第45回 バーチャル座談会 桜便りを迎えての新春放談です。その3
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第45回 バーチャル座談会 桜便りを迎えて手の新春放談 その3の始まりです。富田さんのWBCの話題が今回で終了します。事の始まりは、丹下キヨコさんの娘さん丹下せつこさん事。せっちゃんの訃報を伝えるブラジル日報の記事から始ります。日本が本場のアメリカに決勝戦で3−2で買ったWBCの話題が無事芽出度く終わり、出石さんのお孫さん3人と一緒に岡山、倉敷への楽しい小旅行を旅先で知り合った外国人にとって貰った写真が添付されているのでお借りして出石さんの楽しそうな写真を使わせて貰う事にしました。花便り、新春放談は、第4回から始りますので番外の前哨戦の最後をお楽しみ下さい。皆さんのお住みの地域の桜便りをお待ちしています。宜しくお願いします。
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丹下セツ子さんが死去=ブラジル全国で旅役者公演 ブラジル日報WEB版より 2023年3月18日
「女剣劇(おんなけんげき)旅役者」としてブラジル全国を回って公演活動を行い、丹下太鼓道場創設者でもある丹下セツ子さんが16日午後9時10分頃、肺ガンのためサンパウロ市内の医療施設で亡くなった。行年83歳。東京都出身。
日本の女優・丹下キヨ子さんの長女として東京で生まれ育った丹下さんは、幼少の頃から日本舞踊を習っていたが「女剣劇士」に憧れ、中学卒業後にその道の草分けである不二洋子(ふじ・ようこ)氏に師事した。
「日本で大衆劇団をつくり、その座長になりたい」との夢を抱いていたが、1960年代当時、大衆劇団をつくるのには100万円もの大金が必要だったという。その間、母親のキヨ子さんは南米銀行創立15周年記念イベントとしてブラジルでのショー出演に招待されて訪伯。ブラジルが気に入り、家族を呼び寄せることに。丹下さんはその頃、日本の大衆演劇に夢中で海外に行く気はなかったが、キヨ子さんから「ブラジルに来て1年も公演活動をすれば、大衆劇団をつくる資金くらい出すことはできる」と言われ、その気になった。
キヨ子さんの呼び寄せで1965年に渡伯した丹下さんは「舞台に上がる以上、お客さんに喜んでもらえなければ意味がない」と、75年頃には「丹下セツ子劇団」を正式に立ち上げ、「旅役者」として仲間とともにブラジル各地を飛び回った。ブラジルに滞在して30年ほど経った頃から「芸人なんて、どこで花が咲いたって同じ。『セッちゃんが出るから見に行きたい』とお客さんが言ってくれる。ブラジルで伝説の人になろうと思った」という。
サンパウロ市内で『左膳(さぜん)』や『雅(みやび)』などの日本食レストランも開業し、日系社会のみならず駐在員客からも広く親しまれた。また、日本の大衆演劇役者の大御所・沢竜二さんとも深い親交があり、日本での公演にも協力参加。東京・浅草で年に1回しか観ることのできない「座長公演」を1995年と2002年の2回、サンパウロ市リベルダーデ区のブラジル日本文化福祉協会大講堂で実現させている。
さらに、「丹下セツ子太鼓道場」を設立し、日本の助六(すけろく)太鼓家元の今泉(いまいずみ)豊氏を何度もブラジルに招いて生徒たちを指導。45年間にわたって太鼓道場に携わり、数多くの門下生を輩出してきた。
丹下さんは昨年から肺ガンを患い、自宅で療養していたが、1週間ほど前にサンパウロ市内の病院に入院した後、医療施設に入っていた。葬儀は17日午前10時からサンカエターノ・ド・スル市内の葬儀場で執り行われた。初七日法要、四十九日法要は17日現在、未定。
サビアの独り言
過去の取材で、「子供の頃は『弱きを助け、強きをくじく女ヤクザ』になりたくて、そのことを学校の先生に話したら、廊下に立たされたよ」と笑っていた丹下セツ子さん。男勝りの竹を割ったような性格でコロニアの芸能界でも「親分肌」だったが、他人への目配り・気配りは人一倍で、何事も行動が素早かった。普段から「役者は花がないとダメだよ」と話していたとおり、小柄な丹下さんがひとたび舞台に立つと、躍動感があり、大きく見えたことが印象に残っている。焼肉が大好物で、記者もよく「一緒に食べようよ」と誘っていただくなど、大変お世話になった。心からご冥福をお祈りいたします。(松)
丸木で~す 昨日亡くなられた丹下せつ子さんはブラジルに移住した頃に殊の外お世話になった方でした。同船者でペンソンも一緒の真藤君が丹下さん宛ての荷物を担いで移住された縁で、彼女が東京愚連隊の上野隊長と住んでおられたアパルタメントでセルベージャをご馳走になってました。当時は彼女がジェレンチされてたクルビ 1番に上野さんに連れて行ってもらったのがブラジル女性のオロシゾメでした。当時ブリガデイロの日本領事館のあったビルの地下で、丹下さんの妹さんがやっておられた左膳の板前さんは笑顔を絶やさない親切な方でした。文協の近くで、せつ子さんのご主人が日本のビデオやDVD専売店をやっておられた時に店内で久しぶりで会った事がありました。
松栄 丸木さん スマホから書いてます。丹下セツコさんもなくなたれたですか?
