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南米開拓前線を行く。その8 松栄 孝
南米開拓前線を行くその8は、54から始まり60迄の7編を収録しました。松栄さんの余談が多く余り進みませんでしたが、難しい杉野先生の論文だけでは、読み進むのに苦労すると思うので解説的な松栄さんの余談に助けられています。このまま最後まで続けましょう。1回1万語と制約されており調整に苦労しますが、何とか上手く遣り繰りします。写真は、又「堅き絆」よりお借りすることにしました。


南米開拓前線を行く 54
(余談)前回の続きです。語学と同じく、卒業して45年も経った大学OBが現状もわきまえず言ってよいのか、分かりませんが。農業実習についての、私個人の感想です。
 私の場合、1年學校を休学させていただき、ブラジルに渡って、先輩OBの経営される農場で、実際のブラジルの日本人農業を体験させていただきました。1年と言う時間が長いか短いか、よくわかりませんが、少なくとも3か月は同じ所に滞在できれば、そこの様子が分かるのではないかと思います。(3日三月3年と言うのが単位ではないかと思います)その3月寝食を共にするという条件がついて、そこの人達が何を考え、どういう生活をしているのかが垣間見えるだろうと思います。1と月2か月と言う時間であればお客さん扱いされて、実態が分からない感じで。そのうちに終了、という感じではないかと思うからです。
3か月、半年、1年と滞在時間が経ってゆくと、あたかもそこに住んでいる人の感覚を得られるのではないかと思います。私のブラジル実習では、だいたい半年間アチバイアというサンパウロ近郊50kmほどの高原地帯でリゾート地で園芸農業地域(果樹、花卉、蔬菜等)、日本の近郊農業地域のような地域で、先輩農場で半年花の生産(バラ、カネーション)を実習しました。そのアチバイアと言う郡には農大OB先輩が当時20家族以上おられて、週末にはたいていどこかの農場でフェスタ(シュラスコなど)をやっていました。その地は地域の日本人会の運動会、農業品評会や、盆踊りまでやっていまた。
 そして実習を終えて後半の半年では、杉野先生ではありませんが、6ッか月かけてブラジルを旅行して回りました。農場実習では毎月最低給料=カマダーダ(一般労働者)と同額給料(150ドルくらい)が頂けました。実習は食と住はついていた(パトロン持ち)ので、そのお金を貯めて旅行の元手としました。(6か月貯めた)その合計1年の実習で、社会事象体験・見学、などでブラジルの良さみたいなものが分かり、言葉も半年間毎日カマラーダの中で仕事したら、自信みたいなものが出来て、ブラジルの一人旅、もあまり苦にならなかった。
今の青年にも、そういう経験をやらせてあげれれば、かなりの事を自分で習得できるのではないか、と思っています。そして、人生に対するある程度の自信も出てくるのではないか、同時に就職希望であれば、専門知識や社会常識(面接レク千ャー)なども学べると思うわけす。そういう農業拓殖・学習方法、というのもあるだろうと思います。(つづく)
杉野博士論文
「農業拓殖学の構造に関する研究」
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第三節 農業拓殖学の体系と原論の地位及び構造
ーー6月13日記入ーー
 それは、狩猟採集的拓殖からはじまって、漁業的拓殖、略奪的拓殖、鉱業的拓殖、林業的拓殖、商業的拓殖、交通運輸通信的拓殖、工業的拓殖、労働的拓殖、軍事的拓殖、統治的拓殖、投資的拓殖、文化的拓殖、農業的拓殖がこれである。各々形態夫々の消長があり、また相重なる複合形態もあるが、分析すれば以上の如くになるのである。各形態の発生は原因が複雑であり、時代と立地条件とによって将又社会事情( 【将又】=はた−また ... それともまた。)によって規定される所が多い。この形態論を研究すると、夫々の形態が不可避性を有することを発見するであろう。掠奪的拓殖の典型的なるるものは16世紀初期のイベリア半島の諸国民の行ったラテンアメリカ遠征の如きそれである。(11) インカ文明やアズテック文明はかくの如くして破壊され、その金銀は彼らによって欧州に持ち去られた。