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≪58年前休学し1年間米国カリフォルニア州での農業実習事業に参加した時の体験記≫ 村松 義夫 
村松さんが好評の広橋さんの『50年後の日本でのカルチアショック』を見習って≪58年前に休学し1年間カリフォルニア州での農業実習事業に参加した時の体験記≫を短く分かり易く20章に分けて学生時代の若々しい感覚で当時感じたカルチアショックを纏めておられます。恰好の読み物として40年!!寄稿集に残して置くことにしました。写真も沢山添付して呉れておりどれをお借りしようかと迷ったのですが、矢張りアメリカの大農方式の写真を使わせて貰いました。実習中にフォークリフトの下敷きになり大怪我を経験したことも語られており実り多い?1年間の実習記面白いですよ!


広橋さん、和田さん、皆さん、
 大変貴重で且つ愉快なお話拝読しています。長期間を海外で過ごした後の帰郷での違いを皆さん同様に感じておられる事思います、50−60年前に日本を離れ現在の日本との違いは想像に絶するはずです。日本の変化は1960年から急速に発展し10年ごと、5年ごとそして現在は毎年変化しています、訪日する毎に新しい変化を発見できる時代となりと海外在住の歳寄り一世にとってはダイナソー・エラ(恐竜時代)と東京の孫達にからかわれます。あしからず長文ですが経験したカルチャーショックを記します。
 私は58年前1963年4月の学生時代休学し1年間米国カリフォルニア州での農業実習事業に参加した、この時の出来事は余りにも刺激があり現在も思い出す事ができる、僅か1年間日本を留守にしただけで、米国での生活経験を経て帰国した者にとって全ての面で大きな違いを発見できた時代でした、その違いを列記してみました。
 1)処女航海の移民船「さくら丸」で14日間乗船し米国へ向かったが1等船室と2等船室の大きな違い(帰国時は豪華客船ワイルソン号)に驚いた、集団で布団での寝室、朝食の米にネズミの糞が混入発見、味噌汁の大半が船の揺れで溢れた、朝食後は大勢が甲板に飛んで行き海に向かって吐き出していた、それくらい船は揺れた。一等船室にはプールもあり娯楽施設も整い寝室も個室で、食事も二等船室とは異なり上等な食事が自由に食べられた様で有る、2等船室にはプールもなく娯楽施設施設もない状況であった。
 2)8日目にハワイに立ち寄った、これ程美しい景色を見たには初めてであった、沢山の車が走っており道路や家屋を眺め、大型バスでパイナップルのプランテーションや缶詰工場、そしてハワイ大学の農業試験場の施設や研究にただただ驚いた。
 3)ハワイの街の交差点に赤いボタンがあり同期生が不思議に思い2−3度ボタンを押した、暫くして真っ赤な色の消防車がサイレンを鳴らしてやって来た、火事は見えない消防士が赤いボタンを押したのは誰かと聞く、まさか消防呼び出しボタンとは知らなかった、全員平謝りに消防士に頭を何度も下げた。
 4)サンフランシスコ湾に近づく知らせで皆甲板に出た、赤い大きな橋が目の前に現れその下をゆっくりと通過した、こんな大きな橋(ゴールデン・ゲート)を見た事がなくしかも多くの自動車が走っているではないか、驚いたのはその先には更に大きな橋(ベイ・ブリッジ)が見えるではないか、1930年代に作られたと聞いてこんな国と日本は本当に戦ったのかよと皆で話し合った。
 5)カリフォルニア大学と州農民組合の役員、そして国府田日系米作農場主が出迎えてくれた、お互いに「名(ファースト・ネーム)」で呼び合っていた、大学の先生は「ジョン」、農協組合長は「ジム」、国府田さんは「ケイ(敬三郎)」で呼び合っていた、自己紹介で私は「ヨシ」と呼んでもらった、人間は皆平等だと感じた瞬間であった。
 6)配属農場へは2時間の「グレイ・ハウンド・バス」で一人旅、このバスがニューヨークまで4,800km走るという、そして全米どこにでも行けるシステムかできておいいると言うではないか驚きだ。
 7)配属農場の主人にバスの停留所まで迎えに来てもらうため用意した英語で電話する、何か相手側で言っているが分からずそのまま切る、しばらくしてキャデラックに乗った農場主が迎えに来てくれた、農場主は「アラン」と呼んでくれという、君はなんと言うかねとの事で「ヨシ」と言っておいた、互いに苗字では呼ばないのがこの国だ。