私はまったく存じ上げなかったのですが、同じく長年高級Restaurantやってられたのでウワサだけですが、聞いていました。
さいごはトップセンタービルサンパウロ日本領事館のあるビルの二階で、ミヤビという店をやってられて、、、いつの間にか名前が代わったので、どうされたかな、と思ってました。
1992年頃、リベルダーデのゴンベさんという、いまでいう居酒屋風ですが、高級料理も出すみせで、一年ほど手伝わせもらったのですが、ゴンベの店主だった和田博美さんが、懇意にされていて、しょっちゅう話しがでてました。当時のレストランは大方みんな閉めたか、代替わりしてしまって、最近は日本の味もなかなか行き当たりませんね。
だから、最近はブラジル料理の店にゆきますが、やはりたまには日本料理の美味しい店に行ってみたいです。しかし、おいしくても一食700とか1000とか言うと、ちょっと遠慮しています。自分で作るしかないようですね。
稲見 丸木さん せっちやんは和田さんや私と同船者て彼女は一等船室、我々移民のほうに遊びに来てました。丹下キヨコの娘と知らずにサンパウロでも時々あって遊んでましたね、ガルボンの愚連隊は良く知ってますよ、懐かしい、、、 合掌
丸木で~す 二世と東京愚連隊との争いの時代は僕が移住する前でしたので知りませんが、ご本人から話を聞いてました。上野さんは青柳で楽団のドラム奏者で、ヘスタウランチパパイの青柳さんの女婿の平野ミノルさんを紹介してくれました。平野さんは百メートル自由形世界記録保持者マヌエル ドス サントス育ての親で名コーチでした。当時はコリンチアンスで水泳コーチされていて州内の競技会に連れて行ってくれました。五味さんとのワイキキ珍道中バー巡りがおもろそうで羨ましいです。もう3年以上も禁酒させられてるので、バーの夢を見ることがあります。
新橋烏森のバー川太郎は別名:在郷美人会と言われ宝塚くずれの水の江瀧子、清川虹子、丹下清子等々が官房長官や労相を歴任した石田博英なんかと屯ろしており、丹下さんがサンパウロでジュリアン ソレルと言うボアッチをやっておられ、娘二人がブラジルに居ると伺ってました。フジヤマのトビウオ真木さんの奥さんも丹下さんのバーでホステスされてたとか。僕の親分の繁田さんが石田さんと同じ三田東急(東京で最初の高級マンション)に事務所を構えていて、僕も一緒に川太郎に飲みに行ってました。
睡眠時無呼吸症候群学会でワイキキで泊まったホテルにロビーにある水槽で人魚が泳いでたのを思い出します、今でも泳いでるでしょうか?
東海林 WBC準決勝 「凄い試合でした!」ついさっき、試合が終わりました。
我が家には日本の番組をオンタイムで見れるチューナーがあるので、TBSチャンネルで放映されたメキシコとの準決勝を一回から9回まで見ることが出来ました。現在、日本ナンバーワン投手と言われるロッテの佐々木投手が先発でしたが、4回に2アウト走者2,3塁から、スッポ抜けたフォークボールを3点ホームランされて、メキシコに先制点を許しました。5回から、2年連続で「沢村賞」を得たオリックスの山本投手が引き継いで5,6回をピシャリと抑えて日本に試合の流れを作る好投をしたところ、7回に走者二人を置いて、レッドソックスの吉田選手が、右翼ポール際ギリギリに同点となる3点ホームランを放ち、ゲームを振り出しに戻しました。もうそうなるとベンチも応援団も一緒になって球場全体が興奮のルツボと化しました。ところがそれもつかの間、好投していた山本投手が8回にヒットを重ねられて2点を失い、再びメキシコにリードを許してしまいました。それでも粘る「侍ジャパン」は、ヌーベルの四球と近藤のヒット、源田の犠牲バントでノーアウト2,3塁とし、ピンチヒッターの西武・山川選手がレフトに犠牲フライを打ち上げて1点を返し、5対4と迫りました。9回は巨人のクローザーの大勢がメキシコ打線をゼロに抑え、クリーンアップから始まる「侍ジャパン」の最後の攻撃に望みを託しました。テレビ視聴者もマイアミまで応援に駆けつけた日本人たちも、祈るような気持ちで9回裏の攻撃を見守りました。期待に応えた先頭の3番大谷が1球目を見事に右中間に2塁打で出塁し、続く4番の前打席でホームランを打った吉田選手は選球眼よく四球を選び、ノーアウト1,2塁となり、同点と逆転のランナーを置いて、打順は今日4三振で全く不調の「日本の三冠王」ヤクルトの村上選手に回りました。栗山監督は、逆転の走者となる一塁ランナーを、「走塁のスペシャリスト」ソフトバンクの周東選手をピンチランナーに起用し、村上に全てを託しました。そして第2球目、真ん中高めの直球を強振した村上の球は、グングン伸びてセンターの頭上を越えてフェンスを直撃する一打となり、周東が俊足を飛ばして一挙一塁からホームインして、メキシコに6対5で逆転サヨナラ勝ちを収めました。私も久しぶりに手に汗を握る、心臓ドキドキの凄い野球の試合を見ることができて、心から感動しました。明日はUSAとの決勝戦です。ここまで来たからには、是非勝って2009年以来の、世界一になって欲しいと思います。
