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南米開拓前線を行く。その11 松栄 孝
現在、松栄さんの都合で杉野先生の「南米開拓前線を行く」の写論が休息していますが、本人の意思で最後まで続けるとの事ですので再開されれば最後までこの40年!!寄稿集に収録させて頂きますが、一先ずその11を掲載して置くことにしました。写真は、丁度11月20日、21日にフォノマギ書店で行う『身近なアマゾンU』の出版記念に寄せて書かれた最後の文に出て来る「トゥカーノの里で、そんな魚を採集していた湿地帯を抜ける丸太道で記念に撮影しました」との説明のある写真を使わせてもらいました。


南米開拓前線を行く 76
(余談)
杉野先生の論文をこうして書き写す作業をさせて頂き、その内容が当時としては既に現在の今を見通した予言、が数多く含まれていることに気が付いています。先生がこの論文を書かれた時代は私がまだ高校に入ったころ(50年以上前)ではないかと思われます。当時まだアメリカの月探査隊が実際に月に到達していなかった頃ですし。ましてや当時世界に共産主義革命を起こして世界制覇を考えていた全盛のソ連が、結局杉野先生が指摘されて予想されている如く、共産政治は行き詰まる、と言う考察、結局現在はそれが現実化して、しかも平和的にソビエトがロシア共和国という名前の国に戻った。そんな昔50年以上前の時代に、当地アマゾンを訪問されて、結論として先生が予測された姿がそのままで、今現在のブラジル・アマゾンが世界の食糧庫となっている姿があります。
世界の食糧庫となる、と予測されたアマゾン流域。その時代にブラジルに行かれた他の先生方(大宅壮一さんなど)の大半の方々が報告された「緑の地獄」とか、「日本の明治の姿がブラジルだ」と言う様な発想とは全く違う、未来を書かれているのが、この論ではないかと感じています。

南米開拓前線を行く 77
杉野博士論文
「農業拓殖学の構造に関する研究」
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第四節 原論の当面する理論的課題
第三款 歴史観の批判
ーー7月28日記入ーー
 次に、今一つ矢張りその様な意味で批判の必要なのは、久しい間人間が経験してきた民族闘争をもって人類の抜きがたき宿命、或いは、はなはだしきは本能的な性質と見る考えである。ナチスの思想の根源の根底にはこの思想、この歴史観があった。(24)人類の歴史は民族闘争の歴史であると割り切る立場は、民族主義にとって、或いは或る民族国家にとっては、国力伸張の思想的武器となるのであろう。これも亦その意味で、国家競争の時代や、或る国家が自立しようと言う場合には orthodox の理論となる。この場合には国家至上主義の騎士的理論となる。終戦前の日本が、明治維新以来の是も強い思潮であったし、その手本にしたドイツの国法思想もそれであり、それがヒットラーの卒いた通称ナチス、即ち、Deutsche Nationalistische
Sozialististische Arbeiter Partei の思想につながっているのである。
第二次世界大戦は、このドイツの世界支配に対する闘いでもあり、ドイツの敗戦となり、ナチス政権は打倒された。しかし、ドイツ民族の精神が敗戦と共に根本的に変わったとは考えられない。それは由来の深いものがあるのである。所謂日本精神が終戦後の占領政策によってどれだけ変化されたか等も矢張り、一個の社会現象の研究対象となるであろう如きものである。故に民族闘争史観も亦、充分に批判する必要があるのである。又、所謂低開発国は、やっと植民地たることから解放され新しい国家を形成しつつある現段階において、民族主義によって住民の国家意識を高め、先ず国家の存立を確実にしようとするのは当然であろう。茲に階級闘争史観と同じく、現代において或る民族の必要とする歴史観でもある。この様な時に、そのような思想の横行する地帯に農業拓殖活動を展開しようとする時、この歴史観に対して自己の立場を確立する事の必要なる事は言うまでもない。(続く)

