南米開拓前線を行く。1 松栄 孝
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東京農大の拓殖学科を卒業されブラジルに移住して来られた松栄 孝さんは、最近話題なった杉野先生とは4年違いで直接教えを受けることが出来なかったそうですが、先生の死後55年経った今、先生の教えを辿って見たいとの強い想いで手元に在る「南米開拓前線を行く」を紐解き皆さんと一緒に杉野先生の教えを現代の時代に合わせて勉強して見たいとの事で手持ちの本を一字一字叩き直して50年!のメーリングリストに流して呉れています。この貴重な杉野先生の教えを是非このホームページに残して置きたいと思います。是非皆さんと一緒に勉強して見ようではないですか。写真は、松栄さんが送って呉れた在りし日の杉野先生です。
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南米開拓前線を行く
みなさん 2021年になった今、昭和時代に農大生や学移連の皆様を、海外(特にブラジル)に、夢、の実現を目指して、送り出された杉野先生のことを、もう一度見直す良い機会が、今ではないか、と考えました。
私と杉野先生は、4年の差で直接御指導を受けられなかったのですが、ブラジルにおられた多くの夢多き先輩方を魅了してしまった杉野先生、の分析研究、みたいな感じで(叱られそうですが)・・・、先生の残された遺稿集から辿ってみたい、と思います。
昭和40年6月29日に、急性心不全で亡くなられた杉野先生の遺稿集を、再度読むにつれて、杉野先生の感覚が、今我々、普通に生きて、先生の死後55年たった者、から考えても、先生が、どれほど先、を見てられたのか、には驚くばかりです。
昭和40年というと、1965年ですか、今から55年も前、既に現在2020年に起きていることを、確実に予言というか、推測されている、という文章の流れで、全くの驚きに値します。(アマゾンの現代の位置付け)
1966年に出版された、角田房子さんの、アマゾンの歌、では、アマゾンの苦しさ、過酷さの面から・・・大宅壮一さんの、「日本の明治を見たければ、ブラジルに行けばよい」と評された頃で、全く同じ時期に、杉野先生が書かれている内容との比較から見ても、格段の感じがしています。
検証方法としては、もう一昨年になりましたが、亡くなられた農大拓殖2期の麻生さんをアマゾンに送り出されたのが、1961年だったと思います。その段階(1960年代)から順序を追って、整然と読み、説明するのも1つの方法ですが。
今回は、新聞編集的に、超頭でっかち論法=最も述べたいことを最初の頭に持ってくる方法、で読み進むにつれて、そのデカ頭が少しづつ理解でき、内容が分かって行く、ような書き方、で進めてみたいと思います。
まず、杉野先生が初めてアマゾンを見られて、どのように感じられたかが、私の最も注目したいところで、そこを出発点とします。
今回、杉野先生批判が出て、杉野先生の遺稿集を再読してみて、再確認しようとするわけで、( ^ω^)・・・
いったい、この杉野先生の先見性とは何なんだ!と思いました。そんな部分から始めたい、と思います。すべて杉野先生の当時のお考えです。
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まず最初のレポート(小論文)として南米開拓前線を行く。
眠れる宝庫アマゾン アマゾンとは,どんなところかとよく聞かれる。そして緑の地獄だという人もあれば、世界の宝庫という人もありその評価がまったく相反するところに、アマゾンへ移住することを何か非常な冒険事業のように思う人が多いようである。
天国にせよ地獄にせよ、未知の世界に飛び込むことに、勇気が必要なことは言うまでもない。どんな医科学的な調査が行われ手に取るようにアマゾンの事情が明らかになっても、北半球の温帯に何万年という長い間、生活してきた日本人にとって、熱帯のジャングルを克服しようと仕事は、それこそ民族の勇者でなければできない仕事であると言って良かろう。しかし、それにしても研究すれば研究するほど、なぜ、今日までこにょうな宝庫が開発されないで、ほっておかれたのか不思議でならその人類詩的意史的意義のいかんを考えると、これこそが神にガ日本民族のために温存してくださっていた土地ではないかと、と叫びたくなるのである。
