報徳思想並びにその仕法について その1 浅海 護也
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浅海さんの報徳思想並びにその仕法についてと云う日常に於いて大いに役立つ我らが二宮金次郎の生活とその教え実践の仕法を分かり易く説いて呉れている貴重な読み物を3回に分けて40年!!寄稿集に残して置く事にしました。上手く3回で終わるかどうか?もしかすると4回になるかも知れませんが、皆さんの感想、コメント等も途中に挿入し皆で報徳思想を浅海さんの解説で勉強したいと思います。その1は、序論から始まり本論の二宮金次郎小史の1−二宮金次郎の生涯と業績を収録しています。2以下はその2になります。尚、途中榎原さんのマットグロッソ州の開拓史がコメントとして入っています。写真は、浅海さんが送って呉れた我らが二宮金次郎の慣れた戦前はどこの小学校の校庭にもあった懐かしい銅造です。 |
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1964年のブラジル軍部による64年革命によって成立した軍事政権と経済閣僚とそのブレーンが大きなしくじりを犯しました.国際政治経済は千変万化すると言うその恐ろしさを軽視した机上の策で不慣れな借金政策に頼り過ぎ、ブラジルの国と国民の運命を大きく狂わせ1990年代にはコチア産業組合、スールブラジル農業協同組合が解散し、南米銀行がスダメリスに買収され所謂、ブラジル日系コロニアの城はすべて落城消えて行き、1990年代前半コロニアの一大社会現象となった出稼ぎは日本側のバブル景気の終焉で勢いは落ちたが依然続きました。この出稼ぎ別名、日本就労は1980年代から盛んになっていたが、2003年在日ブラジル国籍者は27万5千人を数え一世を含めれば30万人を軽く越えていた。こうして気が付くとブラジル日系コロニアは何もかも失い、コチア、スールブラジル、南銀だけでなくコロニアそのものが落城して行ったのでした。ブラジル自身も国家財政が破綻(モラトリアム、ハイパーインフレ)し、経済界は80年代の停滞を経て1990年代の大破局へと引きずり込まれて行った。私は来伯後長い間サンパウロ州奥地に居住し日系種鶏場に働き販売した初生雛の飼養面の技術指導に従事し、南中伯の養鶏場廻りをしました。ドイツ系イタリア系、韓国系そして多くの日系植民地を訪問し、月間1万ー1万2千キロを車で走りました。そして各民族によって価値観が違い、国民的思考行動にも大きな差があることを知りました。何故移民開始後一世紀もたたずしてブラジル日系コロニアは外山脩著ブラジル日系社会百年の水流、にある上記の様な結果に至ったのか、どうして我々はこの様な痛恨の惨事を招いたのか。私はすぐにはその理由を理解できず、その原因を新聞等で調べ日伯の農業識者に尋ね私なりに次のような結論を得ました。
つまり、1−日系農協は商品経済の下、組合員に農業融資を借りれる限り出させその生産量、出荷量を競走させた。
2−組合、日系コロニアには立派な指導者がいなかった。気魄のある行動力、精神力、責任感のある二世指導者が育たなかった。
3−コチア、スールそして南銀の倒産、落城が大きく旧組合員、従業員、行員その家族が大量に日本へ回帰就労した。
さて、私は学生時代、農政の時間に二宮金次郎(尊徳)の報徳思想並びにその仕法について聴講した経験があり、21世紀開始当初その再読を試みましたところ、今後21世紀に於いて実践するブラジル日系社会の農業再建はこの思想とその精神によって武装され、ブラジル農業の性格、その長短をしたものでなければならない。之こそ20世紀末に消滅した言われるブラジル日系コロニア再生の為の思想そしてその仕法であること確信致しました。20世紀末後、21世紀に入ってガウショ達を中心とする大農様式による近代的農業はセラード地帯、中北伯の従来のブラジル農業を席巻し世界の農業大国の地位をいよいよ確立しつつありますが、この日系社会に於ける報徳思想並びにその精神によって強化された農業の実践は必ずやブラジル農業の一層の発展に寄与するものであることを疑いません。私は力不足ですが続けて下記の順に二宮金次郎(尊徳)、報徳思想並びにその仕法についてその一端を紹介いたします。皆さん諸賢の賛同、叱責、御意見を期待して居ります。
即ち、1−満州における日本移民の全壊について
