加藤さんのコメントがはみ出し次回に廻ります。追加分だけで5000字に達しておりその5でも制限字数1万語に直ぐに到達してしまいました。写真は、既に寄稿集に使用済みですが、カリフォルニア在住の野口紘一さんの40年!!に寄稿された杉野先生の移住船の監督として南米を訪問された時の「南米開拓前線を行く」からお借りした杉野先生の写真を使うことにしました。 |
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松栄:みなさん 丸木さんから、農業拓殖の希望性についてのコメント投稿を戴きましたので、転送させていただきます。
尖閣を足掛かりに、世界制覇に進出せん、とする隣国を阻止するためにも、大東亜共栄圏の再構築が必要な状況にある日本、の今後の考え方の基本構想になるかもしれません。
安保がなくなることを考慮に入れて、具体策としての今後の考え方、に繋がるかもしれません。
サンパウロ マツエ
丸木で~す 農学には縁のない僕に本件を語る資格がないかも知れませんが、満蒙開拓に就いては当時の日本にとって必要かつ重要なプロジェクトであったと思考します。大東亜共栄圏構築を目指した日本の政策阻止を目論んだ英米仏蘭の列強が立ちはだかったが故に日本は敗戦に至ったのです。現今の印度太平洋構想には英米豪が日本と協力して大東亜共栄圏構築の再現阻止しない事が確実であれば、大いに実現可能性があります。当時は北進の満蒙開拓と南進のマレーとスマトラ攻略に軍部が分かれてしまい失敗に帰しましたが、今回は英米豪が反対しないばかりか後押ししてくれるですから、日本にとっては一挙両得のチャンスです。
加藤:最後になりますが、現在海外日系人が世界で活躍し、発展を遂げて日本の国益に大きく寄与していますが、それは杉野先生の偉大なるご功績と思っています。ブラジル在住の須貝吉彦氏のご意見はごもっともです(ご存知の通り氏は世界的に有名なブラジルのセラード開発にJICAとともに関わった指導者のお一人です)。
須貝:加藤仁紀大兄ご賛同有難うございます。我々は、ブラジル国連邦政府農牧林水産技術会議(以下技術会議)を通じて食料供給のためにブラジル国伝統的農業部門を変革変遷してまいりました。技術会議は、全ブラジル国の農牧林水産国立試験場を統括し、科学技術開発し、その結果を技術普及部門から州、郡、市の普及部門に普及し、農業者の技術知識を向上させ、その生産性科学技術知識おも向上させ、環境問題も考慮し、持続的な農牧畜林水産物を増産供給する機関である。勿論、生産供給は需要を考慮する。もともとこの機関は伝統的に農務省の農牧林水産研究開発部であったが、政治の変遷であまりにも頻繁に執行部が変わるので1973年に独立法人のような政府機関になり現在に至っている。その間JICAの協力もすばらしいものでした。セラード国立試験場の補強、莫大な低賃金の開発投資で素晴らしい貢献をしていただきました。非常に感謝しています。2005年でこの借金も全部返済させてもらいました。おかげ様で農業部門の技術革新率は2.8%で米国の1.8%をぬいています。穀類の生産量、2020・2021年農年度では
2億6千万トンに及んでいます。大豆など米国を抜き世界一の座をしめるようになりました。ブラジル国の国民食糧消費指数はこの35年間で38%下落しました。また、世界の食糧交易額の15%以上をブラジル国がしめるようになりました。
一方、JICAはモサンビーク国とブラジル国同様な企画実行をしましたが失敗に終わっています。35億円もの日本国民の血税を使って失敗です。
どこにこの失敗の根底があるかというと、技術協力において杉野忠夫博士論文,開発拓殖原論、移住居住、共存共栄が欠如していたからである。これがブラジル国技術協力とモサンビーク国技術協力の成否の違いを決めているのである。
須貝吉彦
農学士(農大拓殖五期)、Engenheiro Agrônomo(CREA: 13.055/D)
経済学博士(Ph.D. 米国)、応用経済学博士(伯国)
元連邦政府農牧林水産技術会議総裁付き戦略経営室
