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『50年後の日本でのカルチャーショック』第五弾  広橋勝造 - サンパウロ
広橋勝造さんの『50年後の日本でのカルチャーショック』は、ニッケイ新聞にも連載で掲載され好評を博しましたが、今回その掲載の原文となった広橋さんの原稿、第5弾を送って頂いたので40年!!寄稿集にも残して置くことにしました。まだまだ続きがありそうですが、また追加が出たら残すことにして一応これで終わりとします。写真は、送って頂いた内の一枚、コロニアの重鎮、菊池氏の写真を使わせて貰います。広橋さんの説明には、「式典参加アルバムを戴いた菊池会長」とありました。


日本−ブラジル間のカルチャーショックに、50年の年月によるカルチャーショック、日常茶飯事に起こるカルチャーショックも交えて書いていこう。

41. 菊池氏:
サンパウロ日伯援護協会の元理事長や日系社会の代表三大団体の重要な要職を続けておられる菊池氏と話す機会を得た。その時の会話で得たこの方の秘密をのべる:先週の金曜夜、仲間に会うためにカラオケ“絆”に行った。カラオケの順番待ちで、ソファーに座った。右側に菊池氏が(奥さんの厳しい監視の下で)トータルリラックス(?)して自分の歌う番を待っておられた。何と言ったらいいのか、俺は妙なコンプレックスに襲われて緊張した。しばらくして彼のオーラが伝わってきて、緊張が解けてリラックスしてきた。俺が勇気を出して世間話をするとそれに軽―く乗って意見を述べられた「・・・・、・・だべ」、「広橋さん、その件知ってるべ、べづに心配すんでもええだべ」、俺、電話会社に勤めている時、ショッキ・アクスチコ(日本語で“音響ショック”とでも云うかな?)で左耳がほとんど聞こえない。その所為で意味が聞き取れないんだと思って聞き直した。菊池氏「それは心配ごとでね。・・・だべ」やっと彼の言ってる日本語の意味が解った(べ)。この人、ブラジルに60年以上も住(ず)んで、まだ出身地(スッシンツ)の岩手の方言が取れない頑固者だった(べ)。 【方言で思い出したトバイ。博多から東京に出て最初の半年は職場で博多弁が出て俺は苦労したトバイ。しかし、一年後、かっこヨカ東京弁(標準語)ばマスターし、正月に博多に帰ったトバイ、そして近所の同年輩の皆の前で「君(きみ)達、東京はだね・・・ですよ」と東京での出来事や自慢話をスマートで文化的(?)な東京の標準言葉で喋った。片思いしていた女の子がゾッとした顔で「勝っちゃん、東京に一年おりんしゃっただけで、気色(きしょく=気持ち)悪かと〜」の一言でカッコよく戻った俺を振りやがったトバイ】。
話を菊池氏に戻そう。ところがである、彼の方言は和やかで爽快な雰囲気があり、京都弁より上品に聞こえるのである。この骨董品氏(化石氏)は半世紀前の古典(ミイラ化)方言の魅力で援護協会や県連(都道府県連合会)への日本からの膨大な援助金を引き出したのであろう。彼は60年以上も日本を離れ、その結果、汚染されずに日本で失われた古き東北文化を保ち文化遺産として、又、貴重な人間国宝として生きておられるのだ。

