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南米開拓前線を行く。その3 松栄 孝
松栄さんの「南米開拓前線を行く」その3は、その8の4月16日から始まります。丁寧にその日に写経したものの後に前日の書き込みも記載して呉れておりますが、重複を避ける意味でその日の写経だけを残すようにしていますが、重複、落章等があればお許し下さい。
松栄さんご自身が時折写経をしながら一人呟いているのが面白いですね。苦労しながら難しい写経を楽しんでおられるようです。正直云って杉野先生の論説は、難しいです。4月20日のその12で第1章、第1節が終わり21日から第2節に入っています。このその3では、4月21日の松栄その14で終わっています。写真は、カリフォルニア在住の村松さんが送って呉れている写真を使わせて貰う事にしました。まだまだ続く長編ですので関係写真が見つかれば送って下さい。


みなさん
昼時間の合間に店から抜け出して、ボードに向かっています。杉野先生が、この農業拓殖論文を書かれていた頃の時代風景が少し脳裏に残っていて、むかしのこと考えてたら。「にこよん」=という言葉があったなー、と思った。
《「二個四」の意。 昭和20年代の半ばに、失業対策事業に就労して職業安定所からもらう日給が240円だったところから》日雇労働者の俗称。
お前らごろごろしてるんやったら にこよん にでも行け、という言葉が飛んでいたのを思い出しました。
そんな時代に、杉野先生はこのような論文を書かれていたわけで、青年に外地開拓の夢を、誰でもが実現可能に語られていたわけで、その確固とした自信を持って語られた、と言う事が、先生の先見性なのだろうと思いました。
当時の日本は、青年には厳しい時代だったなー、と思います。しかし、今よりは楽しかった(自分には生活に追われることがまだわかっていなかったから?)なー、という思いがあります。物もなく、食べ物もなく、明日が分からない、のもかえって気楽なのかもしれせんね。
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杉野先生論文 昨日の続きです。
南米開拓前線を行く 8
第一章 学論研究の序説
第一節 学論提起の理由
ーーーーーーーーーーーーーーーここから16日の記述ーー 昨日の記述は「 」を見逃しており、文脈が合わないので昨日の筆記を3行、逆戻りました。
ーーーーーーー ここからが昨日の続きですーーー
それは 「植民学も現状をもってすれば・・・およそ植民地に関する種々の知識、植民地的活動に就いての雑多の研究が集められて、仮にこれらに総称的に植民学や植民政策と言うレッテルを附したものであると言うのが現代であろう。
それ故に茲ては(注・“茲の”と書いて“この”と読みます=“茲に”と書いて“ここに”と読みます)終始一貫、すべてを貫くような精緻なる概念構成も、或は自己に特有なロジックも未だ樹立されるまでに至っていないのである。と、そしてこの様な段階で数歩も出ぬうちに1945年には終戦となり、大日本柘植学会は解散されわが国民の植民活動も停止され、研究も教育も中断されたのであるから、戦後において植民学が当時よりどの程度進歩したかは疑わしい。
 だから、この東畑理論が、農業拓殖学の最も身近いジャンプ台である。私はそれに対して批判と言う事も言ったが、批判するにはよくその言を聞くべきである。総称的レッテルであると言う事は未だ独立の科学たらずという意味であるが、見込みがないかと言うに差に非ずらず、東畑博士は大いに期待し、そのために準備さるべき努力の積み重ねられるべきを主張されている。即ち、植民に関する種々の断片的知識の累積こそ、後に至ってそれから数多の独立科学が生まれる地盤であり、その為には素材が集められねばならぬとされた。その素材を集める事が、今日の段階に於いての植民学の任務ではないかと言われるのである。確かにその様な努力が必要なる事は、今日に於いてもしかりである。それが1941年の当時に比して、どのように豊富になったであろうか。この20年余りの中、材料蒐集に便のあったのは1945年の終戦前まで、日本が大東亜戦争によって東亜の全域にわたって軍事行動に伴って各種の調査研究を必要とした時代だけであると言ってよい。 

和田さん すみません、イロイロ 先ほど送らせてもらった最初の方の部分ですが
【  】で記しましたが、原文には 「 」 カギカッコが入っているのです…引用文か?、 簡単に読むと記号など気にしなくて進んでしまって、おかしくなって
しまって・・・
本当の論文というのは、読む人を試す、ように書くのかもしれないなー、と感じます。
ーーーーーーー ここからが昨日の続きですーーー
それは 【「植民学も現状をもってすれば・・・およそ植民地に関する種々の知識、植民地的活動に就いての雑多の研究が集められて、仮にこれらに総称的に植民学や植民政策と言うレッテルを附したものであると言うのが現代であろう。
それ故に茲ては(注・“茲の”と書いて“この”と読みます=“茲に”と書いて“ここに”と読みます)終始一貫、すべてを貫くような精緻なる概念構成も、或は自己に特有なロジックも未だ樹立されるまでに至っていないのである。」】
と、そしてこの様な段階で数歩も出ぬうちに1945年には終戦となり、・・・・

