【学移連ALL】 書籍「農学と戦争」(東京農大関連) その5(終わり) 早稲田OBの加藤さんからのお便りです。
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書籍「農学と戦争」に付いてのその5(終わり)をリリーズします。学移連ALLの管理運営者岡本さんから必要書き込み以外は控え、個人メールで交信するようにとの指示があり下火になりその後私の所に流れてきたのは50年!!メンバーの皆さんが中心となりやっと字数の1万語で収まりましたが、カリフォルニアの村さんの重要書き込み部分が掲載されていません。申し訳ありません。学移連ALLの主要メンバーである東京農大の農大会MLで討議されているようですが、我らが杉野先生への批判が話題になり著作者の小池海平先生の辞任問題にまで発展しましたが、40年!!ホームページとしては学内の問題に入ることなく無事その5を終了することができました。また写真は、ブラジリアの須貝さんのお宅の宝物?として日本出発の時に杉野先生から頂いた激励の色紙の写真を送って頂いていますのでそれを使わせて貰う事にしました。杉野先生に送り出された農大生は幸せですね。
加藤さんの話題提供、駒井さんのご尽力、小塩先生のご返信とそれに対する多くの皆さんのご発言を5回に渡り纏められたのは、幸いでした。欠落したご意見があればそれは私の見落としであり故意に選択したものではないのでお許しください。字数の関係で時系列が乱れており理解に苦しむことがあるかも知れませんがこれも私の不徳です。皆さんご協力有難う御座いました。 |
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松栄:東京農大OBとして みなさん 農大ネットの皆さん 私たち50のみなさん。
先日来、ネットメールを揺るがせているような・・・ 農大の開発学科先生による、学科創始者批判の出版本について、です。
杉野先生批判は、当然第4代学長千葉先生にももろに繋がりますし、ましてや大学の育ての親といわれる初代学長・横井時敬先生まで批判する、というのでしょうか。・・・(# ゚Д゚) よう分らんなー?・・・
歴史基盤のある大学に就職して、その大学学科のその基盤とは何なのか、115年も続く大学で、ポット出の自分の理論が正しい、という思い、前提がそこにあるのでしょう。
そこには、何か思い違い、もしくは思い上がり、が存在しているのでしょう。そう受け取っています。もしそういう異質な気持ちに気が付けば、本の販売を中止してほしいですね。私自身、そんなことを感じますので、もう一度農大を、農業拓殖を勉強しなおしてみよう思います。
「杉野忠夫博士遺稿集」と「拓殖に生涯を捧げた杉野忠夫先生を偲ぶ」という2冊子を, 先ほど持ってきました。これから再度確認しながら読んでみよう、と思います。
我々が卒業して後、現在から遡って30年もの時間、「学科創設者が間違っていた」 などという授業が続けられていた、としタラ、これはとても悲しいことです。
わたしたちのように海外雄飛を夢見て開発学科に入ってきた学生さんの、何十人、何百人の夢が台無しになってしまった訳ですから。( ある人は一生恨みに思うでしょう)
コーヒー栽培がやりたかった、果樹農場がやりたかった、ブラジルで大規模農業が夢だった、という方たちの夢をぶっ壊してしまっていた、これほどの不幸はなかった、と思います。
若者から、夢を奪ってしまった、・・・悲しい現実があります。ブラジル移住の先輩方200名(197名)の思いは・・・やるせないなー。。
ここ30年、誰一人我々農大移住者の後続がなかった、ということの理由が今頃、分かったような気がします、、、なぜバイオビジネス学科からしか、実習、研修の学生さんが来なかったのか、の原因みたいですね。
青年の夢を奪う、というような授業をしていた、というのであれば、なんとも言葉にできないものがあります。怒りも感じます。
東京農大、という学校をもう一度根本から、榎本釜次郎さんの目指したものは何だったのか、をもう一度全学の先生、学生さんに勉強しなおしてもらえないか、と考えるものです。 サンパウロ 拓殖14期 マツエ