重商主義時代の拓殖活動はかくの如きものであった。単に掠奪されたのは金銀のみでなく、当時農業拓殖も伴ったが、これもまた原住民の農産物を掠奪に等しい仕方で持ち去った。ポルトガルがブラジルを発見してもそれは久しい間ただその染料として持ちうる樹(ブラジル木としょうした)の略奪が仕事で、今日見る如き、農業が目的ではなかった)(12)アジア又、草原民族の数度にわたる西欧東欧への大掠奪遠征も亦掠奪的拓殖の一典型である。惨虐なる事、イベリア諸国民のラテンアメリカ拓殖と兄弟たり難しであるが、東西文化の交流、人種の混交が生まれた。拓殖形態のかくの如き分類的研究は農業拓殖活動を歴史的社会的運動の角度から通観する上から非常に必要なのである。それは旧植民地学では夫々が独立の研究対象であり、精々研究されて、その優劣が論じられ、その特色が論じられた。しかしこの農業拓殖学においては、優劣論よりも、その特質をあげ、更に、農業拓殖活動の本質たる拓地殖産の角度から各種形態をその現場形態と見、その関連性を見て、その発生理由も、存在理由も発見し、歴史的社会的現象として把握して行くべきである。これが農業拓殖学の立場から旧植民地学の業績を摂取する仕方と考える。就中、(「就中」とは、たくさんの選択肢のなかから、特に一つを取り上げるさまのことです。)
これらの諸形態の中でも、旧植民学に於ける農業植民に関する研究は重要なる遺産と言うべきである。吾々はその足跡をたどることによって、アメリカやカナダが何故にアングロ・サクソンの植民地となったかを知る事が出来る。それはスペイン、ポルトガル、オランダ、フランスの植民政策が、重商主義的あったのに反して、アングロ・サクソン国民は、自作農中心の農業植民にあった事にある。アメリカの植民者がやがて英国本土から独立して、現在のアメリカ合衆国を建設したが、それは実にfamily farmer の運動であった。この伝統は永くこの国の建国精神となって近日に及んでいる。ジェファソン大統領以来のこの伝統は続いている。アメリカがリンカーン大統領の時代に南北戦争と言う大冒険を犯してまで断行した奴隷解放と言う大事件も、南部のプランテーション農業に対して北部の family farmer の勝利である。自由と自主の境地が人間の理想であることは、アダム=スミスの国富論にあらわれたアングロ・サクソンの人生観であり、それはamily farmer にあってはじめて具現すると言うのも同じくスミスの国富論に於いてあらわれている所である(13)。(つづく)

南米開拓前線を行く 55
杉野博士論文
「農業拓殖学の構造に関する研究」
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第三節 農業拓殖学の体系と原論の地位及び構造
--6月14、15日記入ーー
又、リンカーンが大統領時代、理想の生活は何人にも使役されず、何人をも使役せざる生活にありとして大統領引退の後には、田舎に帰って family farmar たらんとした事はその書翰に残されている。(注【×翰】かん=· 1 羽毛でつくった筆「翰墨」 · 2 書いたもの。文章。手紙。「貴翰・書翰 )
今日のアメリカの農業はしばしば典型的な資本主義的農業と言われ、如何にも少数の資本家によって多くの労働者が雇われる企業的大経営の行われている国の如く言う人があるが、実はさにあらずして、規模は大きく、企業化されてはいるが実は経営者の大部分は farm family であり、family farm
が大部分を占めているのである。アメリカの農業が大部分 family farmer によって、担当されている事は早くから日本の農業者によって気付かれていたところであるが、一般的にはその経営規模の大なる事や、投下資本の大なる事、企業的な事、機械化されている事等よりして、観念的に資本家的大経営と考えられていたが、諸家の研究によってその実態が次第に明らかになってきた。同学の小野功講師が国際農友会派遣の一実習生として渡米し、研究し来たって発表した「アメリカに於ける最近のファミリー・ファームの諸傾向」(1961年)(⒕)において、現代の技術段階においては資本家的大農園はその拡大が管理面において限界が生ずるものとなし、過去25年間かくの如き農場が全農場数の3%前後に停滞している事がその証拠であると見ている。(つづく)