家の銀(技術会議)
村松: 石井国雄さんは農大農業拓殖学科1967年卒(拓殖7期生)経歴:学生派米実習生参加、派米農業実習生現地米国指導員(国際農友会職員)、日米農業コンサルタント社専門家、定年、サンフランシスコ湾郊外在住。 石井さんから「農学と戦争」知られざる満州報国農場の題で一文が届いていますので下記転送して置きます。
石井:村松先輩、吉原くん、 中国発の世界的規模にて人類に多大の犠牲を強いているコビット19に貴重な人生を奪われないように自粛しながら元気に過ごしております。
この度、恩師、杉野先生に言及される本が出版され多くの農大拓殖卒業生に波紋を投げかけているようでありますが私は読んでないので具体的な意見、感想を表明できませんが私自身、87歳まで生きてきまして幸いにも出会えた傑出した存在の人物が幾人もおられますが若き20代の前半に杉野先生のような慈愛に満ちたスケールのでかい方にお会いできたことは私の人生にとって、人格形成上、まことに大きな影響があったと思い感謝しておりますしラッキーでありました。拓殖学科を卒業し海外に移住し、人生を振り返り、何を思うかについては、あるがままに自分の人生を受け入れておりますので先生の影響もあるかもしれませんが自分が選んだ自分の人生ですので責任は自らのもであります。将来を見通すクリタルボールはありませんから誰しも自らが選ぶ人生の正否に関しては予測できません。自分は不幸せであったとしてもそれを他人のせいにすることはできません。あの当時の世界情勢からすれば日本民族の選択として満蒙開拓は決して悪いものではなかったはずですし、むしろ大成功の可能性があったと思います。しかし戦争と予期せぬ連合国側の画策により、それはルーズヴェルトの判断の過ちにより邪悪なスターリン率いるソヴィエト軍の侵攻を許し、あのような犠牲を強いられ我が民族の遠大なる計画は失敗に終わりました。その中に農大生も数ず多くおられたのでありましょう。しかしそれを杉野先生の責任であると糾弾するのはちょっとおかしいと思うのであります。戦争があのような結果に終わらず日本にとって良き方向に行っていたらあの遠大な計画は農業に優れた日本民族によって大農業生産国家を築き上げていたでしょう。結果が良かったから良い、結果が悪かったから悪ではなくその道を選んだ人の人生に対する価値観と信念ではないかと思います。それにしても現在の日本人は民族としての誇りと責任感、覚悟において独立主権国家の民族としてかけるものがあります。杉野先生の考えに賛同し、海外に雄飛したような人たちはむしろ祖国に対する愛国心が強いと思います。戦後の日本人にはスケールのでかい人、責任を取れる胆力のある人がおりません。民族の活力を感じられません。北方領土問題にしてもソビエトが崩壊した時に国家的見地のスケールの大きな考え方のできる(杉野先生のような)政治家がいたならば絶好調であったあの当時の日本の国力からすれば買収できたのです。中国に3兆8000億もの金をつぎ込み、結果としてとんでもない共産国家を誕生させ、日本領土をも狙う怪物となさせてしまいました。そのような金を支払えば崩壊したソビエトは1兆円くらいで北方領土を返還したでしょう。タイミングを逃し続けるスケールの小さい政治家たちは我が祖国をダメな国にしてしまいそうです。藤本大統領のように日本民族の移民の中から一国の大統領が誕生したらならばできる限りの援助をして彼の国を南米有数の経済国家に成長させることも可能でしたが姑息な自分の利益ばかりを考えるちっぽけは政治家も、経団連の指導者もそのようなスケールのでかい援助を思いもつかなかった。物事のエッセンスはタイミングです。要するに杉野先生のようなスケールのでかい人材は今は皆無です。そんなスケールの小さな人たちはとてつもなく大きなスケールの考え方をする人を非難はするが理解はできないでしょう。私は先生の教えの結果大きな尺度で物事を理解できる人間になれたと感謝しております。以上であります。 石井
駒井:加藤仁紀様 お早う御座います。以下の部分について、3点ほど述べます。