丸木:丸木で~す 学者の世界も政財界同様に日本の国力の弱体化に伴い、おかしくなってます。学説が異なるのは大いに結構な事で、大いに議論されて然るべきと存じます。僕の母校の大阪府立大学なんかは来月に廃校になります。大阪市立大学に吸収合併され、英文ではメトロポリタン大学と称する地下鉄かスーパーマーケットの様な校名になるので、もはや母校とは言えず僕達卒業生は根無し草になってしまいます。経済学部の後輩の志賀はゴーン会長の右腕として、日産自動車を建て直した功労者です。ブラジル人の会長がレバノンに逃亡して飛ぶ鳥跡を濁さずの正反対の行動でしたが、逃げた本人よりは逃した法務省出入国管理局の怠慢です。総務省がラインや東北新社傘下の外資通信企業の営業認可し、日本の情報が外国に流失したり日本の国力の低下は目に余ります。1971年の財界誌に川又会長を糾弾した僕の寄稿が30年後に実現してゴーンが採用されたのですが、20年も居座った為に無残な最期になりましたが10年前に辞めておれば大勲位ものでした。立場が違えば見解も全く逆になりますが、日米戦争も日本がルーズベルトのだまし討ちにあったのですが、アメ公は未だにリメンバー パールハーバーと日本がだまし討ちしたと申します。
加藤:駒井 明様 この様なものを送られて迷惑千万です。前便で私が書きましたが、「小塩の返事は要らない」と、それは「彼の身のためだ」と。にも拘わらず、貴兄は小塩の御先棒を担いで事態を悪化させています。責任を取って下さい。小塩のこの謝罪は受け入れられません。貴兄はこの謝罪が皆さんに共感をもって受け入れられたと思いますか。もし、本心そう思っていたとしたら失礼ながら間抜けです。
小塩は、私・加藤が「杉野先生と面識がない、農大の卒業生でもない」から率直に(本音を)言い、農大OB等杉野先生の薫陶を受けた方々に転送されるとは思っていなかった?子供じみた言い訳で、今さら手のひらを返してお詫びすると? これは2枚舌、二重人格、ダブルスタンダードと言うかいよいよもって信用ならぬ人物です。私は学入連ALLに初めてこの件で意見を発信させていただいたとき、「学移連の指導者である杉野先生が糾弾されるということは、われわれのレーゾンデートルに関わることなので看過できない」と言いました。それに対する貴兄の返事は小塩を擁護する(乃至は杉野先生を疑問視する)意見だったので、私が反論したところ、横から突如小塩が割り込んできて「レーゾンデートルに関わるとのこと同意します」と言いつつ杉野先生への暴言を吐いてきたのです。いずれにしても杉野先生への罵詈雑言は取り返しが付きません。小塩の致命傷になる可能性があると私が前便で指摘したため、苦しい言い訳をしてきたのです。貴兄は「(小塩は)嘘偽りのない純朴で植物を愛する優しい気持ちの持ち主だということが解ります」?馬鹿を言って貰っては困ります。貴兄はOBの心を読めていません。ただ、杉野先生と言う人物を見直すことに興味を抱いて小塩に近づいて洗脳されたのです。
1 私が小塩を許すとすれば、小塩がすぐにも農大を直ちに辞職することです。小塩が周辺の意見を聞いて辞任を検討するという主張は辞める気が無いということです。辞任は自分で考えて身を処することです。なお、併せて我々が納得のいく謝罪文を公開し、農大OB、学移連OB会、杉野先生のご遺族等に対し正式に詫びを入れることです。
2 ところで、小塩は下記(赤字)のように書いてますが、皆さんベレンの佐藤卓司氏からお聞きの通り大事な部分が(緑字)カットされています。これは小塩が自分に都合に合わせて意図的に本を書いている証拠です。他も推して知るベしで著作物の内容は信用できません。のみならず「罪人」という杉野先生のお言葉(この場合は痛切なる反省・慙愧・後悔等の思いを指す)を「刑法上」の罪人とすり替え、先生が刑訴法上の自白をしたかのように解釈し、杉野先生を悪者に仕立てている悪意に満ちたやり方です。緑字の部分が重要です。これに多くの人が共感を得るはずです。小塩は不都合なのでこれを隠しています。研究者としてあるまじき態度です。小塩は弁解できないでしょう。
「副委員長の席を与えられ何か一言ご遺族の方々や、事をここまで推進された旧拓殖科の先輩各位、拓友会の皆様にご挨拶すべきでありましたが、一言云えば嗚咽し慟哭せざらんとするも能はぬ胸中、万感交々せまるものがあったので、人影にかくるる如く座にあったのであります。と申しますのは、この五十有余柱の英霊をしてその地上の勇姿を再び見るあたわざるに至らしめた罪人はかく云う自分であると云う自責の念がしきりに起きるからであります。「報国農場」と云う名を見た丈で、私は胸さく思がする」(『農大学報』第一巻第二号、1957年)