南米開拓前線を行く 9
第一章 学論研究の序説
第一節 学論提起の理由
ーーーーここから4月17日の記入…昨日の続きですーー
 それが終焉を告げ、それにひきつづいて数年の占領時代の植民に関する研究の中断、そして講和条約後、再び海外に出る機会は来たけれども、昔日の比ではない。素材の集積も容易でない所へ研究者の数も激減している。このような段階においては、植民学がいわば、栄養失調になって流産せざるを得ないのではないかと結論されるかもしれぬ。少なくとも東畑理論から言えば、栄養があれば生れるべき胎児が、現状では困難と言う事になる。しかし、如何に困難であっても、新しい時代にふさわしい学問として、生み出さねばならぬ歴史的使命をこの新しき植民学は見出さねばならぬ。
素材の集積に努力すべきは勿論であるが、茲に大切なのは矢張り素材の選別である。植民に関係する素材と言うだけでは考え方によれば無限無数にあるといえる。ここに大宇宙の中から何を採集するかという選別の基準、換言すれば植民学を学たらしめる根拠が何かを明らかにする事がなされなければならなかったのではないか。当時の植民学はたとえそのような雑然たる知識の寄せ集めであったとしても、東畑植民学大成の為にも、科学論がなされるべきではないかとい思う。
この点に関しては、博士が植民現象の把握に関してこれを評価の対象とせず、客観的認識の対象とすべき事を示唆されると共に、その経済学的把握に務められた様である。若し、駆りに東畑植民学が生まれるべくんば、経済学化せる植民学が生まれたのではないかと思われる。(8)(9)
そして、それは今日我々が企図する農業拓殖学とは異なる道へ進んだことであろう
(つづく)
ーーーーーーーーーーーーーーーここから4月16日の記述ーー 昨日の記述は「 」を見逃しており、文脈が合わないので
昨日の筆記を3行、逆戻りました。
ーーーーーーー ここからが昨日の続きですーーー
それは 「植民学も現状をもってすれば・・・およそ植民地に関する種々の知識、植民地的活動に就いての雑多の研究が集められて、仮にこれらに総称的に植民学や植民政策と言うレッテルを附したものであると言うのが現代であろう。
それ故に茲ては(注・“茲の”と書いて“この”と読みます=“茲に”と書いて“ここに”と読みます)終始一貫、すべてを貫くような精緻なる概念構成も、或は自己に特有なロジックも未だ樹立されるまでに至っていないのである。と、そしてこの様な段階で数歩も出ぬうちに1945年には終戦となり、大日本柘植学会は解散されわが国民の植民活動も停止され、研究も教育も中断されたのであるから、戦後において植民学が当時よりどの程度進歩したかは疑わしい。
 だから、この東畑理論が、農業拓殖学の最も身近いジャンプ台である。私はそれに対して批判と言う事も言ったが、批判するにはよくその言を聞くべきである。総称的レッテルであると言う事は未だ独立の科学たらずという意味であるが、見込みがないかと言うに差に非ずらず、東畑博士は大いに期待し、そのために準備さるべき努力の積み重ねられるべきを主張されている。即ち、植民に関する種々の断片的知識の累積こそ、後に至ってそれから数多の独立科学が生まれる地盤であり、その為には素材が集められねばならぬとされた。その素材を集める事が、今日の段階に於いての植民学の任務ではないかと言われるのである。確かにその様な努力が必要なる事は、今日に於いてもしかりである。それが1941年の当時に比して、どのように豊富になったであろうか。この20年余りの中、材料蒐集に便のあったのは1945年の終戦前まで、日本が大東亜戦争によって東亜の全域にわたって軍事行動に伴って各種の調査研究を必要とした時代だけであると言ってよい。 

