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報徳思想並びにその仕法について その2 浅海 護也
報徳思想並びにその仕法について その2を掲載する事にします。その2は、2二宮金次郎の学問から始まり、3二宮金次郎の村おこしの事業、4二宮哲学の精華(報徳訓)、5報徳の実践、勤倹譲、6勤倹譲への心田開発、7自助と互助の共同体作り、8天地と共に行くべしまでを掲載します。コメント集として榎原さんと丸木さんのコメントと浅海さんのコメントを一緒に掲載して置きます。榎原さんの『国会議事堂正門前とか各省庁入り口に、二宮金次郎像を設置したり、政治家や官僚の皆さんが仕事前に、報徳訓を朗読するのも一案かも知れません』に賛同します。
写真は、浅海さんから送って頂いた金次郎の像を使うことにしました。 


2−二宮金次郎の学問   寛政十二年(1800年)金次郎、十四歳の時父、利右衛門が死亡し、友吉、富次郎の二人の弟と母親そして金次郎の四人の生活費の負担は金次郎の肩にもかかることになり、彼の奮迅の努力が始まった。金次郎は毎朝未明に起きて薪を取りに行ったのである。箱根山の東斜面にあった入会山迄一里、4キロの距離を歩いて通い、帰りは二里の道を歩いて小田原の城下へそれを売りに行った。金次郎は幼い頃から父親の影響もあり、勉強好きであった。6,7歳の頃から読書を始め、仮名頭、実語教という様な当時、誰でもが学ぶものを先ず読み、12,13歳の頃には大学、論語を読むようになっていた。従って、薪を背負って毎日往復する長い道中にも時間がもったいないと金次郎はこの大学を読んだのである。誰も邪魔する者のいない田舎道、金次郎は声を出して読んだ。その頃、百姓の倅、それも貧困のどん底にある小僧が読書をするなどということは異例も異例、百姓の分際にあるまじき変な奴、少し頭がおかしいのではないかとキ印、気違いの金さんと呼ばれるようになった。享和二年、1802年母、よしも死んでしまい、金次郎は父方の伯父に当たる万兵衛のところへ、そして友吉と富次郎は母の実家に引き取られ金次郎兄弟は離散して行った。万兵衛に引き取られた金次郎は毎日懸命に働き、夜なべの仕事の後は読書に励んだ。  
立派な百姓になるには学問が大切であると思ったのである。然し、万兵衛にそれが見つかり、百姓には学問等入らぬ、又灯油の消費も大きい、只ではないぞと注意された。そこで、金次郎は菜種の栽培に手をつけ、之の収穫物を油屋で灯油に替え、万兵衛が就眠すると金次郎は寸暇を惜しんで書物を読み、一番鶏のなく頃にやっと床に就いたのだ。その後二十六歳の時、小作米を38俵二とうを得る自作農になり生家を復興したが、この年、小田原藩家老服部家に奉公した。服部家への奉公は給金取りが目的であったが、服部家に流れている学問の雰囲気に金次郎が魅せられた為である。金次郎は当家の三人の男の子供付きの若党になったのであった。金次郎は三人の男の子供が学問所へ通うお供をし、昼間は漏れてくる講義を聞き、夜は彼等三人が勉強する時にも近くに座って聞く内にこれ等の学問を暗記した。又、この年に金次郎は経典余師、十巻を自ら二朱で買い入れて勉強している。こうして四書五経を中心に江戸時代の学問が独学で金次郎の頭に吸収され、学問をした立派な農民に成長した。
3−二宮金次郎の村おこしの事業    金次郎は文政四年(1821年)、三十五歳の時、小田原藩の殿様、大久保忠真公から桜町にある分家の四千石の旗本、宇津家の財政再建を依頼されました。当時、桜町領の米の生産高は一千石まで低下し、当然年貢の収納額も激減していたのである。金次郎は丹念に現地の実態調査をし、十年で米の生産額及び年貢収納額を二倍にするという再建計画を立案しました。桜町領の過去、十年間の年貢収納額の平均は962俵でしたが、文政四年の実績が1、005俵でしたので、この1,005俵を今後十年間領主に上納する限度と定め、尚、この上納限度額は後に分度と名付けられることになります。