42、日本のビール:
日本からビール会社がブラジルに進出してきた。呑み助達には大ニュースであった。どこで飲めるのか?値段は?新聞記事では二流のブラジルビール会社“スキンカリオ”を買収し“キリンカリオ”となった。将来を観て相当の高い買収価格だったようだ。買収価格を見ても本腰を入れているのが覗え俺達の期待が膨らんだ。待っていられない。最初の“一番(絞り)”に出会ったのは“私たちの50年”のサイトに“ブラジルニュース“を毎日投稿してくれるマツエさんが経営する天寿司であった。マツエさん「”キリンカリオ“の”一番搾り“がありますよ」であった。早速、初対面のビールを飲んだ。50年近く日本のビールを飲んでいなかった俺「ゴク」っと、喉に問うた「どうだ味は?」、喉「・・・」、なにも反応がない! 帰りに、「勘定願いまーす」、に何時もの”お任寿司“とビール小瓶1本でマツエさん「45コント」、「えっ!あの小瓶で10コント(当時では高い)もするの?」、マツエさん「そうです」、俺、俺の喉に尋ねた「どう思う?」、俺の喉「高い!」。それから先は、ビールは今まで通りブラジルビールを飲み続けた。多分、二年ほどして、日本メーカーはオランダのビール会社の”ヘイネケン“に安価で売り飛ばし”ヘイネキリン“となり、ブラジルから撤退した。新聞記事では”大きな損失を出しての撤退“だったそうだ。俺の喉「当然だ」、他の呑み助達、同情なしの同じ意見であった。新聞には”買収交渉の失敗“と結論付けていたが、呑み助達の意見をまとめると「ビールがおいしくなかった」、「俺達を馬鹿にした味だった」、「買収交渉の失敗じゃなく、失敗の原因はビールそのものがダメだった」であった。今、日本ビール会社を買収した”ヘイネキリン“は”一番搾り“のレッテルで小瓶を出し続けている。俺の喉「ゴクッ、おっ!美味い!12コント払ってもいいぞ」、に変身していた。日本のビールメーカーにお願いします。これに懲りづにまた挑戦して来てもらいたい。

43,浮気の定義
“浮気“、余り、この件に関しての研究論文が発表されていない、”余り“ではない、殆どない。それで競争相手がいない事で、日本を代表する何かの権威者になりたい俺は、このチャンスをものにしようと思い、研究論文(この名の方がカッコいい)を発表する事にした。新しい部門の学術学会の初回総裁も狙いたい。それが無理なら”浮気振興協会“の理事長になり、正しい浮気のあり方を世間に広めたい、大志を抱いた。
   研究テーマとして
浮気の日本と伯国カルチャーショック:
浮気の定義:
浮気の心理追及と分析:
浮気の効用:
浮気の利点:
浮気の盲点:
浮気の普及:
浮気の注意点:
浮気のこれからの課題:
浮気の法的観点:
浮気の生物学的観点:・・・、この位でいいだろう。
論文を書く目安として列記してみた。論文を書くのは初めてで、医療関係で長年働いてきた事でそれらの文献に現れる言葉を頼りに列記した。俺は残念ながら大学を出ていない。論文を書く機会がなかった。それで、インターネットで検索して、その資料を基にしようと考えたが、この案件に関し俺の持論を汚さない為に、外からの情報を断ち切った。
前文が長くなったが、頭に浮かぶ“浮気の定義”から順に列記していこう。
浮気の定義1:浮気は既婚者だけの特権である。
浮気の定義2:浮気度に限度なし、自由である。
浮気の定義3:浮気は異性に対して成立する。
浮気の定義4:浮気相手の了承があって浮気が成立する。
浮気の定義5:浮気は正妻をしっかり優遇しないと浮気は存在しない。
浮気の定義6:正妻から離婚されたら浮気ではない。

日本とブラジル間に生じる浮気カルチャーショックの研究結果:
ブラジル式の浮気:SEXだ。特徴は浅くシンプル。
日本的浮気:   心だ。特徴は深く複雑。
浮気の効用
精神面では、やる気が出る、優しくなる、競争心が出る、毎日が楽しくなる、仕事に励みがでる、と良い面だけだ。
肉体面では、若返る努力をする、身体を磨く、鍛える、身なりを良くする、清潔になる、と、やはり良い面ばかりだ。
浮氣の利点(効用と同じ、プラス)
健康的、正妻を大事にする、幸せな人間が増える、よく働くようになる。経済効果あり。
浮氣の盲点
誰にでも起こる、何時でも起こる。何所でも身近にも起こる。
浮氣の普及
何もしなくても普及する。
浮氣の注意点、危険性
中毒になる。目くらになる。気違いになる。
浮氣の法的観点
罰金なしの違法。
浮気の生物学的観点
ネアンデルタール人のDNA遺伝子が影響、神も阻止できなかった。