農学におけるパンドラの箱。1 みなさん 
杉野先生の論文を書き直す作業で感じるのですが。どういう流れなのか分からないのですが、何故か私が、杉野先生の博士論文を書写すことになってしまっのか、どうしてかな、とおもうのです。
それは、先日の 杉野先生批判本に由来しているとは思いますが。
まず、この遺稿集が私の手元にあったことが不思議で仕方がないです。いつ私の手元に来たのか、記憶が定かではありません。書き写してゆくに従い、これはとんでもな「パンドラの箱」を開いているのかもしれない、と感じ始めました。
京都大学の大槻先生が、遺稿集の最後にこの論文を残しておく、という一言があり、大槻先生がこの論文をどのように評価されていたか、が分かる気がします。
現代農業に物申したかった、という?。
京都大学学派、と言っても良いかもしれませんが、北大から続いてきた橋本先生の流れ、農業を生き方=哲学的作業、と考える流れと、東大学派の農業をただ単なる経済追及 としての農業の流れ(現代日本の農業への理解)の違いがあるのでは・・・?と感じています。
そして、論文の中に杉野先生が、いつかこの論文が後世の何かの役に立つのではないか、役立つだろうと明記されています。
サンパウロ   マツエ

南米開拓前線を行く 10
第一章 学論研究の序説
第一節 学論提起の理由
――――ここから4月18日の記入 昨日の続きですーー
次に、矢内原植民学について述べる。先生はその恩師新渡戸博士に深く深く傾倒されていた。従って、植民学を独立の科学として樹立する事については恩師同様極めて厳格であった。矢内原植民学のテキストである「植民及び植民政策」(10)を読めばその点が良く伺える。矢内原博士は独立の一つの学生としての植民研究は未だ成功をもって構成せられしことを聞かずと言われているが、しかし博士自身は如何にしてかこれを独立の科学として構成すべく苦心され、植民現象を社会的経済的の現象として捉え、社会的諸科学の一部としての植民の学問的研究の成立する事を認め、植民の研究は植民現象の発生、その社会的特質、その影響及び価値、植民に関する政策等の諸問題を含むものとして、特に最も重要として、移住社会群との接触に基づく社会的諸関係の分析を上げられる。
そして、かくの如く植民現象をとらえた場合、それは植民の本質に元ずく制約を加えられたる所の経済学、社会学、政治学等の諸科学の特殊研究の総合的一体であり、一の特殊的総合的研究を要求するとされる。植民現象を対象とする特殊的総合研究とは如何なる研究であろうjか。私はかねて経済学や政治学等々個別社会科学の他に、総合的な社会科学として社会学の存在を主張してきたので、博士の考え方は結局総合的な社会学の一特殊研究として植民学が成立するのでのではないと考えた。私は矢内原植民学は社会学化する傾向にあったと判断するものである。しかし、農業拓殖学は後述する如く、実学として要求されているので、社会学的研究も包含するけれども、社会学ではない。矢内原植民学の成果を多量に私は摂取したが後述する如くその路線を越えねばならなかった。(つづく)

南米開拓前線を行く 11
第一章 学論研究の序説
第一節 学論提起の理由
――――ここから4月19日の記入 昨日の続きですーー
 更に、新渡戸博士の植民学に対する態度は厳しいものがある。(11)
新渡戸博士は、明治42年(1909年)東京帝国大学に植民政策講座
が新設された時、その初代の担当教授である。矢内原博士は、大正5−6年度(1916−1917)の先生の講義を一学生として聴講されたが、新渡戸博士が一高校長時代その学生として崇拝されていた。師の学風を継ぐ上には何よりも先ず人格的に傾倒する事が精神的母胎たる事をこの師弟の間に見る(12)。新渡戸植民学と矢内原植民学との異同は興味深き系譜的研究の主題たるを失わぬのが茲では省略する。新渡戸博士の学風は実際の応用を重んじられた様で、植民の定義を論ずるに当たっても、「元来定義には完全なるものはない。学者が議論している間に事実は進んで行くからである。定義を下すに拘泥するときは却って事物の真相を逸する恐れがある」 とされ実用的定義を主張された。そして植民とは国民の一部が故国より新領土に移住することと」された。明治42年といえば、日本は既に台湾を領有し、樺太の南半を得、満州の一角を租借し、南満州鉄道株式会社を設立して満州の植民地化を図り、更に朝鮮の併合を企てつつあった時代である。そして植民活動の先進国たる欧州諸国の植民学に学ぶ必要の大なる時代であり、大学に講座が設けられる必要が、しかも法学部に設けられたことは意味深きことである。即ち、これをもって見ても植民活動が・政治活動として重要視されていた事が判明する。
換言すれば植民地の支配者の育成、植民地官僚乃至会社の幹部養成が植民学の目的だったと言っても過言ではないであろう。又、事実終戦前までの植民学教育を受けた大部分の人はそのような仕事に就いたのである。
しかし、博士は上述する如く植民概念の相対性を主張されると共に、植民学なる科学の成立については極めて厳格で、明治42年、即ち、講座開設の翌年創立された植民学会に於いて、「植民学と称する独立の科学はまだ存在せず」とされた。(つづく)

