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来た道 行く道 移住助監督上園義房さんの新聞連載より(2)
私たちのあるぜんちな丸第12次航の移住引率員、助監督として40年以上前に御一緒にブラジルに初めて来られた上園さんの船内生活の記録は、自分も一緒に乗っていたのに思い出すこともなかったシーン等を思い出させてくれる内容でうなずいたり、感心したりタイプアップしながら上園さんと同じ目線で40年前の船内生活を思い出しております。あるぜんちな丸第12次航がハワイにも寄港したという事実さえも記憶になかっただけに人間の記憶と云うものは自分との関わりによる選択性が強いものだとつくづく感心しました。最後の移住船があるぜんちな丸改造後のにっぽん丸だったこと、これは世界一周の豪華客船でハワイに寄港しワイキキの浜等観光を楽しんだとの話を聞いて「あるぜんちな丸第12次航はハワイには寄港しなかったよ!」と云う私のコメント訂正しなければならなく成りました。時間が短かった?のと移住監督陣のみ下船したとの事で関心がなかったのかも知れませんね。
写真は、62年4月に撮られたロス下船時の宮崎県出身の農業技術研修生との若かりし上園助監督(中央)です。 


実習農場を視察 一部の人に上陸許可
移住地に行く人は農村出身の人が多かったためか、寝室の狭さにかなりご不満があり、それなりの苦情も多かったが、船室の事はこの「あるぜんちな丸」だけの問題では
ないので、我慢してもらうしか対応策はなかった。
食事についてはご不満はあまり聞かなかった。当時の農村の食生活からすれば、文句
の出るような粗末な食事ではなかったと思う。耐乏生活を送っていた私には,栄養満
点の極めて満足な食事であった。
監督者側としては移住者の皆さんに不安要因を与えないようにして、船内生活を楽し
く送りながら、少しでも語学の勉強と人生設計の検討や現地事情の勉強をして頂ける
よう配慮をする事にあった。そのための企画を船側や世話人会と協議し策定に奔走し
た。昼も夜も何かの行事があるようにして、退屈な時間を過ごさないように努力し
た。
子供等の勉強には青年らが積極的に協力してくれた。世話人の努力で4月8日には船
内ニュースの第一号を発行するまでになってホッとした。その夜、監督者側を事務長
招待の夕食会になった。
4月15日早朝5時頃になると朝霧の中にロサンゼルス港の防波堤が見えて来た。一
部の人のみがロス上陸を許可され自由行動が出来たが,他の者には上陸ビザが与えら
れず,ここでまたひと悶着、このロス港で難民救済法移住者の田中悟さん(33歳)の
みが下船された。その後は680人が同船者となる。監督者側は報告のため、ロス市
にある日本国領事館に出向く、その後急ぎ足ながらもディズニーランドやロングビー
チ等を見学し、日本人街で和食を取ったが,さして美味しいとは思われなかった。
その夜、私は実習を休み、私を出迎えてくれたアメリカ農業技術研修中の野間勇雄君
(現在は柳田―えびの市)と田古実君(日向市)のキャンプ地(オックスナード)に3人で
高速バスで向かう。夜半の二時半にキャンプに着き,早々と相当数の青年らが寝てい
る薄暗い大部屋のベッドに就いた。16日、略称「短農青年」と言われている彼等と一
緒に朝食後、キャンプの車で彼等青年らの実習農場と作業振り(キャベツ、トマト、セロリー,レタス,イチゴ等収穫風景)を見学し、この農場のほか日系田中さん経営の飛行機での管理の広大な水田を見学した。このキャンプには日本全国から選ばれた
350人くらいの青年らが実習していた。このオックスナード地域には日系人2000人くらいが居住し、近くに海軍基地もある事から、アメリカ兵と結婚した日本からの花嫁が500人くらい住んでおり,一応安定した生活をしているとの説明を受けた。

