『50年後に帰った日本でのカルチャーショック』 広橋 勝造
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作家の広橋さんの『50年後に帰った日本でのカルチャ―ショック』は、まだまだ続きそうな気配ですが、その1として第14回迄を40年!!ホームページに残して置くことにしました。何れ本にして出版されるのではないかと思いますが、偶に日本に帰国するとカルチャ―ショックとまでは、行かないにしても戸惑い、奇異に感じることが多々あります。私も既に81歳、ブラジル生活が来年で60年になります。もう一度は帰国して見たいと思っていますが、このコロナ騒ぎで実現するかどうか?精々広橋さんを見習って日本でまごつかないようにしたい思っています。広橋さんに写真を頼んだところ下記コメントを付けて送って呉れました。50年の年月と日本のカルチャーショックに喘ぐ3人(天すしの松栄、トロントの丸木、広橋)撮影場所:旧”ごんべぇ”サンパウロ東洋街にて、とのことです。
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1971年26歳でブラジルに単身移住した俺、今年2021年でブラジルに丁度半世紀の50年になる、時の経つのは早いもんだ、近年、仕事の関係で短期間の日本訪問を二回していたが、今回は親父の50回忌参列を利用して、のんびりと日本を楽しもうと思って訪日したが、それがのんびりではなく、カルチャーショックに見舞われる事となった。その事を列記する。
1. 消費税:
現代の日本人の靴に比べ俺の汚い靴が気になった。東京でカッコ良い靴を買った。それに凄く安く、良い買い物であった。さて支払いだ、レジで千円札2枚を出して僅かなお釣りを待った。30秒位経ってレジの女の子は嫌な目つきになって俺を見つめ始めた。俺も「何やってんだこの野郎」とお釣りを待ってニコニコ顔が消え自然に口を尖らせた。それから約一分間二人は睨み合いになった。女の子の顔が引きつってきた。やがて俺から目を外し、俺を馬鹿にしたように無視して、店内の音楽に合わせて体を揺さぶり始めた。現代の日本の女の子のレベルは落ちたもんだと思った。50年ぶりの日本での買い物、この様な仕打ちに合ってどう対処したら良いか迷った。サンパウロでは「(おい可愛いねーちゃん、お釣りをくれよ)」と言って直ぐに解決するのだが、50年ぶりの日本では如何切り出して良いか躊躇した。後ろに列ができた。客が二人並んだ。一緒に来た50年前の元同僚でブラジルにも来てくれた友人が「おい、如何したんだ早くしろよ」と話しかけてきた。俺「このレジの女がお釣りをくれないんだ。プッシャ・ビーダ(何て事だ)」、彼「あの〜、会計早く終わらしてくれませんか」、女「十二円足りないんですよ」、俺「二千円出したじゃないか、早くお釣り下さい」、女「十二円足りないじゃないですか」、俺「これ二千円以下じゃないか!」、彼「あっ、広橋さん、消費税がいるんだ」、俺「消費税?」初めて聞く税、「何それ?」、彼「ごめん、ごめん、此奴、サンパウロから来て消費税の事を知らないです」、ややっこしい世の中になったもんだ。
2. エレベーター:
デパートで買い物して大きな紙袋を提げてドアーが閉まりそうなエレベーターに駆け込んだ。エレベーターは少し満員だったが後二、三人は入れそうだ。友達と一緒に背中から入った。突然、エレベーターが「ピー」となった。俺「ドアーが閉まるぞ)」と背を後ろに押した。エレベーターのドア―は一向に閉まらない。後ろの日本人(俺だって日本人)が俺の背中を遠慮がちに押した。俺「うっうーん」と言って少し押し返した。友達は諦めて(?)エレベーターを出ていた。エレベーターの中の全員が俺の背に向かって「うっうーん」と言い出した。エレベーター内が変な雰囲気になっていたたまれなくなって俺は仕方なくエレベータの外に出た。するとエレベーターのドア―が「スーッ」と閉まり俺を残して別の階に去った。人種差別なのか?疑った。友「あの“ピー”と鳴ったのは重量超過とか人員超過の信号だよ」
3. エスカレーター:
買い物終えて駅に行った。もう午後6時過ぎ、駅は帰宅時間で混雑していた。ブラジルでは公共交通機関が遅れて自動車での移動が普通だ。日本に来てから歩きっぱなしで足が吊ったように痛く歩くのが辛かった。来日して直ぐ買った安くてカッコ良かった靴も変に俺を痛めているようだ。俺とは対照的に日本の現代人は50年前と変わらず足早で俺をどんどん抜いていく。前方に階段が迫ってきた。あっエスカレーターが有った良かった! 何とかエスカレーターに辿り着き乗った。あ〜よかった〜。後ろを見ると、俺の後ろに長〜い列が続いていた。皆、俺を見ている。俺も、皆を見つめ返して、挨拶(?)気味に少し頭を下げた。それに応えて嫌な目線が返ってきた。後で知ったのだが、俺が立っていたエスカレーターの側は忙しく上る奴等の通る道だったそうだ。エスカレーターは自分が上らなくても上れる階段なのに、日本人は何故エスカレーターを上るんだ?
