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『50年後の日本でのカルチャーショック』第三弾 広橋勝造
カルチャーショック(ブラジルでのカルチャーショックも含む)の第3弾です。字数調整もあり22から36迄の9編を収録した。これで第4弾まで1万語ぎりぎりに収まりそう。最初の写真にも出て来る故郷のお寺以外は、ブラジル国内の出来事に話題が変わっているが、それぞれ面白い。特にコロニアの有名人の中沢さんの生還物語は、面白い。榎原さんの日本語の入れ墨も此処に入っています。写真は、広橋さん自身が下記説明を付けて送って呉れたものを使用しました。【お寺の行事で立ち上がれない広橋】だそうです。


日本でのカルチャーショックの話題にブラジルでのカルチャーショックも入れて続けよう。
22. 故郷のお寺でのミサ
   親父の50周忌のミサで訪日した。法要の日、もう50年以上も会ってなかった多くの親戚が集まった。甥や姪、初めの会う彼等の伴侶達、その子供達にも会い、とにかく大勢が集まった。集まったお寺は豪華であった。俺が知る50年前は、古臭かった。門の両側には怖面で構え立つ仁王さんは健在で合った。仕事で初めて訪日した際は同伴してくれた姉や自動車で送り迎えしてくれた甥を追い払って、一人で死目に会わなかった父の仏前に向かって大泣きしたのを思い出した。あの、大泣きは気分がよかった。スカッとした。さて、今回は大変であった。法要で一時間余り畳に直接座らなくてはならない。もう50年余り正座した事がない!あぐらをかいて座る事も皆無であった。椅子に座って膝を最高45°しか曲げた事がなかった。足が曲がらない、無理して顔をしかめながら何とかしようとしたが無理であった。優しい姉が俺の窮地を察知、座布団を持ってきてくれた。座布団に座ろうとしたが、それでも無理であった。すると、姉が座布団を折ってくれた。高さを確保して、俺の限界の限界で何とか座れた。法要も終わりに近づき、線香を立てなくてはならない、俺は立つことが出来なかった。俺は断念した。最後に坊さんの説教があって、法要が終わった。全員軽々と立ち上がり、大きな豪華な祭壇の前から立ち去った。宴会の用意に姉さん達は急ぎ足で出て行った。俺は立ち上がる事が出来なくて、広―い部屋にとり残され、如何する事も出来なかった。俺は何かに掴まろうと祭壇に向かって這って行き、何でも掴まれる物に掴まって這い上るようにしてやっと立つ事が出来た。その最後の力を振り絞った時、豪華で金箔で飾られた物が「ポキッと」乾いた音を立てて折れた。ビックリして周りを見回すと誰もいない!よかった!こんな時、俺の半分であるブラジル人魂になってしまう。誰もいないとなると、日本人みたいにバカ正直ではない。そっと、チンバを引きながらその場から去った。それから、お寺の別の場所に集まり精進料理とビールをいただいて宴会を半分心配し半分楽しみながら過ごした。帰る時、怖い仁王さん達がいる正面の門を通らず、寺の後ろの甥の自動車がある駐車場に直接行った。

25,悲惨な野球大会:
   サンパウロの近郊のサンバルナルド市でベテラン(55歳以上)のカテゴリーの野球大会が開かれた。俺は好きだけどプレーは下手クソで何時も野球道具の運び屋や試合中はベンチを温め、場外ボールの球拾いをやっていた。それでも、楽しかった。俺の家内は弁当作り(人様に見せる)が出来なくて、皆んなが持ち寄る弁当が楽しみだった。内心、涙が出そうであった。それで、ご馳走盗みでチームの中で肩身が狭かった。今回のオールドチーム大会の主催者はサンベルナルドのチームだ。このチームは主にフェイランテ(決められた曜日に決められた路上で屋台販売(主に新鮮さが求められる野菜類や果物類、魚介類の販売)で構成されている。それで、仕事の都合上、3週間の日曜日だけでスケジュールが組まれる。もう一つの特徴はグランドの三塁側に仮設屋台ができ、うどんが安―く提供される事だ。それが、シンプルでブラジル1の美味しさ(日本の実家の隣が博多うどん屋だったから俺が保証する)なのだ。大会が始まった。俺が所属するチーム(一世だけで構成)は順調に勝ち進んだ。2週間目に雨が降って中止となり、スケジュールが凝縮され、残りの3週目で残り全部の試合を熟す事になった。朝早くから始めれば何とかなるとの判断である。俺のチームは順調に勝ち進み決勝戦まで進んだ。その為に3試合をしたのだ。プロ級の投手は肩を壊し、ライトの一番年寄りの外野手は試合放棄して、ただ一人元気いっぱいの俺と交代した! 俺の参加で(?)大差で優勝したのだ?!試合終了時、悲惨な光景がグランドいっぱい広がっていた。内野手はそのポジションで死人の様に寝そべり、センターの外野手はその場で後ろを向いてオッシッコして、レフトの外野手はホームの方向に向かって這っていた。俺にはまるで戦争映画で見た戦い尽きた兵士達の様に観えた。その惨状の中で表彰式が始まった。誰もトロフィーを取りに行かないので、遠慮しながら俺が取りに行った。帰りにトロフィーの管理を名乗り出る奴が居ず。俺にくれた。皆、勝利のトロフィーを憎んだ目で見ていたようだ。

