南米開拓前線を行く。その7 松栄 孝
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字数に達したので南米開拓前線を行くその7をUPします。今回は、その44より53の10回分です。毎日少しづつの写論ご苦労さん。杉野先生を偲びながら勉強させて頂いています。杉野先生には、松江さんが云って居られるようにもう少し長生きして貰いたかったですね。松江さんの写論は、まだ半分も行っていないので100数十回になるのではないかと思います。無理をしないでゆっくりと楽しんで行きましょう。写真は、これから何度かお世話になる農大記念誌、堅き絆の表紙をお借りしました。 |
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南米開拓前線を行く 44 杉野先生の論文目次
目次
第一章 学論研究の序章
第一節 学論提起の理由
第二節 用語及び訳語に関して
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第一節 農業拓殖学の定義と研究対象
第二節 農業拓殖学の性格、所属及び研究範囲
第三節 農業拓殖学の体系と原論の地位及び構造
第四節 原論の当面する理論的課題
第一款 農産物過剰生産論に対する批判
第二款 現代における植民地主義の批判
第三款 歴史観の批判
第三章 農業拓殖学ならびに原論の研究方法
第一節 学論構造上研究方法論の意義
第二節 歴史的研究方法
第三節 内省的研究方法
第四節 統合主義的社会学的研究方法
第五節 実証的研究方法
結論
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これから第2章 第3節に入ります。
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第三節 農業拓殖学の体系と原論の地位及び構造
ーー5月27日記入ーー
第三節 農業拓殖学の体系と原論の地位及び構造
上来のべ来たった如く農業拓殖活動を規定し、その活動の準則発見的科学として、経験的知識の採択を行い、体系づけを企てた時、私に大きな示唆を与えたのは、若き頃学んだスイスの農業学者として有名なエルンスト・ラウル博士の農学の体系である。ラウル博士はその名著「農業経済学」(¹)(1920年)に於いて、農学を農業技術学と農業経済学とに分ち、技術学は更に植物生産学と動物生産学と副業学に分かたれ、農業経済学は1930年の第2版では次の7部門に分かたれている。即ち、第一は国民経済の法則的基礎、第二は農業史、第三は経営学、第四は農業計算学、第五は農業評価学、第六は農政学、第七は農村社会学及び福祉問題である。申すまでもなくラウル博士は農業経済学、特に小農簿記の世界的権威であるだけに、その農業経済学の構成も、農業経済学、農業計算学及び農業評価学が重要な部分を占めているには当然であるが、私の注目したのは、技術学と経済学とを統合する実践的性格の学として農学の体系化が現れている事である。また、農業経済学の体系の中に、第一版(1920年)にはなかった農村社会学を第二版(1930年)に加えた進歩的、実際的な態度である。農村社会学は今日でもアメリカの学問だと言われる程、欧州大陸の学界ではレオポルド・フォン・ウィーゼがとり上げた位であり、(²)又、1930年の頃は、ソローキンやジンマーマンによってその科学化が進んできたばかりであった。(₃)それを農業経済学の体系の中に入れる事は、当時としてはよほど進歩的かつ大胆な事であったのである。又、農業史、農業政策、国民経済の基礎理論の三者を包括する考え方は、歴史的社会的現象を研究する科学が不可避的に有せざるを得ぬ三部分で、理論と歴史と政策(経営を含む)とを余す所なくとらえている点に強く惹かれるところがあった。(⁴) (つづく)
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第二章 農業拓殖学の学論の研究
第三節 農業拓殖学の体系と原論の地位及び構造
ー5月29、30日記入ー