4. 新宿駅の構内:
日本に来て、東京滞在中、50年前の同僚の家に俺は世話になる事にとなった。友人は八王子に住んでいる。昔懐かしの新宿で別の路線に乗換る。複雑な構内を間違えない様にブラジル式の俺のペースで歩いていると、俺の歩き方に興味を持った二人の上品な女の人が、私を呼び止め「このパンフレッドをゆっくり読んで連絡して下さい」と言って何かの勧誘のパンフレッドを手渡してくれた。何となく嬉しい気持ちで友人の家にたどり着いた。友人「何を大事に手に持っているんだ?」、俺「二人の優しそうな美人が俺に特別にくれたんだ。誘惑の手紙だろう」、友人「えっ、それはないだろう。見せろよ・・・、何だこれ?“自殺は止めてください・・・何とか何とか”と記てある・・・」、50年遅れの日本人は自殺希望者に見えるのかな。畜生!
あ〜数年前サンパウロで同じ様な経験話を聞いた。日本に行って、神田川の欄干で懐かしくて川を覗き込んでいると、突然二人の警察官に抱き抱える様に取り押さえられたそうだ。彼「何するんだ!何も悪い事はしてないじゃないか」と必死で抵抗したそうだ。警察「飛び降り自殺はしないでください」だったそうだ。
5. 博多駅:
わぁ〜、大きく、綺麗になった博多駅、さてと、兄と姉から駅に迎えに来ると連絡を受けていた。懐かしいなー、涙を流さない様にしよう。と思ってホームに出た。あっ、いた!優しい兄貴ともっと優しい姉ーちゃんだ!最初の一言は如何言おうかと思案するうちに兄貴が来た。兄貴「おい、カッツオー(俺の名前は“勝造”である)、」少し遠慮がちに「その背広脱いでくれんか」、俺「如何したの?」、兄貴周りを気にしながら「その白い背広バッテンが、如何しても893さんに見えるとバイ」、暑いブラジルから来た俺、普段背広を着ない習慣で、俺が持っている中で一番カッコいい白い背広を着こなして颯爽とホームに降り、主人公になって映画の一コマになるんじゃないかと思ったのに、俺の格好が兄貴にはみすぼらしく哀れに見えたのであろう・・・。これが本当のカルチャーショックなのだろう。
6. 服装:
服装で思い出した。八王子の友人の家に世話になった折、友人の奥さんが突然「新宿の・・・デパートに行きましょう」と言って俺を誘ってくれた。日本のデパート、半世紀ぶりだ、気持ちがワクワクしてきた。一流企業に勤める気の利いた娘さんまで同行してくれた。美味しいそうな食べ物が一杯広がる地下街を通って、エスカレーターで上階に上がっていった。みんな高そうな品物が並び、俺に手が出そうな物がなかった。ある階に着いた時、娘さん「お母さん、ここに良い物が揃っているわよ」、友人の奥さん「そうね、見ていきましょう」、しばらくして奥さん「広橋さん、ちょっと来て」、別のコーナーの陳列に見入っていた俺「はい」、と言ってブロックを回って奥さん達に合流した。奥さん「これとこれ、試してみなさい」、と言って俺には不似合いな二つの若者向けのシャツを進めた。俺「はい」と言われるままに着替え室に入って試してみた。着替え室を出ると、奥さんと娘さんは私の服装についてひそひそ話をしながら俺の格好を品調べしていた。それから、娘さんが別コーナーから首巻を持ってきた。ブラジルは夏だが日本は冬だ。奥さんは俺の首に首巻を巻いて品定めをした。俺はマネキン替わりなって硬直した。何で自分の旦那を連れてこなかったんだと思った。奥さん「広橋さん、見違えるように凄くカッコよくなりましたよ。少し若返った様ですよ、それでいいですね」、俺「えっ、こ、これ、三井さんの・・・」、奥さん「いいえ、広橋さんに買ってあげるのですよ」、心の中ではこんなにカッコよくなって嬉しくて嬉しくてたまらなかったけど俺「いえ、トンでもなそんな事・・・」、奥さん「いいですから、そのままで帰りましょう」、・・・。今、思うに、、寒そうで50年遅れの酷い服装で、訪れた俺を見るに見かねて俺の服装を改善してくれたのだ。それに東京滞在中、旦那のコートを一着貸してくれた。友人の奥さんと娘さんの企らいで東京滞在中、颯爽と現代の東京の街を歩く事が出来たのだ。鈍感な俺、今頃になって、奥さんありがとう。
