新企画 バーチャル座談会 (第1回=5000件アクセス達成記念)
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『私達の40年!!』というHPを開設しあるぜんちな丸第12次航で40年前にブラジル始めアルゼンチン、パラグアイ、ボリビアの南米4カ国に移住した681名の同船者のその後の動向を中心に戦後移住者40年の記録を残して置きたいとの主旨で始めたHPですが、同船者、戦後移住者のみでなく日本に住んでおられる皆さんにもアクセス頂くようになりインターネットを通じて大きな広がりを見せております。今回、神戸、あるぜんちな丸、ブラジル、人生をキイワードとして『私達の40年!!』HPにもリンクさせて頂いていいる「神戸じいじ」さんこと香西仁さん「好きです神戸」のMASAYOさんに協力頂いて「バーチャル座談会」を試みて見ることにしました。IT時代でしか可能とならないこの試みがどの程度臨場感と自然性を保ち展開して行くのか自信はありませんが出来れば話題が尽きるまで月1度程度(不定期)に掲載して行ければと思います。多くの皆さんにも直接、間接的に積極的に参加頂けると幸いです。写真は、「好きです神戸」のHPより取って置きをお借りしました。
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和田:最初にキーワードの一つ「神戸」から入りたいのですが、私は紀元2600年の1月2日に神戸で生まれ、途中福井県の武生市に疎開した事はありますが、高校卒業まで神戸に育ちましたので神戸暦18年と言うか日本暦24年ですが、香西さんは岡山で生まれ神戸にはお勤めの関係で移り住まれたとの事で40年近くなられるのですよね。
香西:はい。正確には1958年に転居しましたから、神戸暦44年になります。
和田:MASAYOさんは、神戸に生まれ育ち神戸暦はどのくらいになるのですか?
MASAYO:私は生まれて一度も神戸以外のところで住んだことはありません。幼稚園から大学、勤め先までずっと神戸です。
何年になるでしょうか。え〜女性にそんなことを聞かれるのですか?
和田:これは御免なさい。誘導尋問の積もりはまったくなかったのですが。。。
私は早稲田の大学生の時、海外移住研究会と言うサークルに入っていましたが、在学中に海外生活をとの強い希望を持っていたことから、手っ取り早い方法として東京都の農業移住者として都内保谷の酪農農家の桜井農場に住み込み農業従事証明書を作って頂き日本政府の10万2千円の渡航費(船賃)を受け東京都の呼び寄せ農業移住者としてあるぜんちな丸第12次航の移住者の一人として乗り込み船内新聞「さくら」の編集長として活躍?しましたが今年の5月11日が着伯40年の節目になることから40年後の船内新聞として681名の同船者の40年後の動向とその生き様を書き残せればとの気持から『私たちの40年!!』というHPを開設しました。出来れば本として発行、出版を視野に入れていたのですが資金的な問題もあり先ず集まった資料、写真等をデジタル化し同船者だけでなく一般に公開する事にした次第です。
是非お二人のHP開設の動機とか経緯も聞かせて頂きたいのですが。。。
香西:HPを開設したのは、約2年半前です。
パソコンは、会社でも家でも使っていましたが、WordやExcelで書類を作るのが主でした。
定年で会社を辞めたら、家のパソコンを使うことも無くなります。
情報化社会から取り残されないよう、また、家のパソコンの使い途として、インターネットを始めることにしました。
MASAYO:私の場合は一もニもなく震災です。
震災がなければHPを立ち上げようとは考えなかったと思います。
小さい時から神戸のあちこちに家をかわり学校も中学・高校と私学でしたので電車に乗ってよくいろんなところに遊びには行っていました。特に神戸、元町、三宮は友達と本当にいろいろ遊びまわりました。
小さい時から台風は来ない、大雨は降らない、適度な気温、山あり海ありこんないいところはないよと母もまわりも言っていましたし、自分でもそう思っていました。
だから震災は大きな衝撃でした。昔から当たり前にたっていた神戸新聞会館、市役所、そして小さい時から住んでいたあちこちの家が潰れ、友達の消息は知れず、長田の家はお地蔵さんだけを残し焼けてしまいました。そして潰れた家を撤去し始めた頃、もうまったく違った街になるんだとそのとき思いました。そして自分の目ではっきりこの街をを覚えておかなくてはと思いたち、神戸の街を歩き始めたのです。会社に勤めていますので歩くのは土日です。
涙の出ない日はありませんでした。