しかし乍ら、前述の如く農学とも分離し、農業経済学とも分離独立して、実学の一体系としての農業拓殖学の樹立を企てた私は、彼の農学体系に準拠しつつ、なお独自の構成を研究し、農業拓殖活動の必要とする科学的知識の組織を、その活動の基盤たる地球の研究、活動の主体たる人間の健康に関する研究が未知の世界に挑戦する農業拓殖活動には欠くべからざる問題としてとりあげ、なおラウルに於いては農業はすでに完成せる農地の上に営まれる為に農地造成に関する農業土木や、その他開拓に必要な機械などの工学的技術学をふくんでいないが、農業拓殖活動に於いては未開発の土地を農地化する仕事が基礎造成の大き問題であるから、これも一連の研究を必要と考えた。かくの如として、結局先ず農業拓殖学の技術的系列として、農業拓殖地学(地質学、気候学、気象学、海洋学、天文学等)農業拓殖保健学(栄養学、衛生学、保健学、医学汎論等)農業拓殖工学(測量学、土地改良学、農地造成学、水理学、農機具学等)、農業拓殖植物生産学 (栽培原論、種子学、育種学、作物学、園芸学、林学、土壌学、肥料学、作物保護学、一般植物学等)。農業拓殖動物生産学(畜産学一般の他、動物学等)。農業拓殖農産加工学、以上六つの技術学をもって一半を構成するものとした。
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第二章 農業拓殖学の学論の研究
第三節 農業拓殖学の体系と原論の地位及び構造
ーー5月31日記入ーー
他の一半は農業拓殖に関する社会科学系列である。ここでラウルは農業に関する経済系列を一括しているのに対して、私はここで社会科学なる名を冠した点を解説すると、前に述べた様に農業拓殖学を自然科学、文化科学より養分を取る応用科学として樹立する場合、文化科学の系列と言う考え方では、技術も、文化の一種である以上、この名称を用い得ざるものと考え、より多く自然科学の応用科学たるものは技術学に、そしてより多く文化科学系の経済学、政治学、社会学に属する科学の応用科学は、人間を自然に相向かうものとして、人間の社会活動的側面をとらえる意味で、社会科学的系列の名を用いた。そしてこの系列においても六個の学的組織を編成した。即ち、農業拓殖活動を学問的研究の対象とする科学としての農業拓殖学そのものを研究する学問としての農業拓殖学原論。或いは農業拓殖活動の理論的諸問題を扱うとしてもよいであろう部門である。若し体系を更に順序だてるとすれば、農業拓殖原論を先頭にたて、次に技術学部門、次に社会科学部門とすべきであろう。次は農業拓殖活動の歴史を扱う農業拓殖史(民俗学、国際移住論が含まれる)。次は農業拓殖活動の行われる地域の研究として農業拓殖地理学。第四は農業拓殖政策学、第五は農業拓殖経営学、第六は拓殖農村建設学である。(つづく)
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第二章 農業拓殖学の学論の研究
第三節 農業拓殖学の体系と原論の地位及び構造
ーー6月1日記入ーー
この体系図は現在の東京農業大学の農業拓殖学科の専門科目と必ずしも一致しない。それは何故かと言うと、この学科としては非常に重要な第三の授業科目(第三と言うのは一般教養科目、専門科目に対して第三と言うのである。この場合教職科目が第四とされる)として、農業拓殖の舞台となる海外諸国の国語の習得がある事である。現在では当面多くの学生を要求している地域としてラテンアメリカ諸国の国語であるスペイン語、ポルトガル語があり、東南アジア向けとしてインドネシア語、及び旧仏国の植民地向けにフランス語が教えられている。将来はインド向けにヒンズー語、中近東用にアラビア語、ペルシャ語等が必要になるかもしれぬし、中国語、ロシア語、ドイツ語が加わるかも知れない。ともかくも、これからの海外での農業拓殖活動には英語は日本語同様に読み、書き聞き且つ語る能力が向上する必要がある。その為には現在の単位制度の教育制度上は大幅に授業科目を圧縮せざるを得ないからである。体系論は以上で大様を述べたが、次にこの体系で原論には特殊な位置付けをした事は前述の如くである。そこで次に原論の位置とその構造について述べることにする。又、本論文においては原論の構造に関する研究が主題の一つでもあるからである。(つづく)
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第二章 農業拓殖学の学論の研究