南米開拓前線を行く 56
(余談)今回の社論で感じたのは、植民政策に於いての、曾ての敗戦国日本の処遇が思い出されました、戦争末期、日本の敗戦が鮮明になり始めたころの、アメリカ大統領の考え方です。原住民(日本人)の処遇活動には、客観的に見て全滅政策が考えられていた、原爆投下によって日本人をせん滅させたかったのだろう。そして、敗戦が決まった終戦処理では、日本に徹底的な愚民政策が採られた、」ということだと感じるわけです。アメリカの執ったその愚民政策の結晶が今現在の日本社会ではないか、と思える節がイッパイあります。訳の分からないことを言う有象無象の国会議員の氾濫。  
 杉野先生は、図らずも農業拓殖政策と言う現象解説で、今現在の日本を既に看破されていたかのような具合になっている。
杉野先生の写論をさせて頂き、そこまで考えてしまった、と言うのは如何なも、のでしょうか?。
杉野博士論文
「農業拓殖学の構造に関する研究」
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第三節 農業拓殖学の体系と原論の地位及び構造
ーー6月16、17日記入ーー
 又、先にかかげた方法論とは各種の生活形態を生ぜしめる原因としての拓殖の方法の意味であって、農業拓殖の技術的手段としての方法論と区別されるのである。かくの如き方法論とはこの体系においては技術学において扱われる。しからば、原論において問題とする農業拓活動の方法論とは何のことであるか。それは技術的概念ではなくて、歴史的社会的現象としての農業拓殖活動の方法論の意味である。即ち、探検活動・征服活動・原住者処遇活動・移住活動等に分類する事が出来る。征服活動は自然を征服する活動もあれば、原住民を征服したり、競争者を排除したりする活動もある。原住者の処遇活動は全滅政策から奴隷化政策・愚民政策・分割統治政策・同化政策に至るまである。これらは曾ては、植民政策の研究題目であったが、農業拓殖学の体系においてはこの原論のうちで、農業拓殖活動の歴史的社会的運動法則の顕現として見ようというのである。

南米開拓前線を行く 57
(余談) 長嶋さんの事 今頃分かり始めたのですが、自分の考え方の変遷というのか、起こってる時には分からないものが時間の経過で理解でき始める事を最近感じています。 2001年頃だったか、当農大ネットに参加させて頂くようになって、現地ブラジルの状況などを駄文にして投稿させていただいていました。しばらくたって拓殖11期だったかの長嶋さんからメールをいただきました。
 長嶋先輩は、私なんかが現役学生の頃、当時学科の中心におられる、と思っていた栗田先生のアドバイスで「内観」という道場に行かれたと聞き及んでいました。栗田先生は、内観を始められた(創設)吉本先生というかたと親しかったそうです。内観と言うのは、自分自身を見直す、自分の心がいったい何を考え、何を欲して、何で悩んでいるか、の心の奥底を研究する(私の解釈です)…ネット検索できます。宗教ではないですが、そういう懺悔の場、みたいな個人の
話を聞いてくれて、対処してくれる=悟りの場のように考えていました。
 農大ネットがきっかけで、その長嶋さんと個人的なメールのやり取りが始まりました。といっても、私の卒業が1974年ですから、当時メールを頂いたのが2003−4年ですから、卒業後30年も経っていたことになります。栗田先生が何故、長嶋さんをそんな内観の場に推薦されたのか、1974年当時はよくわかりませんでしたが、今になってそんな意味が少し分かるような気がしています。長嶋さん、この30年で凄い修行をされていたようで、その後何年かして早逝されたのですが、「人間は、自分は、何の為に生きているのか」という自分への命題を課されて、その思考のために何度かの極限の断食をされた、という話は聞いていました。