2−二宮金次郎小史
3−現代に於ける報徳生活
1.満州に於ける日本移民の全壊について
一般に企業は採算を根本とする様である。採算の基礎は資金と技能と生産品処理の前途を、一般社会の事実に基ずいて立てる。それ故売れ行きのよい商品があると世人は争うて企業を競走する。最近に於ける特需産業の困難等はその例である。その要因は資金が借入であること、即ち利益と金利との差が事業家の収益採算となっていることと、事業の利益から特需という事業の短命な天分に対する保障を用意していなかった事である。農業に於いても同様の失敗がある。移住した人人の成功しないのは、開拓が企画的に行なわれないからである。移民の中には、現在僅少の所有地しかないので、移住すると広大な面積が得られると喜び、一挙にして小作者から地主になったように過信するのである。そうして地主生活経験のない地主生活をやって失敗する。北海道の現在の農民は24万戸と計上せられるが、明治以来移住した農家約20万戸として、その内で移住当時から現在まで、同じ村に、最初開墾した子孫が何ほど父母の業を相続しているかと問えば、あるいは2,3割に過ぎないのでないかと答えられるのである。その中で十勝の豊頃町のうちの報徳部落の様に、全戸が明治29年の開拓以来であるという例は全く珍しい事なのである。満州に於ける日本の移民は全壊に陥ったが、僅かに10数年で移住者の大半は最初の開発地を離れて行った。農業のように、企画も経営も簡単でありながら、永続性がなくなるのは、天分に基ずいて企画した仕事をしないからである。満州開発の実際を見て驚いたのは、内地で2,3反の飯米田を耕作した知識を以って、10数町歩の乾田を耕作しようとし、満人を雇用して地主的生活を営んでいたのである。だから僅かに数年でもって雇用満人の給料支払いに窮し、住居も耕作権も内実満人のものになり、名義人は事実上満人の雇用者となっていることであった。
和田:浅海さん 3回分を無事入手しこれ等3回分を纏めた所、2213字になりました。1回7−800字ですので10回迄を纏めてその1としてBLOGに金次郎の像と共に掲載します。どんどん続きを送って下さい。宜しくお願いします。
浅海:拝復、和田さん、多忙のところ有難う御座いました。今日も続3を送りました、宜しく頼みます。元気で。
榎原:浅海さん お久しぶりです。お元気なご様子で何よりです。今回は投稿いただきありがとうございました。
今回はご指摘のありました「コチア産業組合や南銀等の日系社会のシンボル企業が次々に倒産、その後も日本からの移住者も来なくなり、日系社会も先細り」という嘆かわしくもあり残念な現実について、私なりの考えるその理由や背景を述べさせて頂きます。そして、この論題はやや漠然として説明が難しいので、マットグロッソ州の開拓史を例にして説明させて頂きます。
1.マットグロッソ州開拓史
私は仕事の主要な活動場所は、マットグロッソ州(以下MT州)やパラ州をはじめとするブラジル北部です。そして、殆どの取引先は現地の木材業者と大手穀物生産業者です。私は特に、MT州の開拓史を調査したり勉強した訳ではありませんが、取引先の皆さんとの長いお付合いの中から、彼らの体験談を元に簡単にMT州の開拓史を以下説明します。
MT州の開拓は、大雑把に40−50年前の主に南部3州(RS州、SC州、PR州)からの国内移住から始まりました。(田舎には、市制40−50周年の新しい自治体が多い)そして、この国内移住は、同じ町の知り合いや親戚家族を構成とする集団移住が多いです。南部に所有していた僅かな土地を売って得た資金で広大な森林を購入する。僅かな資金で広い土地を購入するとなると、当然購入する土地は森林(原始林)となります。しかし、購入した森林で行き成り穀物栽培から始められませんので、先ずは製材業で生計を立てることになります。そして、製材業で得た利益によって、製材業を拡大したり近辺の土地を購入する。
次に、MT州の主要産業が木材業から大型穀物栽培業や牧畜業に変化していった理由です。今は森林伐採は許可制ですが、昔は森林伐採は自由でした。しかし、国際社会で環境問題が取り上げられるにつれて、森林伐採が許可制となりました。これに関連する規則は非常に煩雑ですが、簡単に説明すると、「伐採許可取得、売れる樹種を選んで伐採、後に、伐採し終えた場所の一部(50%とか20%)の農地化(山焼き)」という土地利用の流になります。今は起伏の激しい場所は牧場、平らな場所は農地(穀物栽培)に区分分けされますが、昔は殆どが牧場でした。しかし、20年ほど前から始まった中国の経済成長に合わせて、地元の地主が牧場経営から穀物栽培に切り替えた結果、MT州が国内最大の穀物地帯に変貌していった。