26.自慢話:
   時々、日曜日の遅い昼食後に、日向ぼっこするような感じで、家の前でくつろぐ事がある。その時間帯に、同じ時期(四十年前)に家を買った連中も良く家の前に出てくる。そして、自然に集まって世間話をする。そこで、俺の家内の自慢話をした。俺「(夜遅く帰っても、家内は起きて待っててくれるよ。それに、もっといいのは、車が家の前に来ると、ちゃーんとガレージを開けてくれるんだよ)」、ちょっと白けた感じになってしまったが、前の家の奴が「(いいなー、俺なんか中に入れてくれないよ)」、それを聞いて自然に俺は少し背を伸ばして悦になった。生まれながらにコンプレックスの塊の俺は、なぜかこの連中にはその反動を発散する。しかし、今日は度が過ぎた。隣の、つい最近、3年間の日本“出稼ぎ”から帰ってきた二世のペドロが「その事で私の嫁さん(二世同志で俺の家内と仲がいい)が言ってたよ・・・」、俺「何を?」、ペドロ「(セーリア(家内のブラジル名)さんはいつもヒロさんの帰りが遅くて困ってる。ってだって・・・)」、俺“余計な事言わなくていいよ”と内心思った。続けてペドロ「(セーリアさんはガレージを開ける為にヒロさんが帰ってくるのを待って、起きてるんだって・・・)」、俺「(そうだろう!)」内心“俺を待つんだぞ!凄いだろう!”と言いたかった。ペドロが更に「(セーリアさんは、隣近所に恥ずかしいから、ヒロさんがクラクション鳴らす前にカレージを開けるんだって)」、俺の見栄は地に落ちてしまった。背中が曲がって、肩が落ち、萎れてしまった。

27.カラオケの選曲:
   その夜遅く帰る原因になっているのにカラオケがある。俺、カラオケが好きだ。見栄はりの俺は他の客が多ければ多いほど歌いたくなる。しかし、客が多いと歌う順番がなかなか廻ってこない。それで、帰りが遅くなってしまうのだ。金曜夜の呑み助野郎達と飲んだ後、カラオケに立ち寄る。それに、“コーカゼロ”を飲みながら過ごし、飲酒運転のエフェクトを少しでも和らげるのだ。今まで、事故を起こさず上手くいっている。今夜は満員だ。何時もの俺の座るところは空いていた。いつものカラオケ仲間の坂本さんもいた。向こう側にさっきまで居酒屋で一緒に飲んでた荒木さんもいる。俺は坂本さんが居るとビール一本をあけて乾杯するのが慣例だ。よし!歌うぞ!今夜は“三木ひろし”の“おふくろの子守歌”だ。この歌のメロディーを車のCDで一週間聴きっぱなしで練習してきた。聞かせたい、あっ!あの子(思いを寄せる40代の女性)も向こう側に座っている。早速、歌手名で仕分けた“歌のリスト”を開き歌ナンバーを探した。三木(みつき)・ひろし、の欄が見つからない。“あ、か、さ、た、な、は、ま”行のページに行きついた。“ま、み“、やっと、“三木(みつき)・ひろし”の欄に・・・。一向に“三木・ひろし”が見つからない!何度探しても“みつき・ひろし”が見つからないのだ。いつも世話になっているSOM係の担当者マルセーロさんを呼んで、“みつき・ひろし”を探してもらう事にした。もう半時間も探している。マルセーロさん「(ミツキ・ヒロシ、って歌手を知りませんよ?)」、焦っている俺「(何言ってんだ。俺、今日一日中、彼の歌を聴いて練習してきたんだぞ)」、マルセーロさん「(ヒロさん、歌はなんですか?)」、俺「(オフクロ・ノ・コモリウタ)」、マルセーロさん「(それ、イツキ・ヒロシの歌ですよ)」、俺“ハッ”として沈黙・・・“そうか、五木(いつき)ひろし”か、いつから、三木(みつき)・ひろしに変わったんだろう? じゃなく、変えたんだろう? あっ、俺の美声を聴かせたかったあの女性はもう帰っていなくなっていた。これが“もうろく”の兆しか・・・。