つまり、再建事業が成果を挙げて米の生産高が増収となった場合は年貢は従来通りの年貢率で農民達から徴収しますので、その年貢徴収額と上納限度額との差額を分度外(分外)の余財として金次郎が管理し、それを荒地開発等の資金として投入する事を領主側に認めさせて、この様にすれば十年後には米の生産額及び年貢収納額は二倍の二千石に出来ますと、この様な再建計画案を提出し了承されました。そしてこの目標を見事に実現しました。尚、金次郎の村おこしの事業の事を仕法といいます。村おこし事業では先ず分度を立てる事が先決である。分度が立ち、税法が定まってから、復興再建の事業に取り掛かる。それを実施するにも順序がある。先ず領内の一つの村から始めるのである。一つの村から始める時も次のやり方ですることになるー 1)善行者を表彰する(善を賞する)2)生活に困っている人を助ける(困窮者を恵み助ける)3)荒地を開き土地を改良する(地力を尽くす)4)人人を感化し、やる気を起こさせる(教化を布く) 5)貯蓄を積む(貧しい人人の為に米や金等を提供,推譲した時にはそれに見合う倍額を支給して、それを基金として凶作への備えのために蓄えさせる)この様に施策を講じ、指導者が誠意を持って人人を指導して行くならば人人の気持ちは改まり村の気風も良好なものになってゆく。こうして一つの村は復興してゆくと金次郎は述べています。
4−二宮哲学の精華(報徳訓)   大久保忠真公との約束の十年目にあたる天保二年(1831年)の正月、金次郎は自然薯を土産にして殿様にお会いし次の如くに答えました。荒地には荒地の力があります。荒地は荒地の力で起こし返しました。人にも夫々良さや取り柄があります。それを活かして村を起こしてきました。之に対して殿様は、そちのやり方は論語(憲問篇)にある、徳を以って徳に報いるという、あれだなと言われたと言い伝えられいます。金次郎はその徳及び報徳と言う言葉を中心に捉えて自分の思想体系を練り上げて行く様になりました。金次郎は物や人に備わる、良さ、取り柄、持ち味、能力の事を徳と名付け、それを活かして社会に役立ってていく事を報徳とよびました。藁の徳を活かして縄、草鞋そして俵等の新しい徳を作ることが出来ます。之が報徳なのです。又金次郎はすべてのものに徳があると考えました、つまり万象具徳です。二宮哲学の精華は天保五年頃に作られた、報徳訓という教訓に集約されている。三行で一連、四連十二行で成り立っています。一連の内、前の二行が恩徳を、三行目が報徳を表しています。つまり、父母の根源は天地の令命にありー身体の根源は父母の生命にありー子孫の相続は夫婦の丹精にあり、父母の富貴は祖先の勤功にありー吾身の富貴は父母の積善にありー子孫の富貴は自己の勤労にあり、身命の長養は衣食住の三にありー衣食住の三は田畑山林にありー田畑山林は人民の勤耕にあり、今年の衣食は昨年の産業にありー来年の衣食は今年の艱難にありー年々歳々報徳を忘るべからず。わが道は徳に報いるにある。徳に報いるとは何か、天地人三才、つまり天と地そして人の働きの徳に報いる事である。人が世にある以上は三才の徳によらないものはない。故に、わが道はその徳に報いることを本とするのである。上は王侯から下は庶民に至るまで各々その天分にとどまり、節度を立て勤倹を守り、分外の財を譲って報徳の資材とし、之によって荒地を開き負債をつぐない、貧窮を恵み衰村を建て直し廃国を興す。これぞ天地人三才の徳に報いる所以なのである。尚桜町領復興第一期の終わり頃、つまり天保二年になると金次郎の功績は四方に知れ渡り、金次郎の事を野州聖人と称える声が方々から起った。
5−報徳の実践、勤倹譲   わが道は勤倹譲の三つにある。勤とは衣食住になるべき物品を勤めて産出することを言う。倹とは産出した物品をむやみに費やさない事を言う。譲とは衣食住の三つを他に及ぼす事を言う。つまり、報徳を実践すると言う事は天地人、三才の徳即ち、自然の恩徳と社会の人人の恩徳に報いる為に、つまり恩返しをする為に勤倹譲の三つを実施する事なのです。金次郎によって貧富訓がまとめられる。つまり、遊楽、分外に進み、勤苦、分内に退けば、即ち貧賤。その遊楽、分内に退き、勤苦、分外に進めば、即ち富貴その中にあり。