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杉野博士論文
「農業拓殖学の構造に関する研究」
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第四節 原論の当面する理論的課題
第三款 歴史観の批判
ーー7月31日記入ーー
 私はこの史観に対しての哲学的、史学的批判よりもーー又、それはすでに多くの人が行ってきた――矢張り現実の問題からの実証的な批判が、客観性を有すると思う。即ち、ナチスの歴史観が世界戦争の思想的原因たりし如く狭い民族至上主義が、現存すでに世界各地での局地戦を惹起(じゃっき)しており、決して人類生存を確保する道に非ざる事を、日々証明しつつある事実の客観的認識である。この立場からして各民族の主観の世界ではなおしばらくは残る所の歴史観ではあるが、日々盛んになる国際間の交通、文化交流、物資や資本や技術やの投入による生活の向上と言う事実によって、人類は民族闘争の時代から民族協和の時代が到来しつつある事に目を奄う(おおう)事が出来なくなっているのである。戦後大いに非難された日本の満州移民政策も、政府や軍の政策こそ民族闘争史観に立つものと言えるが、現実に処女地を拓いて住んだ開拓者は、周辺の原住民から、その引き上げたもとの土地へ帰って一緒に百姓しようではないかと懇請されていた。これらの事実は、満州開拓の実際問題と取り組んでいた私が極めて度々知りえた事であり、民族闘争史観ではもはや説明のつかなぬ現実が発生しつつある事を認識した動機でもある。(つづく)

南米開拓前線を行く 79
杉野博士論文
「農業拓殖学の構造に関する研究」
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第四節 原論の当面する理論的課題
第三款 歴史観の批判
ーー8月2日日記入ーー
 以上二つの歴史観をかくの如く批判し,そのいずれも、農業拓殖活動の説明の原理となる歴史観としては、採り得ざるものとしたのである。しからばこれに変わるものはなにか、私は結局農業拓殖活動の立場から、如何に人類の歴史を観るかと言う拓殖史観、或いはくわしくは農業拓殖史観が、必要である事に想致するのである。歴史は歴史家の歴史であるとか、社会学は社会学者の数程種類があるとか言われる様に、その意味で農業拓殖史観があっても不思議ではないが、それが客観性を持たねば、単なる私個人の歴史観になる。いやしくも現代の全人類の悲願に応えて、階級闘争や民族闘争や、国家の利益の為の植民活動を止揚した、歴史的社会的運動としての農業拓殖活動のよってもって立つ所の歴史観なのであるから、曾つて階級闘争史観や民族闘争史観が要求した以上の客観的妥当性を持たなくてはならないと考える。私は、農業拓殖史の研究によって、農業拓殖活動が人類の創生博士が人口の増加を欲望の向上が歴史発展の推進力である事を指摘されたが、(25)この人口増加も欲望の向上も、農業拓殖活動なくしては実現しないのである。又、人口増加と欲望の向上によって起動することも事実であり、原因であり、結果であり、結果と原因となる。(つづく)

南米開拓前線を行く 80
杉野博士論文
「農業拓殖学の構造に関する研究」
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第四節 原論の当面する理論的課題
第三款 歴史観の批判
ーー8月4日記入ーー
しかし農業拓殖活動が、歴史を推進したと共に、歴史的な色々な出来事が、その拓殖増産活動の上にいとなまれた事は疑う余地はない。或いは拓殖増産の方法として色々な歴史的形態を示したともいえる。即ち度々繰り返す如く、人類の四散現象、人種や民族の固定、社会の形成、社会群の移動、種々なる拓殖形態の発生、その発展消長、文化の交流、伝播、受容、そして交通機関の発達と、国際関係の成長。かくして人類は、百万年の遠く且つ長い旅路の果に、再び人間家族(family of men)として結び合わされようとしていると言う認識は決して私個人のvisionでなく、歴史の研究者であるならば、この流れが感知されていると思うのである。(26)即ち何がかくの如く人類を再統合させたか。(27)そして再統合は何を持ち来たすであろうか。それは農業拓殖活動ではないか。これが農業拓殖史観の筋書きである。私は経済史、農業史、文化人類学、その他一般歴史、歴史の理論等の他に、色々な拓殖活動の経験を帰納して、この結論に達したのであるが、農業拓殖学の体系の中で、原論について、社会科学系列の第二を農業拓殖史としたのも、この研究が、原論と密接なる関係あるを認めたからである。ここには原論の構造論の一節としてその筋書きだけの記述にとどめる。(第三款 歴史観の批判 終了)(つづく)

