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『50年後の日本でのカルチャーショック』 第二弾 広橋勝造
広橋さんの『50年後の日本でのカルチャーショック』の続きが第4弾迄出ましたので順次掲載して置くことにします。10編ずつの短編ですが内容によって字数が違い1万語以上になる事があり、調整せざるを得ないことから既に掲載済みの第1弾をそのままにして15話から始め足りなくなった字数を第3弾の3アイテムを掲載し調整ました。広橋さんの説明では、範囲を広げて日本の話だけで無くブラジルでの驚き等も含めて連載するとの事、ニッケイ新聞と日本ブラジル中央協会の機関誌でもこのカルチャーショックを取り上げるとの事で何れ本として出版されるのではないかと思います。写真は、【優しいね〜さん達とカルチャー食ックで緊張した面持ちの広橋】との説明の付いた広橋さんから送って頂いたものです。


15,フランク・シナトラ:
   ノバヨーキ(ニューヨーク)から日本メーカーの方が来伯した。弊社を訪れてくれた。商売には繋がらなかったが、接待した。夜、食事が終わってから時々行くカラオケ・バー“風”に連れて行った。和服を着たママがいて、東洋街のカラオケで一番上品な所だった。俺(よーし、英語の歌をお披露目して、喜ばせるぞ)との魂胆でフランク・シナトラの“上手いウエイ”を歌う事にした。うまいウエイのイントロのゆっくりしたメロディー(チャン、チャン、チャーララ、チャン、チャン、チャーララ)が聞こえてきた。「ヒロハシさん・どうぞ」と呼び出しがあった。丁度ナッツを口に入れた瞬間で、口をモグモグさせながら10センチほどの壇上に上がり、無理やりナッツを飲み込み、喉にナッツの欠片が引っ掛かり苦しんだが、何とか・・・、渡されたマイクを片手に、体をリズムに合わせて少し横ぶりして、気分はフランク・しなトラになりきって、歌い始めた。・・・・・・、一生懸命、完璧な発音で英語バージョンで歌い終わり、得意顔でソファーに戻った。 ノバヨーキから来た方「広橋さん、”my way”にポルトガル語バージョンがあるとは知りませんでした」と真面目な顔で言ってきた。俺、それ以来絶対に英語の歌を歌わなくなった。ブラジル50年の年月で体の隅々までブラジルが染みつき、如何しようもないのだ。

16.50年ぶりの温泉:
東京の友人、彼のお母さんが手配してくれた箱根の温泉に連れて行ってくれた。彼のお母さんには50年前、移民船あるぜんちな丸の出港まで2週間ほど世田谷区にあったお宅にお世話になった。優しい方だ。 俺達は友人が運転する車で箱根に着き、ロープウェイやガスや湯気が立ち込める場所にあるお土産屋でゆで卵を食べたり、あちこち見て歩き、夕方前に温泉旅館に着いた。早速友人「温泉だ!」、俺はもたもたして少し遅れた。彼は慣れた旅館で直ぐ俺の視界からいなくなった。シーズン外れでお客さんは少なく、まだ明るい時間で俺達独占の旅館みたいであった。チョット手間取って、旅館の浴衣を着て、湯舟に向かった。現れた湯舟の入り口に着いて、中に入ろうと、のれんを潜ろうとした時、のれんに“女湯”と記されているのに気付き、変態男の濡れ衣から逃れる事が出来た。“男湯”はその向こうにあった。50年間人前で裸になった事がなかった俺、公共の場で浴衣を脱ぐのに抵抗があったが、勇気を出して(チョット大げさ)脱ぎ捨てた。手拭を忘れ、あそこを隠すものがなかったが、湯気が立ち上る湯舟に急いで入った。友人は既に湯舟でくつろいでいた。俺「いい湯だな、ハハン、いい湯だな、ハハン、ここは・・・・いい湯だな」昔聴いた植木等かお笑いグループかの歌をなんとか思い出して口ずさみながら、お湯に入った。俺「湯舟で思い出したよ。