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グァタパラ移住地の40年と植林 近藤四郎さんの講演より。
先週サンパウロに出張時定宿のバロンルホテルでグァタパラから出て来ておられた近藤四郎さんにばったりお会いしました。グァタパラ移住地の40年祭にグァタパラを訪ねイッペの花を植樹させて頂いて以来で話が弾みました。近藤さんのお嬢さんクリ子さんと長女弥生がJICAの中学生本邦研修でもう10年もまえに一緒に訪日した事もあり子供たちを通じての交流があり稲門の誼で懇意にさせて頂いております。今年の8月14日にサンパウロの総領事館、サンパウロ州立大学、州の農務局共催の「植林と進歩」と題するシンポジュームで近藤さんが講演された掲題の<グァタパラ移住地の40年と植林>をグァタパラ移住地のHPより転載させて頂く事にしました。写真はサンパウロで撮らせて頂いたお元気そうな近影です。グァタパラ関係の記述は、寄稿集96番『グァタパラ移住地40周年記念式典開催 同船者多数参加』と97番『グァタパラ移住地入植40年祭と先没者慰霊祭、モンブッカ湖畔公園イッペ記念植樹祭に参加して』をご覧ください。


グァタパラ移住地の40年と植林
              
         発言者 グァタパラ農事文化体育協会会長 近藤四郎

 1962年、東京オリンピックが開催される2年前にグァタパラ移住地は誕生しました。
モジグァスー川に沿った総面積7294ヘクタールのうち、赤土のゆるやかな丘地面積は4500ヘクタールで雑木林に覆われていました。低湿地は1200ヘクタールが農地で、残りの1600ヘクタールは河川敷と用水路、排水路、道路になっていて、雑草が生い繁り、蛇と鰐が生息する未開の荒れ野原でした。
移住者はまず井戸を掘り家を建て、真っ黒に群がる蚊の大群の中でお米の種を播きました。折角植えたミカンの苗木が一晩の内に、サウーバという蟻によって丸坊主にされたり、収獲直前のメロンが大霜で全滅するなど、日本では考えられない災害に泣かされました。季節のはっきりしている日本での農業に慣れた移住者にとって、乾季と雨季が不定期に変化し、大雨旱魃が交互に襲う亜熱帯の農業を理解するには、長い歳月と手痛い経験が必要でした。
 6才の女の子が雑木林に迷い込み3年後に白骨で発見されました。たった一台の救急用に使われる車が、産気づいた母親をリベイリン プレットのクリニカ慈善病院に運ぶ途中パンクして動けなくなり、出血多量で母親は死亡、赤ちゃんだけが助かるということもありました。当時泥道で1日1便、バスが通っただけの道も、今ではペダージオという料金所ができて、2車線のアスファルト高速道路に変わりました。
 電気のあった日本の生活から、電気のない生活になって、移住者はどれだけ電気を望んだことでしょう。冷蔵庫も洗濯機もテレビもなかった生活が10年続いた後、ようやく我が家に電気の点った時、子供達はもうランプのスス磨きをしないですむようになった、明るい所でいつまでも勉強できると大喜びでした。
学校では大きい子も小さい子も、一緒に1年生から始めることになりました。授業を抜け出して近くの池に泳ぎに行く子、算数の誤りをからかう子など、先生は大変でした。注意しても言葉は通じず、しかも学力に差がありすぎて授業になりません。学校の中では日本語の使用を禁じたり、通訳をつけたりと大騒動でした。5年生以上になると、リベイロン プレットの町まで通うため、朝5時に起きて自転車でバスの停留所まで行きます。雨の日はズブ濡れになり、晴れの日は土のほこりで靴が赤くなり、サパートベルメーリャと呼ばれてつらい思いをしましたが、それでも成績は町の子どもに比べて優秀でした。学校から帰ると男の子は農作業、女の子には家事の手伝いが待っていました。幼い弟や妹の面倒を見ながら、大人顔負けの仕事を夕方暗くなるまでしたものです。ポルトガル語を真っ先に覚えたのは子供達で、父親が銀行からお金を借りる時、子供が通訳として付き添うこともありました。そんな厳しい毎日でしたが、かえって家族の絆は強く結ばれていました。その当時10才の子供の作文です。