そもそもことの発端は、貴兄が私のメールを私に無断で小塩に送り、それを読んだ小塩が頼みもしないのに私が貴兄に話した私見に対し、勝手に逐一・直接私に返事を寄越したことです。
以下の文章から私としては了解されたと思い込んでいました。貴信3月17日(水)貴兄が、もし今後小塩教授にお会いされる機会があれば、ついでに可能であれば次の点をお尋ねいただき、後日お知らせ頂ければ幸いです。御意にそぐわなければご放念下さい。
さらに言えば貴兄には、われわれと小塩を焚き付けて面白がっている印象があります。貴兄の責任は大きいです。(既に私は貴兄から謝罪は受けましたが) 確かに難しい問題を皆さんはどのように持って行くか興味津々でした。また、そのように思うことが軽率でした。
貴兄は余りにも不用意でした。利用されたのです(あるいは貴兄もそれに加担したと取られても仕方ありません)。
私も古希を迎えるものです。利用された云々は己の判断に寄り添って今後も考えていきます。
私に足りなかった事は、杉野忠夫と言う人物の姿がもやもやとしてはっきりしない部分が多々ありその解明から始まらなくてなりません。
*出生から大学入学まで
*大学から満州まで
*石川県時代から農大まで
*農大拓殖学科から学移連時代
と言うように事実を具体的に積み重ね考え方ねばなりません。
皆さんの協力により数年かけたいと思います。
何分この分野は疎いので色々とご教示いただけますと幸いです。駒井 明
和田:学移連ALLの皆さん 加藤さんが提起した杉野先生関連の書籍「農学と戦争」その3を上製しました。著者の小塩海平先生のお便り(返信)が届いておりその4に続きます。ご意見があれば宜しくお願いします。40年ホームページ編纂責任者和田
駒井:皆さま 小塩先生の丁寧な説明分赤字部分以下を御一読下さい。
小塩先生は、1966年静岡県生れ、東京農業大学農業拓殖学科卒業、専門は植物生理学教授です。私より15年も若く、血潮をたぎらせて農業拓殖学科に入学してきたのでしょう。若い時の我々と何ら変わりません。また、勉学では植物生理学と言う分野を極め教授に昇進されました。
小塩先生の文章から見ると嘘偽りのない純朴で植物を愛する優しい気持ちの持ち主だと言う事が解ります。また、分野が違ってもとことん真理を追究する姿勢は変わらず杉野先生に繋がったと思います。駒井 明 以下御覧下さい。
小塩:駒井明さま、加藤仁紀さま、佐藤卓司さま、富田博義さま、須貝吉彦さま
まず皆さまに大変不快な思いをさせてしまったことに深くお詫び申し上げます。はじめに加藤仁紀さまからの質問のメールが転送されてきたとき、杉野先生とは面識もなく、農大の卒業生でもないとのことでしたので、率直な意見を書かせていただきました。しかし、それが直接杉野先生の薫陶を受けられた先輩方に届けられることになるとは、想像していませんでした。他人の庭に土足で踏み込むような行為になってしまったことは、心からお詫び申し上げます。どうぞお赦し下さい。
私が『農学と戦争』という本を書くキッカケになったのは、私たちの先輩に当たる専門部拓殖科の方々との交流が与えられたからです。とくに専門部拓殖科8期生の先輩たちは、満洲報国農場で半数以上がお亡くなりになり、農大が学生たちを満洲に送り込むことになった経緯について調査をしなければならないと考えるようになったのです。この調査をするように私に強く勧めて下さったのは、当時、拓友会長であった拓殖5期の赤地勝美先輩でした。
杉野忠夫先生は、満蒙開拓青少年義勇軍の建白書を執筆した方で、また先ほど触れた満洲報国農場という国家政策を立案・実施された張本人です。満蒙開拓青少年義勇軍では14〜19才の年端もいかない子供たちが9万人〜10万人ほど満洲に送り込まれました。そのうち4万2千400人が亡くなり、さらに満洲報国農場には1万4千人が派遣され、農大の私たちの先輩方をはじめ1000人近い子どもや若者、女性たちが餓死、凍死、病死、戦闘死を遂げています。しかも、ただ悲惨な死に方をしただけでなく、現地の人々から侵略者として恨まれ、憎まれながら死んでいきました。杉野忠夫先生は、このような5万人弱に及ぶ若者たちが、遠く祖国を離れ、親元を離れて、むなしく死ななければならなかったことに対して、大きな責任を負っているのです。