和田: 閑話休題 毎日続いていた松栄さんの杉野先生の写論が途絶えて久しい。本人は、何としても最後まで続けて終わらしたいとの強い希望を持っておられることから待つつもりにしていますが、8月4日記入の南米開拓前線を行く 80第三款終了で一旦終了し40年!!ホームページに掲載して置くことにしました。残りは、多分2回程で終了するのではないかと思っていますが、松栄さんが終了させた時点で掲載する事にしました。

村松:松栄さん、皆さん、
 拓殖5期生の死去について考えてみるに付け、いよいよ我々の時代の終焉が近づいている事に気付かされている、何気無く毎日を平凡に過ごしているが同期の仲間の死の連絡を受ける度に、朝の目覚めが思わずハッとする今日この頃である。
 考えてみれば既に80の大台である、農村で育った者にとっては小中学校の頃には農村の親父たちは60歳が長寿であった、化学肥料も農薬も無く工夫しながら自然のままに稲や野菜を生育していた、それが突然アメリカから化学肥料、農薬が農協によって農村に紹介された、マスクもしないで抗生物質の農薬を共同で散布する姿に親父達は汗を流していた、野菜の生育も化学肥料によって一斉に成長する、農協の指導員は危険とも知らずまた親父達は喜んで使用した。
 学校から帰ると鞄を投げ出し竹の釣竿に凧糸を付けカエルを捕まえて皮を剥きいけにお側に投げ込むとざるがにが面白いように釣れた、それをバケツ一杯にして持ち帰り湯を沸かし放り込み真っ赤に変色したザルが二を鶏小屋に放り込む、真っ赤な卵黄の卵が毎日食べられまた農協へ出荷できた。
 中学に行く頃になると親父や爺さん達の死を友人が語り出す、その原因が知らぬ間に短命が続く、同時に水田や小川そして溜池からザルガニをはじめ小魚やほとんどの整体が消えていった、夏を知らせる蛍も消えた、親父やじいちゃんが60歳で死んでいった。
 今農村でも70、80の年寄りが元気に暮らしている、やがて90、100までもの時代に変化した、食料が行き渡り、医療が充実し、農薬や肥料も安全となり収穫前には消滅する、戦後70年かけて日本人はこの長寿に到達した。
 1950年代日本は未だ貧乏で、国家の政策で特に農村の次三男は海外に移住する機会を与えられた我々の時代の1960年代の後半まで続く事になる、特に農大では杉野移住論に共感し南米北米を中心に卒業生が海を渡っていった、オリンピックが終わり1970年代に入ると日本経済の急激な発展で多くの雇用機会が生まれ農村からも若者は都会へ移動していき、1980年には海外中と言う言葉が消えていった。
 時代の変化は瞬く間に人の生き方も変えていく、国家を上げての海外移住政策が終わり、戦後の南米北部への移住者の1世の多くが他界しまた高齢化してしまい、継続を期待する事はほぼ皆無となった今、移住者の2世、3世が主力となり活躍している、そして4世の誕生もみられる、只3世になっても彼らは日本人としてのI Dは持ち合わせている。勿論戦前の移住者の1世2世の殆どは他界され3世も高齢化し、4世5世が主力になり彼らはそれぞれの国に於いて完全に同化し、日本人としてのI Dは消えている。
 現在拓殖5期生でブラジルでの生存者はサンパウロ在住の星君、アマゾンのカスタ二ヤール在住の伊藤君(脳溢血で寝たきり状況)そしてブラジリアの須貝君の3名となってしまった、堀江君、秋山君、近藤君、長坂君、岸君、北沢君は他界してしまった、アルゼンチンのベノスアイレスには三村君と間山君が存命である、米国のカリフォルニア州には野口君、反川君、私の3名である、カナダのB C州の山口君1人であったが2001年事故死となっている、タイ国には岡部君がいるが消息不明である、それぞれ後継者がおり各界で活躍されて居られる事は頼もしい次第である。 村松義夫<USA>