分度、つまり収入に応じた支出の限度を設定し、計画的な支出を行なう事により、余剰を生み出し、その余剰、余財を他人のために推し譲る事が金次郎の勧める倹なのである。天分によって支出の度を定めるのを分度と言う。自己の収入の中から分度を立てて余財を生み出し、それを社会公共のために提供する事を譲又は推譲という。金次郎の村おこしの仕法の事業は殆どの場合何人かの人の推譲によって始められ、やがて多くの人達の勤労と推譲に支えられて達成されて行きました。晩年の金次郎は特に推譲ということを強調しました。尚、報徳は次の四項に集約されるー1)至誠、誠は天之道なり、之を誠にするのは人の道なり。2)勤労、勤労は人道なり、心身を労して勤めに励むこと。3)分度、天分を測度して自己の実力を知り、それに応じて生活限度を定める事。4)推譲、我々の先祖が自己の生活物を少し残し、後代に譲って来た。之が推譲の基本である。そして至誠を本とし、勤労を主とし、分度を体とし、推譲を用とする実践の道が報徳である。尚、現在、上記の至誠、勤労、分度そして推譲は金次郎の教えの中で報徳の四綱領と呼ばれている。更に湯船の湯のようなものだと言う。之を手で自分のほうへかき寄せれば、湯はこちらへ来る様だけれども皆向こうの方へ流れ返ってしまう。これを向こうの方へ押してみれば、湯は向こうの方へ行く様だけれども、矢張りこっちのほうへ流れかえる。少し押せば少し返り、強く押せば、強く返る。つまり、わ身の方へ手を向けて自分の方へ手を向けて他人の為に押す事を忘れていたのでは、人であって人ではない。 鳥獣と同じ事だ。なんと恥ずかしい事ではないか。だから、私は常常、奪うに益なく、譲るに益あり。譲るに益あり、奪うに益なし。之が天理だと教えている。之は又、盥哲学とも言われる。
6−勤倹譲への心田開発   人人の心田の開発をすることこそ金次郎の生涯をかけての願いでありました。つまり、勤倹譲の反対は怠ーなまけ、おこたり、奢ーおごり、ぜいたく、奪ーうばう、あらそうです。即ち、心田開発とは具体的には怠奢奪から勤倹譲への意識改革、価値観の転換の事です。之は金次郎流の道徳教育理論である。そもそもわが道は人人の心の荒廃を開く事を本意とする。一人の心の荒廃が開けたならば、土地の荒廃は何万町歩あろうと心配することはないからだ、と金次郎は言うのです。農村荒廃の根本理由は人心の荒廃にあると考えた。金次郎の言わんとすることは善とか悪とか言う事は相対的なものであり、又人間の心の中には善の心と悪の心とが混在し共存している。善だけ、悪だけは存在しない。故にやり方次第では、つまり誰かが効果的な方法で上手に働きかけていくならば、人間の心を善なるものの方向へ導いていくことは出来る筈だということです。その本を思えば即ち一人一心なり。一心を乱せば十心を乱す。一心治まれば十心治まる。百心を乱せば千心を乱す。千心治まれば万心治まる。之天理自然という。故に君子は必ずその独りを慎むなり。尚天道は太陽が休息することのない様に自然の運行をしているが、人道は行為を選択する。そして人道に於ける一円融合の実現には人類の絶えざる努力の継続が必要であり、之によって永続する。
7−自助と互助の共同体作り   金次郎の推進した仕法の事業は崩壊しかけた村落共同体を再構築したものと言うよりは、報徳という理念、理想を基盤として新しい共同体を構築したものと言うべきなのです。つまり自助と互助の共同体作りである。この自助、互助の精神は一人一人の農民達にも要求されました。勤勉や倹約が奨励され、借金地獄に苦しむ者は報徳金の貸付けによって救済され、各自、経済的に自立することが強調されたのです。現代的に言えば自作農の推奨です。報徳による村作りでは勤労、勤勉によって少しでも多くを収穫し、分度を立てた節度ある消費によって余財を産みだし、その余財を仕法の事業推進のために提供するのが推譲である。現代的に言えば、税金や社会保険料等の公的負担である。つまり自助と対応させるならば互助である。金次郎がめざしたのは現代的に言えば、自助と互助つまり自立と連帯の協同助け合い社会を建設することであった。又互助には公助も含まれている。仕法の主体的な指導者は桜町では金次郎自身、相馬仕法では報徳役所が管理、運営している。