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南米開拓前線を行く。その5 松栄 孝
マツエさんの労作、杉野先生の南米開拓前線を行くの写論その5が纏まりました。合計9942字を越してしまいましたが何とか入って呉れればと思います。27から36まで10日分の写論です。難しい漢字が出て来たりして松栄さん自身が戸惑い、調べて注釈して呉れています。時折松栄さんの余談、コメントも入り息抜きが出来るのも最後まで杉野論文を読ませる工夫なのでしょうか?これから関係写真も集める必要があり大変なようです。まだまだ先は長いと思いますが、最後までお付き合い下さい。写真はカリフォルニアの村松さん提供の最後になります。


みなさん 杉野先生論文 昨日の続きです。出展漢字に悩みます。知らないことが多くて。
南米開拓前線を行く 27
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第一節 農業拓殖学の定義と研究対象
ーーーーーーーーーーーー5月6日記入 昨日の続きです。
しかし、天下の大勢は 滔々として植民学を帝国主義的な政治力に奉仕する国家学化の傾向にあった事は否定できない。大日本柘植学会が創立されてその創立大会兼第一回の研究報告会が開催されたのは昭和17年4月の初旬であり、「時恰も皇軍は活発なる南方作戦の遂行に驚異的な戦果を続け、更に戦果を縫っての建設活動の着手により、大東亜建設の偉業は華々しき発足を為しつつあった」と幹事が述べている。
【注(時恰=この字の読み方、意味が分からず難儀しました、これで あたかもと読むのだそうです・・・時恰 とかいて ときかつ と読む男の子の名前もあり。 滔々 の読みも意味も不明で・・・ひょっとして滔ではないですか?そうであればトウと読みます。 滔々と、として「とどまることなく」というような意味に使われます―ネットより】
この様な時代的背景において、当時の植民学徒がどのような考えを持ったかを物語るのは、その大日本柘植学会の年報第一号の編輯後期であろう、曰く「大東亜共栄圏の盟主たるべき日本の立場より見て、既往の西欧的植民政策の再検討と日本的意義における新たなる柘植構想の樹立は、われわれ 斯学の研究に携わる者に課せられた最初の使命であり、課題でなければならない。
【注(「斯学(しがく)」の意味=この方面の学問。この字の読みも意味も分からなくて・・・マツエ 】

みなさん 杉野先生論文 昨日の続きです。
2021年5月7日、ブラジルはそろそろ冬に入ります。先週あたりから、少し冷えてきて今日は昼でも最高気温18℃までしか上らず、涼しい1日でした。
サンタカタリーナからくるフジリンゴに蜜が入り始めて今日買った5個、すべてが蜜入りでした。寒くなり始めて、今の季節ヨーロッパチロルも顔負けというリオグランデ、サンタカタリーナを旅したくなります。ワイナリーによって、今年できた新酒(ワイン)の試飲して・・・!!!
いま思い出しましたが、もう20年以上前の昔、女房と子供たちだけをグラマードのバスの旅に出したのですが。私だけ居残り留守万で。
帰ってきて奥さんが言いました、「日本語って難しいね。ガイドを務めてくれた美人二世のお嬢さんがね、ワイナリーを案内しながらみんなに【しゅいん してくださーい】と大声で呼びかけてるんよー」私( ^ω^)・・・赤面したわーーー」???とここまで書いて、アレー!夕べ遅く寝てしましました。
寒くなると、なぜか寝てしまうようで、午前3時頃に目が覚めて、三行ほど写論したら、また眠くなって暖かい布団に入ったら、・・・先ほど午前9時前に目が覚めました。和田さんもご同輩だったようで・・・御同病 相哀れみました。
春の海 終日のたりのたりかな、という心境です。日がずれてしまいました。8日土曜日朝です。
南米開拓前線を行く 28
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第一節 農業拓殖学の定義と研究対象
ーーーーーーーー5月7・8日記入 昨日の続きです。
勇猛果敢なる前線将兵の奮戦に感謝の念を深めつつ、われわれは今こそ職域において、一層研鑽の実を挙げ、以って翼賛の誠を致すべき秋であると (ここでまた寝た)謂わなければならない。」と幹事の某氏が書いておられる。
植民学の対象たる植民活動がどの様なものであったか判るであろう。それは日本ばかりでなく、すくなくとも第二次世界大戦に突入した列強において、その植民地活動がかくの如き国力伸張の方法として国家の強力な支援の下に行われた事は奄うべくもない(また出た 奄・おおいに伸びる、ひいて、あまねく、「おおう」の意を表す)歴史的事実である。植民学が科学たり得なかったのは素材の集積の不足も一因であろうが根本の所はこの冷厳なる現象の政治的要求に対して、科学者が Sollen の原理よりも Sein 論理を体系づけようとする時に感じた抵抗が原因ではないかと今にして感ずるのである。(つづく)
(Sollen の原理 〘名〙 (Sollen の訳語) 哲学で、現に存在すること、必然的であること、またはありうることに対して、かくあるべし、かくすべしとしてその実現が要求されること。カントでは、至上命令としてかくすべしと命ずる定言的命法を意味する.
(Sein の理論 科学とは何か」という問題をめぐるSeinとSollenという二元性−−−科学的仮説の「発見」と「正当化」という二元性 ... すなわち狭義の科学論は、科学史や科学社会学などが解明した科学に関する経験的事実を基礎に、科学を理論的に研究
イヤイヤ…難しいですね。

