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アマゾン入植50周年に寄せて  學校法人 東京農業大学理事長 松田藤四郎
現在、松栄さんに杉野先生の≪南米開拓前線を行く≫を写論して頂いていますが、杉野先生の思いを引き継がれた松田藤四郎先生(東京農大学長、理事長を歴任された)がアマゾン移民50周年記念誌に寄せられた祝辞を送って呉れましたので松栄さんの前文と共にホームページに残して置くことにしました。松田先生の写真があればと検索てみたら東京農大理事長時代にタイ国の白象勲章を国王から手渡された時の写真が一番先に出て来ましたでそれをお借りする事にしました。


みなさん
 私たち50年主催の早稲田大学OB・和田さんのご好意とお勧めで、杉野先生の論文を改めて、確認させていただいています。
いったい、戦後1953年だったかに、戦後のブラジル移住が始まってこの約70年で、どういう状況になってきたのかを、農大の農業拓殖学科の動きから、見てみたい、という意識が浮かんできました。
組織的に、ブラジル移住を振興してこられた団体は今はその名前も定かでなくなってきていますが、学校の一学科として、農業移住を率先して行ってきた、という農大の目線で見てみたい、と思っています。
農大学長だった、千葉三郎先生が発起され、その全権を杉野先生に託されたのですが、農大に発生した学校存続の危機に瀕した折に、精魂込められて学校の存続を各方面に働きかけられ、なんとか農大を存続させられた代わりにその寿命を奉げられた感じで急折された・・・その杉野先生の気持ち。
以下は私の個人的おもいですが。
1976年当時、教授になられていて、学生部長になられた松田先生に、杉野先生の意思が伝わったのだろうと思います。
杉野先生、千葉先生の記憶のあるアマゾン一帯を、小野先生のご案内で訪問され、千葉先生、杉野先生、農大卒業生、の気持ちが、後に学長、理事長に就任される松田先生に乗り移ったように思います。
そんなエピソードを、松田先生自らが、記されている文章を、アマゾン50年祭に寄せられた松田先生の祝辞から読み取れた思いがしています。
杉野先生が亡くなられて以降、農大の流れとしてのブラジル移住OBの生き方、とか、広く今後の農大の方向を考えるヒントにもなるのではないか、という思いがしています。
 そんな、松田先生の祝辞を以下に、添付させて頂きます。アマゾン分会の50年記念誌を頂いていたのですがひょんなことから先日初めて目を通す、というボンクラですが、松田先生に、凄い文章を残して頂いた、と言う思いがしています。
     サンパウロ   マツエ

 アマゾン入植50周年に寄せて 學校法人 東京農業大学 理事長 松田藤四郎
 私は、現在75歳1ッか月を過ぎました(2007年1月末日)。75才と言えば、最初にトメアスーに入植した坂口 陞さん(1956年林学卒)と2才違いになります。一緒に入植した常光憲之君(1957年農学卒)、木村弘三君(1957年短農卒)も2−3才の違いでしょう。またサンパウロ近郊に入植した北原 譲さん(1957年短農卒)、佐々木q、さん(1957年短農卒)等同じくらいでしょう。それだけに、60年代から今日まで激動の50年間を感慨はひとしおの物があります。 今回入植50周年祭に、是非出席したいと思っておりましたが、思いがけない病気となり出席できず残念でなりません。
 後輩でアマゾン川のモンテアレグレの亡き岸 靖夫君(1965年拓殖卒)と喧嘩した記憶が生々しく思い出されます。
それは酷寒の地北海道と熱帯のアマゾンの違いでした。私は北海道オホーツク沿岸の紋別の出身です。家は牧場と市内のミルクプラントの経営でした。子供の時は、牧場で育ち牛や馬を追い掛け回しておりました。酷寒の地で今は考えられませんが、零下20℃という日もまれでなく、寒さで樹が割れたり、オホーツク海の氷が鳴いたり、猛吹雪で2−3日家を出られないこともしばしばでした。北海道の開拓がどれ
だけ厳しいものか体験しています。
 私が初めてアマゾンを視察したのは、1976年夏でした。当時のアマゾンは「緑の魔境」と紹介され、まだまだ未知の部分がありました。しかし、酷寒地北海道と比べ熱帯の豊かさを感じました。
岸君が 「大学が組織的に卒業生を送ったのに、その後何もしてくれなかった。俺たちを棄民にするつもりなのか」
と言ったので、若い私は北海道の開拓と比べ「こんな条件の良い所はない」と言ったところ、岸君は私のいない所で・・・
 「生意気な野郎だから 明日アマゾン川に沈めてやろうか」と言ったとか。
        (ー上記の話?ー)
その後、1980年再度トメアスーを訪問し、多分、土屋准二さん(1960年拓殖卒)の所に一泊し、坂口さんの経営の調査をした。その後、坂口さんの樹木作混色農法を日本に紹介した。
坂口さんの経営調査後、上杉嘉幸さん(1961年拓殖卒)、長坂 優さん(1965年拓殖卒)を調査した。その時金木良三先生が土屋さん,田部軍司さん(1966年拓殖卒)、小野 功先生が池上正孝さん(1972年拓殖卒)、大竹秋廣さん(1967年拓殖卒)を調査した。
ベレンで盛大な卒業生の歓迎を受けた。その時坂口さんが 「これは本物だ」 ということになり、上記の話をしてくれた。
それからすっかりブラジルの応援団長を自称するようになり、その後何度か訪れるようになった。
 1960年代、北海道は大農で馬耕時代であった。トメアスーも日本内地の小農と違い、大農で馬耕時代であった。
違うのは現地の雇用労働が一方はなし、他方はあるとの違いであった。その後、機械化時代に、自動車社会、道路整備など市場の大変革の時代となった。
 50年前のトメアスー農業の変革と日本の農業の変遷をみると感慨無量のものがある。
 岸君が大学は組織的に卒業生を送ったといっているが、それは大学全体のものではなく千葉三郎、杉野忠夫の個人的情熱で、大学全体の物ではなかったような気がする。
 大学全体のものにすることが、現在の教職員、校友会の責任だと思います。
 最後になりましたが、入植50周年祭実行委員会の後輩の皆様に心から感謝を申し上げて、全伯にいる卒業生のますますのご活躍をお祈り致します。



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