丸木で~す 蹴ったクソ悪いアメリカのテレビ局はWBC準決勝メキシコ対日本の実況中継の放映をしなかったのでインターネットでの無言の実況を見てました。一球一打詳しく文字で解説され耳の遠い人には便利でしょうが、球場の興奮の雰囲気がありません。あしたの日米決戦は放映するでしょうが、侍日本の二刀流が勝つでしょう!
松栄 みなさん ネットで手に汗でした、3−2で日本が勝ちましたね。チアンピオンおめでとう!
丸木で~す 柔道で日本が負けた様なものですね。ダルは韓国戦でも打たれて今日も打たれたから引退でしょうか。メジャーで15年も投げてるのが不思議なぐらいですわ。
東海林 ブラジル時間23:30、「侍ジャパン」はUSAとのフロリダに於ける決勝戦で、3対2で勝利し🏆、WBCで14年ぶりに優勝しました。「侍ジャパン」の選手たち、日本の全野球プレーヤーたち、野球ファンたち、本当におめでとうございます。
丸木で~す サッカーではブラジルが5回優勝してますから、日本もWBC今後連勝して5回以上優勝を目指して欲しいです。サッカー王国はブラジル、野球王国は日本、相撲王国はモンゴル、柔道王国はオランダ
和田 長い道のりでしたね。これでWBCの話題は、無事終了日本万歳ですね。又次の大会で楽しみましょう。それにしても相撲はモンゴル、柔道はオランダですか??? 野球だけでなしに相撲も柔道も日本に成って欲しいですね。
≪ 岡山・倉敷へ孫たちと≫ 神戸の出石さんのお便りです。
和田さん みなさん 四人いる女ばかりの孫の三番目が今年大学を出るのをきっかけに孫たちがおばぁちゃんと姉妹と従姉妹の四人旅を計画してくれました。
岡山ではチャギントンという路面電車が走っているのを知りました。路面電車用の黄色い矢印の信号が珍しかった・・。
岡山城が見えてきた川べりに咲いていた花を「桜か梅か・・」と近づいて結局梅だとわかり写真を撮っていた時に、感じのいい外人さんカップルが来て写真を撮ったりしていた。 内心、二人一緒に撮ってあげようかなと思ったが言い出せないでいた。
岡山城に入って色々見ているときも何度か二人を見かけた。
後楽園を散策して、梅林で写真を撮っているとあの二人が歩いて来た。すれ違う時に思わず無意識に「どこから?」と聞いてしまっていた。
孫たちはそれを聞いて思わず目が点になって、口が開いてしまったと後でおなかを抱えて大笑いされてしまった。外人さんに向かって「どこから?」はないやろうと言って・・。
でもその「ドコカラ?」は外人さんに通じたようで、すぐ女性の方が「イタリー」と返って来た。男性の方もうなずきながら「イ・タ・リ・―」と答えてくれた。それをきっかけに外人さんからも何か英語で話しかけてきたので、孫たちがそれに答えてしばらく二人と3人の孫たちで話が弾んでいた。そうなると私は横でニコニコと眺めているだけだ。女性の方は「どこから?」という日本語を覚えたようで、何度か口の中で「ドコカラ・どこから」とつぶやいていたが、私に向かって「ド・コ・カ・ラ?」と聞いてきた。私は「フロム・コウベ」と答えた。外人さんは「Oh,Kobe,Yes・・」ということでまた孫たちと会話をはずませていた。
そんなやこんなで全く人見知りをしないおバァチャンと孫たちの旅が始まりました。
出石という地名は兵庫県の豊岡にあるだけだと思っていたら、後楽園正門にかかっている橋のたもとにも出石町があってビックリ。岡山市北区出石町。岡山神社の道向かい。へぇ〜!!(もちろん地名と一緒に写真もパチリ)
その後倉敷へ向かいました。
倉敷は本当に倉敷紡績あっての街だといまごろ痛感して二代目の大原孫三郎さんの人生に感心しました。長男のお兄さんが夭逝したため跡取りになり、東京専門学校(現早稲田大学)に入学したのに勉強をせずに豪遊ばかりで、なんと今のお金で一億円もの借金を作って、父親から専門学校を中退されて倉敷に連れ戻されて謹慎処分になったそうです。その時に岡山孤児院創設者の石井十次という人に出会って感銘を受け、社会貢献ということに目覚め、本人もクリスチャンになってからの生きざまがすごい!
