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来た道 行く道 移住助監督上園義房さんの新聞連載より(3)
上園助監督の宮崎日日新聞に連載は101回まで続いておりますが、横浜、神戸からベレン、サルバドール、リオそしてサントスまでの私達の人生の一部、貴重な時間を共有した者には忘れられない10回のエピソードを書き残しておいて下さった上園兄に深く感謝の念を捧げます。字数の関係でこの船内生活に加えて96年に来伯された時の「三カ国訪問終える 勤務地の発展に驚き」及び99年にアマゾン地域の移住七〇周年記念式典で勲章「日伯功労章」を受賞するために来伯された時の「ラジオ体操 南米各地でも流行」の2回を付け加えておきます。写真は96年に来伯された時にサンパウロで撮られたブラジル裏千家代表 林宋慶教授を挟んで右側は、同船者のブラジルDEC園田社長です。


ブラジルに入国 上陸準備で船内興奮
 赤道祭も無事におわり、ホッとする間もなく船はブラジル国北端の褐色のアマゾン河口沖合い16マイルの地点に錨を下ろす。アマゾン地域に入植する6家族30人と、単身一人が下船する事になった。港が河口にあり、大きな船は岸壁に寄船出来ないため一寸離れた所からの入国となる。入国手続きと通関手続きはスムーズに進んだが、移住者の手荷物の事でひと悶着、いろいろの出来事のたびに、私らは気の休まる間も無かった。
ものすごい夕立と、ドでっかい稲光りと雷に肝を潰されたのは私だけではなかったと思う。でかい南米大陸にふさわしい大河アマゾン河地域の空模様だった。
私らは報告に上陸した。焦げるような灼熱の太陽、ムンムンとする熱風、湧き出るような汗に悩まされながら報告を済ませ、海協連支部に挨拶し、マンゴ並木の街並みや熱帯林公園を見ながら市内視察をして船に帰る。
5月5日、「こどもの日」を記念して、船内学校や講習会などの諸行事の閉校式を開いて協力してくれた皆さんと児童たちに、船側と監督者側から記念品を贈呈した。
移住者側からも船長に感謝状を贈り、その夜は船側の好意で世話人会の皆さんと夕食会になり、航海の無事と移住後の健康と成功を相互に祈念した。
ブラジルの北東部に位置するサルバドール港に、5月7日朝8時に着く。ここで6家族35人が下船した。何の問題もなく上陸したが、一人がアイスキャンディ製造機に少し課税されたのみであった。私らも報告のため一緒に上陸した。このサルバドール市は古都で多くの教会があり、黒人の多い街であった。
5月9日夜、青年らのお別れパーティーに招待された。賑やかなパーティーで、皆さん別れがつらそうだった。この一ヶ月余りの船内生活に黙して語らずとも、心相通ずる心境であったろう。
世界三大美港の一つ、リオデジャネイロ港に夜9時半錨を下ろす。海協連のリオ支部、サンパウロ支部、ボリビア支部の職員が乗船して来て、管轄移住者の諸手続き指導をする。また、婿さん等も花嫁をわざわざこのリオ港で迎えて、一緒にサントス港まで向かう人も多かった。誠に羨ましい光景を見せてもらった。
 船内は出迎え人や上陸手続きに全員が興奮気味でごったがえし、なかなか床に着くことができなかった。

