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南米開拓前線を行く。その2 松栄 孝
南米開拓前線を行く その2です。松栄さんは、まるで写経をしているような気持ちで杉野先生の遺稿を叩いているそうですが、じっくりと一字、一字噛みしめながらの作業に頭が下がります。先生の教えだけでなく松栄さんの苦労をしながらの独り言がまた面白くて貴重な書き込みになっています。今回はカリフォルニアの村松さんから杉野先生の詳しい明治、大正、昭和を通じての履歴と貴重な写真3枚を送って頂いていますので今後使用させて頂くことにしました。その2は、松栄さんの原本になっている杉野先生の遺稿集の表紙を送って頂いているので使用したいと思います。松栄さん写経が大変ですがどうぞ続けて下さい。


和田さん  松栄です。 お世話になります。本の表紙を添付します。昨日。サイズ変更したはずが。上手くいってなくて、送れませんでした。御手数おかけしました。

南米開拓前線を行く。5 みなさん 今朝、夢を見ました。早朝の夢は、何かにメモしておかないと時間がたつと忘れてしまったり、何だったのか、と思うことがあって、今朝も早速、眠たい目をこすりながら、パソコンに打ち込みました。
朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。(朝に人がどう生きるべきかを悟ることができれば、夕方に死んだとしても後悔はないということ。)
パソコン打ちながら、この諺が一瞬頭に浮かんで、孔子の論語だったと思い、メモしました。(解説は後で調べました)
美学の追求だった、杉野先生の生き方。本当の美を知る者は、ぶれないし、生き方もその美学があれば、一人で追及して生きて行ける。そんな美学、生き方を教えたのが、杉野先生だった。
先生の教えを受けて、何が人生なのかの深い部分を理解できれば、新天地でも、生きてゆくことが怖くなくなる、のかもしれない。
ヨーロッパ人たちは、ずっと昔からそれを知っていて、自分の生き方を求めるために、新天地移民に加わって自分を探してゆく生き方をしていること、に先生は気が付かれていた。
日本人にも、そんな生き方ができるはずだ、という先生の論拠のもとに、満州に学生を送りたし、戦後南米に、学生に夢を持たせて、送り出された。
少なくとも杉野先生は、そのことを、生き方としての農業=農業の中に哲学、を見出されたのだろうと、考えられる。
柏先生の農学原論、それ以前の橋本先生のクルチモウスキーの理論から導き出された理論を、京都大学農学部の流れが、それを哲学として考え始めた。のかもしれない。
何が、本当の物、であるかを探求するのが学問かも知れないと考えたとき、思い当たることがある。それは、本当の美が何であるか、に気が付いている人、にしか見えないのかもしれない、そんな世界となる・・・
ヨーロッパの人達が、なぜ日本の文化に憧れたか?焼きものであれば、有田、伊万里の磁器の組成を知りたかった、という意識があって、それで江戸時代、明治の時代に、ヨーロッパ人がそれらを買いあさって、その組成や技術、すべての物を得るために、莫大な金を使った。
それらを自国に持ち帰って、言語に尽くせない研究、苦労の末、マイセンであるとか、コペンハーゲンなどなどの逸品を作ることに成功した。
これはヨーロッパ人は、その美学で世界の富を独占できること、を知っていたからだろう。そういう流れがヨーロッパに存在している。
絵の世界でも、素晴らしい技術と美的感覚に満ちた浮世絵を買いあさって持ちかえり、それをヒントにヨーロッパ人の優れた絵描きさんが現れ、素晴らしい絵を残されている、が、これとて日本からの発祥、伝達と言える。
振り返って、農学にもそういう、人がまねできない生き方を追及する、そしてそれを習得出来たら、どこに行ってどんな環境であっても、そこを改善しながら、生き方(農業)の美、を追求できるのではないか、と・・・
アマゾンの熱帯ジャングルの中でも、自分の生き方を追及して行ける人間であれば、それがができるわけだ。
