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「病院の窓から」闘病記 川越しゅくこさん
しゅくこさんが「病院の窓から」と「不意に、でも準備されていたような出来事」として病院での闘病記と退院後の出来事を送って呉れたので写真もお願いして40年!!に残して置く事にしました。簡単な鼻詰まりの手術と思って入院したそうですが、その後に計画していた旅行を取り消しその浮いた資金で個室の特等室に入院手術後病室の窓から楽しまれた写真を今回使わせて頂く事にしました。同船者【移住者】関係の寄稿と話題の欄に掲載させて頂きました。私たちの60年!!関係のメーリングリストのメンバーの皆さんにも話題の寄稿があれば送って頂けると40年!!に残して置く事にしますので宜しくお願いします。


「病院の窓から」       川越 しゅくこ 

コロナ禍もようやく収まりそうになり、わたしは待ってましたとばかり、30年あまり恒例にしていた、旧友との乗馬旅行を早くから計画していた。もう一人の旧友のピアニストのコンサートに一緒に参加して、その足で箱根にいく予定だった。

足腰が丈夫になったので、この際、他のこともはっきりさせようと、大腸、胃のポリープ検査を陰性とし、ピロリ菌の退治も済ませ、コロナワクチンもインフルエンザの注射もやれることは全部済ませた。あとは首から上である。歯は今修理中、目は新しいメガネをあつらえた。白内障はまだ先でいいと若い元気な女医が言った。
そして、そのノリでこの数日で、鼻の手術も旅行前に済まそうと思っていた。
あとは頭。これは〇☓は死ななきゃ治らない 、というからもう少し先としょう。

わたしは、右鼻が時々詰まることがあった。病名は鼻中隔弯曲症、平たく言えば鼻の骨が歪んでいて空気がスムーズに通らなくなっている。
左鼻だけで呼吸していることが多いが、日常生活に支障はないし、それどころか、 コロナ禍以来、山歩きを初めて何年も続いていた腰や膝痛が治った。事故も病気もなく、素晴らしい友人やグループができ、楽しい人生に彩りが加わった。

4/25 (火)
元気印のわたしは、鼻腔内の手術を軽い気持ちで受けとっていた。
手術を済ませ、退院して2週間休息をとれば、旅行にいくには充分だろうと勝手に算段していた。
まだ30才前後にしか見えない青年の主治医と手術前の話し合いがスタートした。全身麻酔で、内視鏡カメラによる手術であることからはじまって、自分の知っていることを全部伝えたいといった勢いで声が弾んでいる。
話の内容は歯切れがよくて分かりやすい。 それが心地よい説得の力になった。
最近はPCばかり見ながら患者と話す医師が多い中、かれはわたしの目を始めから終わりまでしっかりみつめて明るい親しみある表情で話す。
人の命を預かっているその仕事に、プライドと初々しい情熱があふれていた。久しぶりに珍しい生き物に接するような魅力があった。
旅行の計画があることを話すと、「旅行? どこへ?  で、交通手段は?」と
私的な事を訊く。
「は? 東京へ。飛行機ですが」「・・・うーん、やめておいたほうがいいですよ」「は?」「どうするんですか? めったにないことですが、皆無とはいえません。誰も知らない状況のなかで、 止まらない出血でもしたら」
わたしは、手術がすんだらすぐに元気になって、何の問題もなく、パーと羽を伸ばすことができるだろうと思い込んでいた。出血などと考えたこともなかった。
「何かの拍子に出血したらどうするんですか」、と青年医師はくりかえした。わたしはなんて能天気なんだろう。こうしたいという希望があると他の選択肢が見えなくなる。そんな予定が宙に浮いた。
手術が済めば、完全というわけではない。すくなくとも1カ月以内には、なにが起こるかわからない、予後のケアは同じくらい重要だったとは。
旧友たちと息子家族に事情を説明して、すべてのお楽しみを
キャンセルした。
わたしはもともと、どこででも寝られる性格だが、浮いた旅費を4人部屋ではなくて個室に当てた。少し贅沢かとも思ったが、旅行をキャンセルした代価は十分に払われてもよかった。手術の心配よりも、はじめての鼻手術で一体、何が起こるか密かな好奇心でわくわくしながら、入院生活が始まった。
病院は三田のニュータウンの高台に有る、南向きの7階建てで、 周囲は山々に囲まれている。
部屋は、4階の廊下の一番奥の右にあった。突き当りは天井までの高さまである一面大きなガラスがはめられて、窓の外には友人と登った六甲山、羽束山、猪倉山。有馬富士、など山並みが重なり合い、深山.(みやま)、丸山湿原、甲山、その他、覚え切れないほどの山々にこの2年間、連れて行ってもらったことを思い出した。左には武庫川がうねうねと銀色に蛇行し,目の下には馴染みの赤い屋根のレストランなどが一枚の額の様に見える。 いずれも、毎日のように車で通っていたなじみの場所をいまはるかに眼下に見下ろしている。
このパノラマの風景にみとれていると、 左の隣室から老婦人が車椅子で出てきて、一緒に眺めることもあった。乳がんで乳房を片方とったと話した。