結婚して倉敷紡績に入社するが、行員さんが初等教育も受けていないのに驚いて、工場内に尋常小学校を、また倉敷商業高校を作ったし、貧しいから勉学できない人のために大原奨学会を設けて、洋画家の児島虎次郎もこの奨学生になり、ヨーロッパ留学など援助し、この時に集めた作品が大原美術館に収蔵されているという事らしい。素晴らしい作品がいっぱいありました。いったいいくらのお金が動いたのだろうと思いました。
(作品を感心しながら見ていても、外に出たらすぐに忘れてしまうと思って、ノートに作者と作品名をせっせと書いていたら、館員さんがきて「ボールペンですか?」と聞くので「はい」と答えると簡易鉛筆を差し出して「よろしかったらこちらを使ってください」という。そうか、ボールペンならもし作品にいたずらされたら消えないからなんだなぁ〜と気づく。館を出る時に鉛筆を返そうとすると「どうぞお持ちください」と言われた。彫刻で「年老いた醜いバッカチト」というのがあって確かに身体がごつごつよじれていて顔は醜く曲がっているのに片方の垂れた乳房が気になって、どうにも理解できないので館員さんに「バッカチトって何ですか?」と聞いたら「酒の神のバッカスの巫女のことでお酒を覚えて飲んだ末の姿です」と教えられてやっと“なるほど”と納得したり・・。有名なエル・グレコは名前ではなく、単にギリシャ人というだけで名前は別にあったとは・・などこの年で知らなかったことの多すぎにビックリ!)
大原社会問題研究所・労働科学研究所・倉敷中央病院など設立。倉敷銀行(中国銀行)や中国電力を設立などなど・・行動力に感心するとともに何も知らなかったことに気づかされました。
大原家の本宅跡が大原美術館になっている。川を挟んだ向かい側に素晴らしい別宅がある。
元倉敷紡績工場跡が煉瓦造りの平屋の広大な「アイビー・スクエア」という素敵なホテルになっている。
ホテルで一階に泊まるのは初めてやねぇ〜と思うが本当に満足する部屋の造りやホテルだった。
アイビー・スクエア内でやっと桜(河津さくら)に出会う。
この奥にある古めかしい建物で陶器づくりの体験をする。
出来上がった作品と。2か月後が楽しみ。
倉敷は戦争被害の少ない所だったということで昔の街並みが本当にたくさん残っていて素晴らしい所でした。
一人だったら絶対に乗らないだろう川舟にも乗って町の歴史を聞いたりして楽しい旅でした。
もう少し後の時期なら桜がきれいですよ。アイビーの名のごとく蔦の緑もきれいですよと言われながら帰路につきました。
1日目は19,700歩。2日目は9,000歩と、よく歩いた旅でした。
しゅくこ みちこさん。岡山旅行の投稿、楽しく読ませていただきました。とくに、大原孫三郎さんのことはよくしりませんでしたので興味深かったです。
我が家にホームステイしていた青年を連れて岡山に行ったとき、レストランの方がかれの小麦アレルギーを知って、わざわざ別メニューのものを作ってくれたことなどいい思い出がいっぱいです。
三田の友人も、ドイツ、ニューヨーク、東京とご主人の転勤で落ち着かない人生でしたが、最後の岡山を終の棲家に決めたようです。魅力あるところなんですね、もう一度行ってみたくなりました。
おかげさまで、今日一日、幸せな日になりそうです。
和田 字数が分かりませんが、思い切ってもう一つ足して置きます。
≪東京に桜が咲いた!≫ 15日付の地元紙ゼロオーラ5面の記事
東京では例年より10日も早く桜の開花宣言が行われたとの事でこれまでの記録では最短3日、最長10日で満開になるとか。。。日本全国のメンバーの皆さん、車椅子で桜を見る為に訪日されているアマゾン昭子さんの地元の桜便りを是非寄せて下さい。遅れてしまった新春放談を桜便りに寄せて開催中ですので宜しくお願いします。
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