第三節 農業拓殖学の体系と原論の地位及び構造
ー6月2日記入ー
農業拓殖学は如何なる学問であるかと言う質問、及び又如何なる学問である事を要求されているかと言う反省、その研究対象は何か、研究範囲は何か、又、如何なる意味において独立せざるを得ないか、その系譜論として植民学との一線を画すべき所以も論じてきた。言わば農業拓殖学の学問論である。そしてこの学問論が原論の内容を成す事も説いて来た。しからば原論の地位如何、構造如何とは何を問題とするのかである。原論の地位とはすでに体系論でふれた様に、技術学部門でもなく、社会科学部門でもなく、むしろ全体に先立つ、哲学的研究が主である事と、農業拓殖活動の全体的統一的把握を企てんとする意図を私は含んでいるので、哲学的研究のみとも断じかねるのである。即ち、農業拓植原論は各部門の科学を各論とすると、その総論とも言うべき地位にあって、農業拓殖学をして独立の特殊応用科学たる所以を明かにする哲学的研究の部分、従って対象論、系譜論、範囲論、性格論、目的論、方法論を研究する学問と、農業拓殖学の研究題目の広範さ、従って科学として分化、専化の進行の結果、実学として性格喪失の危機を救う為の反省として、農業拓殖活動を全体的統一的に把握する事が、実践の準則発見的科学として必要ではないか、そしてそれは個々の専門科学の問題ではなく、それこそ全体系の基礎を論ずる原論の仕事たるべきではないかと思う。(つづく)
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第二章 農業拓殖学の学論の研究
第三節 農業拓殖学の体系と原論の地位及び構造
ー6月3日記入ー
換言すれば、それは農業拓殖活動の本質は何か、それは時と所によって又、その活動の要素たる人によって如何に変化するものであるか。これを歴史的社会的現象として観察する時、それは如何なる歴史的社会的法則を露呈するのであろうかと言う事をとらえる事は、農業拓殖学を実学として、応用科学として観る場合非常に重要な問題で、技術学や他の社会科学系の科学に劣らぬ重要性があるのである。
否むしろこの農業拓殖活動の本質を明らかにし、その各般の現象形態との関連を明らかにする作業によって、農業拓殖学が他の科学に対して自己を確立するとも言えるのであって、原論はこれを扱うことによって、農業拓殖学を農業拓殖学たらしめるのである。それ故に原論の地位の如何に重要なる事は申すまでもないが体系の中では総論とも言うべき地位にあるべきであろう。
従って茲に言う原論の構造とは原論にふくましめるべき研究要目とでも表現するが良いかもしれない。即ち、原論とは何を研究するのかと言う事である。そこで以上を述べた所を要約するならば、原論は、農業拓殖学の学問論と、農業拓殖活動の運動法則の研究とより成ると言う事が出来るのである。この学問論に於いて私はすでに農業拓殖活動の本質論にふれたので茲にはくりかえさな事にした、
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第二章 農業拓殖学の学論の研究
第三節 農業拓殖学の体系と原論の地位及び構造
ーー6月4.5、6日記入ーー
運動法則と言う表現は自然科学の認識目的とする自然界の因果律的法則程のものではないが、農業拓殖活動が社会現象でもあり、歴史的現象である側面からも捉える事が出来る以上は、社会科学的な法則性の認識が可能であろうと言う意味において運動法則と言ったのである。(⁵)そして原論の構造の研究はかくの如き大きい部門区分から更に下部の構造、即ち研究区分に進まねばならなぬ。私はその意味で原論の他の構造部分たる統一的把握としての歴史的社会的現象としての農業拓殖活動の運動法則を次の六つの段階に分けてとらえようと企てたのである。その研究成果は私の原論研究の主部を成すものであり、過去8か年間私の原論の講義の内容を形成した。それはこの様にしぼっても広範にすぎ、その一部分ずつしか講義出来なかった。