報徳金は領主の財政からは独立した特別会計として扱われている。会計だけではなく農政全般についても同様です。用排水の管理、荒地の開墾そして年貢の収納等すべてが仕法主体に任されました。言わば村方の自治に信託、委託されたのです。そして自治共同体の中では報徳の精神がいきわたり、勤倹譲が励行され、道徳と経済とが見事に一円融合し、表彰や貸付け、村役人の選任等多くのことが芋コジ法という村の集会の場で投票によって決定され、倫理的にも経済的にも高い水準の共同社会が実現されていたのです。この芋コジ法とは芋を洗う時に芋同志の摩擦によって脱皮せしめるように村民が集まって相互に相教化し、相指導し相扶助して欲の皮を脱いで清い結束を図る、つまり一円融合する為に必須な報徳仕法の具体的な施策の一つであった。衰えた村に臨んで、その民を治めようとする者は必ず自らに誓うが良い。村の中にもし飢える者があれば、自分は食わない。寒い夜、もし布団のない者があれば、自分も布団を用いない。夏の夜、もし蚊帳のない者があれば、自分も蚊帳を張らない。夜の三更(12時)を過ぎて未だ休まない者があれば、自分も寝つかない。もしも心がここになく、口から耳へと諭し詐術をもて率い、刑罰をもって威したならば、終世、心力をつくしても美風感化の功を見ることは出来ない。即ち、身を以って之を導くのでない限り、面と向っていくら言い聞かせ、多くの日数を重ねても決して効果はない。それ故、衰村の民を導くのは鶏朝回邑を先務とするのだ。之は回村とも呼ばれ、報徳仕法の具体的な施策の一つであり村民達に早起きを奨励するのであれば、先ずリーダー自身が率先して早起きをして、人人の模範となるべき事教えるものだ。報徳仕法が動き出せば年々分度以上の余剰が生み出される訳で、累積していくその財力(資力)を使えば窮民を救い荒地を開拓することは難事ではない。つまり、仕法の初期の段階に最大のエネルギーを注入する事が肝要である。動き始めたら動き続けようとして後は僅かなエネルギーを入れる事で加速度はつくのである。
8−天地と共に行くべし   大極から天地宇宙は開闢しました。この開闢の営みはその後も生生発展を続けて創造的進化を遂げ、現在の様な世の中になり更に未来へと続いています。つまり、報徳の教えは一口で言えば開闢の大道であり、報本反始、本に報い始めに返る、之こそが報徳の本源である。作物もそうやって成長していく。伸び放しではない。必ず根に返って絶えず新しい創造が行なわれる。そして勤めれば得る、怠れば失う。約(倹約)すれば富み、奢れば、貧する。之が二宮金次郎の教えである。二宮哲学では天地自然の法則や働きの事を天道といい、人間の主体的な努力、つまり、作為の継続の事を人道と言います。人道は基本的には天道に従いながら、部分的には天道に逆らって田を拓き、稲を植え雑草を抜き取り、怠らずに努力を続けて行きます。天道も時には理不尽なことがある、不条理な事がある。であれば、その理不尽さや不条理に対して人間の論理を組み立てる必要があると金次郎は考えた。つまり、水車の論理であり、金次郎の哲学を示すものだ。水車は川の流れと言う天道だけで廻っていると思うのは間違いだ。もしも水車が天道だけに頼っているのであれば、当然、川下に流れ去ってしまう。然し水車は踏みとどまって自分で回転しているということは、天道に逆らう水車自身の力があるからで之が人道である。人間の論理だと金次郎は考え、これを生涯自分を生かすパワーの源として行くのである。寒暑、善悪、盛衰その他一面だけを見て反面を見落とす見方のことを金次郎は半円の見または半円観となずけ、両面、つまり全体をきちんと見据える事を一円の見又は一円観と呼びました。要するに一円観とは空間的には物事を多角的、多面的に把握する事、特に相反し対立する要因を良く見極める事であり、時間的には過去、現在、未来を見通し長期的に展望することである。即ち世の中のあらゆる対立するものを一つの円の中に入れて観ることであり、その一つの円の中におさまる事を一円融合と名付けました。夫々の徳が一円融合することによって世の中は生生発展すると教え、報徳の道は一円融合による生生発展の道であるとしました。