訪日する時、服装の事は何時も問題になる。冬と夏がブラジルは日本と真逆であるからだ。現地の店頭で訪問先の季節に合った服が買えない事だ。それで、いつも、使い古しの服装になる。
それに訪問先で服なんかの購入は助けがなくては出来ない、品物の良し悪し?どの店頭で?高いのか安いのか?Ets・・・ それに帰ってみると現地の服装にマッチしない、などなど・・・
7,回転すし
甥が回転すしの店に連れて行ってくれた。グルグル回って食べたい寿司が目の前に“どうぞ、ご自由に盗って食べて下さい”と廻って来る。盗んで食べて良いのだ。ブラジル生活50年の俺には考えられない光景だ。ここは極楽か天国だと思った。さて、満足して店を出る時、ウン万円の支払いだ。あれだけ思う存分食べたのだから当然なんだろうが、そこで、不思議に思った、店の奴は如何やって俺達が何を幾つ食べたのか知っているのだ?。甥「あのねー、カッツオー(俺の名前は勝造)叔父さん、食べた皿を勘定して分かるっちゃが」、そうか、“なーるほど”と思ったが、折角、盗んで食れたのに・・・。如何して日本人は寿司だけ盗って、皿を乗ってきたレールに返さないんだろう、そうすれば金を払わなくって良いのに、と思った。日本人はブラジル人と違ってバカ正直なんだな、と、・・・。それから、1,2週間経ってだいぶ日本人化してきた俺は“盗る”の発想から、ただの“取る”の発想に代わっていた。ブラジルに帰った時、飲み友達の奴等は「ヒロさん日本に行って勘定払うのに誤魔化さなくなったね」と言われた。褒められたのかな?バカにされたのかな?褒められたんだよな。
8,スーパーマーケットでの大騒動
博多に帰ってから三日目、二人の兄貴達と三人の姉ーさん達と街に出た。帰りにスーパーマーケットに立ち寄った。俺には50年目の日本のスーパーマーケットだ。入った直ぐは、サンパウロのスーパーマーケットとさほど変わらないと思った。しばらく店の中を回っているうちに品物の種類と中身が濃い(多い)と思った。特に、興味を引いたのが缶ビールが並んだ一角だ。種類も中身の説明も変てこな日本の言葉で記かれ判断するのが難しかった。飲んでみるしか方法がない。よし!端から試しで飲んでやろうと決めた。早速、一個を棚から取って“プッシュー!!”と栓を抜いて飲もうとした。突然、後ろから羽交い絞めにされ、宙吊りになってレジに連れていかれた。後ろを見ると傍にいた兄貴と姉―ちゃんだ。姉−ちゃん「何てことするとね」、俺「どうせ払うんだから問題ないじゃん」、姉―ちゃん「ここはブラジルじゃなかっちゃが、日本よ!」、兄貴が顔を真っ赤にして「すみまっせん。すみまっせん。此奴、ブラジルから今週戻ってきて日本の事情がまだ分かっとらんけん・・・許してくれんね。・・・こら!カッツオー謝らんか!」、姉―ちゃんは、余りの驚きに、滑稽さが加わって、笑いと半泣きを合わせた顔で俺の顔を狙んでいた。この瞬間、騒ぎに驚いて集まった五人の兄弟の間に、6,70年前の末っ子の俺を甘やかし、叱り、優しく宥した時代が、一瞬、蘇ったようだった。今、あの時の大騒動を思い出して涙を流して笑ってしまった。
9、博多ラーメン
