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モグリ同船者??!!  谷 広海さんの投稿。
モグリ同船者の谷 広海さん(御家族の宮崎県出身の谷一家8名の次男坊で大学最終学年が残って居たために日本に居残ったがあるぜんちな丸第12次航の移住者の中に紛れ込み横浜から神戸までの無賃乗船した一日間のモグリ同船者)の当時を偲ぶ楽しい原稿が寄せられているのでご披露します。掲載写真は、谷さんが早稲田大学の海外移住研究会の仲間と撮った40数年前の写真です。


モグリ同船者
         
 全ては和田より始まる。
「谷クヨクヨ日本のことばかり考えるな。外国へでも行こうじゃないか」と。当時1961年(昭和36年)、安保闘争にあけくれ、大学へは行かずデモばかり。いわゆる全学連ノンポリ派の自分は岸首相の強硬裁決に激しく反発。選挙だけでも人民の社会党に勝たせねばと東京三区の先輩宅に泊り込み、懸命に働く。朝早くから候補者と宣伝カーに乗り「おはようございます。勤労者の皆さん。ご苦労さまでございます。こちらは、日本社会党の大柴でございます」と紹介。受付け、手紙の宛名書き、原稿作り、午後は都議と労組廻り、夜は風呂炊きまでして働く。一緒に働く同志も安酒を汲み合い、共感しあうようになる。
幸い先輩は辛勝。ところが勝利パーテイー後の醜い争い。自分達が勝たせたのだという社会、共産党の人達。地位も仕事も全てよこせと自己主張は、エゴのかたまり。
この社会党では政権は取れない。この人達と人生を共にすることは出来ないと絶望。下宿でふてくされて寝ていると予備校以来の親友和田の言葉である。
そうか外国へ行こう。日本ばかりが世界じゃないぞ。しかしタダで行けるのはどこだ?
当時、海外旅行は自由にできず。アメリアへも呼寄人が必要。まして高い船賃、1ドル360円、安いアルバイトでは夢だった。調べて見るとうまいことに早稲田に移住研があり、日本学生移住連盟を通じてブラジルへ送り出しているという。早速和田と親友数人を連れて入部。今度は、国会議員会館で募金しての俄か作りの九州遊説団長。九県の農業高校でブラジルに行こうのラッパ講演。連盟の役員などようやく認められ1年間ブラジル実習出来る事になった。先ずはサンパウロのJAMIC(事業団)。最低賃金をもらって、安いペンソンに住んではいても楽しかったなあ。毎日新しいことが起こるぞとワクワクして過ごす。カンポグランデのバルゼアレグレ、ジャカレーなどの直轄移住地でも実習。移住地選定の誤りや苦しい移住者の生活の実態も肌で感じる。一方、JAMICの末永課長の命をかけての努力、仕事への熱中さに頭をたれる。お世話にもなった。が「こりゃ、移住などできません」とかんじるようになった。10ヶ月があっというまに過ぎ、帰国の頃になった。派遣団員13名が集り今後どうするかというので三のグループに分かれた。
移住者としてブラジルには帰らない。悲惨だの学習院、北大グループ。惚れたどしても戻るの農大、三重大組。ブラジル関連の会社や事業団に入って戻るの拓大、関学グループ。自分は遊びに来たつもりだったが、おおらかなブラジルがとにかく気にいった。しかし何をして、度して食って行くのか。コロニアの人達との付き合いの中で気になったことがあった。金も出来、サンパウロで多くの日本人が不動産を買うもポル語がよく分らず苦労している。だまされることも多いと。そうか日本語の分る弁護士がいるのかと早速入試問題集を買い、辞書を引きながらやってみた。そうかポル語さえ分れば簡単じゃないかと。必死になって頑張った。早稲田ゼミナール予備校時代をもう一回やればいいわけだとその気になる。それ迄は遊び気分で、日本社会の中でポル語などやる気もなし。がそうと決めたらと帰りの船の中から猛然とポル語に向う。
日本に付いて驚いた。母兄弟が自分達もブラジルへ行くのだと乾物屋を売り払い待っていた。しかし農業資格が無くて行けぬという。ああ薬がききすぎた。ブラジルがよいといいすぎた。それに、ジャカレィ移住地のロッテをすでに購入したというのだ。あんな移住地へ行って何をしようというのだ。クワもかついだことがないのに。
何?耕運機をバラしてドラム缶に詰め込んであると。バカな!!