松栄さん 和田です。 難しい杉野先生の論文を写経ならぬ写論して下さりご苦労さんです。その26までホームページに掲載皆さんに流しており27からその5に移りました。まだまだ続くと思いますが無理をせずにぼつぼつ続けて下さい。一つ心配なのは、掲載写真でカリフォルニアの村松さんが3枚提供して呉れており次回までは大丈夫ですが損語がありません。松栄さんの所でも探して下さい。お願いします。
私の今朝の寝坊で大事な横浜の花咲爺の会のZOOMミーティングに欠席してしまった事を同病相哀れみましたと慰めて呉れていますが、松栄さんは、まだまだお若いので老人の私と同輩などと云わずこれからも頑張って下さい。

みなさん 杉野先生論文 昨日の続きです。
南米開拓前線を行く 29
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第一節 農業拓殖学の定義と研究対象
ーーーーーーーー5月9日記入 昨日の続きです。
私は、マックスウェーバーの社会科学方法論(⁸)や、マックスウェーバー夫人の手になる彼の伝記(⁹)を読んで、若し日本に彼の如き学者が出たら、恐らく植民地現象を社会科学的にとらえて冷静な植民学を書いたかも知れないと思った事である。
 ともあれ、かくの如くして第二次世界大戦が日本の敗退をもって終わると共に大東亜共栄圏のビジョンも消え、かくの如き国家学の対象たる植民活動も終わりをつげた。
しかし乍ら、人類がその未曽有の惨劇たる第二次世界大戦を経過してもなお亡びざる人類の活動が継続した。植民活動が滅びても、亡びざる永久運動ともみられる活動がある。これは前にあげた人類創世の古くから継続している農業拓殖活動そのものである。それこそこの戦争の直接の原因となった列強の勢力範囲拡大の激化の根本原因の反省から出発するものであって、真に再びかかる惨劇から人類を救うためには、闘争や搾取から人類を開放する作業がなされなければならぬとする反省である。⑽ 荒廃に帰した戦場の復興、産業の回復、食糧の増産、それにも増して大きい問題はこの対戦を境として曾つて19世紀の中頃以降列強の植民地となっていた諸地方が、続々と独立したことである。インドの如きは、16世紀の東インド会社による植民地化以来のイギリスの軌を脱して独立し、ビルマもまた完全に独立した。オランダの植民地であったインドネシアの如き,又、フランスが東南アジアに領有したインドシナ半島のヴェトナム、ラオス、カンボジャも独立した。これらは、日本がそれぞれの諸国の独立を戦争目的としてかかげ、原住民の独立闘争を刺激した事は今では否定されぬ歴史的事実である。それにひきつづく大きい変化はアフリカの植民地の独立であって、これらの諸国がいづれも国際連合に加盟し、世界をあげて今や植民地として、曾ての一路をたどるに至った。(⒒) こうなっては最早植民学は、その研究対象そのものを失ったも同様である。(つづく)