 私には理解できなかったのですが、そんな長嶋さんが私にカセットテープを送ってくださいました。そのテープの中身は、栗田先生の声でした。全編を通して、栗田先生が 慟哭 されていたのです。長嶋さんからの話では、栗田先生が、長嶋さんの所に 内観 されに来られた時の録音でした。泣きながらの懺悔されているので、具体的内容はわかりませんし、当時なにか怖くなって(-_-;)・・・一度聞いただけでそのまま保管しています。
 実質、栗田先生は杉野先生から農業拓殖学科を継がれたはずの立場でしたが、いかんせん先生は当時(私が現役時代)助教授で、教授と助教授の差、階級差と言うのは相当なものだと聞いています。
 自分のやってきたこと、が無に帰す(学科の改編)ことを阻止できない、と言う思いではなかったのか、と今私は考えています。後で知ったのですが、長嶋さんは、富山だったかの地で(志雄だったりして?)内観を始められて、亡くなるまでに1万数千人の内観をやられていた(悩みの援助)そうで、凄い方になられていた・・・私はそれを知らなかった。(つづく) 
杉野博士論文
「農業拓殖学の構造に関する研究」
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第三節 農業拓殖学の体系と原論の地位及び構造
ーー6月17 18日記入ーー
 次に発展論と言うのは、この様な方法論や形態論でえがかれた農業拓殖活動の諸形態が、時代の推移によって如何に変化して行くか、即ちそのあるものは亡び去り、或いは変形して行く、それは如何なる原因でそうなるのか、換言すれば農業拓殖活動の運動法則をとらえるためには、この発展、或いは没落の過程を研究せねばならぬ。それは多分に農業拓殖史から素材を得なければならぬが、農業拓殖史そのものと言う事は出来ない。農業拓殖史はもっとも広範な研究を必要とするからである。
 次に結果論とは何であるかであるが、これも亦歴史的社会的現象として農業拓殖活動が生むいろいろな現象の中で、農業拓殖活動の発展過程の結果現象を選択して研究題目とするのである。たとえば原住民社会との融合、或いは移住社会群同志の間に生ずる融合現象がある。文化人類学でいう文化の accumulation (15 )の如きは農業拓殖活動の一つの結果として採り上げる得るのである。曾て植民の社会学として研究された旧植民学の遺産はこの所で吸収されるであろう。農業拓殖活動は探検にはじまって、新社会の建設に終わる全過程であると述べたが、新社会は移住社会群の文化が新しい環境で
変容する場合もあるが原住社会群との接触によって変容融合する場合もある。これらの諸現象を研究するのが、この結果論の題目である。この結果論はいわば過ぎ去ったか、或いは現在の時点において観察し得る農業拓殖活動の終点であるが、この活動は将来へつながる運動でありその展望も亦、これを歴史的社会的運動と見る限りは要求もされるのである。その意味でこの結果論は発展論を将来に結び付けて考察すれば、動向論の研究ともなる。それ故に結果論の研究について、又は動向論と言う掲げ方をしたのである。或は、これも七番目の題目とすべきかであるかも知れない。

南米開拓前線を行く 58
(余談)前回からの続き 長嶋さんの事。
 長嶋さんの亡くなられた後、奥様が中心になられて執筆された長嶋先輩の追悼集が、後日私の住所に送られてきました。
 その追悼集の内容が凄くて、未だにわすれられないのですが、長嶋さんの体調が悪化して、お医者さんの検診を受けた結果、末期すい臓がんを患われており、余命半年 だったか? の宣告を医師から聞かれた。そんの後の、長嶋さんの行動、心理状況が全編にわたって記されていました。更に御本人の告白日記のような文章も挿入されていました。
 余命宣告された段階で・・・私(マツエ)は驚いたのですが・・・「ようやく自分が何を求めていたかを発見出来た」という喜びの文章だったのです。この日を境に本当に「自分の探し求めていたこと(もの)が分かるようになった」のだそうです。全編にわたって毎日が楽しくて、自分が悟りを得られた、という喜びの文章でした。そして奥様も驚嘆されるような毎日を送られ、私の記憶するところ(読後の感想)では、にこやかに笑みを浮かべながら天に登って行かれた、と言う状況だったそうです。