28,中沢さんの生還:
   俺は宮城県人会の元会長さんの中沢氏(2021年、77歳)が好きだ。彼のどこが好きかと問われ、考えてみると、彼の欠点しか出てこない。その欠点が俺と同じだからであろう。だから、親近感が沸くのだ。欠点は外見的に観ると優しいが内心は凄く頑固だ。しかし、彼の頑固さは自分が正しいと判断した事に対してである。そして、その“正しい”の精度が高く、そして俺にない彼の欠点(?)で強引に実行し、成功するのだ。彼の強引さと実行力に俺は魅力を感じる。さて、彼を誉めながら“いびる”のは止めて、彼が深刻な顔で語ったある事件(事故?)からの生還を忠実(?)に再現し、俺の想像も加えて、その事件からの生還物語を書いた。
事件;三陸の荒波で鍛えた俺(中沢氏)、泳ぎには自身がある(?あった)。サンパウロから約100qのアチバイアの俺の農園に、時々、孫達が “じいちゃん“を訪ねてきてくれる。とにかく可愛い〜、来るといつもプールで遊んでやる。”じいちゃん“の年寄りのイメージを破って強い男として孫に接した(接していた)、今回も孫が来る事を予め知った俺はプールを掃除して水を満たし、孫たち一行を迎えた。おぉー、チョッと見ないうちに、また大きくなったもんだ。今日はプール日和、孫達は挨拶もそこそこにプールに飛び込んだ。よっしゃ!俺も負けずに早速パンツに替えてプールに飛び込んだ。このプールは農園の建設に長年付き合ってきたブラジル人に作らせた。奴はプール作りは初めてであったが、なんでもこなす優れ者だ。俺はプールの広さの決定には実際に地面に線を引いて詳しく伝え、深さは口頭で伝え、物理的に示さなかった。プールの工事が大分進んだ頃、会長を務める県人会の件で4週間ほど訪日があった。帰った時には底の工事の大半が終わって、タイル張りが終わるところであった。それから3ヵ月後素晴らしいプールが完成し、知人達を呼んで盛大なイナグラソン(プール開き)をして祝った。ただ一つの失敗があった。それは、プールの深さがオリンピック・プールじゃあるまいし、2メートル以上の場所がかなりの範囲占めているのだ。まぁー、泳ぎの達人には関係ない。これでいい・・・。これが、後で、俺の命取りになるとは思いもよらなかった。飛び込んだ俺は孫達を驚かそうと潜ったまま孫達に近づいた。さーっと水面に顔を出そうとした時、何かが圧し(のし)かかってきた(彼の話では”絡んできた“)、孫達である。呼吸のタイミングを外して水を大量に飲み、息苦しくなって、慌てふためき、それで、又水を飲んで慌てた。俺にふざけて圧しあがってくる孫達の笑い声がまるで地獄の鬼が笑っているような・・・。その声が遠のいた。その後の記憶はない・・・。俺が助かったのは溺死体としてプールの水面にうつ伏せに浮かんだ俺にふさけて跨った孫が俺の反応に異変を感じ、それから30分後、俺の身体は病院の死体置き場にあった。・・・。それから、3時間、息子達は葬儀の手続き等で忙しく、俺(死体)は白い布を被せられ安置所に放置されていた。・・・。一人の看護師が俺(死体)の横を通った。そのオカマ気味の看護師「(まぁー。立派なモノだわ)」と俺のモノを布の上から触った。オカマ気味の看護師「(あれ?この男のモノ、死体になっても、ピンピンしてるわ?)」、又、モノを掴んで「(温かい、温かいじゃないの!、?!!、これ生きてるわよ!)」、こうして、間一髪でオカマさんに俺は救われた。
俺(広橋)は思った。死んでもモノをピンピンさせて生還した日本男児の魂、立派なモノだ・・・。さすが中沢氏だ。