みなさん 杉野先生論文 一昨日の続きです。
南米開拓前線を行く 30
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第一節 農業拓殖学の定義と研究対象
ーーーーーーーー5月10・11日記入 一昨日の続きです。
 それに代わるものとして、前にかかげた新しい活動が要求されるのである。それは、国際協力による未開発低開発地域の拓地増産、就中、(マツエ注・「就中」とは、たくさんの選択肢のなかから、特に一つを取り上げるさまのことです。 「なかでも特に」や、「とりわけ」といった意味で古い言葉です。)最も基本的な農産物の増産活動である。従来植民地であった諸地方は多く熱帯亜熱帯にあって欧州人はこれを移住植民地として経営する事すくなく、多くこれを投資植民地として経営し、原住民の労力を搾取する一方、自国の工業生産物の独占市場として確保すべく工業も興すことなく、熱帯農産物の単純耕作 monoculture を行うプランテーション農業が行われるか、或は愚民政策を行って原住民を何等教育する事なく旧態のままの生活に放置しておいて、収税機能だけを整備して、搾取していた。インドの如きその好例である。これらの諸地方が単に政治的に独立しても、原住民の生活は、なかなか良くならぬ。そしてその生活が向上し、購買力が発生せぬことには、曾ての植民帝国はその工業を発展せしめる事も出来ない。又、解放された植民地もその経済の向上の為には、なお外資の投入を必要とする他に、今まで放置されていた住民それ自身の近代国家をになう為のあらゆる精神的、技術的能力の開発が必要となって来た。⑿ 植民地を搾取するよりも、曾ての植民地を立派な近代的独立国家に育成し、有無相扶けて、(マツエ注・相扶=名詞 互いに助けあうこと。相互扶助。)、新しい国際協力の世界を形成する事が、必要となってきたのである。(つづく)

みなさん 杉野先生論文 一昨日の続きです。
南米開拓前線を行く 31
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第一節 農業拓殖学の定義と研究対象
ーーーーーーーー5月11日記入 朝の続きです
それは勿論鉱業資源の開発や工業を発達させる事、その為の、たとえば電源開発、交通機関の整備等、事は農業開発のみには限らぬが、基礎となるのは、食糧の供給を確保する基盤を作る農業拓殖である。これを怠ったか、或はその為の方法を誤って、食糧不足によって工業発展計画も阻害されるに至った実例は、インドの5か年計画、中共の人民公社の運動、ソ連のコルホーズ等の実例がある。
 要するに、農業拓殖学が科学として、独立の体系を有する条件の第一としてその研究対象は、時代の要請を背負うて我々の眼前に露呈されているのである。それは農業そのものでなく、農業に至る活動である。それ故に農学とも対象を異にする。それは、最早や国家権力の運動ではなく、全人類的活動として、即ち、国家や国家連合から支持される事はあっても強権的支配を受けるものとしてでなく、自由な個人或は集団が行う農業を目的とする拓地の活動である。かくて私は農業拓殖学を定義して、世界の要開発地帯を自由なる人類として個人又は集団として開発し堅実なる農業文化の作る活動を研究対象とし、その活動をして成功にみちびく準備を見出さんとする科学であるとする。或いは簡潔に表現するならば、農業拓殖学は世界の要開発地域の開発を農業を目的として行う活動。即ち農業拓殖活動を研究対象とする科学であると定義する事が出来るであろう。