ブラジルで毛ジラミを貰っちゃった時、困ったよ、湯舟が無くてね・・・。毛ジラミを絶滅させる為には冷たーい風呂にブルブル震えながら10分程度浸かるんだ。そうすると、毛ジラミが寒さに負けて、ぷぁ〜と浮いてくるんだ。それを、2,3回続けると、やっと退治できるんだ・・・、これは一番いい方法で・・・、・・・」、そんな話をしながら、友人を見ると、“あっ!”友人ではない、見知らぬ人であった。その日本人は俺が入るのと同時に湯舟から飛び出して“さっ”と着替え室の方に走り去った。あの客、2度とこの旅館にこないだろうなー。そう思った。悪い事してしまった。てっきり湯気の中の野郎は友人だと思っていた。今から気を付けよう。もう遅いか・・・。

17.俺が去った日本:
   俺がブラジルに来てから15年ほど経った頃、ブラジル人とよくビールを飲みに行った。俺「(日本って素晴らしいだろう!・・・で、・・・で、凄いんだよ)」酔いも回っていつもの日本の自慢話を始めた。もう聞き飽きたブラジル人「(そうだな、日本、近頃、特に経済が良くなり・・・)」、俺「(そうだろう、日本人は勤勉で優秀なんだ)」、
友人「(お前の言う通りだ)」、俺「(俺の言う通りだ)」、友人「(確かに、それにはちゃんとした原因があるからなー)」、俺「(確かな原因?なんだ?)」、友人「(お前が去った国は栄えるんだ)」、途端にビールが不味くなった。

18,成田の検問所:
   帰国(ブラジルへ)の為、成田に向かった。“何とかエクスプレス”が成田空港に直行するが、最後のアポイントメントを熟す為にある事務所を訪ねてから、山手線やら何とか線を乗換、成田に向かった。スピードが遅い、各駅停車みたいにもたもたしながら電車は走った。それに、この電車は成田空港に乗り入れない。しまった、交通機関を間違えた様だ。成田駅に着いたが成田空港ではない。俺(如何しよう。チェックインまで余り時間がない。手荷物も少しあるし・・・)、考えた末、(空港まで直ぐそこだろうから・・・)、タクシーで行く事に決めた。想像した通りそう遠くなかった。飛行場の駐車場が見えてきた。空港の敷地内に入ろうとした所で長い棒を持った警官が立ちはだかり行く手を遮った。臨時の検問所だ。重要な要人か誰かが、乗り降りするのだろう。警官「何か身分証明出来る物かパスポートを見せてください」、パスポートと航空チケットは一緒にしてしっかりと失くさない様に封筒にしまって荷物に入れてある。あっ、そうだ、財布の中にブラジルの身分証明書(RNE)がある事に気付き(ブラジルは身分証明書を携帯して歩かなくてはならない、義務でもある。俺の想像だが、自分が死体になった時、警察に自分が誰であるか知らせるためだろう)(身分証明書だけではない、納税者番号カード(CPF)も必要だ。これは、月賦払いの買い物したりする時に必要である)どちらもクレジットカードと同じサイズで、そんなに嵩張らない。それで、何時も財布に入っている。俺は自然にRNE(外国人登録証明書)カードを、取り出して差し出した。警官はカードを見て、両手で丁寧に受取り、チラッと見た。カードはカラーでブラジル政府のマークが入り、マークと一緒に大きな青文字で“REPUBLICA FEDERATIVA DO BRASIL(ブラジル連邦共和国)”と記され、その下に小さい字で“CEDULA DE IDENTIDADE DE ESTRANGEIRO(外国人証明書)”と記されて、登録番号、クラス、期限、名前、父母の名前、生年月日、出身国、入国期日等が細かく記され、大変カッコいいカードである。特にブラジル政府のマークはアメリカのCIAやFBIのマークの様にカッコよく、カードを受け取った警官は、勘違いしたのか「ハッ、」とカードを返してくれて、一歩下がり俺に敬礼をして、タクシーの運転手に”どうぞ、通って下さい“と敏速な行動をした。俺は急に何処かの(俺にはどこでもいい)国の要人になった気分て、成田空港に乗り入れた。タクシーの運転手も少し俺に対する態度が変わり、車が止まると、走って荷物を降ろし、丁寧に帽子を取って、颯爽と車から降りた俺に挨拶した。俺は飛行機に乗るまで偽者の要人だった・・・。