2.このMT州開拓史に、余り日系人が登場してこない理由
前項のように、今MT州はブラジル一の穀物地帯であることは、国民誰もが周知の事実ですが、残念なのは、MT州には殆ど日系人の穀物栽培業者がいないことです。「こういう日系人がいる」という噂は耳にしますが、実際に今まで現地で日本人の大型穀物栽培業者に会ったことはありません。現地の大型穀物栽培業者の大半は、ドイツ系やイタリア系ブラジル人です。(恐らく、90%以上と推測)
以下は、私が自分なりに考える、日本人に大型穀物栽培生産者がいないその理由です。
*昔は無法地帯:私の知り合いの生産者の大半は、過去に自分の土地を他人に不法占拠(侵入)された経験の持ち主です。そして、この不法占拠者を追い出す為には、場合によっては、不法な手段や暴力を使って解決する必要がありました。簡単に言うと、「目には目を歯には歯を」という問題解決手法です。更に極論すると、最終的に相手を殺す覚悟があるかどうかということにもなります。通常、不法占拠で食っている集団は、どの土地を狙うかを事前調査をします。そして、狙われ易い土地は、所有者が日本人と遺産相続等でもめている土地になります。日本人は好戦的性格で無い、いざとなっても敵を殺すようなことを考えずに、潔く土地を手放そうという精神文化を、彼らはよく知っています。この不法占拠は数こそ少なくなっていますが、今も発生しています。
*営農資金不足:南部からの国内移住者は、潤沢な資金を持ってMT州に移住した訳ではありませんが、当初の製材業でそれ相当の利益を得ています。当然、彼らは銀行に対してそれほど信用力がありませんので、営農資金を銀行借入で賄うことが出来ません。日本人移住者のように裸一貫で当地に移住とか、銀行からの借り入れに頼るといった発想が余りありません。しかし、ブラジル人は自分の資金量と相談しながら、結構健全経営を心がけています。
*ブラジル人労働者を使いこなせない:製材業は、労働集約型製造業です。もし、開拓初期に日本人が製材業で生活基盤を築こうとしても、ブラジル人労働者を上手に使いこなせない為に、製材業での基盤作りを断念、そして、移住を断念して移住地を出て行く結果となります。私も工場経営をしていた経験がありますので、ブラジル人を従業員として使うことの難しさを経験しています。ブラジル人論を理解していても、日本人の美徳とか精神文化が悪い方に作用してしまい、結果ブラジル人を完全に使いこなせないことになります。
*子供の教育方針(後継者不足):現地に滞在していると、時々日本人に会うことがあります。色々と話を伺うと、彼の滞在目的が所有している土地の売却交渉とか、他人への貸し地の様子見の場合が多いです。又、昔は牧場や農業を営んでいたが、今は街に出てきてホテル経営や小売店を経営している日系人を良く見かけます。日本人は「自分の苦労を子供にはさせたくない」といった意識が強く、子供には高等教育を受けさせて将来収入の安定した職業(例えば、弁護士、医者、国家公務員等)につくことを願う親御さんが多いです。一方、ブラジル人の大型農業生産者の場合は、子供が跡取りになることを当たり前に考えています。そして、子供も大型農業の利益率が高く、労働集約型でない分人事管理がそんなに難しくないことを知っていますから、親の事業の跡取りになることを当然と考えています。従って、日本人のような後継者不足問題はほとんどありません。(他の問題は沢山抱えていますが、、)
3.前項ではMT州に、日本人の大型農業生産者が少ない理由を述べましたが、この理由は日本人がどうしてもブラジル社会とか他の地域の農業界で今一本領を発揮できない理由にも当てはまる気がします。しかし、我々の先輩移住者のブラジル社会への貢献度は、当然それ以上の計り知れないものがあるのは揺るがしがたい事実ですが。同様に、日本からの進出企業は思うような業績を上げられずにブラジルから撤退してしまう原因でもあります。私も外山さん著「ブラジル日系社会百年の水流」を麻生さん経由贈呈頂きました。長い期間汗を流して得た情報や真実が満載で、日本人社会の歴史を知る上では極めて貴重な書物だと思いました。歴史を通じてこれから何を改善すべきかの意識で読むと、色々な教訓を教えてくれています。