みなさん 杉野先生論文 昨日の続きです。
(余談)難しい文章を、いかに読みやすく、読者に率直に理解できるように、分かり易い文章にされている杉野先生のご努力がよくわかります。
しかし、平易に表現された文章の中で、本当の核心部分はやはり難しくて、どのようにかみ合わせるか、難しいのではないかな、と思いました。 
 本筋としては、農業拓殖というのは、人類が頭脳をもって考え始める様になった時代(古代)から、生きるための食べ物を安全安心に獲得する方法として、農業拓殖が始まったこと、これを論拠に、農業拓殖が、ヨーロッパ人の考えた植民学、植民地制度(一方的搾取略奪文化)とは全く違っているのだ、という理論を証明されたかったのだろう、と理解しました。
「農業拓殖学は、植民・植民地学とは全く違うのだぞ」と言う事をおっしゃりたかったのだろうと思います。
そして、農業拓殖学、というのは農学の一分野ではなく、確固とした、農学、社会学、哲学、文学などと同様、同レベルの学問であること、学科ではなく確固とした一つの学問であることを主張し、認知されることを書かれているのだ、と思います。
今、こうして先生の論文を書き改める仕事をさせていただき、この年、今頃70歳になるまで、杉野先生が農業拓殖という言葉の説明、それに伴う真理の追求に何故終生こだわられたのかが理解できた気がします。  その人間愛(どこに住んで、どんなかっこうをしていても=どんな人でも同じ人間)、である、という気持ちが、我々学生にも無意識に感じられて、拓殖1期から10期までの10年間に100人以上のブラジル南米開拓者を送り出され、その心情的柱となって、新天地での開拓精神(拓殖意識)を維持できたものと考えられます。
実際、1987年から2007年頃まで、約20年間ブラジル中を駆け巡ったのですが、たいていの町の日系人集団では「農大生とサウーバ(ハキリアリ)はブラジルのどこに行っても頑張っている」という話が出ました。笑い話なのですが、そんな話題が笑い話にまでなっている、ということです。
そんなことを思い出しながら,写論させてもらっています。
南米開拓前線を行く 32
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第一節 農業拓殖学の定義と研究対象
ーーーーーーーー5月12日記入 昨日の続きです
 定義は簡明に表現できるが、大事なのはここに至る過程である。農学の対象たる農業を、柏教授の如く自然物の採集段階まで含むとすれば、一見農業拓殖活動と農業とは同一対象の如く思われるが、農学の対象とする農業は歴史的には拓殖時代に及んでも、研究の対象としては熟地化した基礎の上に行われる活動であるし【マツエ注・(熟地1 よく様子を知っている土地。2 肥沃な土地。〈日葡〉)】、農業拓殖活動は、熟地化に至るまでの活動であり、新農村が建設されて熟地の農村に伍するまでの活動であるから、農学の対象と重なる部分があっても、同一対象とはなし得ない事と、未だ近代文明の及ばざる未踏の地帯の探検活動を起点として、新農村の建設に終わる全行程の広い活動を学問的に研究するには、農学の成果に負う所大なるは言うまでもないが、独立の研究対象としてこれを限定する必要があろう。これが学問発達の当然の成り行きと言うべきであって、広義の農業対象としても純生産技術の農学も成立すれば、農業経営学も成立するが如く、その研究の目的によって対象を限定されるが如きものであろう。農産物の生産そのものを目的とする行為と、生産を通して何らかの所得なり、純利益を求める場合の行為とは、自ら別個の研究対象となる。
以上のような論理と思考過程から、私は農業拓殖学の研究対象たる農業拓殖活動を農学の対象たる農業から分離すべきものとした。
かくして、農業拓殖学は植民学からも、農学からも分離独立して一個の学として組織されるべきものとしたのである。
或る科学が他の科学から分離独立するには通常対象による分類が常識とされており、哲学的には、方法論による分類が主張されるが、この問題については次節に述べることにする。(13)
この節 第一節 終了。