かって、マーシャル元帥が、「アマゾンを支配するものは世界を支配する」と言った言われている。また、人類を養うのは、アマゾンであるとも言われている。それはなぜであろうか。私はまず人類が食物や衣服を植物それを飼料とする動物生産によって得られること、すなわち農業が太陽と水と土壌を欠くことのできない要素として行っている状態が続く限り、不断に増加する人類を養うために、人類は絶えず耕地の拡大をはかり、あるいは技術の向上によって、定面積からの収量の増加を図ってゆかねばならないことは、これまた人類の宿命でもあろう。
こうした観点に立つとき、植物生産に最も有利な地帯が、熱帯地方であることは誰にでもわかることであろうが、熱帯にもいろいろあって、アフリカの砂漠は水が不十分で、当分問題にはならないし、人口の稠密な東南アジアでは、自分自身を養うことが先決問題の土地であり、結局、その広さににおいて申し分なく、緑の魔境とされている原始林に覆われているアマゾン地帯が、これからの人類の食糧基地となるわけである。それだのに、どうして今まで今まで未開の地として捨て置かれていたのか、という疑問がわいてくる。その答えはすこぶる簡単である。、それは白色人種の手に負えなかったし、原住民や黒色人種には生産力を向上させる知能が乏しかった。そこに日本人が足を踏み入れてから、まだ40年にしかならないからということも言える。しかし、アマゾンにとりついた日本人は、このわずか40年の間に、ふよう不屈、貴い先駆者の屍を乗り越えて、トメヤスにピメンタ王国を、、そして ビラ・アマゾニアにジュート王国を建設して、世にアマゾンの二大産業と言われる新産業を興したのである。
アメリカのフォードが放棄したポートランジャのゴム園を再興しつつあるのも日本人であれば、熱帯圏下に新鮮な温帯野菜の生産に成功しつつあるのも、また日本人である。広さにおいて日本の一三倍、約500万ヘイホーキロ、ブラジル全土の6割にあたるヨーロッパ全土は、すっぽりと収まる、とてつもない広がりを持ち、植物資源は言うまでもない広さを持ち、植物資源は言うまでもなく、地下資源は何が飛び出すかわからないが、石油も発見され始めたし、アマパにマンガンが発見されて、昭和33年から盛んに採掘されており、アルミ原鉱、鉄鉱石、すず、砂金、ウラニウム、岩塩、石膏などが続々と発見され始めた。
こうした鉱物資源の他に、本流だけでも5600kmの長さがあり、支流を合わせれば6万kmにも及び、水量の豊富なことは世界第一というアマゾン川が、至る所に水力電源開発に好条件を有するといわれるアマゾン川そのものが、大きな水運交通の大幹線である。 河口から1600km上流のマナウスまでは、8000トンの大洋通いの巨船が通れるので、世界経済に連なる工業地帯としての将来性もますます確実となってきつつある。
また、アマゾン川の魚族の豊富なことも有名である。
今では、アマゾン開発の癌と言われたマラリアも、第二次世界大戦中、熱帯作戦の為に米国がべレーンを基地としてマラリア予防と治療の研究をした副産物として、カモキンなどの特効薬の発見や、DDT散布や蚊の習性の習性の研究成果が実って、ほとんど絶滅に近くかかっても、風邪を引いた程度の被害で治るようになってきた。
また赤道直下とか、熱帯という言葉を聞いただけで、さぞかし熱いところだろうと想像していた私は、二月(アマゾンの夏の終わり)と、4月(アマゾンの秋の半ば)の2度の訪問の体験から、その快適さに驚いたものだ。日中は摂氏30度くらいに上がるが、風が吹いていて蒸し暑くなく、夕方からは、グッと気温が下がって朝まで摂氏22−23度くらい、これで快い睡眠がとれるわけである。
これが年中殆ど変わらないから、驚いてしまう。驚くのは私だけではない。熱帯気候の世界的権威のウイーン大学のハーン教授も、とくにパラ州の気候を、世界で最も良い気候の一つだ、という通説を裏書きして、「パラに戻ってくるたびに、いつも空気が驚くべき新鮮さと清澄さ、さらに私が未だ嘗て、世界中のどこにおいても遭遇したことのない、さわやかな、穏やかな夜に、心をうたれるのである」 と言っている。
こう書いてくると、現代の科学と企業化された技術とが、いつまでもこの世界の宝庫をそのままにしておくはずがないことが良くわかる。現に米国の資本が鉱業開発に投資されつつある。白色人社にはアマゾン開発は、手に負えなかったということが、今日以降もそうであるかは問題である。しかし今や大きく全世界の前にその姿を現し始めたアマゾンの資源が、何人によって開発されようとも、その農業的という点に関しては、恐らく日本民族の独壇場ではなかろうかと思う。それはどうしてであろうか。私がこの確信に至ったのは、ただアマゾンを見ただけではない。それにはブラジルにおける日本人の農業上の輝かしい成功を語らなければならない。
昭和 34年(1959年)11月20日