44. コロナ過の挨拶:
コロナ過で、飲食が禁止されてる中、近所にある警察署の連中が食事に来る秘密の食堂があった。それは、飲み友達も金曜夜集まる東洋街の“あべちゃん”(食堂、兼、居酒屋)で、その前で日系人ではなくて名前が“田中”さんに出会った、「トド・ベン?(元気ですか?)」、「トド・ベン(元気よ)」、と返事しながら、握手代わりに拳(グー)を出して来た。俺(パー)を出して「ガニェーイ(勝った)」、と冗談で応対した。彼女、笑いながら今度は肘を出して「ボア・ノイテ(今晩は)」、俺、「ボッセ・バイ・ラルガー・エウ?(君は俺と“肘てつ”で縁を切るのか?)」、彼女、俺の冗談にのって「コモ・ボウ・ファゼー? エントン・ベージャ?(如何すれば良いの? じゃーキスするの?)」、俺、調子に乗って「シン!(そう!)」、彼女急に恐ろしい顔して「バイ・コンタミナー・エウ?(私を感染させるの?)」、俺「ノー、イッソ・ノン・ポッソ(ダメだね、それは出来ないな)」、彼女「エントン、ソ・アシン、ノン・エ?(だから、結局これでしょう?)」、と(グー)を出して来た。俺「イッソ、ノン・テン・グラッサ(それ、ちっとも楽しくないな)」、彼女「エントン・コモ?(だから・どうする?)」、俺!いい事企んだ「ノ・ジャポン、コンプリメンタンド・ブンダ・コン・ブンダ、イッソ、エスタ、スセッソ、ノ・ジャポン(日本はお尻とお尻で挨拶しているんだって、日本で流行っているんだってさ)」、俺の嘘に、彼女真面目な顔で「ア・エー!(あそーう!)」、俺達、“あべちゃん”の前の歩道でお尻とお尻を寄せ合った、実際は腰と腰で意外と二人とも満足した。(写真に撮られた)。それから一ヵ月してコロナ過で複雑な手続きにもかかわらず田中さんは日本に二度目の出稼ぎに出た。腰と腰の挨拶を日本で実行しているのかなー・・。俺は腰と腰の挨拶相手がいなくなって寂しい。