4/26(水)
手術は、午後1時ころから行われた。
全身麻酔の注射が打たれて、あっという間に眠ったようだ。
夕方の4時頃、部屋のベットの上にいた。その間の3-4時間のことは当然ながらなにもしらない。麻酔の世界から、ゆっくりゆっくり現実へ戻っていく体内の変化を感じる。両方の鼻孔には綿やガーゼが詰め込まれている。鼻血は流れないけれど、血のかたまりが鼻孔にねっとりと固まっている。舌から喉奥まで乾燥してまるで古びた新聞紙のようにかさかさと音を立てるほどだった。点滴の管をつけたまま、冷蔵庫からペットボトルの水を口に含ませ、それを飲み込もうとすると、喉のところに、なにかの小さな袋のようなものがおりてきて、喉の動きを阻止しょうとする。血の塊なのだろうか。でも、飲み込まなければならない。すると袋のようなものがパックンと喉の奥でかすかな音を立てて、抵抗して水を一滴も飲めないような状態が続く。
その夜はそんな状態でほとんど眠れなかった。そっと入ってきた看護師さんに大丈夫ですか?と声をかけられるが、声がでない。
わたしは持って行ったボイスレコーダーのスイッチをいれイヤホンをつけた。お気に入りのショパンの曲が入っている。いつしか眠りについていた。その後、何回も喉がカラカラで起きて、口の中を潤した。パックンという変な喉の動きは変わらない。
夜中の3時、トイレに行く。窓外の暗闇から暴風雨の唸り声が聞こえる。
うつむくと、鼻を抑えた脱脂綿の内側から鮮血がポタ・ポタとトイレの床に落ちた。
鼻のガーゼを抑えながらそれを拭き取って、ティシュをゴミ箱に捨てる。
向かいの個室から赤ちゃんの弱々しく泣いている声がもれてくる。怖いとか痛いという赤ちゃん特有の激しい泣き声ではなく、人生を知り尽くした老人のような、悲しい静かな泣き声、どんな病気か分からないが、お母さんはさぞ心を痛めていることだろう。外では救急車のサイレンがうなるように近づいてくる。鏡の中のわたしをじっとみる。髪がばさばさで疲れた顔。
無理もない。鼻の中に管を入れたり、綿をつめるとかなり痛くて涙が出た。そのせいか、目が腫れぼったい。

4/27(木)
やっと4時になった。新しい朝だ。 
廊下では看護師さんたちの若い声が行き交い、ガーゼの交換にも入ってくる。万が一垂れてくる鼻血をカバーするため、ガーゼの折ったのを鼻の上でテープで貼り付け、その上からマスクをつける。
その日は一日絶食。疲れと眠気を取り戻すようにベットの上で音楽を聴いたり、テレビを観たり、ほとんどうとうとして過ごした。点滴をつけたまま、ガラス越しの外に広がる山々を隣室の婦人とたわいないおしゃべりをしては、また横になって体を休めた。点滴をつけながらトイレに何度も行った。口のなかはからからに乾いている。

4/28(金)
点滴が外された。自由になった足が歩きたい歩きたいと動き出す。
一階の売店で一杯100円のコーヒーを買う。自宅の引き立ての苦いコーヒーしか飲まなかったわたしの胃は大歓迎している。
外にでると圧倒的な緑。肺が取り込み過ぎた酸素の量に戸惑っている。
その日の診察で医師がわかりやすい説明をしてくれる。
わたしの手術はわたしの鼻の中の状態によって手術をしたので、みんなと同じではないこと、そして、経過はうまくいっているようだ。
「帰りたいですか?」と医師が訊いた。「はい」わたしもはっきり目を見ていった。
「・・・ま、いいでしょう」と医師はわたしの経過をみながら退院許可を決めた。普通の場合、6日目が退院だという。なので一日早い。