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小文ですが、ここまで打ち込むのに苦労しました。どなたか、メールに添付して送れるような本の文章をPCに取り込むソフトをお持ちでしたら、是非お願いします。マツエ
和田:松栄さん 良い企画を思い付きましたね。是非40年!!ホームページにも残して置きたい企画です。南米開拓前線を行く。1をWordで保存しました。
総数3533字ですのでその2が出てから纏めてホームページに残すことにします。付いては、文章を叩くのは、大変だと思いますが宜しく作業下さい。それと杉野先生の遺稿の表紙か文中の適当な写真を選び送っていただけませんか?写真が無ければホームページ、BLOGにも転載不可能になります。
宜しくお願いします。
和田さん みなさん ご賛同、感謝します。ありがとうございます。
杉野先生から麻生さん、その残された流れ、をどのように繋げてゆくか、あれこれ、いろいろ考えています。
杉野先生が送り出された100人余りの農大開拓青年と、同時に送り出された学生移住連盟(学移連)の皆様方の生き方と精神が、「杉野先生の書かれた論文そのものだ」というご意見をお聞きして 「その通りだなー」 と実感しました。
今、いろいろ考えているのですが、何故かしら杉野先生の理論を知らぬ顔して実践されたのが、母校農大の松田理事長兼学長の生き方、人生だったのかもしれない、と今頃気が付きました。このことは後程、とさせていただき。(いろいろありますので)杉野先生の遺稿集の最後に、遺稿集を編纂された京都大学の
大槻正雄先生が、編集後記の最後に「同君(杉野先生)の拓殖学に対する理論であり、主張であり、且つ抱負でもある学位論文は特別に載せた」という一言があって、杉野先生の集大成(学位論文)「農業拓殖学の構造に関する研究」を、誰でも読める形で残してくれています。
しかし、この遺稿集は非売品で(明記してある)、少数しか発行されていないと思います、また、もう60年以上前の本ですからなかなか読める機会もありません。
論評させて頂きながら、まず博士論文原文をすべてここで書き改めて掲載させていただき、皆様に読んでいただける形にできないか、と考えています。
その後に、いろいろ杉野先生の考え方や生き方、戦後移住者の我々の経験したこと、などに繋げて、展開出来ればと思います。
本を1冊、339ページぎっしり丸書き写す作業はかなりですが。
再確認の意味と、凡そ平成元年(1989年頃)を境に、日本からのブラジル移民が終わって、それから30年、令和に入って、日本から来た我々日本人移民一世が、今、終わろうとする時代、になってきました。
そんな時代の、何かの記念になれば、と考えながら、ゆっくりぶーらぶーら、という感じで気負わない感じで、進めさせていただければ、と考えています。
サンパウロ マツエ
南米開拓前線を行く 2 論文
みなさん
昭和28年頃から再開されたブラジル移住、ここに焦点を合わせ、終戦後の疲弊した時代に、青年に夢を与え、理論的に学生移住(学移連)の指導、教育、をされ、同時に東京農大学生のブラジル移住の推進役、を務められた杉野先生の、農業拓殖学理論を少しづつ打ち込ませていただきます。
第一章から第三章で、詳しく解説され、結論で締めくくられています。
最初に、目次を入れておきます。第一章から順に進めてゆきます。
時間がかかりそうですが、全文打ち込めた段階で全文をまとめてみたいと思っています。
サンパウロ マツエ (2021・4・9日第一回)
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杉野博士論文
「農業拓殖学の構造に関する研究」
緒言
私は農業拓殖学科の教授として、研究者であるとともに、教育者として他日世界の未開発地域の開拓者として、或いはまた要開発地域の異民族の中へ進んで行く青年学徒の養成と言う二重の責任を負っている。東京農業大学の初代学長横井時敬博士は「農学栄えて農業衰う」と言われた。
農業拓殖学を学問として立派に独立させることの大切な事を忘れてはいないが、この学問研究に没頭している間に、学生は優れた学究になったが、誰も海外へ行くものがなくなったというようなことになったならば、建学の意味はなくなる。私はこのことを思ってもっぱら辺境開拓者養成の教育者たるべく努力した。
この論文に先行する二著は学術論文というよりも、教育論的色彩が強かったのも、そうした私の心境を反映したものである。しかし学生は知識人である。彼を行動人として動かすものは理性だけではないが、理性で割り切れるかぎりは科学的合理主義で貫かれた理論を要求する。農業拓殖学の教育上もしっかりした科学的なものの考え方の教育が大切な事は言うまでもない。