29,モーテル:
   バイシャーダ・サンチスタ(海抜が低い土地のサントス地域)の“グアルジャ市”でブラジル腎臓学会主催の学術会議が開かれる事になった。仕事上、俺も参加する事にした。他州の商売仲間の者が参加を希望していた、名前はロベルト(当時55歳)、俺(当時53歳)である。俺はサンベルナルド・ド・カンポ市(海抜1000m前後)に住んでいる。海岸山脈(1000m前後)を下りサントス市のフェリーボートで1000m位の対岸に渡れば“グアルジャ”である。非常に近い、それでロベルトとコンビネーションして前日の夕方サンパウロの国内線専用のコンゴニアス空港で迎え、夜はサントスに近い俺が住んでるサンベルナルドで一泊し朝早くグアルジャに降りる事にした。飛行場から20qのサンベルナルドで軽い夕食をして、ホテルを探した。ビヤジャンテ(営業マンの昔風の呼び名)用のホテル、三ツ星のホテル(サンベルナルド市の上級ホテル)は、何所も満員であった。困ってしまった。サンパウロまで戻って、ホテルを探す事にしようか、と、思案している時、前方にピンクのネオンが誘惑するようにピッカピカ輝いていた。俺「(ロベルト、今晩はあのモーテルに泊まてくれ。俺の家には近いし、明日早くグアルジャ“に行かなくてはならないし、たった一日だけだからいいだろう)」、ロベルト「(しょうがない。そうするか)」、二人は軽―い気持ちでそう決めた。もう薄暗くなっていた。丸いガラス窓の受付で俺「(ホテルが空いてなくて困ってるから)」彼だけが泊まる事を強調して、指定された69号室に向かった。俺「(明日、AM07:15きっかりに迎えに来る)」と約束して家に帰った。翌朝、07:15モーテル入った。友人が1人で泊まっている事を昨夜とは違う受付の女に伝えると乗り入れを許可してくれた。69号室に直行すると、ロベルトは中型のスーツケースを提げて69号室の前で待っていた。おれの車が完全に止まらない前にドアーを開けて乗り込んで来た。さて、目指すはグアルジャだ。右左に曲がりくねった路地を通ってモーテルの出口に向かっていると、掃除の女性(おばさん)がネクタイをした男が二人乗っている車を見て”信じられない“光景だ”と目を丸くして、掃除を止めて、ホースの水を垂れ流しして、通り過ぎるのを見守った。俺達同時に「プッシャビーダ(なんてこった)」、ロベルトがサングラスを出してかけた瞬間、出勤と思われる3人のおばさんが雑談しながら前から来た。俺達を見た瞬間、雑談を止め、立ち止まり、俺達をまじまじと見て、頭を振って信じられないと、態度で示した。ロベルトはフロントパネルに両手をついて硬直し、俺は向かう方向から視線を外さずにおばさん達を無視した。やっと出口の窓口に着き、担保にされていたロベルトの身分証明書を受け取り、やっと屈辱感から解放された!と、出口の自動扉が早く開くのを待った。自動扉が完全に開いた瞬間、俺達の前には渋滞の車がズラッと止まっていた。車の中の運転手は全員俺達をみていた。その瞬間カルチャーショックじゃなく、・・・ショックに襲われた。その後の事は読者の想像にまかせる。   愚か者、笑い者、日本人の恥さらし、
   