19,日本の不良少女達:
   20年頃前、今の医療関係の仕事を始めた頃、9人のブラジル医師達を引率して日本メーカー訪問ツァーを行った。とにかく大変であった。その事はさておき、その時に起きたカルチャーショック事件である。
  ブラジル人は必ず食事にはビールが必要だ。かしこまった高級レストランを避け、気軽な街角の広いレストランに入った。ワイワイ、ガヤガヤ、ブラジル人が好む雰囲気だ。真面目な医師もいたが、異国に来た事で、少し羽目を外してくれた。皆、美味しい食事に満足し、おつまみを少し注文して、ビールを楽しんだ。我々ブラジル人グループからそう遠くないテーブルに6,7人の少女がビールを飲んでいる。俺にはそう映った。他のブラジル人達にもそう映ったようだ。ブラジル人“A医師”「(広橋!ちょっと、あのなー、あの後ろでビールを飲んでる少女達、不良じゃなのか?)」、俺「(さー、知りません。私もだいぶ日本を離れていたから・・・。今の日本の状況が分りません)」、“A医師”「(それにしても、未成年で良く飲むじゃないか)」、俺「(ブラジル人みたいには飲めないですよ)」、ビールを飲むかモーテルでしか時を過ごす事がないブラジルの内陸部のミナス州の首都ベロホリゾンテ市から来た”R医師”「(ヒロ!日本は少女にビール飲ませても良いのか?)」、俺「(勿論、ダメでしょう)」、“R医師”「(そうだろう)」、”T医師“「(でもなー、楽しそうに飲んでるじゃないか)」、”R医師“「(ヒロ、あの子達にビールをプレゼントしたいから、通訳してくれ)」、俺の了解も受けずに積極的な”R医師“はビールの飲みかけのビンを持って、少女達のテーブルに向かった。俺は慌てて後を追って「(先生、ここは日本ですから)」、もう遅かった。”R医師“は少女達の雑談に入り込んでいた。”R医師“「(私は”Roberto”、貴女のお名前は?)」、不良少女「私の名前? “かがみ(この発音はブラジル語で”私にウンコして”となる)です。貴方は“ロベルト”さん?」、何と、酔った者同志、言語が違うのに、通じるのだ。“R”「(未成年でもよく飲みますね)」、さすがにこれは通じなかった。俺は通訳に入った。”かがみ“「未成年?違います。私達未成年ではありません!」、”R”「(未成年じゃない?すみませんが、おいくつですか?)」、“かがみ”「私、30よ」、別の不良少女「私、27」、別の不良少女「私、32才よ」、“R”「(??????、嘘でしょう。すみません。独身?)」、”かがみ“「誰―れも結婚していません。皆―んな独身です」、”R”「(独身!じゃー)」、大きな声で「バーモス・ファゼー・チンチン!(チンチンしよう!=乾杯しよう!)」とポルトガル語で言った。年取った不良少女達、全員真っ赤な顔になっていた・・・、慌てて俺「チンチンって、ブラジルではグラスどうしが当たる音で、乾杯の意味です。男のアレではありません。誤解しないで下さい」、その時、“男のアレ”と言いながら、ブラジル式に、無意識に、アレのサイズを両手で示す動作をしてしまった。全く救われない俺、通訳失格だ。俺のドギツイ説明とドギツイ動作に不良少女達は目のやる場所を失くしてしまい、うつむいたり、天井を見たり、お互い視線が合わない様に努力していた。俺、もう日本市民として、日本に住む資格はない様だ・・・。

20.全日空:
   帰国(ブラジルへ)の折に、馴染みの旅行社に頼んで、中継地のヨーロッパの有名な都市に2,3泊する旅行プランを作ってもらう。経費は300ドル前後増えるだけだ。それで、パリ、ローマ、Etc‘sの観光(齢のせいで、質素に、ゆっくりと雰囲気を満喫するだけ)が出来る。楽しみだ。日本―ブラジル間の直行便がなくなったせいで、誰にも(ブラジル側にも日本側にも)気付かれずに出来るようになった。成田空港からローマまで全日空で飛び、ローマからサンパウロまではブラジルのラ・タン航空で飛ぶ。それで、中継地で、自動的に荷物はトランスファーしてもらい、必要最低限の軽い装備で旅ができる。チェックインの時である、係員の女性「ヒロハシ様、ブラジルにお住まいなのですか?何か証明書がおありでしょうか」、俺「あるよ。ブラジル政府発行の外国人登録証書を持っています。これです」、と何時も持ち歩くRNEカードを出した。係員の女性は、しばらくして、少し曇った顔で「もう50年もブラジルに・・・、それで、ですね、これ期限切れになっておりますが・・・」、俺「そうだね。ブラジルはね、老人にすっごく優しくしてくれる国なんだよ」、係員の女性「と?云いますと?」、俺「こう云う老人にとって面倒な更新手続きなんかは免除されているんだよ。だから問題じゃないんだ」、女性係員「へ〜、ブラジルって優しい国なんですね」、俺の説明に納得してくれて、中継地での荷物の自動トランスファー手続きも無事に終わった。それから、20分位してから【ヒロハシ様、ヒロハシ様、ゲート受付までお越し下さい】、場内アナウンスがあった。俺は驚いてゲート前の受付に行くと、さっきのチェックイン受付の女性がいた。女性「あのー、ヒロハシ様の席がビジネス・クラスにグレート・アップされました」、エコノミー・クラスしか乗った事がない俺、信じられず「えっ、それはどう云う事?で、す、か?」、女性「ビジネス:クラスでローマまで大丈夫ですよ」、その女性の目を見て「日本もブラジルに負けないような、老人に優しい国なんですよ」と俺に確かに伝わった。

21、致命的通訳エラー:
広島の医療機器メーカーへブラジルの慈善病院の院長と看護婦長を連れて営業活動の一環で訪問した。俺にとっては大きな投資であった。メーカーの二日間に及ぶ会社紹介や製品紹介が終わった時点で、宮島観光に招待してくれた。10分位の船旅(船旅とは大げさでフェリーボートで渡った。最適な日本語の単語が出てこない)で宮島に上陸した。俺は難しい医療用語等が次々と出てきた今回の通訳と案内でヘトヘトになっていた。旅行の大事な目的を果たし、ホッとしていた。桟橋から宮島神宮まで500メートル程度の道程があり、やっと神宮が見えてきた。その道程の途中、病院長「キエロ、ベー、ファブリカ、デ、アケレ、プロドゥット(あの製品の工場が見たいんだ)」と、この観光に関係ない事を言ってきた。俺は日本メーカーの随行員に通訳した。日本メーカーの随行員「そうですね〜、時間的に余り余裕がなくて・・・。可能性を検討します」、それに答えて、日本人(文化)にもブラジル人(文化)も同じレベルになっている俺「エステ・ブラジレイロス、エンショサッコ。エウ・キェロ、ジョガー、エレス、ノ・マール。」と随行員に言った。メーカーの随行員「!?」と俺の顔を見て「広橋さん、何ですか?」と聞き返して来た。俺「エントン、エストゥ・カンサード」とグチを言った。随行員「えっ。何ですか?」と怪訝な顔で俺を見つめながら「私、ポルトガル語が解りませんが」と言った。それを聞いた瞬間、俺は顔から血の気が引き、目の前が真っ暗になって、メーカーの随行員の肩に掴まって歩かなくてはならない状態が五秒ほど続いた。俺の頭は長い通訳の作業で混乱していて、どっちがどっちか分からなくなって、俺が随行員に言ったポルトガル語で大変な事を言った。