まず第一は農業拓殖活動は如何にして起動するかと言う発生論の研究である。これは農業拓殖活動の本質論に基いているので発生の根本機動力は先に本質論のふれてのべたから省略するが、農業拓殖活動の発生論としては、その発生の現象形態も研究されねばならぬのである。民族移動論、人口圧力論、国際移住論、人口流動論等が実証的に研究されなければならない。次は条件論である。これは農業拓殖活動の成立するためには、能動的な原因のみでなく、新らしい農業拓殖地域が存在し、この活動者を受け入れるところがなくてはならぬのである。これには時代と場所によって条件が異なり、その条件が異なるに従って拓殖活動そのものの方法や形態が異なってくる。無主の土地の占領の場合もあれば、一種の侵略行為によって場が成立する場合もある。又、招かれて成立する場合もある。耐して、かくの如き成立の受け入れ条件と、能動的動因との総合の結果として、その農業拓殖は種々の形態をもって発展する。
又、農業拓殖の形態をとらざる場合も発生すのである。これは形態論として研究するので後述する。条件論は現在の問題点としては、現在の時点において、存在を予想される地域について、農業拓殖活動の必要度の判定と言う研究が含まれねばならない。これは農業拓殖地理学、特にその人文地理学的側面の知識を必要とするが、地理学とは異なる視点に立つものである。対象は同じでも、方法は異にする。(つづく)
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第二章 農業拓殖学の学論の研究
第三節 農業拓殖学の体系と原論の地位及び構造
ーー6月7日記入ーー
即ち、その地域の農業の開発度を尺度として測定するのである。かくする事によって未開発地域、低開発地域、粗開発地域、老開発地域の四つの地域を見出すことが出来る。未開発地域や低開発地域は説明するまでもないが、粗開発地域と言うのは近代化農業が行われ、労働の生産性も高い所の、たとえば北米の農業地帯の如きその一例である。地力が略奪され、土地生産性は低くり、土地の用度は決して高いとは言えず、時としては全く荒廃に帰する場合すらある。農業拓殖活動の点からいえば、再開発して、将来大いに受容力を高めえる点では、低開発地域と異なる事はないのである。この点では原住民や移入した黒人や、他民族の労働力の搾取、或いは同一国民であっても、無産階級の労働力の搾取によって経営されるプランテーション方式の農業は、一見進歩的に見え、近代化農業の観を呈する場合もあるが、農業拓殖活動より見れば受け入れ条件によって発生した農業形態の一形態であって、農業拓殖活動の終着点ではない。それは何故かと言えば、結局は土地を荒廃に帰せしめるからであり、又、老開発地域と言うのは、資本主義が大いに発達して一国産業の構造が変化して第一次産業たる農業が衰退しつつある地域である。イギリスの如きその典型的なものである。かくの如き地域に果たして農業拓殖活動の受け入れの余裕ありや。人は疑問に思うであう。これらの地域は全盛期を通じてむしろ農業拓殖活動者を放出した国々ではないか。確かに歴史的にはしかりである。しかし乍らこの様な歴史の潮流は、その頂点に達するや変調をきたしつつあるのである。イギリスに於いて農村の荒廃を憂うる声は古くからあったが、その食糧の自給力の減退がさらに深刻な問題となったのは第一次世界大戦の時である。工業立国、植民地産業への依存、海軍力と海運力を土台とした英国民の食糧問題解決方が、非常に危険なものであり、食糧不足より来る社会不安は非常なるものがあった。(つづく)
南米開拓前線を行く 52
(余談)
杉野先生の論文を読んでいて、思うことは、この内容が現在の日本農業にも十分当てはまっているようにおもえて、日本の今の食糧自給率が40%を割っているし、農業地帯の荒廃は目を覆うものがあるのは、皆様もご承知の日本の現状ではないか、と思うわけです。
何か、根本的に農政の大綱を良い方向にもってゆく事を日本農業は必要としているのではないか、と思えるのです。 そんなことも写論させて頂きながら、自然に心に浮かんできます。
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第三節 農業拓殖学の体系と原論の地位及び構造
ーー6月8、9日記入ーー