このことは杉野先生ご自身が、慰霊祭を回顧して、次のように述べておられるとおりです。
「副委員長の席を与えられ何か一言ご遺族の方々や、事をここまで推進された旧拓殖科の先輩各位、拓友会の皆様にご挨拶すべきでありましたが、一言云えば嗚咽し慟哭せざらんとするも能はぬ胸中、万感交々せまるものがあったので、人影にかくるる如く座にあったのであります。と申しますのは、この五十有余柱の英霊をしてその地上の勇姿を再び見るあたわざるに至らしめた罪人はかく云う自分であると云う自責の念がしきりに起きるからであります。「報国農場」と云う名を見た丈で、私は胸さく思がする」(『農大学報』第一巻第二号、1957年)
皆様方は私が書くことは信頼おけないと思われるかもしれませんが、上記の言葉は杉野先生ご自身の言葉ですから、皆様も否定はできないでしょう。杉野先生は、ご自分が認めておられるように専門部拓殖科の先輩たちの多くを死に追いやった罪人でした。そして、慰霊祭の時には人前に出ることすらできず、ひっそりと人影に隠れていたのでした。また以下は杉野先生が農業拓殖科初代学科長として就任されたときの挨拶ですが、専門部拓殖科の先輩たちをソ連国境近くの農場に送り込んだのが、他ならぬ自分であったことを吐露しています。
「私が満州国開拓総局の参与として赴任した時、農大で満州に農場を持ち度いと云って太田助教授が来られた時、新京の私の家にお泊まり願ってそこで色々と企画のご相談にも乗り、開拓総局の局議を動かして、土地の斡旋までしたので私は農大拓殖科によって五族協和の理想国家の中核が形成されることを夢見ていたので公私両面からその支持を惜しまなかったのである。所が御承知の如くソ連の背信侵略と云う大東亜戦争最後の大悲劇によって満州開拓と云う民族的大運動は同志の惨憺たる全滅の悲運を喫し、農大満州農場は太田教授以下ほとんど全員全滅と云う史上にも希有の悲劇を以て終焉したのである」(一九五六年六月二〇日、農大新聞)。
南米に移住された皆様と同じように海外雄飛の夢を掲げて満洲に渡った専門部拓殖科の先輩たちや引率教員など56名は、杉野先生が立案・推進した報国農場政策により、特に杉野先生がソ連との国境近くに農大の農場を設定したために、満洲の地で無念の死を遂げることになりました。杉野先生は、罪の自覚を持ちながら、しかし、上記に紹介したように、後年に至っても「満州開拓と云う民族的大運動」と美化し続けており、このことに対して、同級生を看取り、凍土を掘って葬り、九死に一生を得て生還した先輩たちは、憤っているのです。杉野先生は、亡くなった方たちの英霊に敬意を表すると言っておきながら、自分が送り出して犠牲になった専門部拓殖科の学生たちの遺族を訪問することもしませんでしたし、生還した学生たちに「ご苦労様」という一言をかけることすらしませんでした。そして、そのことを思い出すまいとするかのように、後進のみなさまを南米に送り出すために、それこそ我武者羅に、全身全霊を込めて、物心両面において、皆様の移住を全力でサポートされました。専門部拓殖科の先輩たちは、杉野先生が南米に移住された皆様を懸命に支援されるのを見るにつけ、生還できなかった自分たちの仲間に思いを馳せて、やりきれない感懐を抱いてきたのです。専門部拓殖科の先輩たちが、杉野先生を小心者で、偽善者だとお考えになるのはそういう経緯があるからです。
私たちが『農学と戦争』という本を書いたのは、決して、杉野先生を糾弾することが目的だったのではなく、これまで憤懣やるかたない思いを胸に刻みつけて歩んでこられた専門部拓殖科の先輩たちの魂の叫びを代弁するためにほかなりませんでした。生還者の先輩たちは、『農学と戦争』を手にされ、これでやっと満洲で眠っている仲間たちに顔向けできると涙を流されました。あの本はそういう経緯で書かれたものだということを、是非とも理解していただければと思います。