 8)初めて乗車するキャデラックの乗り心地は最高だった、農場に到着して驚いた何と2,800haの面積だという、日本で平均農家は1ha以下で有る、日本の2,800農家の大集団農協組織とこの1農場が同じとは、とまたまた驚き日本が戦争に負けた理由が理解できた。
 9)白人労働者とメキシコ人、黒人労働者の住居は別で食堂も別となっていて、私は白人労働者住居の1室を当てられた、農場主の下に「ホーマン」の「ジム」がいてこ農場主の隣の家に家族で住んでいおり、農場主の支持を受けて労働者に仕事配分する重要な任務にあった、農場者の「アラン」は毎朝6時に私を乗せて農場全域を1時間かけて回る、そして「ジム」に今日1日の指示を電話で出している、朝食を終えて農場の集合場所に8時に全員集合し「ジム」の指示に従い農場内に散っていく、年間常時雇用者は白人10−15名とメキシコ人20−30名で胡桃、アーモンド、牧草、米、砂糖大根、加工トマト、雑豆等を生産し、収穫時は約200名のメキシコ系労働者が毎年やってくる、農家と言うよりも企業農場と言うべきだ。
 10)米の生産は春に水田を大型ブルトーザーで耕起し一定に地ならしした後窒素液肥土中に注入しその後水を入れ水田となる、その後飛行機に種籾を積んで水を張った水田の上を飛んで撒き散らす、私の役目は水田の畦に旗を振ってグラマン飛行機に散布場所を知らせる役目、ヘルメットにゴーグル、首にタオルを巻きつけ15m間隔を歩き旗を振る、そこに向かって飛行機が飛んできて種籾を撒き散らす、頭から体全体に種籾が大粒の雨のように飛んでくる、驚きの作業方法で米作が行われ日本の手作業の稲作生産方式との違いを見せつけられ戦争に負けた事をまたまた理解させられた。
 11)農作業の殆どはトラクターやキャタビラの機械で行われる、その機械の殆どは畑に放置されたままで労働者はそこまで車で行き作業する、秋なると胡桃、アーモンドの収穫はトラクターに鉄の腕をつけ木を揺すって実を機械で整地された地表に落とす、その後拾い上げる機が一列に並べられている実を特殊な機械ですくってコンテナに収納する、全て機械化である、白人労働者の殆どがこ機械を運転しメキシコ人労働者は汗を流す仕事に従事する、また機械に給油や修理には1台の機械修理専門家が特殊トラックを運転して無線で連絡しあっていた。 
 12)加工用トマトの収穫は、メキシコ系労働者を200名が一列に並び収穫箱を抱えて一斉に畑に並び赤いトマトを手作業で収穫し箱箱に入れ、農道迄持参すると監督が箱を検査して収穫確認用紙に穴を開けてもらう事で各自労働者がどれだけ収穫したかで賃金がもらえるようになっている、出来高払い方式(ピースワーク)と言う。
 13)冬の作業は白人労働者による畑の耕起や、胡桃、アーモンドの剪定作業そして胡桃の機械収穫で除外された落ちこぼれを拾う作業が主体で、メキシコ系労働者と一緒になって胡桃拾いに明け暮れた。拾ったクルミをコンテナに集めホークリフトで倉庫に運ぶ、途中でホークリフトと共に畑に墜落し即入院、11月のケネデー大統領の暗殺もこの胡桃園で聞かされた。
 14)ホークリフトの下敷きになり数カ所腸に亀裂、脊椎に傷で入院は約1ヶ月、大型総合病院で患者数・従業員数も多い、腹を縦に30cm切開され手術2週間後はリハビリで車椅子で病院内を散策できた、係付けの美人看護婦さんと親しくなり日本語を教え医療英語を教えてもらった、退院最終日には優しいキスをしてくれた、これが最高のアメリカ滞在時の思い出となった。
 15)日曜日には出来るだけ農場主夫婦と一緒に町のモルモン教会の礼拝に行く事を心がけた、一度は農場主夫婦に連れられてユタ州のソートレーク市のモルモン教会本部まで1,000km連れて行っていただいた、アメリカの西部の開拓に貢献したモルモン教徒の歴史を学ぶ事ができた。東部で「ジョセフ・スミス」がキリストから直接金版に書かれた教書を頂き真のイエス教会を建設せよと言われ発足したモルモン教は他教徒からの迫害を受け、東部ニューヨーク州から中西部のユタ州ソートレーク市にロッキー山脈を超えて落ち着き本部を建設する、その後一派はネバダ州とカリフォルニア州のシエラネバダ山脈内で1948年川底から金を発見し財を成す、1949年大勢の人々が金を求めて東部地方から馬車を連ねて西部に押し寄せ開発される、パイオニア精神とは何で有るかがこの歴史から学ぶ事ができた。