ともかく農業経験資格を取る必要があるというので兵庫県の牧場へ3ヶ月いれてもらう。大阪で働いていた忠浩、充浩も一緒に行くということになった。兄貴出治もブラジルへの夢を託した若い千穂さんと急に結婚した。総勢8名。
あるぜんちな丸で渡航出来ることになったとの知らせ。東京で一人残り復学して苦学中の俺には金はない。丁度和田が同船でブラジルへの自己研究へ行くという。横浜から乗り、地元の神戸へ。我が家の葉そこで乗船する。丁度いい。薩摩の守でいこうと決める。先の実習で移住船の管理杜撰さに気付いていたので自信はある。乗船2日前から和田と一緒に移住者のような顔をして横浜の斡旋所に泊る。外食、外泊の多い若者達からたくさんの食券をもらい毎食、二人分を食う。ああ素晴らしい。しかし船へ向う専用バスに乗る時はさすがにふるえた。数を調べられたら身分を確認されたらどうするかと。しかしあっという間に横浜大桟橋へ着く。一緒の若い人達は、私を同船者と思込んでいるようだ。ああ愉快なり。テープが飛び、ドラが鳴る。船が出る。涙の移住者と一緒に手をふった。夜になると食事になった。揃って座ってカレライス。ボーイが食事が一つたりんと近くでいう。とっさに「和田の友達のアッちゃんは、一般乗客だが一緒に食べているよ」と。さすがの和田も谷はずうずうしいと云う顔だ。アッちゃんと云えば和田の神戸高校以来の恋人。神戸の三宮の靴屋の娘、フランス語科でブラジルとは縁が無かったのか別れての旅だったのだ。あとはビールにウイスキーでわいわい。日本最後の夜だとさわぐ。現在サンパウロに住んでいる若き頃の龍川いく子さんがその様子を見ていたようだ。船のベッドはがら空きで、みなの近くに寝る。明ければ神戸。めし付きでタダノリとは最高。が家族のことを考えればこの先どうなるかと暗澹。むしろ残された自分は、一人でアルバイトしながら友人宅にタダで泊めてもらいながら卒業せねばならぬ。
家族の船が出るときにはさすがに涙がこぼれた。あのドラ、飛び交うテープ、はげしい声、今も目に浮ぶ。この船を最後に移住者は減り、日本は高度経済成長へ向うなど推察も出来なかった。
翌年どうやら卒業したあとに日本では価値ある卒業証書をあっさりなげうち、一介の工業移住者として4たび移住船へ。山本勝造氏が一応の呼寄せ人になってくれたのだ。
船内委員長、体操、ポ語の先生と結構忙しい。しかし楽しい船旅。これからでも乗りたい。中国人、韓国の人達のポル語を憶える努力、熱心さに感心。今でもサンパウロで会うと「先生、先生」と嬉しい。日本からの移住者は着いたら憶えるとノンビリ。着くと直ぐ、日本人の住まぬマセイオへ。嫌でもポル語を勉強するつもり。あちらでは馬鹿でもポル語で話すという。自分もそのつもり。
手持資金は、500ドル。200人近くの友人たちが250円、500円と集めてくれたのだ。ラーメンが2-30円の頃、よく助けてくれたと感謝。頑張るぞ。
海岸で知り合った子供達に連れられてMARISTAへ。中2に入り聴講。頭も短くかり、制服を着て12才に若返る。9ヶ月にて高校検定に合格。これで大学が受験できると喜ぶ。弁護士になるには、法学部を卒業せねばならぬ。マセイオではアラゴアス連邦大にのみあるエリートコース。
ここで又、ZEBRA(思わぬこと)がやって来た。サンパウロの友人が、お前の妹の恵子が菊地ペンションの女中をやっている。知っているのかと。何ぼなんでも嘘だと調べると、兄達は移住地を出て街で弟忠浩と小さなオフィシナ(自動車整備)をやりようやく食っていると。下の弟充浩は、鐘紡の職工のあとアマゾンのトメアスに行っているという。
