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【当時の日本と今のウクライナは同一視出来ません】 丸木さんのコメントにご自分の実体験を古谷さんが語っています。
丸木さんのウクライナからの避難民の報道を見るにつけ、戦時中の米空軍による日本無差別攻撃を思い出すとのコメントに対し古谷さんが当時の日本とウクライナ同一視出来ませんと実体験を基に反論しておられます。もう既に80年近く前の話しで実体験された方が少なくなって来ている中、丸木さん、古谷さんの当時の思い出話が語られており私たちの40年!!の寄稿集に残して置くべく古谷さんに写真をお願いしたところ神戸の須磨から岡山のお寺に集団学童疎開された時にお世話になったお寺の写真を送って呉れました。残して置きたい、語り継ぎたい当時の実体験は、貴重だと思います。写真と共に終戦の玉音放送のYoutubeもあります。丸木さん、古谷さん有難う。ウクライナの平和が訪れるように祈りたいと思います。


丸木で〜す ウクライナからの避難民の報道を見るにつけ、戦時中の米空軍による日本無差別爆撃を思い出します。世の中にアメリカほど悪い国はありません。日本人には避難する国すら無かったのですよ。平常な精神なら、あの様な酷い事がを出来る訳がありません。日本が中国、朝鮮、フィリピンでやった事を咎められれば一言もないのですが、古今東西それが戦争と言うものです。世界中が同船者のつもりの絆で付き合えば平和は保たれます。当地トロントでは、僕の名付けた和み会では郊外の日本レストランで月に一度集まり、各自の近況報告をやってます。パンデミック中にはGoogleのオンラインでやってましたが、2年ぶりで来週12日には千葉で集まります、為念。

古谷: 丸木さん 皆さん 貴信には、「戦時中の米空軍による日本無差別爆撃を受け、・・・避難する国すら無かった・・・」とありますが、極く、些細な点乍ら、聊か首肯致しかねる点を感じましたので、非礼を顧みず、愚見を以下に申し述べます。
昭和20年02月10日(土)夜、神戸市須磨区月見山本町02丁目の自宅は、B-29の焼夷弾攻撃で全焼しました。夜の八時頃だったと思います、薄暗い灯火管制の中B-29の爆音を聞くや否や、近所に焼夷弾の投下音を聞き、父が、姉と私に家を出て、山手へ向かう様指示。逃げる途中に焼夷弾がバラバラと落ちて来るのを見て、避け乍ら逃げ惑いました。小学校二年生の三学期の事でした。
米第21爆撃隊を指揮した Curtis LeMay 少将が、従来の 500キロ爆弾に代え、木造家屋の多い日本空襲用に燃焼力の強い焼夷弾を採用しました。又、昭和19年08月にサイパン・テニアン・グアムの日本基地が陥落したため、それ迄の航空基地重慶より、テニアンに移した結果、昭和20年01月より西日本から北関東迄広がる結果となり、急激に日本の敗戦の機運が濃厚になりました。又、日本のゼロ戦の追撃を避ける為、五千米以上の高度から焼夷弾を投下しました。更に
高射砲攻撃を避ける為、夜間に攻撃を行いましたが、何れもルメイの頭脳が決めた事でした。当時、B-29 が焼夷弾を投下したのは、大都会と中規模都市だけで、郡部は攻撃していませんので、「無差別」とは申せません。東京の下町は無差別とも思える集中的な攻撃を受けたのは、大手軍需産業の下請けを多くの民家が引き受けていたからで、米国の調査は正確でした。郡部には、焼くべき家屋が少なかったので、目標にならなかったのでしょう。小学生など子供の田舎への疎開が励行されたのもその所以でした。
私自身、昭和20年04月より10月迄、岡山県の牛窓の近くのド田舎に集団疎開(西須磨国民学校)しました。寒村の山の近くのお寺でしたが、周りは田圃・畑しか無く、空爆など無縁の世界で、極めて平和な寒村でした。お寺の講堂を教室代わりにして、担当の教師が授業を行ったので、授業の遅れは無く、10月に神戸へ戻ってスムースに復学出来ました。集団疎開のメリットと言えるかも知れません。
別信で述べましたが、村役場で、コメの配給を受ける際、引率の教官が、「生徒数」を多めに申告したり、隣の農家の畑で、土中に手を突っ込んで、ばれぬ様サツマイモを盗んだ事を申しましたが、何れも、都会生活しか知らぬ八歳の餓鬼には、半年間の僅かな期間でしたが、B-29の空襲を忘れた平和な時期でした。
冒頭に首肯し兼ねる点があると申したのは、(A) 昭和20年には、米軍に空軍は無かったのです。B-29 は陸軍機でした。米国に空軍部が独立したのは、1947年です。(B)米軍の空襲予告は無かったとありますが、数は少なかったものの、昭和20年08月02日の水戸市の空爆では、数日前に、予告ビラを空から撒いていました。
最後に、「ニックキ(憎き)ルメイ」乍ら、日本政府に請われて、飛行隊員の訓練、機種選定などで航空自衛隊を指導しました。その功を多として、昭和49年12月に日本政府より勲一等旭日大綬章を受勲しています。思うに、同人は政治思想など持ち合わせぬ、根っからの職業軍人の様でした。

和田:古谷さん 小さい頃の事を良く覚えていますね。ウクライナの現状と戦中の日本の出来事を同一視する事は出来ないとの御自分の実体験を基に書かれた古谷さんの実体験記は、是非私たちの40年!!の寄稿集に残して置きたいと思いますので適当な写真1葉で良いので提供下さい。もし適当な写真が無ければ古谷さんの学徒疎開時の写真か現在の写真でも結構です。宜しくお願いします。

古谷:和田さん 斯様な遠い昔の餓鬼の頃の思い出を、貴稿に載せて戴くのですか? 60年以上の大昔、況してや当時写真など撮る習慣など無いので、ご注文に頭を抱えています。一寸、時間を貸して下さい。
私が、岡山県の田舎に集団疎開をしたのは、77年前の苔の生えそうな大昔の話です。況してや、終戦間際の弩田舎の事とて、誰も写真機などを持っていません。ご注文に応じるべく、薄れかけた記憶を頼りに、数拾枚の写真から、似た様な宿坊を兼ねた寺の写真を見つけました。これでご辛抱下さい。板の間の広い講堂で、東京の豊洲中央魚市で並べられる鮪の様に横二列に疎開児童の布団が敷かれました。就寝前の教師の説教を聞いていた時、膝の上を虱が這っていたのを良く覚えています。当時、入浴や洗濯をどうしていたか?覚えて居ません。
下記のユーチューブは08月15日に放送された終戦(敗戦)を告げる玉音放送です。弩田舎の事とて、お寺に有ったオンボロが唯一のラヂオで、和尚を初め、近所の男達が三々五々集まり、放送を聞いていました。以前、申しました如く、天皇のお言葉が進むに連れ、男達の頭が段々下がり、終りには、全員が手で涙を拭っていました。私など音声が聞き取れぬ前の事、天皇のお言葉の意味が分からず、男たちの「\戦争が終わった」の言葉で、「うれしや、我が家に帰れる」と逆に、ニコニコしたものです。 完。
  www.youtube.com/watch?v=69eZ0VdT9ec">https://www.youtube.com/watch?v=69eZ0VdT9ec



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