(コメント欄)
榎原:浅海さん、おはようございます。いつも投稿ありがとうございます。
今回の報徳訓を知り、日本人の精神が普遍性であることを実感しました。後は、この精神を土台に、時代時代の変化に合わせて上手に運用することが大事だと思いました。以下は私なりの解釈です。
*父母の根源は天地の令命にありー非常に抽象的で解釈が難しいです。人の運命は天地にあり。順調な時は慎みを忘れるな。上手く行かない時でも、くじけるな。
*身体の根源は父母の生命にありー両親の愛情の元に育てられたことに感謝せよ。
*子孫の相続は夫婦の丹精にありー夫婦のたゆまない努力が、次の世代への継続に結びつく。その繰り返しが、子孫繁栄に繋がる。
*父母の富貴は祖先の勤功にありー両親の徳は、祖先の努力の結果。よって、子供も努力して、次の世代に引き継ぎなさい。
*吾身の富貴は父母の積善にあるー今の自分は、自助努力だけではない。両親の徳に感謝せよ。
*子孫の富貴は自己の勤労にありー子孫繁栄の為に、努力を怠るなかれ。
*身命の長養は衣食住の三にありー人生で大切なのは衣食住。無理はするな。身の丈に合った生活をせよ。
*衣食住の三は田畑山林にありー自然に寄り添って、生活せよ。
*田畑山林は人民の勤耕にありー自然を活かすも殺すも人間次第。
*今年の衣食は昨年の産業にありー先人の努力で今日がある。今日の努力は、未来に繋がる。
*来年の衣食は今年の艱難にありー今日の努力は、将来の繁栄に繋がる。
*年々歳々報徳を忘るべからず。ーこれらの教訓(報徳)を忘れるな。
私の故郷山梨の友人(先輩)に、4つの学校法人(2つ高校と2つの大学)を経営している方がいらっしゃいます。各学校では、朝授業前に、国歌斉唱と国旗掲揚を行います。当初は、右翼学校と非難されましたが、今では「自由闊達な生徒達が育つ」学校として、注目されています。彼曰く、「形から入っても、毎日やっていれば心が変わる」ということの様です。
今になって、昔小学校に、二宮金次郎像があったのかを理解しました。国会議事堂正門前とか各省庁入り口に、二宮金次郎像を設置したり、政治家や官僚の皆さんが仕事前に、報徳訓を朗読するのも一案かも知れません。

丸木で~す 報徳思想はマルクス、エンゲルス、レーニンの共産主義でしょうか?時代的にはどちらが先か存じませんが、洋の東西を問わず西洋思想史にも東洋思想史に似通ってると感心します。

浅海です:丸木様 いつも御世話になっており感謝して居ります。貴兄にはマルクスレ−ニン主義と報徳思想が良く似ているとの由ですが、私は違ったものだと解して居ります。なぜならば、前者を殆ど知りません、高校で勉強した程度です。つまり、財産の共有を目指す主義であり、生産手段の社会的共有により階級や搾取のない万人の平等を目指す社会主義であるとか位しか知りません。一方、二宮尊徳翁は、後者は儒教、仏教そして神道の三つから出来ているとの由、特に農商工業に於いては自己資金による自作農そして商店工場を強調されました。簡単に私見をのべました、丸木さん一緒に勉強しませんか。今後ともご指導の程願います。御元気に。

丸木で〜す 阪急電車の甲東園の西側に山道を登ると上ヶ原に僕の母校の西宮高校、東側には武庫川沿いに野球の強い報徳高校があります。学生時代にはドイツ語の資本論の原書を小脇に抱え、歌声運動の先頭に立ってた僕ですが、思想的に赤とは言えないノンポリのボンクラでした。これから、戦争と平和でも読み返して勉強し直します。

浅海です:和田さん、後、4−5回で今回の報徳思想並びにその仕法は結論を出します、宜しくお願いします。

和田:浅海さん 残り3−5回との事、了解しました。これまでの8−天地と共に行くべしで8000語を越しましたのでその2を掲載し9−以下とコメントをその3(最終会)に掲載させて貰うことにします。40年!!寄稿集の写真が2枚足りなくなるので金次郎像追加と浅海さんの近影を1枚お願いしたいと思いますので宜しくお願いします。



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