松栄:村松さん みなさん この日本の昭和28年ころから始まった、日本の戦後海外移住というのは何だったのか、少し考えてみたいと思います。
自分の出身校(出路=しゅつじ= 私は でじ と思ってましたがシュツジと読むのだそうです)が東京農大である事から、基本のこの考え方が学校を作られた、榎本武揚さん に凝縮される、と考えます。
何を考えて、東京農学校を作られたか・・・それは、幕末から明治維新にかけ、それまで日本を統治していた幕府が廃止され、それまで実際の統治業務をやっていた幕府の役人たちの行く末、を考えた榎本さんの思い、「蝦夷地の開拓」にあったと思う。
維新政府から独立して、北海道に新しい幕府の統治する国蝦夷共和国、を作るのが目的だった、という前提がある。
榎本さんは、実際に蝦夷共和国の 独立宣言 をしたのではないかと思う。しかし五稜郭戦争に敗れ、夢は潰える。
榎本さんは、若かったそんな時代の思いを生涯忘れず、助けられた自分の命を生かし、維新政府の懐刀的働きで外交問題に対処しながら幕府子弟を何とか援助できないかと、農学校を作り、果てはメキシコに榎本移民まで送出している。
恐らく榎本さんは心の中で、そういう志を一生持ち続けられたのではないか、と思います。
そして、その流れが満州開拓へと繋がってゆくのではないか、と。
その思いは、どういう訳か東大の法学部を卒業された千葉三郎先生、杉野忠夫先生に渡ってゆき、現在の東京農大に受け継がれてゆくのではないかと思います。なんでか、そういう流れになっている。
その事をもっとも自覚されていたのが、松田藤四郎さんだったのかもしれません、そのことは晩年に松田先生が執筆された
「榎本武揚と東京農大」に書かれていると思います。
なぜ松田先生が極寒の蝦夷の地、誰も考えないような日本の果てに農大の分校を建設されたのか、というのはそんな榎本さん、千葉さん杉野さんの思いを、実現されたのではないか、と思うわけです。
そういう流れが東京農大にはあるように思います。茲に学校を作って、これで北海道は大丈夫だ、という安堵。
その基本的な思いは、杉野先生が精魂果たして学生をブラジルに送出された事にもつながっている。
農業拓殖学科10期までの卒業生と、海外移住連盟で世界に送り出されたその人たち、にしっかり受け継がれているのではないか、と。ブラジルでそんな方々と交流を持てて、今頃確信に満ちて思います。
ブラジル開拓、というのはそう言う事だったのだろうと、そしてそんな思い はブラジルに移住してきた方たちの子弟が頑張って行かれることで、ブラジルニッケイ文化の中で、継続してゆくのではないか、と思います。
杉野先生の論文を読ませて頂いていて、そういう流れを感じます。
早く、杉野先生の論文の写論を完成セねば、と思っています。完成したら、もう一度ゆっくり噛みしめてみたいものだ、と
今は思っています。
村松さん みなさん 北沢さんのお陰で、そんなことを思いました。 サンパウロ   マツエ

和田:字数が3000字程残りますのでニッケイ新聞の松栄さんの『身近なアマゾンII』出版記念の記事を紹介して置きます。

ニッケイ新聞WEB版より : 松栄孝さん=『身近なアマゾンU』出版=奥地インディオとの交流綴る  
 松栄孝さん(71歳、兵庫県)が『身近なアマゾンU〔トゥッカーノの里〕消え行くインディオ文化記録への旅』の出版記念会を20日(土)、21日(日)にサンパウロ市のフォノマギ竹内書店(Rua.Glória 299)で開催する。
 松栄さんは両日、同書店で9時〜17時の間、購入者にサイン対応などを行う。書籍の言語は日本語で全284頁。70レアル。
 書籍は22日から太陽堂書店、フォノマギ書店、高野書店、移民史料館でも販売を開始する。
 本の内容を一言で表すと何かと松栄さんに問うと、「インディオ文化の再発見」と応えた。同著では2001年頃に訪れたアマゾンで原住民族のトゥッカーノ・インディオと1週間過ごした記録が綴られる。
 松栄さんは2007年まで観賞魚輸出会社を営んでおり、ブラジル環境省の正式な漁師資格も持つ。漁でモンテクリスト村に滞在した際、同地原住民の子供にポ語を教える教師のアンテノールに「故郷の長老の話や唄をテープで記録して欲しい」と頼まれた。
 松栄さんはアンテノールと共にモンテクリストからさらに上流に位置するパリ・カショエイラのサントメ村に向かい、一族の長老オモホリさんの唄や話を記録した。唄は30分程の長さで一族の歴史を伝えるものだという。
 唄には、当地にどのようにたどり着いたというルーツから、今日までの歴史が脈々と歌い継がれている。松栄さんは1週間の交流を通し「彼等の先祖がどのような道を辿ってきたかを聞くと、色々なルーツが入り混じっていると気づきました」と語る。
 「そうなると、人種や民族の違いをどこでわけるのか考えるきっかけになりました」と頷き、「分けるとすると、やはり言語になるのではないか」と見解を示した。
 基本言語と民族の区別については、6章『基本的言語と滅び行く者について』(51頁〜54頁)でも、同氏の娘とその友人といった身近な体験を例に綴っている。
 同著は2008年頃までサンパウロ新聞に全120回ほどの連載で掲載されていた文章をまとめたもの。「一昨年末に出版したかったがパンデミックの影響で遅くなってしまった」と説明する。
 松栄さんは「知人にも本をお送りしたいのでご連絡下さい」と呼びかける。連絡は松栄さんのメール(taka08031950@gmail.com)、または経営するすし店の天寿司(電話=11・5594・0150)まで。