杉野先生は、教え子の皆様のご好意により、ブラジルのお墓で安眠しておられますね。しかし、杉野先生によって満洲に送り出された専門部拓殖科の先輩たちは、いまだ人知れず、満洲の曠野で白骨となって埋もれています。専門部7期生の東海林仲之介さんは、仲間がいまだ満洲で白骨を曝し続けているのに、自分だけ安穏と墓に納まるわけにはいかないとおっしゃり、「自分の骨は、決して墓に葬ってくれるな」と遺言されました。専門部拓殖科の先輩たちが杉野先生の罪責表明がポーズに過ぎなかったとおっしゃるのは、このような事実によっても歴然と示されています。
私は、杉野先生の博士論文が、みなさまの移住生活の力になったということを否定するつもりは微塵もありません。しかし、この論文の核になっているのは、「戦後大いに非難された日本の満洲移民政策も、政府や軍の方策こそ民族闘争史観に立つものと言えるが、現実に処女地を拓いて住んだ開拓者は、周辺の原住民から、その引き上げたもとの土地へ帰って一緒に百姓をしようではないかと懇請されていた。これらの事実は、満洲開拓の実際問題と取り組んでいた私が極めて度々知り得たことであり、民族闘争史観ではもはや説明のつかぬ現象が発生しつつあることを認識した動機でもある」という、学術的というにはほど遠い、個人的な体験、しかも引揚げ体験者から見れば一蹴されてしまうような妄想でした。専門部拓殖科の生還者の先輩たちが、杉野先生を偽善者だと糾弾するのは、慰霊祭を回顧するときには、自らを同級生たちを死に追いやった罪人だと認めながら、博士論文では自らが立案・実行した満洲移民政策を称揚している、このような二枚舌のためなのです。
農学史を専門とする京大の藤原辰史さんも杉野論文について「学的手段を踏んで、整理のつかない重い記憶を普遍化させる彼の試みは失敗に終わった。この果敢なチャレンジはいつも実践に重きを置いていた杉野しかできない荒技であった。そして、この不幸な結果は、過去の記憶をそのまま普遍的な語りに変換することの困難さを示している。杉野は、結局、みずからの学を「実学」だとすることで、実学を現実肯定の原理にすり変え、自分が若い学生を死に追いやった記憶と対峙できるような学の構築を断念し、そもそも土地を買収した現地住民に対して向き合うという発想すらせずに、個人的な感傷のなかへ逃避するしかできなかったのである」と評しています(『農の原理の史的研究』200ページ、創元社、2021年)。南米に移住した皆様にとって、杉野先生の論文が大きな力になったことは確かでしょう。しかし、この論文が、満洲の地に放置されている死者を冒涜するに等しいものであり、九死に一生を得て帰国された専門部拓殖科の先輩たちにとどめを刺すものであったことは、みなさんにも記憶しておいていただきたいと思います。
みなさまが私を糾弾され、東京農大の教員を辞任するよう運動されるのでしたら、それは私の不徳の致すところであり、身の処し方については、皆様の要望をお聞きしながら、専門部拓殖科の生還者の方々、拓友会の皆様、現役教員の同僚たち、そして現役の学生たちに、議論して決めていただこうと思います。
小塩海平
佐藤:駒井 明 様 また、小塩からのメールに、コメントを書くことに迷いつつあります。
しかし、名高い秀才で、何か国語も喋れる教授でも、一般常識を欠いている人物なのかと思います。彼は、駒井さんをして、真理を探る熱意に打たれたと言わしめたとしてもです。
今回のメールは、杉野と呼びつけはせず、少しは改めた書き方をしているとは思います。しかし、私には全く気持ちを動かされる内容などでは、ありませんでした。
私の文章では、全く表現力もなく、思ったことを駒井さんに届けらか分かりません。それに迷いつつも、書いてみます。
満州報国農場で帰らぬ人となった人たちのこと、世に知らせて欲しいと願っていた、生還者の二先輩方の気持ちに添えて、本書が喜ばれただろうことは、理解できます。戦友を殆ど失い、生還できた方々は、生き残っていて申し訳ない気持ちだと吐露されています。草木の中に朽ちてしまった戦友たち、遺骨も拾えず、無念を伝える方々の気持ちには涙します。