2.二宮金次郎(尊徳)少史
本日からその生涯に600余の農村を復興した農村指導者であると同時に経世家、政治家、土木技術者そして優れた教育者でもあった二宮金次郎(尊徳)を紹介いたします。彼は之ほどの農村そして藩の財政を再興し豊かにしたにも拘らず私有財産は一銭も残していなかった人物、私は日本史上最大の偉人の一人であると確信、尊敬して居ります。我日本にはこの様な世界に冠たる巨人がいたことを誇りに思います。
先ず二宮金次郎の時代、つまり18世紀末から19世紀中葉までの日本は江戸時代の社会、政治及び経済の状態を少し観察いたします。農本主義に立脚した寛政の改革を推進した松平定信は天明七年(1787年)に登場したが、彼の謹厳な政治をうるさがり七年後彼が辞任したら、文化文政時代から天保年間にかけての約50年間、十一代将軍徳川家斉によって大御所政治が行なわれた。そして頽廃的な世相が現出した。都市を中心に庶民文化(化政文化)が栄え商人の経済活動が活発化したが、農村では貧富の差が拡大し、各地で百姓一揆や村方騒動が頻発し治安も悪化した又、19世紀に入ると社会全体が急速に硬直化した。農民の他、町人による一揆打ち壊し、強訴も例年起こるようになり、各藩の財政も窮乏して幕藩体制の危機は一段と深刻化した。又、江戸時代は全体的に寒冷な気候となり、享保(1732年)、天明(1783年ー1787年)そして天保(1836年ー1837年)の三大飢饉が特に有名であり、凶作、飢饉が冷害によって発生し、数十万人の餓死者を出した。次に文政四年(1821年)二宮金次郎が現地調査を実施した時の桜町領の状態は如何にあったか。小田原藩主、大久保家の分家の旗本,宇津半はん之助が領し、四千石を知行したがそれは下野国(栃木県)芳賀郡物井村、横田村、東沼村からなり桜町はこの三カ村を管掌する陣屋の所在地であった。公称は四千石であったが分家した当初から実際には三千百俵程の納租しかなかった。
と言うのは当時の下野の地域は土地は痩せ,気候又寒烈でしばしば凶作で作物も乏しく、人の気風もその土地柄を反映して、勝手気ままで無頼の徒が多く、遊び好きで怠惰であった。従って田畑は荒れて貧しく、民家には狐や狸のすみかになるものもあった。慢性的な耕作放棄や夜逃げがあり、農民は米を作れば年貢で取り上げられて農民の手に現金が入らない.然し畑作物として野菜等を作れば市場へ売って、現金を手にすることが出来た。こうして町人とつながりが出来ると肥料代や生活費までも彼等から借金する様になり、文政の頃には百五十軒ばかりの農民が千両もの借金を負うまでになってしまった。即ち、その日の生計を借金でささえ、或いは他国へ奉公に出たり、又日雇い駄賃、商売商、漁業等の余業のみを以って生業とする様になった。更に本業である農業を怠っているので毎日の食料が不足し、次第に村の風習は悪化して賭け事や強請、紛議が絶えなくなっていった。其の為に村を見捨て土地を離れて行く者も年々増加し、元禄十一年には433軒あった家数も文政の時代にいると156軒へと減少し、人口も元禄十一年の1915人から749人へと半減する衰退ぶりであった。そして文化九年から文政四年までの平均貢租は934俵余り金130両になってしまった。
目次 1−二宮金次郎の生涯と業績
2−二宮金次郎の学問
3−二宮金次郎の村おこしの事業
4−二宮哲学の精華=報徳訓
5−報徳の実践=勤倹譲
6−勤倹譲への心田開発
7−自助と互助の共同体作り
8−天地と共に行くべし
9−報徳における道徳と経済
明日から各目次について説明いたします。
1−二宮金次郎の生涯と業績、 優れた農政家として江戸時代の末期に活躍した二宮金次郎(尊徳)(1787年ー1856年)は現在の栃木、茨城、神奈川そして福島の諸県で600を越える村々を荒れ果てた状態から立て直し、経済的にも精神的にも豊かな社会を建設する事に成功しました。1842年(天保十三年)、五十六歳の時に金次郎はいみなを尊徳と名乗った。正式にはタカノリであったが後世ソントクと一般に呼ばれた。又金次郎は江戸幕府の幕臣に取り立てられましたが、翌年1843年(天保十四年)上申書を幕府に提出しました。この上申書は金次郎の自叙伝とも言うべきものであった。