45,50年前の電話の近代化のカルチャー惨事:
50年前の1971年は俺の人生で一番めまぐるしい年であった。2月に横浜出港、45日間、神戸、ハワイ、サンフランシスコ、ロス、パナマ(運河)、ベレン(アマゾン)、リオに寄港して4月12日にサントス港上陸。8月に現地の東芝イルネ社退職、その後4カ月間就活に奔走、11月にサンパウロ州電話局に条件付き(2年以内にポルトガル語を完全マスターする事)で入社。翌年1972年初頭、軍事政権下でインフラ整備が打ち出され、電話設備の近代化が始まった。現場テクニシャンとして奔走し1年後、Div. Tecnica(電話局の特別チーム、別名“SWAT”と呼ばれた)に配属され、次々と建設される新しいヨーロッパのエリクソン社のクロスバー方式の電話局の最終検査に立ち会った。その時の、ある田舎町でのエピ騒動の話である。
通常5名の最終検査チームが組まれるが、開所式に間に合わず10名の検査チームが組まれた。4週間の仕事を1週間で終わらせなくてはならない、私の分担は如何して検査を簡素化(怠けて省く)するかであった。半分の仕事はヨーロッパの厳しい(くそ真面目な)検査項目で、俺を信頼してくれる主任が許可のサインする事でOKとなり、楽々と1週間で仕事は終わった。金曜日の午前中に旧システムを近代的なシステムに切り替え問題なく始動、ホットして俺達は町の中心街に出て昼食を取る事にした。町に近代化で貢献した事で誇らげに電話会社“TELESP”のバッジを提げたまま町で一番繁盛している大きなレストランに入った。テーブルを3っつほど寄せて、宴会風にして、就業中には禁止されているビールをコップ一杯づつの口約束で飲んで仕事の無事終了を祝った。つまみに肉と玉ねぎのみじん切りをあえた物にチーズの欠片とオリーブの実を混ぜたつまみの定番をたのみ、皆リラックスして世間話やサッカーの話に花を咲かせた。その時、変な雰囲気を持った男達の一団(7,8人)が物々しくレストランの入り口に現れた。近辺の農園や農場から来た男達と一目で分かるムギワラ帽と服装で、いや服装だけではなく農場などで必需品のファッコン(30センチくらいのナイフ)をぶら提げた男達も半数いて、どことなく殺気立っていた。不穏な雰囲気に俺達は少しビールを自粛して早めに出された昼食を始めた。男達はレストランの入り口付近でたむろして一向に入ってこない、誰かを待っているようだ。あの頃では珍しいディーゼルエンジンの新品の中型トラックがレストラン前に駐車(違反)して中から初老の身なりの少し良い(帽子がカッコ良い、西部劇風)男が出てきてそのままレストランに入ると、それに続いて今まで入り口でたむろしていた男達が続いて入って来た。俺達のテーブルから少し離れた小さなテーブルを囲むように椅子を遠巻きにして座り、明らかに何かの非公式の緊急集会みたいだ。顎髭の男が「(未だ6人に連絡が出来ない。電話がつながらないんだ)」、カッコいい帽子「(仕方がない、電話が通じないから今日のサントス港のカフェの相場が聞けなかった。他の接続を切って、俺の接続を最優先してくれたソランジが出なくって・・・)」、ゴムサンダルの男「(受話器を取るとただ“ツー”と言うだけで愛するソランジが出てこない)」、(注;ソランジは俺達も知ってる昨日まで電話交換手だった30代のお化粧なしでも美しい金髪女性)、トウモロコシの実を包む葉で巻くタバコをふかす男「(今日は朝から誰も電話してこない。息子がダイヤルを回せば自動で相手につながると言っていた)」、顎髭「(だから新しい電話機はダイアルが付いているんだ)」、カッコいい帽子「(なんて不便だ)」、顎髭「(全く、不便になったもんだ)」、カッコいい帽子「(昨日まで受話器を上げればソランジが出て挨拶して、町の噂まで教えてくれて、話したい相手に自動的に繋いでくれたんだ。それをなんで手動でダイヤルを回して自分で繋がなくてはならないんだ!全く不便だ!)」、顎髭「(優しいソランジともう会話できなくて・・・)」トウモロコシの葉タバコ「(残念だ!電話局の奴等、いたらんことしやがって、酷い奴等だ!)」、顎髭「(ソランジの町のうわさが聞けなくなった)」、ゴムサンダル「(電話局の奴等を殺してしまえ)」、俺、電話局員の“TELESP”バッジを外してポケットに隠した。俺達が英知を絞って行った電話の近代化は間違っていた。50年前までの電話交換手の時代の方が愛がこもった素晴らしい近代自動方式だったのだ。本当に酷い事してしまった。今も後悔している・・・・。

46,ブラジルの電話局の不思議な現象
約50年前、ブラジルの電話事情で不思議な事があった。電話局の装置の増設の判断をするためトラフィックのピーク値を調査していた時、調査結果が電話局に置いてある教科書(ヨーロッパのエリクソン社製)の国際基準に合わないのだ。何度調べても不思議な結果が出て、俺、報告書の提出が2カ月遅れ、原因が分からず困った。このままだと職を失うかも知れないと思った。首になるのを覚悟でベテランの主任にこの事を話すと、主任「(あのなー、ブラジルには“ジョーゴ・デ・ビッショ”と云うものがあって、その締め切り時間が一番トラフィックが高いんだ。ヒロハシ心配するな)」。それから2年後に知った“ジョーゴ・デ・ビッショ”とは秘密組織が一般市民に法律に違反して秘密裏に行っている“ロッテ”(宝くじに似た賭け)であった。