南米開拓前線を行く 33
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第一節 農業拓殖学の定義と研究対象
ーーーーーーーー5月13日記入 ー参考文献の追加ー
参考文献
(1)飯沼次郎 1957「農学成立史の研究」
(2)直良慎太 1958「人類発達史」
  Brasil Davidason. 内山敏訳「古代アフリカ発見」
  石田英一郎訳1959
  「モンテギュー人類の100万年」
(3)小山栄三訳 1933「ハッドン民族移住史」
(4)土屋光司訳 1943「マードック世界の
   原始民族」
(5)本庄栄治郎 1920「経済史研究」
(6)ねすまさし訳 1959 G、「チャルド 
   文明の起源」第9刷
(7)柏祐賢 1962 「農学原論」
(8)富永裕治、立野保男訳 1936 
    「マックス ウェーバー社会科学方法論」
(9)Masianne Wever 1926. Max Wever.
    ein Lebenshild
(10)トルーマン「1949年年頭教書」
(11)坂本徳松、西野照太郎、中川信太 
    1960「植民地主義と民族かく寧」
(12)United Nations. 1963 United Nations Special Found, Report
(13)田辺元 1931 「科学概論」第5章

南米開拓前線を行く 34
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第二節 農業拓殖学の性格、所属及び研究範囲
ーーーーーーーー5月14,16日記入開始
 前節において、私は一応現在の諸科学に伍するだけの資格が農業拓殖学にもある所以を述べた。そして旧き植民学とも、又、農学とも区別される所以を述べた。しかし乍ら、科学として定立したとしても、如何なる性質をもっているかを茲で論じて、一層明確にその独自性を論ずることにした。これは農業拓殖学の如き若き科学にとって将来の発展への路線を 示唆. する作業であろうと考える。(マツエ注【示唆=ししゅん と読むのだそうです。てっきり じじゅん か しじゅん とかよんでいたのですが】)
 先ず科学たらしめる第一条件としてその対象の確定を前節では述べた。その時にいかなる科学であるかに関し述べることを約束した。科学は、先ず何よりも精密なる知識を素材とするが、この精密なる素材たる知識が雑然と並べられただけでは、それは百科全書的な常識であって、科学とは申されない。昔はそれも学問ではあった。しかし、そのような文化の所産を広く学問と言った時代は過去の事であって、学問の発達はこれを分化してきた。科学史、哲学史の研究はわれわれにそのことを教えるのである。科学の発達史や哲学史は我々に科学の分化、即ち個別の新しい科学の独立が、新しい範囲の研究対象の発見され区別を便とする事によって発達したした事をを教えている。それ故に対象によって分離し、独立せしめる事も否定できぬ手法である事は認められるであろう。農業拓殖学はそのような手法によって一応独立させたのである。(つづく)

マツエ:みなさん 訂正させてください。示唆 お言う字を、ししゅん と読むと書きましたが、これはいくら考えても しさ ですね。 示唆する=暗に示す、みたいな意味。(考えすぎたようです=申し訳ありません)
(余談)杉野先生の論文を写させてもらっていて、人類に農業の始まったころの考え方の発展を考えるようになって、最近のネットへの、農業の始まる前、という話題などのニュースが飛び込んできたりで、その頃の人間の話に注意しているのですが。
最近イタリアの洞窟で、ネアンデルタール人の子供の手の骨が、ハイエナとか他の猛獣の骨と一緒に発見されて、その当時、10万年だか15万年前には人間が猛獣の中で毎日命の危険と一緒に生きていた、等という話が論じられています。そのネアンデルタール人が2万8千年くらい前に地球から消え去った、というはなしがあって、どういうことなのか、面白そうでまた興味がわいているのです。が。・・・
そんなネアンデルタール人のDNAを引き継いでいるとされているヨーロッパ人に、新型コロナへの免疫性が弱いのか、無いか、という理論が発表されているそうなのです。アジア人とかアフリカ系にはその因子が無い関係で、新型コロナの威力があまり効かない(免疫)、のではないか、という説だそうです。
 ヨーロッパ人やインド系の人達の爆発的な蔓延を考えていて、何か原因があるのではないか、常々思っていたのですが、・・・日本の方達には、そういうニュースを既にご存じと思いますが、ブラジルに居て、今、杉野先生のことで古代農業の事を調べていたら、そんなニュースに出会いました。
 もしそれが真実で、絶滅したネアンデルタール人のDNAの影響が新型コロナにヨーロッパ系の人達が弱いのは、奇妙にも辻褄があっているような感じもします。
世の中というのは、不思議なものだなー、と思っています。