総支配人宅を訪問 妻の花嫁姿を懐かしむ
この「短農青年」らの農業実習は研修と言う名の付く無料労働ではない。労働日数によりそれなりの手当てが支給される。三ヵ年就労する事によりかなりの資金の蓄積が出来て帰国後の独立資金として活用できる。
個人差もあろうが大体三ヵ年就労して200万円程度の積立金が出来ることになっており、この資金を活用して多くの青年らが独立している。この制度のもう一つの利点は完全とは行かないまでも,かなりの英語力をマスター出来る事である。帰国後この習得した英語を生かし幅広い活躍をしている青年も多い。私が海外協会勤務のときにこの実習生の選考や講習に関わった事があり、懐かしい顔ぶれにも会う事が出来、懐かしさを覚えた。
実習先の視察後の1962年4月16日、このキャンプの総支配人であるホーブレさん夫妻の家庭を訪問した。小高い丘の上に素晴らしいたたずまいの家があり,ご夫妻が待っていてくださった。
このホーブレさんご夫妻は60年、これらの実習生の日本での渡航前研修事情を視察のため,宮崎に来ておられた。ちょうどご夫妻がホテル滞在中の60年9月30日、宮崎観光ホテルで結婚式を挙げていた私たちの記念撮影時にばったり巡り合わせ、日本の花嫁姿の写真を撮っておられた。そのいきさつを知っていた野間君がわざわざご夫妻宅に案内してくれたものである。
大変懐かしく喜んでいただき,おいしいコーヒーやケーキなどをごちそうになりながら「日本の花嫁姿」を見たのは初めてであり、嬉しかったと言われ、私が訪問したことにとても
満足そうだった。これもホーブレさん宅に案内してくれた野間君に感謝している。一時間
くらい野間君の通訳で談笑し、ホーブレさん自ら各地の農場を案内していただく光栄に恵まれた。 
62年4月16日夜遅く、船はロス港を出港し,パナマ運河に向けて針路を速めた。その夜、早速世話人会をひらき、甲板運動会、赤道祭、新聞発行、風紀問題、病人の処理問題などの協議をした。
花嫁グループのベッドの件で苦情が出てきたので花嫁グループのベッドは一ヶ所に集める事としたが、なかなかまとまらなかった。長時間協議した結果、ようやく円満解決した。
船の生活に慣れてくると何かと不満が出てくる。もう少し食事量を増やしてもらいたいとの要望に、船側としては船中の食事内容は食管法により統制されているので、これ以上の増加は出来ない。ただ、パン食にすれば考えられるので検討したいという事になった。 

パナマ運河通過  鮮やかな照明を堪能
初めての船中生活ながら、毎日8000トン余りの船の隅から隅までを駆け回る毎日となった。家族移住者の場合、意外と携行荷物が多く,港での通関を心配する者が多く出てきたため船側と協議し、事前に通関手続きの指導をすることになり、申告書の記入方法などの指導を数回に分けて実施した事で、移住者の皆さんも心理的に落ち着きが見えてきた。
1962年4月20日、甲板にテントを張り、万国旗や色々の飾り付けをして,狭いながらも工夫して雰囲気を盛り上げ,船長の挨拶の後「甲板大運動会」を開催した。子供さんや、高齢者、ご婦人向けの行事を主にして、船側の好意でそれなりの賞品も準備されていたので、移住者の皆さんもストレス解消になったようだ。
気分転換になったのを機会に、移住していく地域別に監督者、船側、再渡航者、移住者の四者間の地域座談会を実施した。どの地域グループも似たような話題であったが、主な事項を列記してみると、(イ)分譲された広い土地の開発にどれくらいの期間と経費がかかるのか、(ロ)農道はどの程度整備されているのか、(ハ)種苗農薬肥料の事、土地の耕地化は全て自家労力でするのか、(ニ)大農機具はあるのか、(ホ)病気等になった時はどのように対応するのか、(ヘ)近くに病院はあるのか、(ト)食料品は何時でも購入できるのか、(チ)町までどれくらいの距離があるのか、初等及び中等教育まではその地域で十分出来るのか、(リ)雇用主はどの程度の面倒をみるのか、(ヌ)会社の場合どの程度の給与になるのか?等で地域により事情は違うとしても一応の説明をし、不明な事項に付いては現地到着後速やかに説明することとした。特にブラジルのサントス、サンパウロ経由でボリビアに行く人たちとアルゼンチンのブエノスアイレスや、ポサーダス経由でバラグァイ国に行く人たちは携行荷物の搬送期間が長引けば、土地開発に支障を来す事を心配しておられた。
盆踊り大会、甲板での料理教室、映画会、語学研修、カメラ教室、保健衛生教室、赤道祭の準備打ち合わせ会実施などで日常生活にも活気が沸いてきた。
一歳の女児にハシカ発生。早速隔離し、罹病者発生防止に船側の対応も早かった。お陰で蔓延の心配は無く皆さん全員が安堵した。
4月23日夜、皆が楽しみにしていたパナマ運河の通過である。通過時間が夜間になり、運河の眺望は出来なかったが、運河の照明は見事である。一関門を15分間ぐらいで通過していく。ほとんどの皆さんは運河通過を見学していた。24日朝に運河を通過し、クリストバル港に着いた。