そんな時、ふとしたことからHPがメモ帳から作ることができると知りました。そしてHTMLという言語を用いてHPを作るということを知り、”HTML”で検索してみました。するとたくさんあるのです。HPの作り方を親切に教えてくれているサイトが。それをプリントアウトしてみようみまねで一番簡単なページを作ってみました。デジカメは下手ながら4年ほど前から撮っていましたので、それを利用して画像も入れてみました。意外と簡単なのでびっくりです。じゃぁ、本格的に作ってみようと思いました。コンテンツはもう考える余地なく神戸がテーマでした。そして震災で元気のなくなった神戸をアピールしてみようと思いました。そしてその頃、ちょうど更地がどんどん新しい建物にかわり街並みが変わろうとしていました。これを記録にとどめたいと思ったのです。神戸といえばおしゃれな街ということでしゃれたお店、景色をあげているサイトはとても多かったのですが、ただきれい、ステキなだけの神戸の紹介はやめようと思いました。今にいたる神戸の歴史…居留地、異人館、そして神戸に縁の方々、題材はたくさんあると思いました。
和田:MASAYOさんの場合動機もしっかりしておりHTMLビルダーとかHP作成には殆ど苦労されなかったようですが、香西さんは今もタグを使用した本格的なHP作りを続けておられるとかご苦労されたのでしょうね。
香西:最初は、HPの仕掛けを知らなければなりません。
そこで、「一週間でマスター(?)」とか言う自習本を買って、タグを並べて最初のページを作りました。
写真の入れ方、フレームの使い方など、一応の仕掛けが判ったのですが、コンテンツをどんな物にするか一番の悩みでした。
会社に勤めていた頃、政治的話題は何かと物議を醸しますので、自由に言えなかった自分の意見を述べる「たわごと」コーナは、最初から考えていました。
しかし、堅い話だけでは皆さんにACCESSして貰えません。
ところが、「たわごと」を読んで感想をメールで送って下さった方がいらっしゃったのです。
「リンク集」のTopに載せている「j-spaceさん」です。その時は、涙が出るほど嬉しかったです。
その方のアドバイスで「掲示板」を設け、「j-spaceさん」のHPを通じて色々の方がACCESSして下さるようになりました。
運営上の苦労は、やはりコンテンツです。
社会の役に立つ情報を発信出来たら良いと思っていますが、そうした情報の持ち合わせも能力も無く、結局自己満足のページから脱皮出来ません。
出来るだけコンテンツの更新を心がけていまが・・・。
苦労と言えば、HPビルダーを使わず、「タグ」を直接使ってソースを書いていますので、自由なページが作れる反面、時間が掛かります。
和田:それぞれお二方ともご苦労されて現在の格調高く人気のあるHPとして育てて来られたのですね。MASAYOさんのHPは最近3万回アクセスを記録されたとかおめでとう御座います。『私たちの40年!!』との出会いを語って頂けますか。
MASAYO:「私たちの40年!!」との出会いは神戸じいじさんのHPの掲示板です。神戸じいじさんとは確かakiさんのHPの掲示板でお声をかけてくださったと記憶しております。私も神戸じいじさんの「たわごと」が面白いと感じました。
神戸のHPを立ち上げてからこれまで以上に神戸のことをよく知りたいと思うようになりました。あちこちにも行き、神戸関連の本もよく読むようになりますます神戸が好きになりました。
図書館でも本をよく借りるようになり神戸のあちこちの写真も面白く歴史も、もともと好きだったのですが旧居留地、異人館の写真にまじってブラジル移民の話題と共に神戸移住センターの写真もはじめてみました。それまでも北野、諏訪山は私の散歩コースでもあり神戸移住センターの前はよく通っていたのですがそのような歴史のある建物だとの知識はなかったのです。
ちょうど芸術集団のCAPが移住センターの部屋をかり活動しておられて外からみるとCAPの看板が大きくかかり何だろうと思っていました。それが本で知識を得てそこが移住センターだと知り中を見てみたいと思っていたのでした。
ちょうどそのころ、その建物をどうするかという議論がなされていたところだったのですね。
今年の3月に保存がきまりブラジル移民の資料室として開放されることになり7月に散歩のついでに立ち寄りました。
そしてそのとき2〜3人の男性の方が中でビデオを見ておられたのを覚えています。中には笠戸丸の写真や神戸の古い写真、ブラジルをはじめとする南米に移住された方の写真、その家族の消息が薄暗い移住センターに展示されており、移住センターの中の様子と共にとても印象に残り、いずれ私のHPの神戸散策にとりあげようと思いました。それまでにもメリケンパークの竜馬の碑をHPにUPしたとき、その近くに笠戸丸と”希望の船出”の移民の碑がありましたのでこれは神戸に縁のあるブラジル移民のページとして特集しないといけないなと感じておりました。
そんなときに神戸じいじさんのところで「私たちの40年!!」の和田様の書き込みを見つけました。
和田様の書き込みを見て本当に驚きました。初めはブラジルから書き込まれていると気がつきませんでした。