みなさん
杉野先生論文 昨日の続きです。(これで第一節完了)
南米開拓前線を行く 12
第一章 学論研究の序説
第一節 学論提起の理由
ーーーーここから4月20日の記入、昨日の続きです。
それから後、1924年関東大震災の後であったと記憶するが当時国際連盟事務局次長の要職にあられた先生が、何かの用事で帰国され東京帝国大学を訪問された時、私は法学部政治学科の2年生であった。何かの機会に先生にお話を承る機会を得た時、談たまたま社会科学の学問論に及んだ。その時先生は厳格な意味でまだ科学と称されないものでも「準科学」(先生はこの時、quasi-science と言われてこれを準科学と訳された)と言ってよいものがあると言われた。植民学の如き先生から言えば、このquasi-science に入れておられたかも知れない。この植民学まだ科学たらずと言われた明治43年に先たつこと3年、明治40年(1907年)に博士の母校、札幌農学校が、東北帝国大学の一分科として農科大学となり、ここにはじめて「植民学」なる名を冠する科目が出来、高岡熊雄博士が担当された。大学に「植民学」の教授科目が生れた最初であるが、それを未だに学と称するのは早しとされたのであった。この北方の学府における植民学の系譜的研究や、京都大学経済学部に設けられた山本美越乃博士の植民学の系譜的研究も逸すべからざるものであるが、省略する。
 茲に私の言わんとするのは、農業拓殖学、更に遠慮なく言えば、私の辿ってきた学問的系譜において、即ち、新渡戸ー矢内原ー東畑の路線においては或は国家学的、或は社会学的、或は経済学的な植民学の萌芽があったということと、どれもが、一個独立の科学たりとの独立宣言がなされなかったと言う事なのである。しかも戦後は、この植民学研究が中断された廃趾のなかからフェニックスの如く立ち上がらねばならなくなった。この点で、いちばんはやく北海道大学の系統に属する北海学園大学が開発研究所を設けて活動を開始されたことは注目に値すっるが、農業拓殖学をして学たらしめる為の苦慮は依然として私の胸中を去らなかった。
参考文献
1)杉野忠夫著 「海外柘植菱」
2)柏祐賢著 「農学原論」
3)橋本伝左衛門訳 「クルチモウスキー農学原論」
4)野口弥吉著「農学概論」
5) 田辺元著 「科学概論」
6)新渡戸稲造著 「農学本論」
7)東畑誠一代表 「大日本柘植学会年報第一輯」 (輯ーと書いて しゅう と読む 意味=集める)
8)東畑誠一 1942「植民概念の要因」国家学会雑誌56(8)
9)東畑誠一  1943「植民政策の段階」経済学論集13(1)
10)矢内原忠雄 1941「植民及植民政策8版」
11)矢内原忠雄編 1942 「新渡戸稲造博士植民政策講義案及論文集」
12)矢内原忠雄 「余の尊敬する人物」岩波新書

南米開拓前線を行く 13
第一章 学論研究の序説
第二節 用語及び訳語に関して
ーーーーここから4月21日の記入、昨日の続きです。
農業拓殖学の学論を進めるに当たって、従来しばしば用いてきた用語についてその意義を明確にしておく必要がある。ここに一括して若干の説明を加えたい。
 「植民」と「殖民」について――どちらが正しいか、そしてその意義如何はしばしば学界をにぎわした所である。この問題を最初に取り上げられたのは新渡戸博士で、明治44年3月法学協会雑誌第二九巻第二号に、「植民なる名辞に就きて」という一研究論文を出されたのが始まりである。(1) その動機は恐らく先生が東京帝国大学で植民政策の講義を開講され、植民なる文字を使用されるようになったが、さてかかる用語は従来の政府の公式用語ではなく、拓地植民の両熟語より拓殖なる用語が公用語とされ、植民なる用語は私的の通俗文字で未だ曾つて公式に用いられた事なしとされている。そこで先生はそれが何時、何人によって創造され、今日如何なる意味に用いられるかを明らかにされた研究である。我々は今日、この研究が発端で諸学者の議論が出たお陰で非常にその由来を明かにする事が出来るのである。それらの研究によれば、まず植民なる語は、日本の幕末になって欧州文明が流入し始めた時に日本人によって作られたもので、文久二年(1962年)堀辰之助他三名の編した「英和大訳」にはじめて植民の字が見えた。コロニーの訳語である。このコロニーを植民と訳出した由来は安政二年(1855年)に出た、Doeff  の編んだ「蘭和辞彙」にコロニーの訳語を邦文化せず、蘭語にZie Volkplanting
と書いた事にあるとされている。読んで字の如く民を移植する意味があるから植民としたのである。それがどうして「殖民」の字があらわれたのか、それは慶応4年(1868年)上海で出版された所謂「薩摩辞書」に殖民の文字が出、殖を「ウエル」即ち植と同義に用いた所から、植民,殖民の同義か否か、所謂植殖同義説と異義説がおきることになったのである。新渡戸博士は民を植える植民説をもって絶好の訳字とされた。
植民学は未だ科学たらずとされたが、植民の文字を使用された。この問題は、後に山本美越乃博士門下の鬼才で若くして逝いた九州大学助教授の長田三郎氏の集約的な研究で、(2) 植も殖も植民或は殖民と用いた時は、同義で共に植えるの意味に用いるとされた。私もこの意見を採る。