全員に下船許可 街で語学の実力試す
資料によるとパナマは中米に属するが、南北アメリカ大陸を結ぶ極めて役割の大きい国である。人口は少なく狭い国であり7万5000平方キロ程度である。古代スペイン文化とインディアン文明、運河が代表する近代科学の交じり合った共和国であり、パナマ運河の幅16キロ、長さ93キロはアメリカ合衆国の永久借地として管理していたが、数年前にパナマ国に返還されているようである。
パナマ運河を通過するとクリストバル港である。初めて乗船者全員に下船が許可されたので、街に出掛けた。どの程度懐にドル(一ドルー360円)を所持していたか分からないが、勉強してきた語学の実力試しに張り切って三々五々のグループで街に出掛けて行く外出時間に個人差はあったが帰船してくる皆さんの眼は、一寸ばかりギラギラとしていたのが印象に残っている。
日用品や、衣服(半袖シャツ)、靴類、アルコール類など片手に下げていたが特記すべきは青年達や家族が多い父親たちの多くが、バナナを7〜8房も担いで帰船して来たのには驚いた。7〜8房で一ドルしかしなかったと自慢げであった。このクリストバル港を出て数日経過してくると、青いバナナも食べごろに熟れ始めてくるので、船内食は食べずにバナナだけ食べ過ぎて、大部分の皆さんがお腹を壊しトイレ通いに忙しかったようだ。
当時の日本ではバナナは極めて高価な最高級果物であり、病気でもしない限りバナナを食する事が出来なかった反動であろうか?それ以後はあまりバナナの話は出て来なかったようだ。売る側のパナマ人は一人でたくさん買い求めて行く日本人にさぞびっくりした事だろう。三等船室はバナナの香り満載の感があった。
私等も一寸下船した。その日の物価を参考までに記すと(一ドル=360円)パナマ
帽=7ドル、半袖シャツ=1ドル90セント、日よけ帽=1ドル、ショートパンツ=2ドル90セント、ココヤシ=5セント、バナナ(70〜80本くらい)=1ドル、マンゴー=5セント、アイスクリーム=10セント、たばこ=20セントなど。
5月1日、午前10時から赤道を通過するのを記念し、船側の企画行事として「赤道祭」が行われる。これは「竜王が北海王より南海王へ航海の鍵を手渡し、船長に航海の許可をすると共に、移住者各位の将来を祝し、赤道を通過する」約一時間にわたる寸劇を、移住者の皆さんがそれぞれの役柄で演技する、移住航海の最も楽しい行事である。ごちそうもたくさん準備されていた。
 午後は仮装大会が催され、16組のグループが参加し選考委員を悩ました。洋上での最大のイベントで皆さんにとっても何よりの思い出になったであろう。
(以上4項目は、ヴィットリア市在住の藤井美智子さんにタイプ・アップして頂きました)




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