国内生産の食糧をもってして僅かに一か年の食糧需要の中、二か月を支えるにすぎぬ有様であるったと伝えられている(⁷)英国の戦時食糧対策は公園まで開墾するに至ったが、この苦しい経験は、この自由貿易の古典的国家をして、事農業に関する限りは政府が保守党内閣たると労働党内閣たるとを問わず、保護政策に転じ、鋭意農業復興に努力しつつあるのである。英国が1848年 Corn Low 廃止以来殆んど一世紀にして1934年以来国内農業保護の為の関税政策をとるに至った事は注目に値する。イギリスの人は問題を研究すると、最近は曾ての植民地からの帰国者が増加して人口は逆流入現象を生じている。(⁸)これは必ずしも国内での農業拓殖活動の為ばかりではないが、農業面における労働不足が新しい受け入れ条件となりつつあることも一因を為している。私はここ十年程、国際農友会の活動に参加してデンマーク、西ドイツ、スイス、カナダに日本から農業実習性を送出し、実習生の受け入れ国の農業事情について知る事が出来たが、カナダの如きは、その広大な未開発地域の故に労力が不足するのでなく、その急激な工業化に伴って都市近郊は集約的生鮮蔬菜地帯を必要とするに至り日本園芸農家に着目し始めているし、イギリス、フランス等はイタリーより農業労働者を招致し、西ドイツ、スイス等は農業法を制定して、農業保護につとめている。かかる先進国自体が農業拓殖活動の受け入れ国と転ずることは、今後益々その可能性を増すであろう事は、その人口型の老化現象や、農業と工業のその所得格差等からも予想するに難くない。如何に世界平和が叫ばれ、如何に、国際協力が叫ばれても、まだまだそれは理想の段階であり、夫々の地域において食糧の確保の必要となる事は現在の問題である。EEC(欧州共同市場、或いは欧州経済共同体)に於いて常に問題となるのが、その共通農業政策の問題であるというのも、帰する所は、各国ともその農業保護が必要であるからである。(⁹) 内地植民と曾て呼ばれた運動を農業拓殖活動として扱うかぎりは老開発国も立派な受け入れ条件をもっている事を発見するであろう。(つづく)
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(余談)
先日の記載で、杉野先生の学科科目についてのコメントが出ました。それで、自分たちの時はどうだったか、と考えて自分の成績証明書を探し出してきて、現在の物と比べてみました。
自分が学校を卒業して45年して考えることが、正解なのかどうかわかりませんが、批判するのでなく、思うところを述べてみたいと思います。
語学については、本当に習得するのは至難の業ですが、私は最低でも3年くらいはしっかり勉強しないと世界では、まったく通用しないのではないか、と思います。我々の場合(45年前)は2年次からスタートで3年間の必修で、私の場合は外地実習を1年(=3年生終えて1年休学して5年で卒業することになって)やりました。2年から始めたブラジル語を2年間やって、3年生で1年現地ブラジルでその授業成果を、とおもったのですが、ブラジルに来て、全く、本当に全く分からなかった。特にラジオのサッカー放送を聞いて、…このアナウンサー、いったい何を言っているのか、全く分からず、大声で ワ―ワ―ワ―ワ―で最後に ゴーーール!!! と言う言葉だけ分かった始末。そんなで、1年間少しづつ、耳と口と手真似でやりながら1年の実習が終わるころに、ようやく同僚のカマラーダ(農業労働者)が何を言っているのか、が分かるようになったのです。
そして帰国復学の5年生で、そのブラジル語の何たるかが少し分かった感じで、当時農大には、東京外大から講師として先生が来てられて、少しブラジル語が分かるようになったので、外大の授業に誘ってくださいました。 外大の授業に参加させてもらって、2−3才若い学生さんに交じって、国立外大ですから授業は7−8人の生徒しかいなくて、農大のようにズルできない感じでした。授業はすべてブラジル語で、分からないと90分何もできない訳です。そんな学生さんも2−3人いて、彼らは勉強の邪魔にならないように、後ろに座っていました。その時、外大と言うのは凄いなー、ここまでやれれば卒業したらすぐ外資系の会社で使い物にな訳だ、と思いました。出来れば、農大でもこのレベルに学生さんがなれば、農業技術が、即外人さんに教えられるわけです。
そんなことを感じたことを思いだしています。(つづく)
