同船者園田昭憲さんの辿った40年の道程。
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同船者の一人園田昭憲さんとは私たちの40年事業構想を仲間と語り合う段階でお会いした。お忙しいお仕事(姫マッタケの契約農家への原料供給と買い上げ、加工、輸出を主業務とするDEC=DAIDO ENTAPRAISE CORPORATION社長)のなか仲間との会合には遅れてもシーバスを抱えて顔を出される律儀さを備える好漢で饒舌からは程遠い寡黙に近い園田さんが熱して話して呉れるのはあるぜんちな丸船内の思い出、その後の入植地パラグアイでの原始世界の中での勉学に対する熱い思い日本に戻り勉強したいとの気持ちとそれを実現して日本で大学を出るまでの苦労、皆が耳を傾けるシーンです。園田さんに是非書き纏めて欲しいといつもお願いするのですが、自分ではまだ書く気がしないと笑っておられます。痺れを切らしお聞きした話をノンフィクション風に纏めたのがこの文です。その内ご自分で書かれる事もあるかと思いますがそれまでは私の拙文で我慢して頂きます。写真は最近のサンパウロでの会合の際に撮らせて頂いたものです。今後この種聞き取りによる同船者の40年の道程を書き残す作業も続けて行きたいと思います。 |
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<移住したくなかったパラグアイ>
園田さんは、家長の園田道男さんアヤ子さんご夫妻を中心とした9名の構成家族の一人としてパラグアイのピラポ移住地に入植された。1947年12月13日生まれですのであるぜんちな丸乗船当時は14歳の感受性の強い中学生でした。現在のゴルフ仲間の同船者奥野 俊さんが船内でロスで購入したライフルをぶつ放していたとかキュラサオ停船中に船から海に飛び降りた話とか思い出話を聞かせてくれますが彼本人としては「一人ででも日本に残り日本で勉強したかった」とのことで移住は彼自身の選択ではなかったようです。
<移住地での電気の無い原始生活>
入植地のパラグアイの移住地は、文字通り原始林を伐採して畑に変えていく開拓生活、家族の一員として昼間は農作業を手伝いながら夜は灯火を燈し断ちがたい日本と日本語への繋がりを求めた。日本から通信教育の教本を取り寄せたり手当たり次第に本を読み読む本がなくなれば近所の人の家からエロ雑誌まで借りこみ丹念に?読んだとのこと。
<3年でパラグアイ脱出、アルゼンチンに出稼ぎ>
3年間パラグアイの原始林開拓の仕事を手伝った後、17歳になったことから独自の自分の道を開拓したいとの気持ちが強くパラグアイを後に隣国アルゼンチンにもぐりで単身再移住?ブエーノス・アイレスの日本人花弁栽培者のお宅で日本への帰国旅費と学費を貯めるために住込みでの職を得る。この旅費蓄積期間も電気のある生活に戻れた事、睡眠時間を減らせば好きな本を読み勉強できる幸せを噛みしめる。
<4年で日本に帰国大学での勉強を目指す>
アルゼンチンでの帰国旅費を貯める為の生活は、独学を続けるには環境に恵まれていたとは言えそれでも4年近く掛かってしまう。日本の大学で勉強したいとの大きな希望を持っての日本への一人での帰国。丁度21歳の誕生日の1968年12月13日に郷里鹿児島県鹿児島市の市町室で大学で勉強したいとの熱き思いを伝えていた。鹿児島市の市長さんの対応に窮した顔を今でも思い出すことがあると笑っていますが14歳で日本からパラグアイに家族と移住、大学に行きたいとの一心で7年がかりで帰国した21歳の青年を前にしてどれほどの戸惑いを感じたことか。中学卒業証書、高校卒業証書を持たない21歳の青年が果たして日本の大学に入学できるのでしょうか?田舎の鹿児島では埒が開かないとの判断で東京に出てまず仕事を見付け自立の道を図り、大学入学を目指す。パラグアイ、アルゼンチンで受けた通信教育の学校で高校卒業資格をとりそれで大学入試を受け高田の馬場にある短期大学に入学、その後東洋大学の途中編入等を経て、東京経済大学の卒業証書を得たのは日本を出てから実に12年後の26歳の時であった。
<就職、派遣社員として再度ブラジルへ>
1974年東京経済大学経済学部を卒業と同時に商事会社ダイドー通商(東京八重洲)に入社、新入社員教育を受けるのもそこそこに同年ダイドーコーポレーションの現地要員として米国ダイドー経由ブラジルに戻る。ブラジルダイドーコーポレシオンではもっぱら営業畑で活躍、進出企業「新谷工業」(カサパーバ市)の軽量型鋼の営業課長、進出企業「大同工業」(タウバテ市)のプラント営業部長として製鉄、セメント、パルプ、石油、鉱山向けの機械売り込みアルゼンチンの製鉄所、チリーの銅鉱山などにも売り込む。
1987年にダイドー通商が2社に分裂することから、その片方を引き受け現在のDEC(ダイドーエンタープライズ社)を50%の資本参加で設立しキューピーマヨネーズ,KEYコーヒー,SADIA、CHAPECO、PERDIGAOなどとの取引を始める。
1988年に新宿区百人町にコチア産業中央会とコチアジャパンを設立、コーヒー、鶏肉、液卵、冷凍ジャガイモの日本向け輸出を始める。コチア消滅に尽き993年にコチアジャパン解消。
1988年姫マッタケ(通称アガリクス)の老舗「岩出菌学研究所」との取引開始。
1992年アチバイアに姫マッタケ原料工場設立(アガリクスでは世界最大規模)
1997年パラグアイ、イグアス移住地の岩出パラグアイ設立に側面協力。
2002年アチバイア、タンケ地区に世界最大規模の姫マッタケ原料工場建設(敷地11万平米、建坪1万8千平米、建設費約3億円)
<DEC社の現容>
現在ほぼ100%の株を園田さん個人が所有しており食料品、健康食品、機会部品等を扱う専門商社としてブラジル国内、日本、韓国、台湾、香港、フィリッピン、シンガポール、マレーシア、中国、メキシコ、米国、カナダ、パラグアイ、ボリビア等との輸出、輸入、販売をしている。
主要取り扱い製品としての姫マッタケの栽培契約農家は、サンパウロ州、ミナス州に約50家族でIBIUNA、VARGEM GRANDE、SUZANO、MOGI das CRUZES、BRAGANCA PAULISTA、GUATAPARA、ATIBAIA等が主要栽培地となっている。
家族は、神戸出身の奥様(11歳違い)お嬢さんが3人17歳、15歳、13歳。9歳になる息子さんが一人のご家族です。
サンパウロには1974年着伯後以来継続して居住しており自宅は JARDIM MARAJOARA 会社事務所は、BROOKLIM NOVOとVILA OLIMPIAにあり工場は新工場ATIBAIA TANQUE区に自社工場を完成させている。
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