理論の確立が教育者の立場からもなされねばならぬのである この論文を書くことはその意味で、教育者としても必要な仕事であると思って書いた。しかし同時に新しい科学の独立宣言の仕事が非常に困難なだけに、一つの先駆的試作品にするに過ぎないことをお断りしておく。これによってさらに一層この学問が前進することを希ってやまないものである。
目次
第一章 学論研究の序章
第一節 学論提起の理由
第二節 用語及び訳語に関して
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第一節 農業拓殖学の定義と研究対象
第二節 農業拓殖学の性格、所属及び研究範囲
第三節 農業拓殖学の体系と原論の地位及び構造
第四節 原論の当面する理論的課題
第一款 農産物過剰生産論に対する批判
第二款 現代における植民地主義の批判
第三款 歴史観の批判
第三章 農業拓殖学ならびに原論の研究方法
第一節 学論構造上研究方法論の意義
第二節 歴史的研究方法
第三節 内省的研究方法
第四節 統合主義的社会学的研究方法
第五節 実証的研究方法
結論
和田:松栄さん 作業を始められましたね。急ぐことはありませんので時間を見つけてのんびりと楽しみながら作業を続けて下さい。
写真見つかりましたか?これも宜しくご配慮下さい。現在5767字、もう少し字数があるようです。1万語の達したらHPに掲載します。
今後が楽しみです。浅海さんが本を写し取るのに苦労されましたが、本を写真に撮りWORDに書き換えるソフトをお持ちなのではないかと思いますのでお尋ねされたらどうですか?随分助かると思いますよ。。。
南米開拓前線を行く 3
みなさん 杉野先生の学位論文にとりかかったのですが、難しいものですね。意味を解してゆかないと、文章の流れが読めない。そんな感じで、混乱してしまいます。慣れれば、もう少し楽になるのでしょうが、簡単に書かれてる? その意味が、むつかしい。
参考文献が、橋本伝左衛門氏、野口弥吉氏、田辺元氏、新渡戸稲造氏、東畑誠一氏、矢内原忠雄氏、各先生方の移民学論や農学原論などなどで、この方たちの論文を普段にこなせる能力がないと、分かり辛いので、困ります。
第一章 学論研究の序説
第一節 学論提起の理由
農業拓殖という名の学問は、未だ日本学術会議の各科学部門の中にも見出せぬし、全国600有余の長期、短期の各大学の講義名の中にも未だに見当たらぬ。しかし、それに類する名は若干ある。それは拓殖学という名の講座が1954年に国立宇都宮大学の農学科の中に設けられたのが、国立大学の唯一の例であろう。また、拓殖大学には拓殖学部或いは拓殖学科はなく、短期大学部に農村経済科がある。又、1962年になって日本大学農獣医学部に柘植学科が新設された。それで結局、農業拓殖学科と言う独立の学科を持っているのは、独り東京農業大学あるのみである、というのが現状であり、その学科は昭和31年(1956年)より開設され、既に満8年を経過しているのである。私はその学科開設に当たり専任教授として招かれ、その職を汚して8年の星霜を閲した。当初招かれた時、初めて学会に農業拓殖学の名を冠する学科の専任教授たる以上、農業拓殖とは如何なる学問であるかという質問に答える義務があると考えた。否、すでに存在するものであるなら、「如何なる学問である」と言い得るかも知れぬが、実はこれから生んでゆかねばならぬほど、生々しい場合であるから、「如何なる学問であらねばならぬか」ということを学問的に明らかにする必要がある、と考えた。農業拓殖学の学論的研究とはつまりこのような意味なのである。
即ち、農業拓殖学は何をどのように研究しようとするのか、その研究対象研究方法、研究目的、そしてその成果をどのように体系つけることによって、科学の名にふさわしい知識体系とするのかという問題に答える一連の研究が学論なのである。学問論と言っても良いのである。換言すればそのような任務を研究するが学問は、しばしば他の学科においては原論の名の下に研究され講述されることから言って、農業拓殖学原論と言って表現もできるので、あろう。何故この論文を農業拓殖原論としなかったかというと、この論文は、私の構想する原論全体の研究発表の一部分に執筆を制約したからである。理由はほかでもない。
次々と研究の進行に伴って内容の充実に欲が出て、完成に至るになお日時を必要とする事と、それにしても、この学問論によって他の多くの人々の研究や批判を得る事によって、農業拓殖学の発達を期することの有意義なるを思い、原論研究をその構造論、即ち、原論は何を研究するべきかという問題、その内容の骨組みを研究した部分の発表に留めたからである。 (つづく)