4.29(土)
退院のその日は「昭和の日」で祭日。朝7時前に先生の診察があると、看護師さんが連絡にきた。「え? 朝食前のこんな時間に?」
病院は休みで、院内は電気が消えて薄暗い。わたしはそこだけが明るい2Fの診察室をノックした。青年医師は、歓迎するように、わたしの名を呼びいれた。椅子に座ったわたしの前にかがみこむようにして、 「食欲ありますか」と聞く。「はい、ありすぎて」とわたし。看護師さんが横でくすっと笑う。先生の目も笑っている。「経過は問題なく、大丈夫ですよ」耳に心地よい伝達力のある声だ。帰宅してからの注意などを息もつかず話してくれた。
将来名医として名が知れる人になるだろう、と夫の一郎も確信をもって言う。
診察が終わりお礼を述べるとき、不覚にも涙しそうになって、言葉がでなかった。これからの日本を背負うこんな元気な、そして患者を愛するような青年医師がいると思うと嬉しい。
わたしは部屋にもどり荷物をまとめた。そして、もういちど、ガラスの外の美しい山々を目に収めた。
小雨のあと、快晴になった。この角度からの景色はもう2度と見れないかもしれない。
「あら、虹が!」
いつの間にか、隣室の老婦人が車椅子で横にいた。
見とれていると、
「川越さ〜ん、荷物はわたしが下まで持っていきますょ」背後で看護師の朗らかな声。「あら、カートを借りて自分で運びます」はじめての入院で不要なものもずいぶん詰め込んできたから、スイカの大玉4個くらいはある。
「いえいえ、大丈夫です。鍛えてますから」と若い看護師は膨れたスポーツバッグを笑いながら肩にした。
予約していたタクシーがきた。彼女はわたしに軽いハグをし、お大事にね、と手を振った。

☆☆☆☆

 「不意に、でも準備されていたような出来事」 しゅくこで〜す
みなさま、お元気でいらっしゃいますか?
あちこちからいただいた入院中の励ましのお言葉、おかげさまで力になりました。ありがとうございました。
鼻中隔湾曲症の手術が入院した翌日の4/26にあり、 4/29日に退院しました。
それから1週間。帰宅後の養生をしています。
いつもの弥生が丘小道を散歩したり、隣町の花屋をのぞいたり、 歩きながらソフトクリームをかじったり。足は相変わらず元気です。
ただ、退院後も左の鼻孔だけがずっとなにかで詰まったままで、マスクにポツンとできる血のシミなどをみると、手術の後から何も変わってない、
大丈夫かしら、なんて不安になったり。もともと、右の鼻がつまるので病院に行ったのに、本当は左が悪かったことを告げられたり、
退院後もそのまま、左が詰まったままで、口呼吸でドライマウスが続いたり、1日2回の塩水による鼻すすぎをしても、普通は片方から流しいれたものが、別の片方から流れ出るはずなのに、両方が通じないままであったり、手術して一体なにが変わったのだろう?
そんな思いで一週間すぎました。ときおり、ふとわたしの脳裏に若いドクターの手技に一瞬の疑問がかすめたりしました。
友人から医者を信じるのよ、と言われていた大切なメッセージだったのに。
ところが、昨夜は、なぜか異変がおこったのでした。
夜中は、手術の済んだ夜と同じような、眠れない状態になり、 なんどもトイレに通ったり、がちがちにかわいた口内を水でしたしたり。
ところが、朝の4時頃、急に鼻の奥になにかいままでにない大きなものが喉に移動し始めたのでした。
「不意に、でも準備されていたような出来事」といいましょうか。
それを喉から口のなかに押し出すと、長さ2cm あまりの親指大くらいの塊が、左の鼻孔だけからゆっくりと降りてきているのでした。
ティッシュで取り出したそれは、こしあんをからめた小さなオモチのような柔らかい物体でした。ホントは写真でお見せしたいのですが、さすがにそれはやめておきます。
驚くまもなく、そのあと同じような真っ赤なやわらかなお団子が2個、そして、その午後にも1個。鼻の奥から喉へ、慎み深く、ひそやかに降りてきたのでした。これはもしかして、医師が言っていた、
溶ける脱脂綿として終えて出てきたのかもしれません。それが出てきたのかどうかよくわかりません。
こんな大量なものが左鼻の狭い?奥の見えない 道に4個も入っていたとは、人の体って、どうなってんだろう?
その4つが外に出てしまうと、左の鼻孔は右と呼吸を合わせて、深くふかく息を吸い込んで吐き出す、本来の役割を果たすようになりました。
これは、前触れもなく、でも計画通りに準備されていたかのような現象でした。
退院して約一週間で、わたしの予後生活は、何の痛くもかゆくも、腫れもなく、でも、こうしておだやかにドラマチックな変化を演じながら、やっといま無事に過ぎようとしています。
いま、せっかくきれいになった鼻孔たちが、花粉や黄砂で汚れないように、ひたすらマスクをつけっぱなしで外出しています。しばらく山歩きもスポーツクラブでのサウナもお預けです。
それでは、気持ち悪いご報告にお付き合いくださいまして、大変失礼いたしました。ことの顛末のご報告はこれで終わります
みなさまのご健康を、遠くからお祈りしつつ 



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