みなさん
杉野先生論文 昨日の続きです。
こうして、杉野先生の論文を写論しているといろいろ思い出す学生時代のこと、はたと気が付くこともあって、先生がこの論文を書かれた理由の一端が伺えて来そうな、感触が出てきます。一生懸命に農業拓殖学、農業拓殖学科の存在意義を理論的に述べられています。
一方・・・写論していて日本語を読むのに、見たことのない、使ったことのない字に遭遇して、読み方自体が分からず、往生する場面があります。
日本語の難しさを改めて見直す状況に遭遇して、難儀します、70歳にもなって、未だに読めぬ字や、意味が分からない字、に遭遇するとは思いもしなかったです。
そして、こういう文章を読んでいると、ブラジル語にまで影響してきまして、ブラジルニュースが以前より重くなったことを感じ、頭が付いてこなくなって、
なんでかなー と思うのですが( ^ω^)・・・いよいよ自分の老化、を感じている昨日今日です。
ーーーーーーーーーーーーーー
南米開拓前線を行く 14
第一章 学論研究の序説
第二節 用語及び訳語に関して
ーーーーここから4月21日の記入、昨日の続きです。
しかして、それは民草を植える意味の蘭語の volks - planting より発する訳語の事を思うと、これからの農業拓殖活動を、国家の権力意思に基づいて人民を草木の苗の如く移住せしめる現象としてとらえてよいのか疑問なきに能わぬのである。中共やソ連の如く非民主主義国においては珍しくもないかもしれぬし、相変わらず植民政策が行われるかも知れぬが、将来においては如何であろううか,又、過去においては植民現象があった事は否定出来ぬが、これからは如何であろうか、個人または集団の自由意思に基づく移住であらねばならぬ時代には、移民と言う文字も今や移住と言いかえられているのである。植民も殖民も同義語である限りはやがて死後と化するであろう。
 「柘植」と「拓殖」についてーー日本では、官庁の公用語として明治時代の初めのころから久しく拓殖の文字が用いられた。日清戦争後拓殖務省が設けられたのは官庁名の最初であろう。(₃) 拓殖の文字が用いられている。
然るに、近頃になると拓殖の字が公用語となってきた。農林省には拓殖課があり、日本大学農獣医学部では、昭和38年度から柘植学科を設けた。これを拓殖学科、或いは農業拓殖学科とせず、単に柘植学科として認可を得られた理由は未だ承る機会がないが、学科長磯辺秀俊教授は柘植の植は人を植えること、即ち、移住する事であると言われたと伝えられている。未開発地域を開拓して移住する意味である。農林省の柘植課も移住行政につながっている。即ち、柘植は拓地植民の意味である。しかし前述の如く、植民政策の時代は過去にすぎさるか、或は、特殊の全体主義国家の政策として観られる、現代において我々は慣用句に植民とか移民とか言ってよいのであろうか。
 そこで私は殖=植という長田三郎助教授の折角打ち立てられた公式を今一度反省して、殖は植えるとも読み得る漢字の文字研究を否定はしないが、同時に、殖は繁殖の殖でもあり「ふえる」「ふやす」増殖の義に用い得る事に思いをいたして、今日ではこれを植えると読む方が不思議に思える位に、生殖、増殖、繁殖、殖産等慣用される所に従って、殖は殖産の意味にとるのが穏当ではないかと思う。即ち、拓殖は拓地殖産の意味で拓地植民の柘植と意味は異なるものとすべきではないかと思う。これは、山本美越乃博士の殖は殖産の義に解せられる所に従うものである。かく解する事によって、所謂植民地主義が崩壊した後にでも、否それ故に一層必要とされる開発活動を採られるには妥当なる表現ではなかろうか。




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