和訳; “このブラジル人達、全くうるさいなー、俺、奴等を、この海に、投げ込みたいよ” である。俺の横を歩く病院長にはちゃんと聞こえていたはずだ。その後、十秒ほど沈黙が続いて、院長「(まだいいよ、今回はヒロハシがポルトガル語で言ったから、日本人には解らなかった)」嫌味か養護か知らないが、こう言った。俺は45台の透析機械の大きな販売チャンスを逃したのだ。デプレッションになってブラジルに帰国、誰とも話しなくなかった。二週間経って病院から連絡が来た。キャンセル通知か?と電話に出ると、病院長が「(ヒロハシ、元気かい。私だ、今回の訪日有難う。楽しかったよ。いや、面白かったよ。と皮肉を言ってから、来週月曜日の午後に病院に来てくれ。45台買ってやるからな。おめでとう!)」俺涙を流して喜んだ。奴にお礼を言うのを忘れてしまった。それから、お互いを奴と言える仲になっていた。ブラジル人って良い奴!・・・。

23.日本で飲む酒のエフェクト:
ブラジルでのメンテナンス活動の為、埼玉にある広島のメーカーの下請け工場へ研修に行った。3ヵ日間の研修を無事に卒業、その間でアミーゴ(友達)になった先生(技術者)達が気の合う連中も入れて、一番近い東京の繁華街(池袋あたり?)にある彼等の行き付けの飲み屋(小さなお座敷がいくつもある)でお別れ会を開いてくれた。掘りコタツのようになったテーブルに押し合いへし合いして全員座り、俺はこの座敷方式に安心した。ブラジルに移住して俺は直ぐブラジル社会に溶け込んだ。ブラジル人とは街角のバーでのビールの立ち飲みが99%だ。座って酒を飲んだ事がなかった。2年に一度くらいサンパウロの東洋街に出向いて懐かしい和食を食べたが家族連れで酒なしであった。だから、座って日本酒を飲むのは30年ぶりであった。少し寒い時期であり、熱カンがドンドン運ばれてきた。先生方は日本語がおかしい変な日本人を無事に卒業させてホットしたのであろうか、それともこれが常なのかドンドン飲むのである。俺もブラジル人がアルコール4.5°のビールをドンドン飲む飲み方でつきあった。アルコール11°前後の日本酒が美味しいのである。そのうち、酔っ払い達は焼酎を瓶ごと2本頼んで飲むのである。俺もブラジルで身についたビールを飲むリズムでつきあった。彼等が指定してくれている俺のホテルはここからそう遠くないそうだ。それも手伝って心配なく飲めた。十時を回った頃、俺のブラジル談義も尽きた頃、お開きになった。勘定も終わり、さて、俺も立ち上がり靴を履いて表に出た。すると、なんと歩道がぐんぐんせり上がってくるのである。やがて、歩道が横倒しに見えるのである。横になった先生方が「ヒロさん。まだ寝るのは早いですよ!」、俺「?」、俺を横向けにしようと・腕を・・、いや、そうじゃない! 俺を持って、立ち上げてくれたのだ。俺は歩道に寝そべってしまっていたのだ。ブラジル式の飲み方で日本で飲むのは危険である。!!、俺の二世の知人で日本酒が好きな奴は皆無である。それは、日本で、日本酒で悪酔いした経験をしているからだ。その原因が俺の実験で科学的に解明できた。この発見は“NO”メル賞ものだ。

24,うるさいブラジル人の同僚:
   ブラジル移住して3ヶ月して、日本メーカーの会社を辞めた。事情はこのエッセイ集では語りたくない。単身移民で頼る者がいない俺、しかし、これがブラジルでの幸運の始まりであった。辞めてから4カ月間あちこち走り回って、読めないポルトガル語の新聞(数ページ求人欄がある)を買って職を探した。その頃はポ語/日本語辞書を牧師が持ち歩く聖書の様に片手に持ち歩いた。努力のかいが実ってポルトガル語が出来ないのに半官半民であった州の電話局に就職出来たのだ。もう持ち金も無くなってきたころだった。本当にラッキーであった。