 16)実習生活終了後、サクラメント駅から出発し国道80号線の高速道路を東に向かって旅に出発し、途中ネバダ州、ユタ州、ワイオミング州、ネブラスカ州、アイオワ州をと通ってイリノイ州のシカゴ市まで一人旅をした、グレイハウンド・バスの車中からの景色は肉牛の放牧場や畑作主に玉蜀黍、大豆、砂糖大根、牧草地帯が主体であった、ミシシッピー川、ミズリー川を越えての旅であったが、大きな街では毎回運転手が交代し常に運転手のすぐ後ろに座って、宿泊地の情報や農作物の種類等を教えてもらう事ができ、西部だけでなく中西部の大農業地帯を見学できたことは大きな収穫となった。
 17)旅を終えて配属農場に戻り農場主家族やフォーマン家族に感謝の念を伝えた、「アラン」農場主は1年間よく頑張った何時でもまた来なさいと言ってくれ、1千ドルの小切手をくださり、サンフランシスコ集合時に銀行で現金に変えなさいと言って署名入りの手紙を銀行宛に書いてくれていた。サンフランシスコ港からの帰国はアメリカ・プレジデント社の豪華客船「ウィルソン号」であった、皇太子殿下(現在の上皇)がエリザベス女王の戴冠式に向かう時同じサンフランシスコまで乗船した客船だと聞いた、客室も4名が一室でデッキには娯楽施設やスポーツができ、大きな水泳プールがあり日本への観光客のアメリカ人女性達のビキニ姿に学生達は見とれた、食事は24時間いつでも好な物を自由に食べられ「さくら丸」とは比較にならない豪華船であった、戦争に負けた訳がまた浮かんできた。
 18)1964年3月横浜港に到着し下船すると周囲の景色が小人の世界のように小さく見える、家々も小型で道路も狭く、歩いている人々の服装も暗く自転車やオートバイが多く乗用車はわずかで有ることに気付いた、まず学生は大学に到着の報告をし休校を解除し4年生に復学手続きをした。東京はオリンピックを控えており町中がごった返していたそれでもアメリカ並みの高速道路がビルとビルの間の空間を走り、地下鉄も完備されホテルのビルも沢山建設されていた、思えば農大に入学して以来アルバイトは土方仕事に明け暮れた、これもオリンピックのためであった、それが現実化していて驚いた。
 19)静岡の実家へ帰郷するために東京駅から東海道線で向かった、その沿線に沿って新幹線鉄道が最終工事を終えようとしていた、又東名高速道路も完備されており1年間の留守中の日本の変化には驚きであった。然し田舎の駅に到着し久しぶりの我が家までの道は相変わらず凸凹道、田畑の面積も狭くその狭い水田を手押しの耕運機が鍬に代わって機械化されていた、然し2,800haの農場に1年間実習した経験から見ると、日本の農家は農場主の家の庭よりも小さな田畑であり、農村と東京の大都会との格差を痛烈に感じた。
 20)1965年農大を卒業し日本農業を更に知るために、東京都下の篤農家に実習を希望し1年間を過ごした結果、日本の小農でも質の高い農産物生産と面積当たり多収穫生産ができればアメリカの企業的大農に匹敵する所得を得られることも理解できる様になった。恩師杉野忠夫先生が述べた通り南米の大国へ農業移住を志す学生には日本の質と量で勝る小農技術とアメリカで学んだ規模拡大と企業としての農業技術の両方を取得することで成功すると言う、日本の篤農家での実習経験と米国での農業実習経験を体得し南米への移住を勧めた、また開発途上国への支援活動においてもこの両者の経験を勧めた。
 現在の日本は世界大2位(中国2位は信頼不可)の経済大国に発展している、然しながら食料の自給は3割程度であり海外に依存しなければ日本国民は餓死する、国内の食料自給を100%とすることは不可能だがせめて70%は確保しておかないと危険である。世界は未だ平和とは言えない、人種、宗教、イデオロギー、文化、習慣等の異なる問題が解決できず争いが絶えない、自然現象は年々異なり温暖、寒冷、旱魃、豪雨、鳥獣昆虫害、病害等での凶作が生じる、食料輸出国の凶作、価格高騰による輸出入不可能も生じる、人間は食わなければ生きていけない、如何にして自給を向上させるかは国民がこの事を理解し一体となり政府をあげて取り組まなければ改善されない、食糧危機はいつ起こるかは不明だが遅かれ早かれ危機はやってくる。 村さん-CA

写真:さくら丸(往路)、金門橋(サンフランシスコ)、米国の大型企業農業、ウイルソン号(復路)、日本の小農、1964年東京オリンピック



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