博多は、ラーメンが有名だそうだ。18歳で東京に出た俺は博多ラーメンが有名だっったとは知らなかった。しかし、博多の魚市場にあった長浜ラーメンは知っていた。高校は博多湾を横切って通わなければならなかったので、毎日、路面電車と船を乗り継いで通った。それで、桟橋までの路面電車を倹約して、貯めたお金で週に一回長浜ラーメンを友達と一緒に食っていた。東京に出てから58年ぶりに戻った事で、兄貴が気を利かせて「何処か、懐かしくて行きたい所があるか?」と聞いて来た。俺1分ほど考えて第一番に浮かんできたのが意外だった。それが“長浜ラーメン”だった。兄貴「じゃー、早速連れて行ってやろう」、車で15分くらいで昔魚市場だった所に着いた。現在の立派な魚市場からもそう遠くない。“元祖、長浜ラーメン”の看板が掛かった店に入った。昔、美味しくてむさぼって食ってたラーメンだったが、口が肥えた今ではまぁー、まぁーだ。懐かしさを満喫して、店を出た。すると、なんと!“本家 長浜ラーメン”の旗がひらめく店が5メートル先の向かえ側に見えた。どっちが本物なんだと迷った。店の規模や造りはほぼ同じで、判断に困った。兄貴「じゃー、仕方がない。もう一杯食おう」50年の懐かしさを慰めるためにラーメンを続けて2杯食うことになった。これで悔いはない。ゲップ―、大満足した。
10、50年ぶりの幼友達
近所の幼友達が四人集まってくれた。誰かがたまたま俺の実家に用事で行って、俺の訪日を知ったらしい。大人になって昔の面影がある奴は一人もいなかった。近所にあるバーに集まった。外見は、ブラジルでは怪しい店に匹敵するようなケバケバしさだったが、中の雰囲気は真面目な所だった。一人が行き付けのバーだった様で、特別にあしらってくれたようだ。お互いの空間を埋めるのに一時間以上掛ったように思う。仕方がない、50年以上の空白時間だったんだから、一人は日本のしかも博多に住んでてて一度も合っていなかったそうだ。一時間が過ぎたころから、お酒も入って、お互い打ち解けてきた。誰も、俺の思い出は薄かった。何時も一緒に遊んでいたのに、俺の事を余り語らない、俺の話になると、俺の親父の事になる。話の内容は『家に遊び込んで水飴を指で盗んでなめた』、『ヨモギを採って来たら、お前の親父がヨモギ餅を作ってくれた。旨かったー』とかそんな話ばかりがった。俺の家は“ようかん”、“運動会用の”紅白まんじゅう“やらを作る和菓子屋だった。あの頃の俺達は何時も空腹で食べる事しか考えていなかった。終戦後のドサクサ時代の幼友達だ。今は県の教育委員会の何、何会長を何年続けていると云う者もいたが、あの頃、俺達はスイカ泥棒やカキ泥棒、モモ泥棒をしたものだ、それが県の教育委員会のなんかになっている。一番美味しかったのは女学校で育てていたイチゴだった。夢のような食べ物だった。夢のような食べ物で思い出したのが米軍基地の塀の上から、クリスマスにバラまかれたお菓子であった。今で云うチョコレートだった。皆で奪い合ったものだ。そんな話で盛り上がって、予約時間が切れてしまって、解散になった。おの頃の空腹が全員懐かしかったようだ。
11、南半球
山手線の何駅か忘れたが、発車しようとしていた電車に駆け込んだ。座席は満員だったが立席はかなり余裕があった。入口ドア―近くの鉄棒を握って出発に備えた。“カダン”と逆の方向に動き始めた。確かにホームの案内看板の“なんなに方面”に従って正しい方向の電車に乗った、と確信していたので大驚きだ! 俺「うぁ〜!エヘイ!(間違えた)!」余りの驚きで無意識に大きな声を出してしまった。その声を聴いた周りのお客さん達は何処か普通でない雰囲気を持つ俺の突然の大声で俺以上にびっくりして飛び上がった人が2,3人いた。カバンを落とした人が1人いた。多分彼等は突然気違いが暴れだしたと思ったのでは・・・、俺は約束の時間に間に合わないと思って電車に飛び乗った事に後悔しながらも、恥ずかしくて顔を上げられなかった。電車はスピードを上げ車内アナウンスを始めた【次は“・・・駅”、“・・・”です。出入口は右側です。お降りの方は・・・にお気を付けくださーい】、“・・・駅”?、意外だ、俺が行きたい方向じゃないかこれで合ってるんだよな、と不思議に思った。この電車の出発時の驚きがブラジル帰国まで続いた。この不思議な現象の原因が分かった。それは俺の体に染み付いてる南半球の太陽は北にある事だった。だから東西が逆で西に行くのに東に行く様に体が感じ電車出発時に驚いていたのだ。日本人に被害が及ばなかった事が幸いだ。