昭和32年5月11日に、「旧拓殖学科殉難学生の慰霊祭」が千葉三郎学長を祭主とし、杉野先生が副委員長となり、農大全学をあげて厳粛に行われています。杉野先生は、この慰霊祭にあてた思い
を、東京農業大学報第2号に載せています。その中で、満州開拓に尽くした悔恨、自責の念について、当然死すべき一命を不思議にのこされ、混乱の祖国にとどめられたことは、祖国再建のために、
開拓途上に倒れた同士の志をいつかはふたたび実現するために、一命をささげるべきだと思いなおしたとあります。
この思いが、農大拓殖学科の創設を引き受けて、学生の指導に心魂を込めた原動力なのです。
3 敗戦によって生じた満州引揚時の悲惨さは国の責任(引いては国民全体の責任)です。基本的には杉野先生個人とか農大の責任ではありません。最も責任を負うべきは日ソ中立条約を破って、昭和20年8月9日にソ満国境を踏みにじって満州在住の日本人を蹂躙したソ連(現ロシア)軍・兵士(囚人兵といわれている)の犯罪行為です。そのソ連(ロシア)の責任を追及することこそが第一にも拘わらず、「農学と戦争」では、その点について著者らはソ連の肩を持つような曖昧な態度をとっています。この本はその根本・根底のところをごまかしているのでマヤカシです。これも小塩は反論できないでしょう。本来は日本政府がロシアの責任を追及し、シベリア抑留の責任を取らせ、千島諸島を返還させるべきです。小塩ごときの発想には到底浮かんでこないでしょう。教授に値しない連中です。
4 戦争当時は国家も国民も生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれ最大限の努力をしていたのです。満洲報國農場もその中に位置付けられます。不幸にも敗戦となり、国破れ、満洲など外地の日本人は塗炭の苦しみに遭いました。かく言う私自身も満洲から5歳で引き揚げ、父を失い命からがらでした。悲惨な様は憶えています。数十万人の引揚者のなかで肉親を失いつつも祖国日本を恨む者は一人もいませんでした。早く故郷に帰りたいという一心で帰ってきたのです。その後も日本という国や戻ってきた職場、学校、上官等を恨む発想は一般にはありませんでした。国民が等しく耐えるしかなかったのです。日本が徐々に平和で豊かになり、若い人が戦前戦後のことを今の感覚で研究し、当時のことを指摘・指弾するのは間違っています。学徒出陣、神風特攻隊、沖縄戦、東京大空襲、広島・長崎原爆・・・、日本が全力を投じて散って今から思えば信じられない悲劇の数々です。小塩の親御さんも大変であったはずですが、日本の勝利のため全力を尽くされたはずです。歯を食いしばって生還した方々に根掘り葉掘り聞きだす手法を取ればいろいろな証言が飛び出し、驚かされる分けですが小塩らはその証言を集め、論じ、当時の同窓の関係者を攻め立てて飯を食っているのでそれを正論と思っている嘴の黄色い連中です。
5 杉野先生の「満洲報國農場」は詳しくは分かりませんが、そのお考えは間違いなく正しかったと思っています。博士論文も高い価値があるはずで当時の満州国の農政に多大な貢献をしたことは確実です。その証拠はそれが戦後のカナダ・北米・中南米での日本人移住の成功例に生きて今日に繋がっているからです。先生は敗戦で裏目に出たということを悔いているのであって、これを二枚舌と片付けることはやはり暴言で許せません。これで止めますが決して小塩を許しません。貴兄も同罪にならない様に自重願います。加藤仁紀
岡本:『このテーマでの論議をAllメールにて展開されるのはこの辺で打ち止め願います。
とういのは、「学移連Allメール」の本来あるべき機能を逸脱しているとの懸念の声も出ており、今後この論議は対話相手との個人メールにてお願いします。Allメール管理者としてのお願いです。よろしく。』(12:46配信)
加藤さんの今回の内容から、駒井や小塩先生への「誹謗中傷」に当たらないのでしょうか?付け加えると「恫喝」ともとれる内容に見えます。もし駒井や小塩先生に何かあった時にはどうするおつもりでしょうか?法律の事は解りませんが、紙上ではネット上の個人攻撃に対して裁判沙汰になっていると書かれています。
加藤さん如何お考えでしょうか?