杉野先生の講義を、他大学からも聞きに来ていた学生さんが大勢おられた、というのも、そこを知りたい人たち(学生さん)がイッパイおられたからだろう、と思う。そういう生き方、ができた当時の日本だったのではないか、と思う。
そんな流れが、昭和45年? 頃から崩れ始めたのではないだろうか。本当の美が分からない、真理が分からない人たち、を作り始めて(歪んだ教育)、それが現在まで続いてきたのだろう。(政治も経済も、警察検察、大学までも全て)
それから50年が経った現在まで、そんな流れが続いてしまっている。それが現在の日本なのかもしれない。そんなことを杉野先生が言ってられるのかもしれません。
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南米開拓前線を行く 5
第一章 学論研究の序説
 第一節 学論提起の理由
ーーーーーーーーーーーーーーーーここから4月13日記述(昨日の続きですーー
  我が国における類書の濫觴(らんしょうとは==物事の起こり。始まり。起源)と思えるのは新渡戸稲造博士の農業本論であろう。その本の出たのは明治31年(1898年)である。これは札幌農学校における博士の農学総論の講義の素材ということである。 題名は仮称の由であって、その内容を読めば農業の定義、農学の範囲、分類、農業の社会的特質等。今日の農学原論の研究対象に一致する部分を含んでいる。総論と言い、概論と言い、原論と言っても、その内容から言えば田辺元博士の説に従って哲学と言ってよいかもしれぬ。しかし哲学そのものが、今日では頗る多義であり、、如何なる意味にこれを用いるかによって、かえって混乱する恐れがないでもない。クルチモゥスキーが、農学の原理的基礎の研究を。農学の哲学と題するときかくのごとき概念が従来全く用いられなく耳慣れぬ名称であることを断っている位であるから、私は、今農業拓殖学の学問論に当たって矢張りこれを農業拓殖原論と題し、農業拓殖学の哲学とは岩に事とした。哲学は科学の科学ともいわれ、神学や形ジュ上学と区別されているから原論を態態哲学と言わなくても、その科学の根本的問題の研究の意味で、農業
拓殖学原論は農業拓殖学の哲学的研究であるち言ってもよいであろうが、私は原論が掛かる哲学的研究のほかに、この学問の研究対象たる、農業拓殖活動とは何か、その本質を尋ねその全体の統一把握をもこの原論の対象とすべきではないかと考える意味からも、哲学的研究に終始することをもって、足れりとせず、かくのごとき研究は原論と題するが適当としたのである。概論とか汎論とか総論とか表現されるも内容的には、異ならぬならぬと思う。(つつく)
    2021年4月13日記入

みなさん 杉野先生論文 昨日の続きです。
南米開拓前線を行く 6
第一章 学論研究の序説
第一節 学論提起の理由
ーーーーーここから4月14日記述(昨日の続きですーー
私が、東京農業大学の農業拓殖学科創設に当たって、農業拓殖原論と題する学科目を主張したのは考えてみると、京都帝国大学の大学院生たりし時に、橋本博士からクルチモゥスキーの農学の哲学をテキストとしてのゼミナールに出ていた事が、原論の名を用いるに至ったのかもしれない。そうでなければ、農業拓殖学汎論とか或は単に農業拓殖概論とか言っていたかもしれない。農業拓殖学原論はかくの如くして農業拓殖学なる学問の学問論を先ず展開せねばならぬのであるが、この節下において学論の提起する理由はかかる純理上の要求よりも更に具体的現実的理由がある。それは、前述した農学の世界における農学とは何かという問題に答えるべき農学原論が要求される時代的な歴史的社会的原因以上に具体的現実的理由があるのである。それには幾多の理由がある。
 それは後に述べるように、農業拓殖学の直接の前身的母胎とも言うべき植民学の時代が尾を引いている議論で、植民学自体が学門に非らず、科学に非らずとされており、更に農業拓殖が学問の名乗りを上げ、多くの学科目をもって組織して、独立の学科を編成すると、農業拓殖学は学問にあらず、農学に属する諸学科を持って足れりとするが故に、農業拓殖学科そのものも必要なしとの議論が出るからである。海外に出て農業を経営し、農業の技術者として活動する学生が、従来の農学の学生の中から排出しさえすれば、農業拓殖学科を作る必要がないではないかという議論さえあった。このような議論は東京農業大学に初めて農業拓殖学科を増設する時に文部省の審議会でもあったという事である。