そういうこの世とのお別れ、もできるのかと思った事を未だにしっかり覚えています。1万数千人の人たちの苦しい話を聞かれて、対話された、と言う事はそこまで人間を素晴らしい心理状態にできるのかと思った記憶が今もあります。
そこには、吉本先生、杉野先生、栗田先生の教え、教訓、生き方、考え方が生かされているのではないか、と私は思っています。(長嶋さんは、北陸内観道場を自ら創設された長嶋正博さんです)
杉野博士論文
「農業拓殖学の構造に関する研究」
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第三節 農業拓殖学の体系と原論の地位及び構造
ーー6月19 20日記入ーー
 以上歴史的社会的現象としての農業拓殖活動の側面を通観する為の研究対象を発生⇒発展⇒結果と言う配列に組織して、統一的に見る仕方を説明した。その内容に関しては茲に記述しなかったのは、原論の構造論に本論文の題目を限定したからに他ならぬが、ここで一言したい事は、この過程を追及して見て痛感する研究の一結果は、種々なる形態をとって農業拓殖活動は顕現するけれども、その本質たる人類の生存本能より発する 饑饉 (=キキン=飢饉) からの解放の永久運動として見る時、それは、地力の維持増進と人間生活の維持発展の双方から矛盾なき形態の実現過程として見る事が出来る。人類が餓から免がれる為に、征服も搾取も掠奪も戦争も敢えて辞せなかったし、それに適応した拓殖形態もとって来た。しかし、それは結局人類の共倒れとなる事が判ってきた。最も痛烈にその事を反省しているのは現代人である。茲に現代の農業拓殖活動が、狭き国民主義の埒を越えねばならぬ意味がある。(つづく) 

南米開拓前線を行く 59
杉野博士論文
「農業拓殖学の構造に関する研究」
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第三節 農業拓殖学の体系と原論の地位及び構造
ーーーーーーーー6月21日記入ーーーーーー
 次には資本主義の発展が生んだ所の社会構造の変化は階級闘争を惹起した。(注・惹起=じゃくき、じゃっき=問題や事件をはっせいさせること)人類は饑饉(飢饉)を克服せんとして農業の生産力を高めたが、皮肉にもその経済の機構は多くの民衆を飢えしめるに至った。ここにも饑饉からの解放の永久運動としての農業拓殖活動が越えねばならぬ壁がある。その壁を破る為の色々の企がある。中共やソ連の農業や、その為に行われた革命は人類の経過した大きな経験である。ソ連や中共ばかりでなく、現在の多くの低開発地帯に於いては政治的革命的手段によって農業の停滞を打破しようとしている。しかし中共やソ連の経験が示す如く農業の生産力は飛躍するどころか、逆に減産するに至った。曾て革命前には大麦の大輸出国であったロシアが、今や食糧の大輸入国に転落したり、米の四百石を呼号(【呼号】= @ 大声を出して叫ぶこと)した中共が、これ又食糧の輸入国に転じた事は大きな教訓である。
 農業を機械化する事によって労働の生産性は高まるが、その反面には、家畜の減少の結果は有機質の土地への還元が乏しくなって土地の生産性が低くなることはすこしく農業の実際を経験すれば判る事である。そしてこの家畜飼育に関しても、最も安全確実な飼育が、植物生産と動物生産とを有機的一体として経営する経営を基盤とする事も吾々の経験する所である。最近は多頭飼育が主張され、専業化され、農畜分離がより合理的な近代的経営の如く言われているが、これは近代化、と言うよりも経営のアメリカ二ゼーションとも言わるべきものであろう。中共農村の実態を最近視察した戸谷義次氏は永く満州農業を経験し且又、戦後開拓農業者として努力し、新しい開拓農村の建設に成功した人であるが、彼は中共の指導者に面会した時、「農業の本質は地力の培養にあり、而して(しこうして=そうして。それに加えて)地力の培養は人間と家畜と植物生産の三位一体の産物なり、それには農民が農業生産の中に人間本能の喜を感ずる農政が根本なり、中共の農政はその点、人間の本能に反する強制的性格ありて、共産党及び党軍の為の強制的農業に非ざるなきか。しからば、如何に増産を叫ぶも実効なかるべし」と答えたと言っていた。彼は当時すでに人民公社の政策の失敗を予言したのである。又、ソ連のコルホーズ政策についても同様の事が言えるのである。(つづく)