47,1971年暮れから1979年初頭にかけて8年間サンパウロ電話局に勤めた。老朽化していたサンパウロ州の電話局を急ピッチで近代化を推し進めた時期であった。そこでブラジルに驚きと共感し、ブラジル人独特のカルチャーに感化されながら過ごした経験を紹介しよう。
サンパウロ州の電話局が次々と新設され、記念すべき電話100万台の大台に達した。サンパウロ州知事のバンデイランテ宮殿で記念式典が開かれる事になった。しかし、急ピッチで進む増設計画であちこちで不具合が起きていた。川向うにあったバンデイランテ宮殿への回線ケーブルの設置工事が難航して大幅に遅れ、電話回線の渋滞が起きていた。そこに政治家同士の百万台設置の記念すべき電話通話が行われることになっていた。いち早く渋滞問題をキャッチした俺の上司の上司(Chefe de Div. Tecnica=日本で云う課長)がブラジル式解決策を打ち出した。当時のサンパウロ市長であるラブセ・トゥーバ氏が地方の市長に電話する記念すべき式典で、回線状況は2回の電話で、1回が接続成功できる確率であった。それを基に課長は5人のオペレーターを用意して、ラブセ・トゥーバ氏に合わせて同時に電話させ、それで地方の市長につながった回線を素早くラブセ・トゥーバ氏の電話器に接続するのである。式典の2,3日前から何回かシミュレーションして満足点(?)を得て式典の日を迎えた。俺は主任と一緒にラブセ・トゥーバ氏の電話回線をモニターする役目であった。悦になったTELESPの広報部長の指導で式典が進み、100万台目の電話器の記念すべき接続の時が来た。お偉いさん達が座った舞台の後ろのカーテン越しに課長が指示を始めた、ラブセ・トゥーバ市長がダイヤルし始めた、それに合わせて一番目の番号、二番目、三番目、四番目、・・・、と5人のオペレーターがダイヤルを回し接続を試みた。市長の電話「ツー、ツー、ツー、ォツーャ・・・」、一瞬緊張が走った、5人のオペレターの中の一人が接続成功の手を上げることになっていたが誰もうつむいたままで手を上げない。俺の主任と課長の顔がこわばった。ラブセ・トゥーバ市長は式典の会場を見回し、息をのんで見守るジャーナリストやラジオ、TV局員、壇上のお偉いさん達を見回し、一息ついて突然「(おー、元気にしとるかい、私は元気にしとるよ。本当に久しぶりだな・・・、今日はめでたい100万台の・・・)」と「ツー、ツー、ツー」を相手に話し始めたのである。2分程度「ツー、ツー、ツー」と話し「・・・ではまた」と電話を切り、周りのお偉いさん達(州知事、郵政大臣、サンパウロ方面軍関係者、Etc‘s・・・)と握手して、電話100万台設置達成を祝った。何も知らないTELESPの広報部長は得意げな顔で、式典の終了を伝え、式典壇上の後ろのカーテンの裏で青い顔になっていた課長は何とか息(生)きを吹き返し主任に支えられ恐怖政策部長に無事の式典終了を報告した。ラブセ・トゥーバ市長の咄嗟の英断行動で少なくとも10名の電話職員が退職処分から救われた。こうした事を踏まえ、俺は幸せにブラジル人カルチャーに馴染んでいった。俺は日本とブラジルの二つの魂をもらったのだ。断わっておくが良いとこだけをもらった・・・?