駒井:岡本健一様 加藤仁紀様 【学移連ALL】管理者の岡本さんが下記警告を発して7時間後(20:12配信)に加藤さんは、ルールを無視して送り付ける行為は如何なものでしょうか?
岡本:和田さん 「農学と戦争」をめぐるメール交信は炎上気味となっていますので、「学移連Allメール」での発信は、この辺で打ち止めに願います。「学移連Allメール」の本来あるべき機能を逸脱しているとの懸念の声も出ておりますので、今後も必要であれば、関係者への個人メール宛てにてお願い致します。
和田:岡本さん 学移連ALLの管理運営ご苦労様です。農大会の皆さんの個人的な話題であることには、間違いないですが、我らの杉野先生が話題になっており加藤さんが提議された話題に学移連、私たちの50年!!の皆さんが呼応されて意見を出し合うことは、良いことだと判断します。その後のFLWも字数の限り続けてこの連載は、その5で終了させて頂きます。満蒙開拓、ブラジル移住何れも個人の人生の選択として自分で決めたものであり一人でも多くの同船者が自分が下した人生の選択に満足できる人生を送って呉れたことを望むのが40年!!ホームページの趣旨であり基本は,変える積りは御座いませんのでご了解ください。
須貝:駒井明 さん ブラジル国ブラジリア首都 須貝 です
小塩先生は、1966年静岡県生れ、東京農業大学農業拓殖学科卒業、専門は植物生理学教授です。私より15年も若く、”
駒井さん貴台は1951年生まれですか????今年は70歳ですか??? 駒井さん小塩に関す情報がまちがっていませんか???
それから、貴殿の小塩海平との仲介は加藤仁紀氏の許可なしの偶然の通信での小塩の返信での貢献で終わりにしてもらいたいです。貴殿は小塩海平の杉野忠夫博士先生に対する暴言の数々とは直接に関係ないようですし、ただ外野席で見物喝采しているようなので今後、東京農業大学農業拓殖学科とその後継、開発学科の死活の問題ですので関与しないようおねがいします。
添付は貴殿仲介のコメントではなく、小塩海平への直接コメント添付です。
1. 小塩海平へのコメント;
2.杉野忠夫先生のシキシ添付;
3.小生の墓地添付。
松栄:みなさん 杉野先生の残された遺稿集、の最後の論文で、いみじくも、今の学科の状況を60年も前に予想されていた、ということを知りました。
杉野先生の残された農業拓殖の意味、として「農業拓殖学の構造に関する研究」の最初の前提(緒言)として、以下の論理を述べられている。
先生が亡くなられたことから、その段階で先生が予想された流れが 農業拓殖学科を支配し始め結局、亡くなられて20年(30期)で農業拓殖学科
は終焉を迎えた、と思われます。
せんせいの理論を乗り越え、もっと強靭な農業拓殖の推進を図る学究が現れなかった、ということも原因の一つと考えられる。
先生のご他界が、あまりに突然で、先生に後継を作る時間が奪われてしまった、という事情もあったのかもしれないと思う、ところです。
杉野博士論文
農業拓殖学の構造に関する研究。
緒言 私は農業拓殖学科の教授として、研究者であるとともに、教育者として他日世界の未開発地域の開拓者として、或いはまた要開発地域の異民族の中へ進んで行く青年学徒の養成と言う二重の責任を負っている。東京農業大学の初代学長横井時敬博士は「農学栄えて農業衰う」と言われた。
農業拓殖学を学問として立派に独立させることの大切な事を忘れてはいないが、この学問研究に没頭している間に、学生は優れた学究になったが、誰も海外へ行くものがなくなったというようなことになったならば、建学の意味はなくなる。私はこのことを思ってもっぱら辺境開拓者養成の教育者たるべく努力した。