30.日本選抜バレーボールチーム来伯: 1983年頃、電話関係の会社にスカウトされミナス・ゼライス州の州都のベロ・ホリゾンテ市に住んでいた。アパートの最上階のコベルツーラを買って優雅(?)に暮らしていた。一年目は設計技術者として雇われ、2年目に生産部門のディレクター(俺は部長クラスと思って軽く受け入れた。後でファイナンス関係のディレクターに仲間として挨拶されて、この重荷を知って辞退したが遅かった)に抜擢され4年間務めた。あの頃は元気な俺であった。
(二人のオーナーの奥さん同士の問題が起き、俺と同年配であった二人と友人として付き合い為にどちらにも付かず俺は退職した。それに、家内の事情と子供達の教育の事情でサンパウロに戻る事にした。後に、一人のオーナーはベロ・ホリゾンテの市長を二期務めた)
ベロ・ホリゾンテに住んでいた頃、日本選抜バレーボールチームが親善試合に来た。俺は早速ほうきの棒に小さな日章旗を作って括り付け、二万人収容できる大きな室内競技場(ミネリーニョ)に行った。満員であった。用心棒に勤めていた会社の部下3人と息子2人を従えて上部観客席の片隅に陣取った。観客のザワザワが少し収まった時、日本選抜チームがストレッチの為にコートに入ってきた。2万の観衆が一斉にブーイングを始めた。遠い日本から親善試合に来てくれたと云うのに、なんてお出迎えだ。畜生! 俺はない勇気を振り絞って持ってきたちゃちな日章旗を高く振り上げた。そると、騒ぎが起きた!日本選抜に送ったブーイングどころではない!二万人の観客が立ち上がり、俺に向かって怒鳴り始めたその怒鳴りが共振して、やがて、合唱になり、“フィーリョ・ダ・プータ”、“フィーリョダ。プータ”、“フィーリョ・ダ・プータ”と最低の下品なシンガメント(罵倒)のブーイングになった。ところがである、そのリズムに拍手が加わり始め、やがて、リズムを失って拍手に替わったのだ。その拍手は人を称える拍手に替わったのだ。俺は拍手の中に“よく、この二万人の敵に向かって一人で立ち向かってきたな、この野郎!敵としてあっぱれだ”と云う観衆の暖かい心を汲み取った。俺、涙で一杯になってしまった。家内が家で見ていたスポーツ番組に長けたTV局の放送で『(向かい上段の観客席に “カミカゼ” が現れました、・・・・・・・)』と、放送していたそうだ。その後、不思議な事が起こった。日本チームを応援に来た俺がいつの間にか心の底でブラジルチームを応援しているのだ、それに気が付いた。よし!勝った方に応援すればいい、と腹に決めてその場をしのぎ、胸のモヤモヤを消した。日伯五分五分の魂、となった俺はその後このエピソードを加え “Alma Mestica(混血の魂)”と題した本をポルトガル語で書いた。

31、東洋街の千代(せんだい)食堂―1:
オーナー兼寿司メンで頑張っておられる下村さん(名前の記憶に疑問残る?)が久しぶりの故郷の熊本を訪問して戻ってこられた。さぞかし、機嫌が良かろうと思いながら、昼食にのれんをくぐった。「いらっしゃーい」いつもの元気がいい女将さんの声、「いらっしゃい」と板前から大将の下村さんが不機嫌な声(俺にはそう感じられる)、俺「どうでした、久しぶりの日本」、女将さんと大将「まぁー、良かったよ」、女将さん「この人、日本に行ってきてから、少し機嫌が悪いのよ」、俺「?どうしてですか」、女将さん「もう、私達を知ってる親戚の人が少なくなって・・」と標準的な50年後の日本でのカルチャーショックを語った。余り話さない大将が今日は少し興奮気味に板前の奥から「今の日本人は日本語を理解できないようで・・・、俺の日本語をバカにするんですよ」、俺「”バカにする“って?何でですか」、大将「食堂で俺が”シロゴハン“を注文すると、”ライス“でしょう?と質問しやがるんだ。俺をバカにしやがって!」、俺「ライスは”白ご飯“で、す、よね」、バカにされた大将の怒りようを観て、俺も少し疑問になってしまった。「それで、如何なりました?」、大将「【いや、丁寧な日本語で”白ご飯“が欲しい】と言ったんだ、すると、また同じ事言いやがって【だから、ライスでしょ、おじいさん!】、と今度は”おじいさん“まで付けやがって、我慢できなくたって「ライスだったらいらない!」と言って食堂を出てきたんだ。その時、お腹が空いてて・・・、それで怒りが頂点に達して、まだ収まらないんだ」、女将さん「ブラジルに帰って存分に”白ご飯“を食べさせてやったけど・・・、まだ怒ってるのよ」、”カルチャー食ック“の恨みは何とやら“・・・。