48,俺を苦しめた、三日の不登校
電話会社勤め中の話になると沢山の思い出がある。主任から“今日の午後2時に(恐怖)部長室に行かねばならない”事を伝えられた。俺はドキッとした。社内で外人狩りのうわさが流れていたからだ。主に外国人社員の嘘の学歴申告が表面化していた。俺も電気技術専門高校の成績証を公正翻訳師に出して会社に提出していた。その結果、今回の呼び出しだ。主任に同行してもらい部長室に向かった。部長室の中には既に総務、人事、Etc‘sの課長達が会議用の机に座っていた。シーンとして、まるで葬儀の会場みたいな雰囲気であった。俺と主任は指定された大きな会議用机の端っこに座らされた。総務課長が「ヒロハシ、君の学歴について話したい」と予想していた事柄だった。そのまま総務係長「君が提出した学歴証を観た結果、問題が起こった」、主任「そうか、ヒロハシもか」、総務課長「この証明書に3年間の学校生活の間に3日に及ぶ不登校があったと記されてあるがこれは本当か?」、俺、緊張してポルトガル語がスムーズに出なくなって「私、真面目、学校、通った、3日、学校休んだ、学校許した」こんな感じで一生懸命言い訳した、俺、妻のお腹には二人目の子が宿っていた、ここで職を失う事は出来ない。おれの主張を続けた「学校、船で通った。台風、来た、学校、行けなかった、あります。それで、皆勤賞がもらえ、なかった」、それでも人事課長が首をひねって難色を示した。ブラジルと云う国はなんて厳しい国なんだ。主任に助けを求めたが主任は厳しい顔をして俺から視線を外していた。いよいよ総務課長が最後の裁断を発表した「エウクリィーデス(俺の主任)!、ヒロハシの学歴証の査定結果から、来月から残念ながら給与カテゴリーは16だ」、俺「?」俺の今のカテゴリーは14だ16は格上げではないか、それがどうして残念なんだ? 主任「おっ、お前はカテゴリーを一度に2階級上げて俺と同等になった。ヒロハシおめでとう」とニコニコ顔で言った。会議室に居た全員が俺を騙していたんだ、皆、笑い出した。「信じられない、3年間でたったの3日の休校で、それも台風の影響だったとは・・・」、俺、昇給の嬉しさで涙が出てしまった。後で知った、多くの外国人エンジニア(技師)の半数以上がテクニシャン(技能者)に格下げされたそうだ。俺はテクニシャン(技能者)からテクノ―ロゴ(短大卒の優遇)のクラスに特別昇格された。多分、俺の申告(技能者)に嘘がなかったからだろう。それから俺はブラジル人の温かい処遇に守られてブラジル人化していったのだ。

49. 忘れられないブラジル
日本の100倍のコロナ過のブラジルにもかかわらず、日本からブラジルに逃げてくる人がいる。鈴木氏もその一人だ。去年の12月に日本に帰ったが、日本の世間体の窮屈さにいたたまれず先週木曜日10月7日にサンパウロへ戻って来た。彼の顔は里帰りした顔付だった。トータルリラックスで、到着の翌日には昔のグループでカラオケ“絆”でサンパウロの夜を謳歌していた。さっそく、パーティーを束ねて人数で割り、参加費の回収を行っていた。「ブラジルは60歳以上は地下鉄、市内バス、市街バス(席数制限)、はタダだろう、それに比べ日本は交通費が高いんだよ。それから・・・・なんで、・・・だ」、と日本での生活へのストレスや不満や窮屈さを並べていた。俺は酒が入ってよく理解出来ず聞いていたが、日本にもブラジル以上に問題がある様だ。また、日を改めて日本の事情をゆっくり聞こう。ブラジルに戻った鈴木氏の目はキラキラ輝いていたのが印象的であった。今年の2月弊社を退社して日本に帰った榎木氏もブラジルへ帰る(行く?)準備を始めているそうだ。日本とブラジルのどこが根本的に違うのだろう?。解明しなければならない問題だろう。



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