この金次郎の自叙伝をもとに彼の生涯と業績のあらましを紹介いたしますー 1787年(天明七年)七月二十三日〈旧暦、新暦では九月四日)相模国足柄上郡栢山村(現神奈川県小田原市かやま)に生まれる。(一歳、数え年)寛政三年、暴風雨の為近くの酒匂川の堤防が決壊し大洪水となり、田畑の大半が流失する。(五歳)寛政十年父,利右衛門病に倒れる。(12歳)寛政十一年松の苗200本を買い、酒匂川の堤防に植える。松の木の根は堤防を丈夫にする。(13歳)寛政十二年、父死す。父、利右衛門は困った人がいれば、助けてやらねばいられない善人であり、非常な読書好みであった。(14歳)享和三年、母、よし死す。(16歳)伯父、万兵衛の家に寄食する。この頃の金次郎のエピソードとして次の様な話があるー 家の近くの仙了川の土手に菜種の種をうえて油菜を収穫しその油を使って夜の読書を続けた。田植えの時に村人が捨てた苗を家の近くの用水路の空き地に植えたところ、秋には約一俵の米を収穫することが出来た。これらの出来事によって金次郎は天地、自然の恵みを知り、後に天道(自然の法則)と人道(人間の努力)とか、小を積んで大を為す(積小為大)等の教訓を確立してゆく。
金次郎は積小為大の道こそ人生の理想の道であり、最善の道であると確信した。文化三年生家跡に小屋を建てて住む。田地、九反歩を買い戻す。(二十歳)文化七年田地一町四反余りとなる。伊勢、京都等に旅行する。(二十四歳) 文化八年、小田原藩家老服部家の若党になる。(二十五歳)
文化十四年、中島きの、と結婚する。田地は三町八反余りを所有する。(三十一歳)文政元年、今は亡き小田原藩の殿様、大久保忠真公より私に対して次の様なお褒めの言葉をくださいました。かねがね農業に精を出して心がけが良いと聞いている。自分の為だけでなく村の為にもなり、とても良い事なのでほめおく。この表彰文から後に金次郎は人の為にということを先にして行けば、やがて自分の為にもなると言う自他振替という考え考え方をする様になる。文政二年、きのと離婚する。(三十三歳)文政三年、1820年岡田なみと再婚する。年貢用収納の斗升を改良する。又小田原藩士のために五常講を創設した。之は金次郎が服部家に奉公中、文化十一年(1814年)に作った五常講貸金を範として作ったもので、倫理的自覚による人の心を担保として、相互に規制する連帯的な責任の下に、相互にする扶助金融制度であった。無利息で貸し出された。五常とは儒教で、人の常に守るべき五つの道徳、仁義礼智信を指し、この五徳を守ることの出来る人だけが加入出来た。(三十四歳)文政四年、小田原藩の分家で旗本、宇津家の桜町領四千石、(栃木県二宮町)の復興再建を命じられる。文政四年のことですが、宇津はん之助様のご領地で荒れ果てて人口も年貢収納も減少し、村が滅びるばかりになっておりましたので、大久保の殿様から荒地の実情等を詳細に調査して、たとえ少しずつでも荒地は荒地の力で起こし返し、ご先祖達が丹精してきたやり方と同様のやり方で村を起こして参りたいと存じます。と申し上げました常呂、とても感心なさって、そなたの計画のとおりに任せるから思う存分に取り計らえと仰せつけられました。(三十五歳)
この後金次郎はこの上申書の中で青木村の仕法、谷田部藩(細川藩)、烏山藩そして下館藩等で実施した仕法の事蹟を細かく書いている。尚、以上の上申書の外にも日光領の仕法そして富田高慶を中心とした相馬藩の仕法が金次郎の存命中に開始されたのであった。安政三年(1856年)九月十九日、弟の三郎左衛門が見舞いに訪れる中、十月二十日、金次郎は数え年、七十歳の波乱に満ちた生涯を終えたのであった。今市(栃木県)で死亡し、如来寺(浄土宗)に埋葬された。
榎原:浅海さん、私が通った小学校にも、二宮金次郎像がありました。コロナ禍が始まる前の年に、母校を訪問した時には、もう取り壊されていました。特に、学校の敷地が狭くなった訳ではないのですが。又、ブラジルの日本人入植地では、入植何十周年の記念碑は見かけますが、二宮金次郎像を見たことがありません。
私は小さい頃に、祖父からいつも説教を聞かされていました。「説教は今の時代にそぐわないが、参考にはなるはずだ」から説教は始まりました。どうして、今の時代にわざわざ像を取り除く必要があるのか良く理解できません。日本には、今の価値観で昔を否定する傾向があります。
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