松栄:みなさん  おはようございます。明日、11月15日がブラジルに祝日(共和国制定記念日?)で昨日・今日・明日と3連休になるためなのか、久しぶりに店が賑わいました。
昨年の6月から、お持ち帰りと配達、のみの営業となって、約1年半もそんな業態での営業でした。
この10月ころから、ワクチン接種のお陰なのでしょう、感染死亡者が減り始め、10月の中旬からは、オッカナビックリの引け腰で、席数も半分以下(顧客距離をとって)での開店許可みたいなのがでたようで、政府の腰の軽さ、国民感情重視など、の感じがしています。
そんなわけで、3週間ほど前から少しのお客さんですが、店に入っていただき以前と同じように召しあがって頂き始めました。
しかし、店開けたからすぐにお客さん・・・は来ていただけないようで、心配していた感じの3蜜状況からは程遠く、お持ち帰りと配達が8割というかんじの日々でした、それが一昨日、昨日と、少し御来客が増えまして、夕べはかれこれ1年半ぶりの忙しさが戻って来たようです。 そんな現在の店の状況です。
(続き) 帰宅していつもと同じように ブラジルニュース を書いて寝ようと思って着信メールの確認していましたら、私がブラジルにやってきた時の仲間からメールが入っていて、ビックリしました。
久しぶりだなー、と思って読み進んだら、今日のニッケイ新聞さんの記事に、拙書・「身近なアマゾンの記念会のニュースがでていた」という事を知らせてくれていました。
先日、ニッケイ新聞さんに、記事にしていただくようお願いしていたのです。その記事を掲載して頂いていました。ビックリしました。そんなわけで。今朝ジックリ読ませて頂きました。
そんな掲載頂いたものを添付させて頂きます。みなさん、当日はよろしくお願いします。サンパウロ   マツエ
そして・・・改めて ニッケイ新聞の 深沢さん、天野さん、ありがとうございました。今後とも、よろしくお願い致します。

松栄:≪身近なアマゾンU トゥカーノという言葉≫ 松栄さんのお便りです。
今日の写真は、トゥッカーノ・テトラの古里にて、と言う感じで記載させて頂きます。
今回の「身近なアマゾンU」の原題 トゥッカーノの里で採集できた、トウッカーノ・テトラと命名された魚がいます。
トゥカーノインデイオの住む里で採れる、この地の宝石のような魚です。後日、実物の写真を添付させて頂くことにします。(どこかに紛れてしまって・・・)
世界広しと言えど、この地にしかいない魚で、幸運にも他の人達に見つからなくて、5年くらい私一人で採りに行った魚でした。。。サイズは2cmほどにしかならないメダカのような カラシンと呼ばれるイワシ科の魚です。
日本的にいうと、ちりめんじゃこ を黒くしたような黒光りするとても綺麗な魚です。ごく最近記載された魚です。
そんな魚も、ご当地、ネグロ河上流に入る目的にもなっていたのです。
添付しました写真は、トゥカーノの里で、そんな魚を採集していた湿地帯を抜ける丸太道で記念に撮影しました。
インデイオの、主に女性がこの道を背中にマンジョカの入った籠を背負って通る畑道なのです。
日本の昔の、山道、畑道、のような生活をかけた道となっています。日本の昔も、こんな感じで庶民は生活してたのか、と思います。サンパウロ  マツエ



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