池田:皆様 皆様方のご意見読んでおりました。杉野忠夫先生の思考、目的、実践、手段、経過はどうであれ日本人と世界中の皆さんになんとかしてやりたい信念は尊いものがあります。
日大海外研究会OB日本大学農獣医学部農学科昭和42年に卒業後プリマハムで6年間働き1973年へ移住しました。1965年日本学生海外移住連盟の第六時南米実習調査団員としてブラジルで実習、この時自己再認、無力であることが分かった。
あの時まで学校で学び本を読んだり他の論文などまとめて知ったふり(一般の教師も実践不足で教えている方もいるだろう) そんなことは実社会で勝つにはあまり役に立たないことに気がついたのです。
卒業後直ぐ移住しないで日本で6年働き最先端の技術、北米の経営管理の特訓受けたそして漸く移住出来そうになりその準備(一年遅れで正社員入社時期遅れで昇進役に不満もある)
サンパウロ州ソロカバ市で事業準備したが一年で手持ち金に底がつき断念、下宿同居のブラジル人のお陰で南大河州最大の食肉加工会社で働くことが出来た、知ったふりしてはいたが市場の違いに気づきいちから学ばなければ開発も利益にも貢献することすら難しく実践また実践、失敗は成功のもと、遂に食肉会社では立派な最高級の品質管理研究室を設立、連邦大学(リオデジャネイロ、サンタマリア、ペロッタス、ウニカンピング) の食品化学科の四年生必修実習科目として1、2名の学生を受けて教えました。
自己の躍進と子供の教育もありみなさんご存知のペルジガン(Perdigão = Brasil Food)、次にパラナ州のバタボ本社 (Batavo)でも働き会社発展に協力、要約自分の移住目標のチャンスが来たのでニンニク調味料会社設立、働いた会社が率先して購入してくれたそして南三洲にある他の食肉会社、スーパーマケットにも販売した。
子供達はそれぞれの人生道を選んだので後継なしで自社を閉社しのんびり。
小生のほんの一例ですが農大拓殖学部開設当時の学長、杉野忠夫博士、後藤蓮一先生の教育と実践が伴ったこと受けた方々は成功と幸せが伴っているようです。
同期の眞砂睦、日下野吉武、山下亮、山添洋子、柳原國臣、大槻良志郎、引地正之さんたちは日本、外国社会への貢献、これも実証になります。
村松: 農大農業拓殖学科卒業OB/OG諸君、学生海外移住連盟OB/OG諸君の皆さんへお願い:
今般出版された「農学と戦争」の著者、小塩海平、足達太郎、両農大教授の故杉野忠夫元農大教授への叱咤、糾弾に杉野門下生として、国際農業開発学科の生徒諸君への教鞭をとる資格に欠けると判断し、直ちに農大から辞職を願いたい、杉野教授が国家事業での満蒙開拓の責任者となり、満州の地域や日本そして世界の食糧生産基地とならんとした事業が終戦を迎えソ連による参戦で満州に武力進行し、農大生を含め多くの犠牲者が出た事は歴史上に於ける国家事業として事実である、国家の事業としての反省を踏まえ、戦後農大に農業拓殖学科開設に当たり、杉野教授を知る多くの教育界知名人によって指名された。教授は満蒙開拓の反省を踏まえ世界人類に争いや戦争を無くすことは飢餓と貧困を無くす為の食糧生産であると結論し、開発途上国へ平和の農業指導大使を育て移住者として送りだす決心をし見事に多くの農大生を始め全国学生移住連盟(学移連)加盟大学卒業生を送り出し現地で大いに貢献され現在は2世、3世の時代に入っている。現在国際農業開発学科で教鞭をとっている二名の教授は場違いである、彼らの思想を持って教授される国際農業開発学科の生徒諸君にとっては悲劇である、何を反論しても先の返信の答えでは納得できず、直ちに辞職勧告できる以下の責任者に、我らの思いを届けようではありませんか:
宛先:東京農業大学理事長:大澤貫寿/東京農業大学学長:高野克己/東京農業大学交友会会長:萬歳 章
皆様の投稿を下記どしどしお寄せ下さる事を期待し、何方かが農大学長、理事長、校友会会長へ届けて欲しいと願う。
村松義夫(拓5期、Califorunia, USA 在住)
榎原:村松さん、皆さん 部外者が横から失礼します。
添付の資料は、加藤陽子(東大教授)の「満洲 記憶と歴史」(著者:山本有造)についての解説です。最後の方に、故杉野忠夫元農大教授について触れられています。ご参考までに、送付します。因みに、彼女は昨年任命拒否された「日本学術会議」から推薦された6名の一人です。「日本学術会議」の本性(中身)が想像出来ます。早速、「日本学術会議」は解体すべき組織です。
私は拓殖等に付いての知識は全くありませんが、拓殖は国家事業であると同時に、個人の夢の実現といったロマンでもあります。彼女のような頭でっかちの自称エリートと思っている人間には、こういうフロンティア精神は理解出ないのでしょう。こういう類いの教授に洗脳される今の学生は不幸ですね。
五十嵐:東京農業大学関係者各位へ 今回の著作「農学と戦争」はコロナ病の影響で当国の書店などには未着、小生は詳細を知るべくもないが、諸兄の書評には驚かされるばかりである。もしそのように「智仁愛」を兼ね備えた偉大な教育者であった杉野忠夫教授の業績を冒涜し、その死屍に鞭打つような著書などあってはならないことで、直ちに全国の書店より回収し焼却せねばならない。小生は当年95歳10か月、昭和19年の4月渋谷区常盤松の旧制大学予科に入学した。同じ校舎には旧制の専門部拓殖科もあり、元気いっぱいの拓殖科生徒と一緒に過ごした。杉野先生も顔を出しておられたと思う。その時の生徒や上級生が北満の地でソ連軍によって虐殺の犠牲となったと思うと、今ここ南米のサンパウロ市にあったも、懐旧と憤激の情にかられるものである。この書の著者たちは、私立大学の中でも比較的穏健な保守と云える学風が伝統の農大を卒業し、母校で教鞭をとっているというのに、かかる言説を弄するとは理解に苦しむ次第である。思うに彼らは小中高の生徒時代に左翼的な日教組の教師たちの影響を強く受け、反日、自虐的な思想の持ち主になっているとしか考えようがない。このように学風に反する教師は直ちに訓告 解任 あるいは免職されねばならない。彼らの云っていることは全くの見当違いで、農大生を虐殺した正犯人はほかならぬソビエト連邦のスターリンではないか。この悪魔のような男とその部下は中立の約を一方的に破り、満州国在住の無数の邦人を殺戮、極寒のシベリアでの連行強制労働を強いて命を奪った。この誤った告発書「農学と戦争」の著者二人は、架空ながら慰安婦強制連行を唱える韓国の実行力を反面教師として見習い、ソビエトの後継国ロシアのプーチン大統領に謝罪と反省と補償を要求したらよいのだ。私事だが小生も満州生まれ満州育ちだが、19歳の美貌の従妹がソ連兵に冒され.それを苦にしてその日に自殺、小生の妻の病身の母も終戦直後の労苦に耐えられず、引き上げ船上で死没、水葬された。五十嵐司(1950年 旧制学部農芸化学科卒、1955年よりサンパウロ市在住 香料技師 伯国農大会元会長 ブラジル日系熟年クラブ連合会前会長)On 29/03/29
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