条件は2年後にポルトガル語の試験を行い、それに合格しなければ辞めねばならないそうだ。 ― 俺は11人兄弟の末っ子で、多くの兄弟、姉妹に甘えわがままに育った。それで多分、カーラ・デ・パウ(“顔の皮が厚い”の意味)も育まれていたのだろう。そして楽観主義もだ。だから、ブラジル移住が出来たのかも・・、話に戻ろう ― 電話局に入って2年目になったがポ語の試験はなかった。採用した人事の奴は管理が悪くて忘れた様だ、そして、各局に配属される一般のメンテ要員からカテゴリーを2つも一度で上げてくれて、給料も倍増し、特別セクターに配属された。そこは、難題が起こった時に出動する映画の“スワッチ部隊”みたいな部署であった。半官半民であるため、俺には生温い仕事体制であった。その部隊に入って二年目位に新米の技術者が入ってきた。俺の二つ前の机に居座った。奴は遠い北東州から来た者で、日本人を生(なま)で見た事がなく、俺(珍しい動物、それも原種)に興味を示し、何時も「日本はどんな国か?、日本は・・・は有るんか?」と日本の事を毎日聞いて来た。多分、俺に対しての質問を用意して出勤してくる様に思えた。日本に興味を抱いてくれるのはいいが、毎日の質問攻めには我慢できなくなってきた。俺は仕事に集中し、人の二倍働かなくては皆についていけない状況なのだ。ある日、奴が「(日本語で朝の挨拶は如何いうんだ?)」と質問してきた。その日、遅れている前日の報告書を文法が複雑で難しいポ語で完成させ提出しなくてはならない。髄一の助けはシェフェ・デ・セトール(主任)のポルトガル人のエウクリーデス・ボウジェスで、俺の幼稚なポ語を直してくれるのだ。多分、恥ずかしくて上部に出せないのであろう。この余裕のない状況で、我慢できなくなった俺は、意地悪な策略を練った。俺「ワタシハオカマデス」、早速、奴はノートに書き写し、そのノートを見ながら一日中「ワ〜タシハーオ・カ・マ・・・デス」、「ワ〜タシハ・オ・カマデス」、{ワ・・・オカマ・デス}、と繰り返して練習していた。帰るころにはだいぶ上手くなっていた。次の日、俺に軽快に「ワタシハオカマデス ! 」、と言って頭を下げて挨拶した。俺は「Bom dia !(おはよう) 」と返答して“ニヤッ”とした顔を見せた。奴はその顔が気に入ったようだ。それから毎日、出勤すると「ワタシハオカマデス」、と俺に挨拶する習慣がついた。それから2週間位過ぎた、ある日、奴が真っ赤な顔して俺の机に向かってきて「(この〜日本人の女郎の子めIX@ZY…△◇X□XX)」と、今にも殴りかかってきそうな喧まくで怒鳴ってきた。奴は本当の意味を知ったのだ。これを前から覚悟していた俺「(俺の名前はヒロハシだ、日本人は半分だけだ、後の半分はブラジル人だ。よく覚えてろ、ヒロハシを罵倒してもいいが、日本人を罵倒するのは許さないぞ。お前は俺の親を罵倒したんだぞ。罵倒するのは俺だけにしろ!)」、何かと俺が困った時、いつも助けてくれる二世のノブオが来て奴をなだめ、何とか事は収まった。ノブオ「ヒロさん、ごめん」、俺「ノブオさんが謝らなくとも」、ノブオ「毎日、フーベンスが俺んとこに来てニヤッとして“ワタシハオカマデス”と言うんです。もう気持ちが悪くて、気持ち悪くて、会社辞めようかと思っていました。それで、何の意味か教えたんです。そしたら・・・こんな事に・・・」。俺はあの煩いフーベンスを痛めつけようとしたのが、苦しんでいたのは二世のノブオだったのだ。それから俺は人に意地悪をするのを(少し)止めた。また俺の持ち病である“幼稚症”が少し治った。まぁーこの病気は人には感染しないから、死ぬまでに治せばいいだろう。そしたら閻魔大王も三途の川を多分渡らしてくれるだろう。



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