みなさん 杉野先生論文 
南米開拓前線を行く 35
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第二節 農業拓殖学の性格、所属及び研究範囲
ーーーーーーーー5月17日記入ーーーーーー
 次になお科学たる為には、かくの如くして得られた精密なる知識が一定の過程の下に選択され、組織されねばなお百科全書的な知識集団と大差なく独立の科学とは申されぬ。対象そのものは未だ混然たる ansich の状態にあるものとみてよい。これを一個の科学として組織してはじめて知識それ自身が fur sich となる。(an sich= そのもの・ドイツ語 für sich=自身のため・ドイツ語)換言すれば、自覚の体系とでも言うべきである。即ち「あるがまま」の知識が、明確なそれ自身の独自性を自覚した知識の体系となると言えるのである。換言すれば、同一対象の中から別個の知識体系が成立し得るのである。これを農学について見れば、農業というan sich の対象から、方法論的に技術学としての農学と、経済科学としての農学とが夫々成立するが如きものであろう。一応対象によって分類すると言っても、人間は自明の理の如く今日考えている対象も、実は混然たる未分化の an sich の現象をすでに何等かの選択を行っているのである。対象の相違と考えているのは、すでに或る程度の認識方法の相違によって生じた現象の側面と言い得る。即ち、独立の科学の独立する真の根拠は、その特有の研究方法によって独立するものとされるのである。この見地よりすると、農業拓殖学の如く、その対象を探検にはじまり、新しい村つくりに終わる広範なる人間の作為を対象とする科学が如何なる研究方法によって独立し、成立するかを研究する事は重要な第二段階の条件吟味と言わねばならぬ。(つづく)

マツエ:和田さん お世話になっています。農大会アマゾン支部の作成した農大アマゾン移住50年記念誌から表紙の写真を2枚、借りました。農大会のアマゾン支部写真ですから文句は出ないと思います。
杉野先生の,写論の挿入写真に使って頂ければ幸いです。宜しくお願いします。

みなさん 杉野先生論文 
南米開拓前線を行く 36
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第二節 農業拓殖学の性格、所属及び研究範囲
ー5月18日記入ー
 ヴァントは科学を形式的科学と実質的科学に先ず分けてから、形式的科学として純粋数学を、実質的科学として自然科学と精神的科学とに分けた。彼の分類に従うと、農業拓殖学の要求する科学は内容的に彼の自然科学系列の化学や生理学や地質学や星学、地理学、鉱物学、動物学、それに精神科学系列の社会学、歴史、経済学等を総合的に必要とする。そうすると若しヴァントが生きていてこの農業拓殖学を見たら、どのような科学として彼の科学体系の中に位置せしめたであろうかと興味を感ずる。換言すれば農業拓殖学、或は農学という科学はかくの如き科学の体系の中で如何に扱うかと言うという問題が問われなければならないだろう。ヴィンテル・ファントが、1894年の「歴史と自然科学」(²)によって、科学を対象の相違によって自然科学と精神科学とに分かつことに反対し、夫々の科学の認識目的の相違、従ってその研究方法の差をもって分類の基準とした事はすでに古典的評価を受けている。
 彼の学説を更に発展した人がリッケルトであり、その「文化と自然科学」(₃)(1898)がこれ又科学分類を為す場合の古典と目されているものである。しかし、この両者によって自然科学と文化科学或は歴史科学の別が、対象によるものでなく、同一経験事実が認識目的、即ち一方は普通必然的な法則発見を目的とし、他方は文化価値に関係せしめてその内容を組織化すると言う認識目的の、或は従ってその研究方法の差による事が明らかにされた訳であるが、それでもなお、農学や農業拓殖学は、どちらに帰属するのか、又、自然科学にも、文化科学に属する科学にもまたがりその成果を統合し、体系化すべき性質を要求されている科学は如何に扱うべきか、如何にして科学化できるか、方法論によって科学成立の根拠たらしむべしと言う第三の条件はリッケルトを 俟つ も未だ判然とせぬのである。(つづく)
【マツエ注・俟つ という漢字の意味は、まつ、止まって何かが来るのを待つことです】



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