 このような日本の社会情勢の中で、一旦目を世界に向けてみると、これからの世界全体特に世界の政治経済の発展の動向は、熱帯、亜熱帯に広く存在する要開発地帯の農業拓殖活動の成否にかかわる所が頗る大であり、農業拓殖活動の準則を明らかにすべき科学の必要の大なる事を見るのである。そしてそれは農業の技術学を養分とせねばならぬことは勿論であるが、国際政治、経済の知識から、異民族の風俗習慣に至るまで、又、農業経営学や農村社会学に至るまで、社会科学系列の諸学から養分を吸収して、一大体系的知識と技術とを習得せねばならぬのであって、農業技術の要素たる農学の研究及び学習をもって足れりとせぬことが余りのも明瞭なのである。このような言わば大きな社会的歴史的な世界的人類的要求を背景とし乍らも、甚だ狭い鎖国的な空気のある時に、強く、農業拓殖学を確立するためには、どうしても学論の展開をする必要があると思うのである。学論提起にかく如き
理論上並びに、実際上の必要に基づくものである。新しき学問や学科独立の創業の難はいつの時代にも、経験されたことで珍しくはない。農業拓殖学農業拓殖学科もその例外ではないのである。他日この論文が歴史的な資料になるかもしれない。(つづく)
  2021年4月14日記述
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みなさん 杉野先生の論文を、再度書き換えさせていただいているのですが、こういう作業は経験がなく、不手際が多くご迷惑をおかけします。
以下は今日の論評としてです。
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ベレンの佐藤さん(拓殖11期)から、励ましのメールを頂きご返事を、と思っている矢先、7期ご卒業の前田さんから先輩が学生当時の、杉野先生の授業の雰囲気を知らせて頂くメールが届きました。
そして新たに、佐藤さんから。杉野先生の奥様が書かれた追悼の辞、も添付していただきました、
そんな先輩からのメールを、前田さん、佐藤さん、のご了解なく勝手にお借りして、添付させていただきたいと思いました。
前田さん、佐藤さん、申し訳ありません。ご了解お願いします。
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拓殖7期 前田です。佐藤さんの送付された追悼文の再送分はとても読みやすくなっています。
私は拓殖の7期ですから、杉野先生が逝去された年に4年次でした。
拓殖学言論の講義は入学時の1年次に第8講まで教室で受講しました。(講義中筆記したノートは現在手元にして、この文を書いております)。後の9〜10講は手元ノートは空白。第11講から第20講まではガリ版印刷(B4わら半紙)の講義録でした。杉野先生の手になる原稿の写しです。現在は黄色く変色していますが、良く読めます。
杉野先生の拓殖学言論の論文は、小生が1〜2年(?)のころに「農大輯報」に連載されており、私は熱帯植産研究室にあった栗田先生の本を借用して、万年筆で書写して、保存していました。今それはどこかに紛れて見当たりません。
杉野先生の農業拓殖学言論「開講の辞」:「言論以前の問題について」が第1講です。先ず今ノートを前にして当時の先生の姿が浮かびます。第2講は「世界に活動すべき人材養成の中心的方向性」:「全世界から至宝として招かれる農業拓殖人の養成」、第3講欠落? 第4講「農業拓殖人の人間像」、第5講「農業拓殖学とは如何なる学問か」・・・・・・と続きました。
このように先生の講義を聴いて、実に大学に入学したのだな!と感じました。とにかく先生の論理的で、自分等の将来が夢に溢れていると実感できる言葉に接していると、当時若かった自分が、如何に先生の言葉に刺激され、奮い立たされたかと、その当時を思い出します。