12、波
高校時代、良く玄界灘を泳いでいた。学校の運動場の先が海岸だったからだ。泳いだと言っても俺は浮かんでいる程度だ。昼休みは暑い日など15分くらい20メートル程度沖に出て、涼を取ってから走って教室に戻った。間に合わず下着を着けずに制服だけを着けるのはよくあった。高校卒業後、東京に就職(九州からの集団就職は殆どが広島、神戸、大阪、遠くて名古屋だった)、東北から来た奴等と夏には社員旅行で千葉や伊豆半島の海水浴場に出かけた。最初に行った海水浴場(多分、鎌倉あたりじゃなかったか)で初めて太平洋に浸かった。海水パンツなんか着た事がなかった俺はヘコを巻き付けて打ち寄せる太平洋の波に頭から突っ込んだ。見た目は穏やかな大きな波は俺を軽々と持ち上げ、海岸に打ち上げた。俺の体は芋の皮をはぎ取るように上下ゴロゴロとたらい回しされ、しっかりと結んでいたヘコが波にさらわれた。それからパニックになって、その後どうなったか記憶にない。この太平洋の大きな波にもう一度挑戦した。それはブラジル移民の時だ、移民船“あるぜんちな丸”は途中ハワイの真珠湾が一望できる岸壁に3日間停泊した。到着したその日の午後(3時頃だったかな)同船者の同年代の若者達(25〜30位)とワイキキの浜辺に繰り出した。よっしゃー! ハワイと云えばあのサーフィンだ俺はウキウキして挑戦することになった。映画で見た事があったから如何にかなるだろう、と思って、サーフボードを20ドル程度だったか覚えてないが一時間借りた。半ズボンにアロハシャツ(ペルー出張の帰りにハワイに立ち寄ていた)姿でサーフボードを片手に颯爽と浜辺を歩き、サーフィスタがチラホラ見える所でボートに寝そべって太平洋に漕ぎ出した。よし!見てろよ・・・。何人かのサーフィスタはボートに跨りうねる波に揺られて夕暮れかなんかを待っている様だった。それから何分間かあの映画で見た波を求めて沖に漕ぎ出した。我に返って、今日はあの波がない様だと判断し始め、ふと後ろを見ると、あるはずの今出たオワフ島が無い!大きな静かにうねる波は水面ギリギリにいる俺の視界を遮っていた。俺は急に鳥肌が立って恐怖に陥り、まるで太平洋の真ん中に一人取り残された様な、様なではなく取り残されたと思った。それからが大変、戻らなくてはならない、大海原で波の中に一瞬小さく見える島に向かって一生懸命漕ぎ始めた。暫く(実際は5,6分だと思う)漕ぎ続けた。あっ!人の声が聞こえる。海岸の白波が目に入った。救われたのだ。生きて帰れたのだ。(今、思うに、ただの二、三十メートル沖まで出た事だと思うが自分の周りが太平洋の静かな大きな波に囲まれ世界が遮られた事でパニックになったのだろう)。海岸に精神的にヘトヘトになって這い上がり、何もなかったようなそぶりでサーフボードを返しに行った。それから“波”恐怖症で海岸が嫌いになった。美しい海岸が沢山あるブラジルに50年、3,4回しか海水浴に行ってない。息子達がかわいそうだった。そのせいだろう、長男は水泳(潜水)の上手い女性と結婚しオーストラリアに移住した。
13、 横断歩道