通関業務 苦労身をもって体験
1962年5月10日、リオ港下船者の通関手続きを開始したが、何の問題もなく無事終了。その後、サントス港下船者に対する手続き指導を始めた。移住者が多く、また移住者の行き先も多岐に渡っているため、出迎え職員も苦労していた。
10日は終日忙しい一日となったが、手続き的には一応無事に終了した。その間に私ら報告のためリオ大使館に出向く。報告後大谷リオ支部長の案内で、コパカバーナ海岸やコルコバードの自由の女神像等を案内していただき,コパカバーナ海岸のレストランで夕食をごちそうになった。
夜10時にリオ港を出港。早速船内でサントス港での通関手続きの最終指導と調整をする。翌朝11日9時にサントス港に接岸。ちょつと早めに着いたので、出迎え人は予想より少なかったが、時間の経過と共に埠頭も船内もごったがえすほどの出迎え人で、人を探すのも一苦労するほどに賑わった。
入国手続きが終了すると、こんどは船からの荷揚げに時間がかかり、荷物検査までかなりの時間を待たされたが、移住者の皆さんは出迎え人との話しに花が咲き、さして苦にしていないようだった。
夕方頃から荷物検査開始。移住者数が多い事と、荷物も多い事から徹夜の検査になり、検査官も通訳の海協連職員も完全にグロッキー気味であった。検査が厳しく、完全に荷物を検査された人は再度の荷物梱包に一苦労されていた。特別な荷物保有者にはそれなりの関税が課せられたが、海協連職員と検査官との折衝でかなり減税されていた。通関業務の煩わしさを身をもって貴重な体験をした。通関や検査に時間を要した事は、イタリアからの移住者もいたため遅くなったのである。
個人的にいろいろと預かっていた荷物やドルをそれぞれに手渡し、ホッとした。
サントス港での業務終了と同時に、移住者引率の41日間の役割は終了した。若い私には重責で苦労も多かったが、極めて有意義な体験をさせていただいた。
12日、標高800メートルの高原都市サンパウロに行き、総領事館や海協連支部との必要な手続きを済ませ、日系人経営のニテロイ・ホテルでホッとしているところに、宮崎県人会安藤善兵衛事務局長さんが来られ、日程の打ち合わせをした。次々と面会者の来訪に忙しくなり、ゆっくり疲れを癒す間もない事になった。
13日は車でサンパウロ市近郊のジャガレーやモジダス・クルーゼスと、スザノ地域の日系人の農場や工場などを忙しく視察し、夜は西都市出身の郡内敏男さん宅にお世話になった。

三カ国訪問終える  勤務地の発展に驚き
サンパウロ国際空港に午後7時40分に着く。DEC社の車でホテル着。夜はサンパウロ随一のレストラン・シュラスカリア(焼肉)でDEC園田社長(鹿児島)にごちそうになる。
焼き肉レストランの事をシュラスコと言う。豪快な焼き肉料理である。とにかく地酒25年ものの高級ピンガ(サトウキビが原料)と、フランス赤ワインを久し振りに飲み交わし、食べ放題のシュラスコ(牛肉,豚肉,鶏肉,臓物類)やサラダ、果物、コーヒー類を腹いっぱい喉まで詰め込みながら、社長にボリビアの事情説明をした。この対話の中で社長に、姫マツタケ(アガリクス)栽培は、ボリビアのサンファン移住地の新しい作物の開発になるのではと考え、適性調査と栽培技術の指導を依頼した。園田社長は20年来、姫マツタケ(アガリクス)の研究に没頭しており、ブラジルの「アガリクスの元祖」である。96年5月27日〜28日の二日間はJICA事務所、文化協会、援護協会、県人会等への挨拶回り、林裏千家代表宅での園田社長と共に招待夕食パーティー。
アチバイア日本人会地坂会長、黒木政助さん、JICA課長らとの打ち合わせ会、高野泰久書店社長との面談と、誠に慌しい二日間で、最後の夜はイタリア料理を園田社長にごちそうになり、この一ヶ月間の全ての日程を事故もなく消化することが出来た。
昼も夜も深夜に至るまでの一ヶ月間のアルコール攻めでグッタリ。29日の夜中、最後のピンガを園田社長と酌み交わし、午前零時20分RG836便に搭乗し、31日午後1時30分成田着。自宅に午後4時30分に帰宅できてホッとした。
6年振りに訪問した三カ国は、ブラジルのサンパウロ市、ベレン市、カスタニアル
市地域、パラグァイ国のイグアス地域、ピラポ市地域、エンカルナシオン市地域、チャベスとラ・パス市地域、ボリビア国のサンタクルス市、サンファン地域、オキナワ地域などを駆け足で訪問したが、いずれの地域の皆さんも私が勤務していた頃と違い、開発が進み、見違えるほどに進展していたことに驚いた。同時に日系人の発展に関与してきたことに誇りを感じている。
もちろん、異文化の国に移住し、恵まれない社会環境の中にあって逞しく生きて、現在の生活基盤を構築するまでの苦労は察するに余りある。僅かな一定期間、その地に滞在し生活を共にし、微力ながらも生活安定のお手伝いした私に、こんなにまでお世話して下さった皆さんに心から感謝し別れはつらかった。今後も私的立場であるにしても、精一杯支援の手を差し伸べたいと心新たにしたところである。大石内蔵助の辞世の句「会う時は語り尽くすと思えども 別れとならば残る言の葉」が頭をよぎった。





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