佐藤さん、皆さんが、その活動の指針とされて来られた杉野先生の考えを学び直そうとされることは、温故知新、須貝さんも書いておられた、蛇のように変身する(蛇は抜け殻を脱いで新しい自分となるが、人間も知ること、研鑽をすることで、随時新しくなる・・・仏陀の教え。詳しくは中村元訳suttanipata 蛇の章)。大いに研鑽されることを期待いたします。
拓7期 前田昭男拝
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杉野先生奥様、千代夫人の追悼文に、以下の一節があります。
求めて進んだ道とは云え、若い時から晩年に至るまで、イバラの道を突進、そのため持病の発作は数知れず、難関を突破して軌道にのせては楽しんでいましたが、その割合いに報われる事の少くない損な立場に、私は何となく気の毒に感じ、知らず知らずの内に慰めの言葉が出ましたが、返って忠告されました。
「報わる事を考えて最初からしているのではなく、神仏に堂々と報告の出来る仕事を希望してやっている。人が何とカゲ口云ったとてくよくよ気にかけるケチな根性では駄目だ心は大きく持つもの」と教えました。私欲のない珍しい人、深い信仰があればこそです。人の目はごまかせるが、神の目はごまかせないと、よく言いながら…… 自分自身はその言葉を心の糧として生涯守り続けていたようです。

和田:松栄さん 杉野先生の遺作を残す作業に毎日苦闘しておられますね。ご苦労さんです。これだけは完成させて下さい。佐藤さん、前田さんのお便りも一緒に収録する形を取っており、杉野先生の残された遺稿、当時の授業内容が伺われて一遍の書き写しでなく杉野先生の遺稿が生き生きとしてきます。松栄さんの一番良いと思われる方法で続けて下さい。全文を一つに纏めて行きます。重複するかも知れませんが松栄連載を40年!!掲載時に学移連ALLにも流すようにします。農大生以外に杉野先生の感化を受けてブラジルに来られた学移連関係者の意見も寄せられるかも知れませんね。第2回も5千字をこえました。字数は、気にしないで結構です。当方で適当な所で切って纏めて40年!!に掲載させて貰います。

みなさん おはようございます。
今朝起きたら、和田さんからメールをいただいていました。杉野先生の論文を書き写すことが、これほど重いこととは分からなかったのですが、何か真剣に 写経している感じで一字一字に意味があるようで、物凄い展開をしてくれるのでヘトヘトです。
満州の辛さ、農業の辛さを知ってられる先生が、茂原に開校された農業拓殖学科に集まった学生さんに、毎日毎日穴掘りさせて、杉野土建組、と言われていた意味、が分かるような思いです。
自分の前に広がる未開の土地を開拓して行くことの辛さ、そんな中に農業の素晴らしさを見つけることの重要性を知ってられたのだ、と思います。
そんなことを思いながら、写経の真似のような感じで、次は何が出てくるか、を楽しみながら進めてゆきたいと思っています。
サンパウロ マツエ
ーーーーーここから4月15日記述(昨日の続きですーー
  そこで、農業拓殖学の学論くわしくは学問論提起の利用の1つとして、その直接的前身たる母胎の植民学自身が、独立の科学として認められないままに農業拓殖学に引き継がれていると述べたことについて、ここに農業拓殖学の系譜論を展開する必要を思うのである。これは他日農業拓殖学原論として完成させる著述の第二部をなすべきもので(第一部は哲学的研究にあてられるであろう)、斯学の系譜的研究の部分に相当する。これは柏博士の著書においても、クルチモゥスキーの著書においても、野口博士の著書においても農学の歴史的研究が包括されているが、農業拓殖学の場合これから生まれようという立場にあるだけに、その前史の研究は非常に重要である。 特に学問としての独立が否定され続けたという事は、特に重要である。それで、私はこの場合学史的研究全体には筆を運ばず、最も近いところに焦点を合わせた。それは、私が直接植民政策の講義を受けた矢内原忠雄博士の所謂矢内原植民学(仮称)及び矢内原植民学の直接の師匠たる新渡戸稲造博士の新渡戸植民学、及び矢内原博士の後、東京帝国大学経済学部で植民政策を講義された東畑誠一博士の所論を追求することに限定した。