私共戦後に教育を受けた世代は、今次大戦の責任は日本の体制、軍部のなせるものと教えられてきました。
占領軍は、日本が物資欠乏の中でも、4年の長きを戦い続けたことを脅威とし、二度と戦えないように、日本人の精神的な弱体化を教育面より押し進めてきたのは事実です。そこから、自虐的な風潮や史観が蔓延していきました。
満蒙開拓は、食料、資源を確保し、ソ連の南進を防ぐ国策で、巨額を投じていました。 終戦時、満州から引き揚げできず、多くの犠牲者を出したことの悲劇は、当時の国策に関わり、推進した人々に責任を負わせるべきでしょうか。直接、悲劇を起こしたのはソ連兵、中共兵、盗賊たちです。
小塩は、杉野先生に関する文献を当たり、満蒙開拓への政策立案があり、本人が多くの人を亡くしたことに、自分の責任であるとの言葉を見て、責任を追及したいのでしょう。
当時、報国農場に直接関わって、その指導者として、植民者と生死を共にした方々が、拓殖学科で教鞭を一時執られていました。吉崎先生、那須先生、佐藤先生たちです。この先生たちには、いろいろな功績があります。例えば満州で豚の改良を行い、現在も続くプリマハムの祖を作ったり、八ヶ岳の経営伝習農場、八郎潟の干拓事業などにも貢献しています。
九死に一生を得て、生還したにも関わらず、杉野先生を恨んでいたことなどありません。
私の5期上のT先輩と、先ほど電話で話しました。メールはやっていませんが、奥様から小塩のメールを見ています。
あまりにも、バカバカしいのでコメントなども不要だと思っています。その先輩は、小塩と同じくクリスチャン(プロテスタント)です。先輩の明治学院の中学時代の生物の先生は、「満州物語」と綽名されていました。授業では、教科そっちのけで、満州時代のこと、引揚時の苦労についての話が多かったそうです。 その先生に、T先輩は、農大に入学した直後、偶然に駅で出会ったそうです。農大に入ったことを知ると、その先生はどの学科かと聞くので農業拓殖学科ですと答えたら、大声でそれは良いところに入ったと満面喜びで祝してくれたそうです。何故そんなに喜んでくれたのか、聞いたところ、その先生は、戦前の農大専門部拓殖3期生だったと話されたそうです。殆どの級友を満州で失っている方です。
農大はじめ戦前の学生は、学徒動員でも、多くの方たちが戦死されました。年端もゆかない少年も海兵、航空兵に志願し、英霊になった方々の多かった大戦でした。
指揮官として多くの部下を亡くした人たちには、黙して語らなかった方、自分を責める方、人様々でした。
しかし、今の我々がそれを裁けるのでしょうか。 生き残ったことに自分を責めた方々たちの、その後の生き方は様々です。 そして、生かされたことに使命感を得て、立派な業績を残された方々にも枚挙をかきません。
よく、不祥事が発覚すると、頭をこすりつけて謝る組織責任者の会見場面が、日本には見られます。異常です。小塩は、杉野先生が、満州で命を落とした方々の遺族に謝罪して回るべきだったと思っているようですが…
もし、当地の校友の声を聴けば、この小塩の寄越した文章に、誰も同意する者はいないと思います。
彼が、本心を露わにした、先のメールの最後に記した個所で、9期上のある先輩は、以下のような感想を寄越しています。
「私と足達さんは大学における出世コースを放棄」とあったが、おそらく自分達の高潔さ・偉大さを誇示したいがために書いたかもしれないが、少なくとも小生によっては全くの逆効果。研究に私情を挟まない純粋さで大先輩を断罪した教授にもはなはだ俗っぽい出世意識があったのかとメッキがはがれた感じ。あの一節は書くべきではなかった。
私は、人を糾弾できるような人物ではありません。こんなメールを記して恥ずかしいです。私など、後年でなくとも、現在でも非難を受ける過去だらけかと思います。ただ、母校の伝統、学科に恩恵を受けたことに感謝する者の一人として、この著者たちに惑わされていく方が出ないで欲しいと念じています。
佐藤卓司
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