34.日本語の刺青:
何時も政治の真相を究明する難しい投稿をされている榎原さんから以外にも面白い投稿が私向けにありました。その面白いエピソードに同じような経験が私にもあり、それで、榎原、広橋合作の物語を書く事にしました。
マトグロッソ州の北端、アマゾナス州との州境にコトリグアスと云う人口一万五千の小さな町がある。俺(榎原)はその町に十数年前から仕事で頻繁に行く(広橋の想像:密輸か麻薬の運び屋で凄く儲かっている)ようになった。サンパウロから30時間以上かけて行く。日本に行くより時間的には遠い所だ。そこで、日系人が親戚にいて、日本の事に興味を持つ青年と知り(シリ)合いになった。毎日、俺が朝食をとる食堂でアルバイトしている青年である。熱帯地方の食堂としては清潔で美味しい。ある日、その親しくなった青年の腕に日本文字の刺青があるのに気付き、俺「(お前、仲がいい男性がおるのか?そうだったのか・・・)」、青年アラウージョ「(いいえ、そんな事ないですよ。変な事言わないでくださいよ。如何してですか?)」、俺「(その刺青なんだけど・・・)」と意味ありげな顔をして言った。アラウージョ「(ああ、この刺青恰好いいでしょう。これ、日本語なんですよ)」、俺「(知ってるよ。お前、意味わかってるのか?)」、「(あぁ〜、俺意味が知りたかったんですよ。教えてください)」、俺「(オ・カ・マって描いてあるんだ)」、アラウージョ「(えぇ〜、だから、俺の親戚の日本人は俺を嫌っているんだ)」、俺「(もうその腕を切り落とすしか・・・)」、いっし!残酷なこと言っちまった。俺「(心配するな、お前、沢山の日本人男性に好かれるぞ)」、いっし!これもまずい事言っちまった。アラウージョの顔が私に興味あるのかとニヤッと・・・。俺慌てて「(冗談!冗談!冗談だよ)」、と、本当の意味を伝えた。意地悪冗談も気を付けないと、飛んだ事になりかねない。その後、奴には余り近づかない様にしたが・・・。広橋に想像してもらうと酷い結末になる・・・。冗談で思い出した。家内は冗談が嫌いだ(通じない)、いつも、冗談話から夫婦げんかに発展する。くそ真面目の人には冗談は通じない!

36,TV放送でカルチャーショック:
   息子が契約した“NET”でNHKワールドを観ている。正直言って”面白くない“。お笑い番組なんか、何が面白のか、タレントが作り笑いをして、勝手に笑いこけているだけ、余りにもバカげているのに笑いが出てしまう。一番カルチャーショックを受けるのはニュース番組である。朝、出勤前に街の様子を知るためにブラジルTVニュースを観る。【(今年のカーニバル期間中、たったの93人が死亡、内容は交通事故60人、殺人33人、いずれも去年より減少し今年のカーニバル中の死亡者合計が100人を下り、良い年になりそうだ。市内のトランシットはバスが・・橋から転落、多数の死傷者が・・・、その他は正常に・・・)】、大事な交通関係を確認後、同じ時間帯にNHKニュースが放送されているので、NHKに切り替えると【夜七時になりました今日のニュースはご覧の通りです・・・。今入った緊急ニュースです。お伝えします。トラックに乗用車が突っ込み2人の負傷者が出た模様です。もう一度お伝えします。・・・交差点でトラックに乗用車が突っ込み負傷者が2名出た模様です。乗用車に乗っていた31歳の男性と20代と思われる女性は・・・・・・。詳しいニュースが入り次第・・・。先週から、行方不明になっていた・・・さん23歳は、山形の親戚の家にお世話になっているところを、現地の警察によって無事が確認されました】、一人の行方不明に対して一週間全国放送で流しているの対して、ブラジルは93人死亡、それも100人を下回った事で、良いニュースとして、アナウンサーはニコニコしながら放送した。一方NHKニュースのアナウンサーは、もう日本は世界一最悪な国で、終わりだと云わんばかりの悲惨な顔して“2人の負傷者が出た”とニュースを緊急ニュースで放送していた。恐怖に貶められる日本の視聴者は可哀そうだ。これでは、暗い毎日を送らなければならない。ブラジルだったら【今日は何も伝える事がありません。今日も明るく、良い一日をお過ごしください】、で終わる。



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