南米開拓前線を行く 60
(余談)Reclamation (この文章は私マツエの個人の思いです)
きょう、本宅で昔の書類の整理をしていたら、1978年だったかに、ブラジルで農業技師登録(CREA)を頂こうと思って始めたブラジルの大学へ提出する書類集めに、当時母校農大に卒業証明書を英文翻訳して送って頂きました。1978年当時・・アレー!? と感じたと記憶しているのですが、その1978年の段階で、すでに農業拓殖学の英訳が変更されているのに気が付きました。
そのことは忘れていたのですが今日改めてそれを思い出しました。
もうその当時に農大からは農業拓殖は消えていたのか、と再発見して、今改めて杉野先生の事を思いました。
その次元で学科名は International Aguricultur Development という熟語?みたいなのが公式文章として農業拓殖として翻訳されていました。なぜ、Reclamation がそんな段階で既に没にされてしまっていたのか。
それで、先ほどReclamation をネットで辞書検索したら
Reclamation 名詞不可算名詞
1開墾,埋め立て,干拓 〔of〕.
2(廃物の)再生利用(のための回収). 
こんな翻訳が出てきました。 面白いなー、と思いました。杉野先生が残された偉大なユーモアを、今頃に感じています。この農業拓殖学科名を何故継続し(でき)なかったのか。以前にも書きましたが、私の入学した1969年の段階で、反杉野を標榜されている先生がおられて、授業にまで反杉野授業をやってられる先生がいました。そんな記憶が鮮明にあります。
当時思いました、何故この先生が茲で授業しているのか、と不思議に思ったのです。反杉野なら学科を出て行ったらいいのにと。結局そのあたりの反杉野先生の意見で、学科名まで変えられてしまった、と思っています。当時から既に国際農業開発なんていう名前を聞いていた記憶があります。
杉野先生が、本論文で述べられている如く、開発という字の行動や、意味するもの、その解釈、外国に与える印象、などを一所懸命分析解析されて、Reclamation とされた。その意味が全然分かっていない人たちがおられたのではないか、と今頃感じています。
上に述べた、Reclamation と言う字を使っていれば、植民とか、奴隷とか、洗脳とか、占領とか、少なくとも杉野先生が最も配慮された文字 Clonization  とは全く違うように思います。
農業拓殖学科=開墾、穴掘り、埋め立て、干拓、そして廃物利用。そんな素朴な農業学問で、しかしこれが最も大切な農事で、農大がそういう素朴で大事な授業(勉強)をしているという感覚で、杉野理論を継承しつつ立派に維持できたはずではないか、と思います。(つづく)
杉野博士論文
「農業拓殖学の構造に関する研究」
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第三節 農業拓殖学の体系と原論の地位及び構造
ーーーーーーーー6月22日記入ーーーーーー
東ドイツの農民暴動もポーランドの農民暴動もハンガリー暴動も、又ユーゴスラビアがソ同盟から脱したのも、ソ連への穀物供出の誅求(誅という字は訓読みは「ころす」「せめる、 音読みは「チュウ」「チュ」)の強烈さへの反対が根本原因である。ポーランドの経済恢復が暴動以降ゴムルカ政権によってコルホーズ政策が緩和され、農民の自由なる農企業が許される結果とされているが如き何を物語るか、またソ連方式の農政治下にある
東ドイツ復興のおそさと、西ドイツの農業法下にある西ドイツの農家の躍進振りと比較して見ても、如何なる農業経営形態が、農業拓殖活動の本質的要求と一致するか判明すると思う。即ち、革命によって壁を破っただけでは問題は解決しないと言うことである。否その壁を破る為にかかげたビジョンが農業拓殖活動の本質の要求と一致せぬ場合は農業拓殖活動の否定に終わるのである。それを改めざる限りその社会は滅亡に追いやられるのである。(つづく)




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