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第1回ブラジル移民を乗せた『笠戸丸』について 田中 祐三さんからの寄稿文
戦時下に喪われた日本の商船 商船隊への鎮魂レクイエムのHP管理者の田中祐三さん(ペンネーム)から第1回のブラジル移民を乗せた『笠戸丸』についての寄稿文を送って頂きました。既に笠戸丸の写真と共に「戦時下に喪われた日本の商船」HPよりの転載として「ロシア船として日本に,日本船としてソ連に沈められたイギリス船」として掲載させて頂いておりますが今回特別に『私たちの40年!!』HPのために書きまとめて下さったものです。田中さん有難う御座います。写真は、在日ブラジル大使館のHPにある「日本とブラジルの交流史」の1908年4月28日、最初の移民を乗せた笠戸丸が神戸港を出港。158家族、781名の移民を乗せた笠戸丸は、6月18日、サントス入港。との説明書きと共に掲載されているものを借用しました。


皆さまはじめまして.田中祐三と申します.
笠戸丸の件でご紹介いただきましたが,「戦時下に喪われた日本の商船」というタイトルで,戦没商船2400隻の事跡を記述し,戦争の歴史を継承しようとしております.

第一回ブラジル移民船笠戸丸も,激しい運命の転変に――翻弄された船でした.そのことを山田廸生著「船にみる日本人移民史」中公新書1998年を参考にして記述しました.

もとはイギリスのパシフィック・スチーム・ナビゲーション社の貨客船として建造され,ボリビアの鉱山都市ポトシの名で進水しました.しかし,輸送需要が減少したため,南米航路に就くことなくロシアに売却され,義勇艦カザンとなります.
オデッサを母港に通商に携わりますが,いざというときには1000人以上収容できる病院船となる船でした.
カザンは日露戦争で日本に撃沈されますが,底の浅い港だったため引揚げ修理され,日本の戦利品としてカザンから名をとり「笠戸丸」になります。なぜ「火山丸」にしなかったかは,よけいな私のおせっかいです.これが第一回ブラジル移民船となった笠戸丸です。
多数を収容するベットがある病院船と移民船の関係も興味深いところです.

その後老船となって売却され,末期には漁船として北洋漁場に従事していました.「沖を通るは笠戸丸」と石狩挽歌に歌われたのはこの時代です.戦争末期にソ連の空襲によってカムチャッカ沖に沈みます.
この流転の歴史を「戦時下に喪われた日本の商船」では「ロシア船として日本に,日本船としてソ連に沈められたイギリス船」という表題で紹介しております.

「戦時下に喪われた日本の商船」では現在まで65隻ほどの商船を紹介していますが,それぞれが全く相異なる環境のなかで生誕し,人の人生にも似て幸運と不運との歴史をそれぞれの運命に従って生きそして沈んでいったことの,その物語の多様さに圧倒される思いがいたしております.
田中祐三(ペンネーム)



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