【イタジャイを基地に操業していた元漁船員の話し】佐藤船長さんからのお便り。
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『私たちの40年!!』HPのリンク集にも紹介している佐藤船長より掲示板に掲題の書き込みがありました。是非寄稿集に記録に残したい内容ですので此処に掲載する事にしました。
サンタカタリーナ州のイタジャイの港は日本向けの鶏肉、水産物が積み出されるイタジャイ河の河口の町で1979年の1月31日に千葉県の袖ヶ浦市と姉妹都市提携をしており近くには日本人のイタジャイ移住地があります。オクトバフェスタで有名なドイツ人が開いたブルメナウの町が近くにありイタジャイの海浜に隣接したサンタカタリーナ州のコパカバーナと言われるカンボリウのプライア(海浜)が広がります。毎年一度は夏の時期に訪れておりこのイタジャイの町を拠点に6年間勝潮丸の通信員として活躍しておられたT氏の話は正規の農業移住、工業移住者だけでなく漁船で活躍その後ブラジル等に永住された方たちも多くいることを教えてくれました。今後これらの方からのお話も集めて行きたいと思います。佐藤船長さん有難う御座います。写真は、イタジャイ市のHPから海浜風景をお借りしました。次回訪問時に適当な写真をとり自前の写真に取り替える積りです。
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お久し振りです。早や師走も間近に迫り、九州では初冬の寒い毎日ですが、貴地ではこれから夏へ向われる季節でしょうか。
先日友人の T 氏が別府へ来られた際に聞いた話を紹介します。T 氏は1986年から1992年までの6年間、イタジャイを基地とする旧日魯漁業系水産会社所属のカツオ・マグロ船、勝潮丸(279トン)に通信長として乗船していた方です。当時はイタジャイ、リオグランデのレアルサントスと言う冷蔵庫会社に水揚げしていたそうで、船の修理等はポルトアレグレの小さなドックで行っていたとのことです。
この間、T 氏は田中さんと言うご家族と知り合い、食事に呼ばれたり野菜など船へ届けて頂き色々お世話になったそうです。田中さんは戦後移民の方で、始めは北部の方へ入植し其の後イタジャイへ来られ野菜農園を開拓していた方だそうですが、移民船の中で田中さんの娘さんと同船者の方の息子さんとの親同士で決めた結婚話しが実を結び三世代同居をされていました。
元大洋漁業のトロール船がアマゾン河口のベレン(Belem) を基地として操業していた頃の話しです。山口県下関市の彦島出身の乗組員の方が現地の学校の先生をされていた日系女性と結婚してポルトアレグレ近郊に住まわれてるそうで、現在は60歳を過ぎているでしょうか。
其の他、元大洋漁業トロール事業が日本へ引き上げた際、退職金代わり貰った船と共に現地に残りブラジルへ帰化された乗組員も多いとの事でした。
もう一人 T 氏の知り合いで名前は思い出せませんが、リオグランデの街で花屋を開いている戦後移住の方、その娘さんは当時日本で働いていた由・・
この様な話しを T 氏から聞いたのも、私が「私達の40年」寄稿集でご縁を頂いたからでしょうか、戦後ブラジルやアルゼンチン、ペルー、チリ等々南米大陸沿岸を基地として日本の漁船が活躍した時代がありました。そしてその後日本の水産会社が引上げた後も現地に残られた漁船員方々。1990年頃と思いますが、私はリーファーベッセル(冷蔵貨物運搬船)でフルーツや野菜、冷凍魚など集荷しながら南米を廻っていましたが、各港で元日本のトロール漁船と分る船が停泊しており、現地に永住された元日本漁船員が船頭として指導する姿を多く目にしました。
戦前戦後を通して地球の裏側にありながら最も近かった南米大陸、現在の私達は決してかの国々に無関心であってはならないと思います。
尚、最後になりましたがT 氏は現在日本で元気に内航ケミカルタンカー船に乗船されています。
佐藤 征夫 様
「イタジャイを基地に操業していた元漁船員の話し」掲示板への書き込み有難う御座います。情報提供者のT氏は、6年間私たちの生活環境範囲で活躍しておられたのですね。良く日本漁船からの差し入れとの事で当地総領事館の集まりの際に美味しい新鮮な魚の振る舞いを受けましたがT氏の乗っておられた勝潮丸からの届け物だったかも知れませんね。修理に立ち寄られたと言うポルトアレグレの町にあったESTAREIRO SO(ソ造船所)は、不況で倒産し現在その跡地が一部公園になり残りが競売に掛かっています。時代の流れなのでしょう。
正規に日本政府の渡航費10万2千円を受けて移住して来た我々と違うルートで南米に入りそのまま永住しておられる日本の漁船関係の人達も沢山おられるようですね。T氏の語り伝えにある殆どの方は特定可能な方ですので是非機会を見つけて直接お話を聞いて見たいと思います。リオグランデの町には昔、大洋漁業がポルトガル系の老舗水産加工工場を買収してCUNHA AMARAL社の名前をそのまま継承水産業を経営していましたが、海老の水揚げが年々減った事と200海里の制限で何度もウルグアイ領域でウルガアイ海軍に捕まり操業が苦しくなり日本に引き上げましたが当時の村田社長はブラジルに残られ現在はリオデジャネイロに御住まいです。T氏とは直接お話が出来れば共通の話題、知人、友人が飛び出す事間違いないと思います。宜しくお伝え下さい。
この掲示板の遣り取りを寄稿集にも掲載して残して置きたいと思います。
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