ああこれも俺の責任かと。マセイオで野菜屋(金のかからぬ)からやりなおそうと呼びかける。ここには日本人も居ない。何をしても恥かくこともない。まして日本人は信頼出来るという評判もある。というわけでメルカードで野菜屋、土曜日にはフェイラへも。手廻しで動くインテルナショナルの古いカミヨネッタがたより。家を借りるもベッドが買えぬ。トマトの空箱の上にカッピンで出来たコルションで寝る。幸い客もつき、コツも憶えてマセイオの上客を独占。弟はソロバンを使って客を喜ばせたり。
3年弱で資金を作りパステラリア(Lanchonete Sayonara)を中心街に開ける。始めてのパステラリア、日本人がやっているというので評判となり大変な繁盛。金儲けとはこんなに簡単かと思う。山本勝造氏の三本足経営を真似て、Bijoteria Tokyo、Loja Sayonara (婦人服)も開ける。忙しすぎて順子夫婦や兄貴達も呼ぶこととなる。
Churrascaria Tokyoを開けてRoberto Carlosを呼んだ頃が一番忙しく、張り合いもあった。
一方入試のほうは、野菜屋のあと午後、夜と高3、予備校へと2段飛びの猛勉強。3年にしてアラゴアス連邦大学法学部へ三番で入学した。当国学生が高校迄に学んだ本を全て積み上げこの本は1週間、あちらは2ヶ月と逆算をしながら寝る間もおしんだ甲斐があった。辞書も一冊くってしまった。
だいがくへ入れば唯の人。高下駄をはいて通学。有名を馳せるも成績はさっぱり。丸暗記では旨く行かぬもあたりまえ。幸い5年は無事すみ卒業のフェスタ。Churrascariaは、閉店して300人以上の友人、先生家族に囲まれConjunto(生音楽)付きの大パーテイ。達成感にみたされた。
弁護士と不動産屋もやってみるも、俺には合わぬことが分る。他人の弱味をうまく利用して、儲けることは出来ぬ。貧乏な人達のみのお客では食って行けぬことも分った。あとは小売業に夢を託すことににする。日本へチエーンストア、スーパーの勉強に行く。ペガサスクラブに入り自信を得る。Aracaju、Maceio、Recife、Joao Pessoa、Natalと6軒のBijoteriaチエーンを矢継ぎ早に開店。儲かってたまらなかった。商売も失われた時代の80年代の超インフレで閉めることになる。それ迄一緒に頑張って来た弟達もそれぞれの道を選ぶことになった。
今はサルバドール、サンパウロでホテルをやっていた出治夫妻は、娘達と一緒に、今評判のTurimo EcologicoというChapada Diamantina(バイヤ州の奥地)でPOUZADAを始め、忙しい。順子黒田夫妻は、マセイオでカバン屋さん。忠浩は、RecifeでGaleto屋さん。充浩は、ナタールでFatimaと結婚しRecifeで仕事に成功するも続かず今では、日本へ家族全員(6人)で出稼ぎ。結構楽しくやっている。恵子は、アラゴアス人の夫と別れ、娘2人と息子と日本へ。あの元気さは、失わず日系人のお世話をしている。一番したの清子は、Agronomoで日本へも留学したが結局拓大出の友人と結婚し(浅野)サンパウロ市内でBijoteria、Presenteの店をしっかりやっている。母はMaceioで84歳で逝った。娘と日本へ行ったりと楽しい時もあったが言葉も分らぬ女中や、看護婦に囲まれての老死だった。眠ったまま逝ってしまった。幸せだったのか否か。一番の親不幸者は私ということになる。時々訪れる墓地では胸がいたい。
ただ乗りの話がつい長くなった。和田の口車に乗せられたのだ。それでもふれ合う袖も多少の縁。同船者一同の多幸を祈りたい。
          2002年2月1日 マセイオにて
               谷 広海




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