かつてブラジル移民で渡られた方が「あるぜんちな丸」とのご縁で書き込まれたのかと思っておりました。「あるぜんちな丸」の名は移住センターで移民船の写真集や資料集で見ておりました。
それでその「あるぜんちな丸」の名を見つけ驚き、またその「あるぜんちな丸」がご縁で神戸じいじさんのところに書き込まれたということを知りあらためてその不思議なつながりに感動しました。
神戸じいじさんがそのようなお仕事をされていたこと、そして和田様がその「あるぜんちな丸」でブラジルに移住され今なおブラジルでバリバリ活躍されている方ということを知りました。
それまで神戸に住んでおりながらブラジル移民というのは私にとって教科書で習った本の中のできごとだったのです。
香西:『私達の40年!!』との出会いは、全くの偶然でした。
たまたま、シニア・リーグと言う「ネット老人会(?)」のメーリングリストで一斉に配信されるメールに、桐井 加米彦様から「長野県知事選で再当選された、田中康夫氏」についての意見を求めるメールが有りましたので、桐井様のHPにACCESSしました。
そのHPのBBSに、懐かしい「あるぜんちな丸」の名前をみつけました。それが、和田さんの『私達の40年!!』に関する書き込みだったのです。「あるぜんちな丸」と私との関係は、既に『私達の40年!!』に投稿させて頂いた通りです。「縁は奇なもの」と、実感しています。
それともう一つブラジルとの接点と云うか伏線として次のような経緯もあります。昭和29〜30年頃、弟が中学生だったと思いますが、ブラジルに憧れていました。親・兄弟は相手にしなかったのですが、本人は色々資料を集め、ブラジルの地図を広げ、真剣に話していました。高校に入ってから、何時の間にか言わなくなりましたが、当時は本気でブラジル移民を考えていたようです。残念ながら7年まえに亡くなりましたが、もし生きていて「私たちの40年!!」の話ができたら、きっと喜んで昔話ができたと思います。
それ以外に特別な接点はありませんが、ジーコ監督が決まり、親しみを感じています。
和田:やっと話が佳境に入って来ましたが私のHPソフトでは1回に1万語との制約が付いておりこの後は次回になります。貴重な話をありがとうございました。香西さんのお弟さんと是非ブラジル談義をしたかったですね。
《注》座談会の話の中でも触れられておりますが、『私たちの40年!!』を見て下さった香西さんからの最初のコンタクトが9月6日のもので次のように書かれていました。
「大変貴重で、意義のあるHPを拝見しました。
HPには、ご苦労のことは述べておられず、懐かしかったこと、楽しい思い出だけを書いておられます。
それだけに、筆舌に余るご苦労があったことと拝察いたします。
日本は、その頃から驚異的な経済発展を遂げました。
国策で移住された方々が、もし日本に居られたら、ご苦労も少なかったのでは・・・、今更言っても仕方のない事ですが、移住を奨励した「国策が正しかったのか」と疑問を持ちました。
「ブラジル丸」が移民船として建造され、次に、移民船兼見本市船として「アルゼンチナ丸」が建造されたと思います。
Top Pageの背景に使われている写真は「アルゼンチナ丸」の、テスト航行における「操舵試験」の時に撮影された航空写真だと思います。
それなら、私も乗っていたはずで、懐かしい写真です。
進水式の時、個人的に写真を撮った記憶がありますので探してみます。」
またMASAYOさんの最初のお便りは、9月10日付けで下記の内容でした。
「すばらしいHPを拝見しました。
神戸港を出られて遠いブラジルで活躍されている方々のそれぞれの人生を拝見いたしました。いつも移住センターは外から眺めるだけでこの度やっと中にはいることができ、感激しました。保存か取り壊しかと長年もめていたこのセンターも保存ときまり、これから徐々に整備されてくることと思います。船の生活に慣れられるようにと船の形に似せた室内もゆっくり見てまいりました。
神戸は移民の方々との縁の地。先日も移住センターをでて鯉川筋を南におりてJR元町まで。
船に乗られる移民の方々はこの道を歩かれたんだと思いながら歩きました。」
以上のように今回のバーチャル座談会に協力頂いているお二人とはまだ2ヶ月も経たないインタネット上のお付き合いですが、それぞれのHPを通じてのお人柄、人生観、移住者に対する暖かい目線を感じており旧知の友達といった親しみを覚えております。
日本最初のコンタクトとしての栗本克彦さんの『人生・ロマン・メッセージ』、桐井加米彦さんの『詩とエッセイの広場』他多くの広がりがITを通じて展開しておりインタネットの媒体が無ければこのバーチャル座談会企画等もあり得なかった事を思うと有難い世の中になったと素直に喜びたいと思います。
皆さんの感想、コメント、積極的なご意見等を賜れれば幸いです。
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