 戦中、終戦前の東京帝国大学で植民政策を講じられた東畑誠一博士は現在アジア経済研究所を主宰され、要開発地域にある所謂後進国の開発に関する研究集団の長として現存されておられるが、昭和16年(1941年)の大日本柘植学会年報に寄せられた「我が国における植民学の展望」なる一文(これは当時の慶應義塾大学の山本登教授との共同論文であるがその理論の部は東畑博士の手に成る事は博士自身より直接承った所である)程、当時の所謂植民学の発展段階を痛烈に批判した論文は他に見当たらなぬ位である。その論文以来二十余年の才月が経ち、社会情勢も変わった。博士が今日アジア経済研究所を主宰されて、後進国開発の理論と実際理論と実際を研究する若き俊秀を講義されつつあり、その成果を貫いて東畑植民学が生まれ出ることに大きな期待を持つものであるが、少なくとも、東畑博士が昭和16年に発表された植民学に対する批判は「、農業拓殖学の生まれる為に行わぬばならぬのであろう。少なくとも将来は別として、今日の時点において行わなくてばならぬと考える。。(つづく)

村松:和田さん、松栄さん、皆さん、
 松栄さん、杉野先生の遺稿集の転載ご苦労様です、大変な作業になり杉野門下生として貴殿には感謝申し上げます、多忙な仕事を抱えての転載は時間の余裕と相談しゆっくりと挑戦してください、また和田さんにはこの文章を「W-50」に順序よく分かり易く掲載くださり御礼申し上げます。ベレン在住の佐藤さんも追悼文集の杉野家家族・親族・関係者の転載を下さり思い出すだけで目頭が熱くなります。杉野先生をご存知の農大生、学生移住連盟の皆様、そしてご存知ない方には杉野先生の略歴をまず最初に記載できればと下記させて戴きました。
杉野忠夫博士年譜
明治:
 34年4月6日:田中小太郎の次男として、大阪市堂島に誕生する、内藤湖南氏により忠夫と命名、後に4歳にして杉野為吉の養子となる。
大正:
 3年4月:京都府立第一中学校に入学する。
 8年3月:同中学校を卒業する。
 8年4月:第三高等学校文科甲類に入学する。
 11年3月:同高等学校を卒業する。
 11年4月:東京帝国大学法学部政治学科に入学する。
 14年3月:同大学を卒業する。
 14年11月:京都帝国大学大学院(農史・農政学専攻)に入学する。
 15年11月:同大学院を退学する。
昭和:
 2年1月:京都帝国大学副手に任ぜられる(農林経済学教室勤務)。
 3年3月:京都帝国大学助手に任ぜられる。
 4年2月:森外三郎の三女の文枝と結婚する。
 4年4月:京都帝国大学農学部講師に任ぜられる。
 7年 月:調査のため満州へ出張する。
 8年5月:京都帝国大学助教授に任ぜられる。
 10年1月:財団法人農村更生協会主事に任ぜられる。
 10年4月:京都帝国大学講師(非常勤)を委嘱される。
 13年2月:東京保護観察所保護士を委嘱される。
 14年3月:満州移民方策審議会準備委員会委員を委嘱される。
 14年4月:中央農林協議会幹事を委託される。
 15年4月:満洲国開拓総局参与に任ぜられる。
 19年4月:社団法人国民高等学校協会常議員を委嘱される。
 19年9月:石川県修練農場長に任ぜられる。
 20年4月:財団法人農村更生協会理事を委嘱される。
 24年3月:妻、文枝と死別する。
 24年7月:永田甚三郎の次女千代と再婚する。
 27年1月:社団法人国際農友会理事を委嘱される。
 28年1月:高知大学農学部講師(非常勤)を委嘱される。
 28年3月:農村更生協会派米農村青壮年団長としてアメリカ合衆国へ1ヶ月間出張する。
 28年4月:石川県総合開発審議会専門委員を委嘱される。
 31年2月:東京農業大学教授、農業拓殖学科長を任ぜられる。
 31年4月:財団法人農家簿記協会監事を委嘱される。
 32年1月:熱帯農業学会評議委員を委嘱される。
