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「健吉おじいちゃんとの絆(きずな)」川越 しゅくこ
久し振りに40年寄稿集に新しい書き込みがはいりました。川越しゅくこさんの「健吉おじいちゃんとの絆」です。身内の写真との事で首から上を切り捨てた銅像の写真を貼り付けていましたのでお願いして顔の写真を送って貰いました。明治の世を逞しく生き抜かれたしゅくこさんのおじいちゃん片岡健吉さんとは知らなかったのですが、しゅくこさんには高知ぺの血が流れているのですね。強い絆を感じます。
文筆家のしゅくこさんの今後の便りを期待する事にします。


この春からはじまったNHKの朝のドラマ、「らんまん」に夢中になっている。
高知出身の植物分類学者、牧野富太郎氏の生涯を描いたものだが、その面白さと同時に、もうひとつ観たい理由があった。それはわたしの「健吉おじいちゃん」がその時代の自由民権運動で活躍した一人で、ドラマにちょっと出てくるかもしれない、という密かな期待があったからだ。健吉おじいちゃんは、片岡健吉のことであり、わたしにとってはヒィヒィおじいちゃん、高祖父になる。
画面に吸いつくように見ていたが風貌も性格も地味なかれの出番はなかった。わたしが中学のとき、社会科の教科書にいきなりその名がでてきたときも、やはり写真はなかった。視覚的には見栄えする者ではなかったが、家系図では根幹となる人で、戦争中も戦後の食糧危機の時代でも、かれの存在がわたしたち血族に誇りをもたせ、支え続けてくれた。なのでかれはわたしたちから「健吉おじいちゃん」と尊敬と親しみをこめて呼ばれていた。
もちろんわたしは会ったことがない。かれの足に触れたことはなんどもある。高知県庁前に立つかれの銅像であった。

子供時代の夏休みを母方の高知で過ごしていたので、桂浜に遊びにいくときは、その前を通るたびに祖母は微笑んで見上げ、小学生でもわかりやすいように健吉おじいちゃんの下記のような話をしてくれた。

1871年 27才の時に2年近く、イギリスに派遣されて留学。自由民権運動の結社である立志社の社長をはじめ、高知新聞社長、衆議院議長、YMCAの理事長もしている。その間、なんども投獄されたりしながら、41才で高知教会でクリスチャンになり、同志社の社長をして間もなく亡くなった。おおよその話はそんなものであった。おだやかな風貌のわりには反骨精神が強かったことがうかがえる。小学生のわたしはへえーとうなずいただけで、そんなことよりはやく桂浜で裸足で砂浜を駈けたり、ゆでたての甘いトウモロコシをかぶりつきたかった。
それでも、潮騒の音を聞きながら、目前に広がる太平洋のずっと先にある別の国がどんなものなのか、健吉おじいちゃんのイギリス行きがどんなに胸躍るものだっただろうか、などとふと夢想することもあった。桂浜の波は荒々しかったけれども、子供の胸をいっぱいに開放してくれて、言葉では言い表せない見えない大事なものを与えてくれる力があった。

かれは熱心なクリスチャンで晩年を過ごしたので、わたしのファミリーツリーは彼の政治色を受け継ぐよりも、むしろキリスト教色で大木を茂らせ,実を実らせていた。学校や病院などに関係する者も、周りの親戚たちもみなクリスチャンで、わたしの母も牧師と結婚していた。

しかし、それはわたしにとってはかなりいばらの苦痛の木であった。というのは、父の選んだ宣教の地はキリスト教不毛の地といわれていた大阪の泉州地方であり、わたしはそのためにかなりのいじめを経験している。小学校の担任の先生までが「みんな聞け、日本には立派な仏教がある。なにもキリスト教なんか信じるな」と授業中になにかのときに言い放ったのを忘れることができない。わたしは構内の暗いひっそりした階段の奥でいきなり集団リンチにもあった。倒され、なんにんもの上級生が覆いかぶって息がとまりそうになったことがある。学校に行くのが怖くて、電車の窓から外にすいこまれそうになったり、ぼんやり、
踏切の前に立っていたこともある。それは戦後のだれもが食べるのに苦しい時代でもあった。お嬢様育ちの母は「健吉おじいちゃん」の良き時代を呟き、愚痴っぽくなっていた。

わたしはかなり荒れ狂う反抗期をむかえる少女になっていた。母が健吉おじいさんのことをつぶやくたびに「それがどうしたッ」と母を怒鳴った。長屋で生まれ育ったわたしには、そんなことは何の関係もなかった。かつての家族の栄光を自慢にしたって一口のパンが口に入るわけでなし。などと反抗しているうちに、「健吉おじいちゃん」自身がわたしの不幸の元凶にさえおもえてきて、その名は聞きたくもなかったのだ。
それから健吉おじいちゃんとは長い時の流れの距離をとることによって、わたしはいろんなことを忘れて普通の平穏な生活ができるようになった。

母も祖母も亡くなり、健吉おじいちゃんのことを話す相手がいなくなった。

15年くらいまえに、次男夫婦が車で高知につれていってくれたときは、片岡健吉の銅像に引き合わせ、おみやげに黒いTシャツを買った。それには「自由は土佐の山間より」と、白字のキャッチフレーズが胸に入っていて、いまでも愛用している。その詞はいったいだれのセリフだろう、と着るたびにいつも思う。
「らんまん」のドラマを毎日みるようになって、スマホで市立 自由民権 記念館も調べてみた。そこには祖母が片岡健吉について取材に来た記者、学者、などに提供した資料が収められている。建物の入口の石碑の文字がふととびこんできた。「自由は土佐の山間より」。謎が解けた。「らんまん」のはじめの頃のシーンで、立志社に属する一人の若くてハンサムな青年が、神社で民衆を前に激しく自由民権運動を説いているのを覚えてらっしゃるだろうか? かれこそがわたしの愛用しているTシャツのフレーズを世に送り出した植木枝盛だった。そして
立志社の社長がわたしのヒイヒイおじいちゃんであった。
こんな小さなことがまだ、健吉おじいちゃんとわたしの間の絆となって残っている。嬉しくなった。ひさしぶりに桂浜にうちつける荒い波の音が聞こえてくる。



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