和田:松栄さん 愈々杉野先生の論文と格闘しながら皆さんへ杉野先生の生の声を伝える貴重な作業を始められましたね。のんびりゆっくり味わいながらFLWして行きますので最後まで頑張って下さい。その3で7246字もう次で40年!!ホームページに第1回を掲載することになります。お願いしている写真みつかりませんか?無いなら無いとご返信下さい。こちらで探して見ます。作業続行だけは続けて下さい。
和田さん みなさん お世話になります。
先日、この本の表紙と、1枚だけ挿入されている在りし日の杉野先生の教室での写真を撮っています。
次回の投稿に添付させていただきます。ご手数を煩わせまして申し訳ありません。よろしくお願いします。サンパウロ マツエ
和田さん お世話になり、ご足労おかけします。遺稿集にあった写真の写真です。今後、杉野先生や学科に関係した写真を探してみます。
さしあたって1枚。よろしくお願いします。 マツエ
和田:松栄さん 杉野先生の遺影有難う。どんな形で先生の遺稿集が残っているのかお手持ちの本の表紙にも興味があります。先生の遺稿集は、何回か続くと思いますので関係写真を探して下さるとの事、松栄さんの農大生時代の授業中の写真でも良いですね。宜しくお願いします。今回で9千字弱になりましたので第1回をリリーズすることにします。松栄さんの作業が大変だと思いますが、皆さんのご意見等も記載しながら杉野論文を松栄さんと共に追って行きたいと思いますので宜しくお願いします。今回は、杉野先生の難しい論文だけを追うのでなくこうした会話も入れながら本文が読めるように忠実に追って行きたいと思います。
南米開拓前線を行く 4
みなさん 私が農大の農業拓殖学科に入れて戴いた1969年は、先生が亡くなられて4年が経っていました。
入学当時、かなり年上の先輩から「杉野理論」 という言葉を良く聞いたのですが、それが何なのか分からなかった、という、訳の分からない記憶があります。
多分ですが、その意味は、杉野先生から聞かなければ理解できなかったのかもしれないなー、と思います。
ブラジルに来て、一度読んでみて(流し読みだった)ここでも良く分からなかったですが、今頃・・・杉野先生が如何に日々努力されていたか、が分かってきた感じがしています。 サンパウロ マツエ
ここから4月12日
私はそのような理由で自ら進んで農業拓殖学原論の科目設置の必要性を主張し、その研究と講義を担当して今日に至ったのである。この論文は、この間における研究成果の一部であるが、農業拓殖学が如何なる意味において科学たり得、如何なる性格を有するか、何に 答えんとするかと言う、その存立の根本問題を中心に論述する事にした。
このような研究を農業の分野で行われている場合、農学原論或は農学概論の名を冠している。たとえばその最近の著作では、京都大学農学部の柏祐賢教授の農学原論がある。教授は、農学原論は農学が如何なる根拠によって、必然的普遍的な客観的認識たり得るかを研究する学問であるとし、批判哲学の意味における農学の哲学とされている。
京都大学において農学原論の講座の開設されたのは1952年であるが、これに先立って農学概論の講義が開設されたのは1944年で橋本伝左衛門博士が担当され、クルチモウスキーのpiphilosophie der landwirtschaftslehre を農学原論と題して、訳出出版されたのは1931年である。野口弥吉博士が農学概論を公にされたのは1948年である。概論と原論との文学的表現の差はあるけれども、田辺元博士の科学概論によれば、科学概論はphilosophy of seience , philosophic der wissensehaft の訳語であるとされている。科学概論を博士は個々の特殊科学に限らず、諸科学一般に共通する心理を研究する学問は、個々の科学ならざる哲学の立場からのみなされているとされされるために、科学の哲学であるとされた訳である。クルチモウスキーが彼の著述に農学の哲学なる名をつけたのは、哲学は die wissenschaft von den prinzipien 即ち原理の科学であり、農学の原理原則(クルチモウスキーはこれを die prinzipiellen grundlagen der landwirtschaftslehre と表現している) をのべる研究を農学の哲学とするのであるとその書の緒論に述べている。 (つづく) (2021・4月12日
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