 32年12月:移住者助監督として南北米へ8ヶ月間出張する。
 34年7月:財団法人農家簿記協会理事を委嘱される。
 35年8月:総理府中央青少年問題協議会専門委員を委嘱される。
 35年10月:第2回日本青年海外派遣団東アジア第2班団長として2ヶ月間東南アジア各国へ出張する。
 37年4月:日本学生海外移住連盟顧問会長を委嘱される。
 37年7月:社団法人全国農村青少年教育振興会理事を委嘱される。
 39年3月:農学博士の学位を授与される(論文題名、農業拓殖学の学論並びに原論の構造に関する研究)
 39年9月:東京農業大学サバ州農業調査隊長として1ヶ月間英領北ボルネオへ出張する。
 39年11月:日本学生海外移住連盟後援会理事を委嘱される。
 40年6月29日:急性心不全のため逝去する。
         従五位に叙せられ、勲四等を贈られる。
写真1:杉野忠夫博士遺稿集、2:杉野先生から移住研5期生へ贈り物、3:農大創始者榎本武揚と初代学長横井時敬
   

和田:村松さん 杉野忠夫先生の分かり易い履歴を送って頂き有難う。全文を使わせて頂きます。また添付頂いた写真3枚は、連載の3,4,5に使わせて頂くことにしました。これで暫くは、写真の心配はなさそうです。有難う。

みなさん 杉野先生論文 昨日の続きです。
南米開拓前線を行く 7
第一章 学論研究の序説
第一節 学論提起の理由
ーーーーーここから4月15日記述(昨日の続きですーー
  そこで、農業拓殖学の学論くわしくは学問論提起の利用の1つとして、その直接的前身たる母胎の植民学自身が、独立の科学として認められないままに農業拓殖学に引き継がれていると述べたことについて、ここに農業拓殖学の系譜論を展開する必要を思うのである。これは他日農業拓殖学原論として完成させる著述の第二部をなすべきもので(第一部は哲学的研究にあてられるであろう)、斯学の系譜的研究の部分に相当する。これは柏博士の著書においても、クルチモゥスキーの著書においても、野口博士の著書においても農学の歴史的研究が包括されているが、農業拓殖学の場合これから生まれようという立場にあるだけに、その前史の研究は非常に重要である。 特に学問としての独立が否定され続けたという事は、特に重要である。それで、私はこの場合学史的研究全体には筆を運ばず、最も近いところに焦点を合わせた。それは、私が直接植民政策の講義を受けた矢内原忠雄博士の所謂矢内原植民学(仮称)及び矢内原植民学の直接の師匠たる新渡戸稲造博士の新渡戸植民学、及び矢内原博士の後、東京帝国大学経済学部で植民政策を講義された東畑誠一博士の所論を追求することに限定した。
 戦中、終戦前の東京帝国大学で植民政策を講じられた東畑誠一博士は現在アジア経済研究所を主宰され、要開発地域にある所謂後進国の開発に関する研究集団の長として現存されておられるが、昭和16年(1941年)の大日本柘植学会年報に寄せられた「我が国における植民学の展望」なる一文(これは当時の慶應義塾大学の山本登教授との共同論文であるがその理論の部は東畑博士の手に成る事は博士自身より直接承った所である)程、当時の所謂植民学の発展段階を痛烈に批判した論文は他に見当たらなぬ位である。その論文以来二十余年の才月が経ち、社会情勢も変わった。博士が今日アジア経済研究所を主宰されて、後進国開発の理論と実際理論と実際を研究する若き俊秀を講義されつつあり、その成果を貫いて東畑植民学が生まれ出ることに大きな期待を持つものであるが、少なくとも、東畑博士が昭和16年に発表された植民学に対する批判は「、農業拓殖学の生まれる為に行わぬばならぬのであろう。少なくとも将来は別として、今日の時点において行わなくてばならぬと考える。それは植民学も現状をもってすれば・・・およそ植民地に関する種々の知識、植民地的活動に就いての雑多の研究が集められて、仮にこれらに総称的に植民学や植民政策と言うレッテルを附したものであると言うのが現代であろう。(つづく)




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