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第三節 農業拓殖学の体系と原論の地位及び構造
ーー6月10日記入ーー
しかし乍ら、この受け入れ条件の四つの地域の中でも、特に未開発地域は、最も将来大量の人口を受け入れると共に、新社会形成のいわば白紙の基盤であり、農業拓殖活動から言えば最も注目すべき処女地である。それは大観すれば、砂漠地帯、熱帯ジャングル地帯、北方寒冷地帯の三大地帯がある。(10)原論においてはその開発の技術論は扱う所ではなく、それは農業拓殖の技術学の分野の研究対象とするが、原論において扱うのは、かくの如き地帯の存在を立証するにある。そして、開発地域たり得る諸条件の吟味をなすべきである。吟味すべき諸条件の研究は多分に開拓適地調査の研究に 俟つ けれども、(注・俟つ と言う漢字 読み方 音読み:シ 訓読み:マツ 意味 人を待つ、待ち受ける という意味がある。)
条件論は更に広い視野に立って、与えられた地域が、農業拓殖活動の基盤たり得るや否やは、自然的立地条件そのものを政治的文化的手段によって経済性を与え、経済的立地条件の角度からも吟味すべきである。条件論が、地理学からも離れて原論の中で扱わんとするのは、条件に制約されて農業拓殖の方法や形態と相関関係をもって農業拓殖活動が展開するからである。
次に旧植民学で植民の種類として研究された業績の大部分はこの原論の形態論や方法論に摂取される。そして農業拓殖の視点から再検討されねばならない。むしろこれを一括して
拓殖形態論と言ってもよいかも知れぬが、分析すれば拓殖の方法によって、拓殖の形態ーーくわしく言えば拓殖者の生活の形態ーーが変わるのである。又この場合に私は農業拓殖を狭義にとって原始的な農業拓殖活動を狩猟採集的拓殖、高度に発達した食糧生産的農業拓殖活動を農業的拓殖とした。そうして各々の拓殖の形態を区別する基準を、新地域での生活方法、生活の組織、生活の機能によって見ると、大体次の如く十四種類くらいの形態があることを見だすのである。
(つづく)
和田:松栄さん 毎日、写論ご苦労さんです。44回から丁度10回で9000字に達したのでこれで締め切りその7としてホームページに掲載して置きます。53の余談に続くとありますが、500字前後で纏められるのであれば一緒に掲載させて頂きその8は、54から始めることにしましょう。週末には掲載します。
和田さん みなさん お世話になっています。(ありがとうございます)今朝もまた、夢を見て目が覚めました。500字の余白で・・・・ということで、以下に。
杉野先生の64才の生き方を垣間見せて戴き、日本の最も厳しい時代(大東亜戦争)を生き抜かれ、満州から帰国されて、それまでのキャリアーを戦後の日本の復興に生かされた、という面では、山崎豊子さんが書かれた「不毛地帯」の主人公たる瀬島龍三さんの生き方そのものが杉野先生ではなかったかと、瀬島氏は丸紅で、杉野先生は農大で、後進の指導と親会社(親大学)の発展に献身された生き方、杉野先生も自身の経験をもとに、青年の行く末、日本の将来に寄与されてその功績を残された、残念なのはもう10年杉野先生がご健在であられて、自ら育てられた農業拓殖理論(杉野理論)の現実性を確立されていれば、瀬島さん以上に現在社会に評価されたのではなかったか、と私は思います。ご両人とも、満州での生き方が批判されている一面があって、しかし戦後の日本の方向性を考えれて行動され、農大生開拓青年の生き方、学移連の皆様のブラジル社会への貢献などなど、万人の認めるところではないかと
考えます。
和田:松栄さん 追加書き込み有難う。上手くはまりました。週末にUPします。次回は、54からお願いします。瀬島龍三さんは、商社丸紅とありますが、伊藤忠だったのではないですか?丸紅ブラジル会社に20年近くお世話になりましたが瀬島さんの話は聞いた事はありません。
丸木で~す 瀬島氏は丸紅でなく伊藤忠でした。GHQによる集中排除法で分割される前は同じ会社の大建でしたから、どっちでもいい様なもんですけど。僕の高校同級生の小林君が瀬島さんの片腕で活躍してたのは、不毛地帯に八束の名前で登場してます。伊藤忠で彼は専務までやった様ですが早死にしました。
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