何所だったか思い出せないが、ある街で信号機付きの十字路で“青”信号で渡ろうと1歩踏み出すと、信号待ちの対向車線の先頭の小さな乗用車が待っていたかの様に【プァー!】と俺に向かってクラクションを鳴らしてきた。全く予期しないクラクションだったから、俺は驚いて飛び上がって尻もちをつくところだった。信号機は俺には“青”で奴には“赤”である。何でだ?俺は車道に立ったまま、「何て酷い事を、この野郎!」と思って車を睨んだ。車にはハゲた痩せた老人が真面目な目付きで睨み返してきた。一緒に来ていた一番下の姉―さんが「勝っちゃん!こっちよ!」と俺に注意を促した。歩道にパリの地下鉄用の階段に似た入口があった。そう云えば俺は無意識に侵入阻止のガードレールをマタイでまでして渡ろうとしていた。しかし、車は一台も邪魔していないのに、わざわざ地下道を通って向こう側に渡らなければならない日本の習慣に怒りを覚えた。これぞ、くそ真面目で受け入れられないカルチャーショックだった。東京での友人は多分ハラハラしながら俺に同行してくれていたに違いない。無事に帰国(俺にはブラジルに戻る事)して、サンパウロの酒飲み友達が「あっ、無事に帰って来たね。幸運だったなー。多分、訪日して1週間後には刑務所にブチ込まれているんじゃないかと心配してたよ」・・・。本当に幸運であった。次の訪日が怖い。
14、ベッピンさん
俺も当り前の男だ。綺麗な、美しい女性が前を通ると「うぁー」、と身震いして“ジー”(”ジロッ“とではない)と後ろ姿を観る。それはブラジルで、である。ちょっと日本ではまずい行為の様で、目立ってしまうが、こそっと、つい見てしまう。ブラジルではほとんどの男が女性の後ろ姿、特にお尻を観る、皆がそうするから目立たなかったが、見なかったら逆に目立ってしまう。しかし、日本ではご法度だ。日本人とブラジル人の二つの魂を獲得した俺にはこの件は大問題だ。一度、代理店をさせてもらっている広島のあるメーカーで、事件が起きた。海外営業部で会議が終わり、お茶をいただき、部署の片隅で休憩している時だった。一瞬、女性事務員だけになった。男は俺だけだった。俺「皆さん・・・だな〜」とブラジル式にお褒めの言葉を言ってしまった。スムーズに稼働していた海外営業部が急停止した。二人が席を立ってツンとして足早に何所かに行った。多分、便所だろう。残った女性も仕事を止め、俺をチラッと見たり、何やらヒソヒソ話を始めた。そこえ、ブラジルへ時々来てくれる部長が入ってきた。部長は普段と違う雰囲気に直ぐ気付き「如何した?」、一番年寄りの女性が部長に駆け寄り、何か部長に耳打ちした。部長「あっ、広橋さん、やっぱりやっちゃったな」、それから、部長は「広橋さんは・・・でブラジルから・・・だから、悪気じゃなく・・・で、お前たちを・・・しようと・・・したんだ」と苦しい言い訳を並べて何とか女性達の爆発を抑えてくれ、俺は命が助かった。あの事件後、2年間はブラジルに対する対応が遅かった。その後、ブラジルへの対応は北アメリカの支社が事務的な冷たい対応をする事になった。しかし、ファイナンス方式等は大幅に自由になった。
ブラジル式誉め言葉、直訳例:
A. うぁー、きみー、美しいねー。 (序の口、ただのお世辞で女の子は全く喜ばない)
B. うぁっ!、俺をワクワクさせるね。 (それで?何?それだけ?つまんないわ)
C. うぉ〜!、きみー美味そう(SEXが) (女の子、一日中嬉しそうになる、最高の誉め言葉)
和田:広橋さん まだまだ続きそうですね。一応これで9700字に達しましたので終了させて貰います。追加分は、別途掲載になりますが歓迎です。適当な写真をお願いします。
広橋:和田さん 写真資料を送ります。題して:50年の年月と日本のカルチャーショックに喘ぐ3人 (天すしの松栄、トロントの丸木、広橋)撮影場所:旧”ごんべぇ”サンパウロ東洋街にて。
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