 ママイはいつも子どもにばかりふくをかってくれて、ママイのものはかったことがありません。ぼくはママイがかわいそうなので「ママイもかえばいいのに」と言っても、「ママイはいらない」と言って、いつもかいません。この前パパイが「ママイも少しはきれいなまえかけをかけろよ、きたないまえかけをかけていないで」といいました。それを聞いた姉ちゃんは、ママイにまえかけのきれをかって来てくれました。雨がふった日に、ママイはかってもらったきれをひろげて見ていました。ぼくが「ママイなにしているの」と聞くと「これで康司のフトンが切れたから、つくってやろうと思っているの」と言いました。「せっかく買ってもらったんだから、ママイのふくでもつくればいいのに」と言ったらママイが「そうだなぁ、それじゃママイのふくをつくるよ」といってぬいはじめました。夕方できたふくをきて、「康司、ママイに似合うか」とうれしそうな顔で聞きました。ぼくもなんだかうれしくなり「ママイに似合うよ」と言いました。ぼくも大きくなってお金をもらうようになったら、ママイにふくをかってやりたいと思いましたきっとよろこぶでしょう。
入植して20年を迎えた頃は、ブラジル経済も成長期に入り、次々に大型コンバインが導入されて米 、大豆、とうもろこしなどの穀物の収獲が、飛躍的に増加しました。ブルトーザーによる開墾で、丘地の殆どは雑木林から赤土の畑に変わってゆきました。植え付け時期には、トラクターが土ぼこりを立てて整地作業を行い、昼も夜も駈け回る姿が村のあちこちでみられました。
 雑木林だった時にはなかったエロゾンという土壌浸食の問題が起きたのも、このころです。学校に通い卵とエサを運ぶのに1日も欠かせない道路は、大雨が降ると畑から流れ出した雨水が、川のように流れて穴をあけ、その水が下の畑に流れ込んで、更に耕土を流失します。普段は澄んでいるモンブカ湖も大雨が降ると真っ赤になって泳げなくなってしまいます。日本で設計され、碁盤の目のようにロッテが細分化されたグァタパラ移住地では、自分だけが等高線栽培をしても、上から来る水にはかないません。道路沿いにロッテを所有する、全ての人が協力しなくては、効果が上がらない結果となります。等高線委員会は、農務局の指導のもとに測量を行い、等高線栽培の導入を計ろうとしました。けれども一部の人は協力せず、相変わらず被害が続出しました。等高線栽培をすると、三角形に端が残り、トラクターの作業効率が悪くなります。自分は少し不自由になっても、被害を受ける人の身になって協力してほしいと話し合い、少しづつ農業者の意識が改善されてゆきました。現在はグァタパラ市役所 サンマルチンニョ精糖工場の援助を得て、土壌と道路の保全は問題が少なくなりました。そして丘地は、70%が砂糖きび畑へと変わってゆきました.
1984年、これまで移住地の造成と管理にあたってきた、国際協力事業団の現地法人(JAMIC)が解散することになり、その後をグァタパラ農事文化体育協会が引継ぎました。1600ヘクタールの河川敷の所有者になると共に、市街地計画を進めることになりました。現在はその一部から借地料を得て、会の活動資金源としていますが、550ヘクタールの保護林をかかえ、野火対策に頭を痛めています。野火を防ぐために改造したタンク車を消防車として用意すると共に、OISCAの指導を受けて60ヘクタールの植林計画を立て、米州開発銀行に資金援助を要請しています。又これまで合計3回、JICAの助成を得てモジグァスー川の護岸工事を施行し、川の侵食個所が堤防をえぐらないようにして効果を上げています。
 低湿地の開発は困難をきわめました。雨が続くと機械作業はできなくなり、雑草に追われます。泥炭の深い所はトラクターがぬかってしまい、コンバインが屋根まで埋まることもありました。用水路 排水路が不備な上に、絶対量の水が不足しているので、隣同士の水争いになることもしばしばでした。稲作の他に霜の害に強いキャベツ、たまねぎ、にんにく、いちごなどが裏作として栽培されました。けれども価格の低迷と輸送に問題があり、その上仕事はきつく、負債の返済に迫られた低地耕作者は、養鶏、養蚕に移り日本への出稼ぎに行って、低地から離れました。
価格の高い日本米や、もち米をグァタパラ移住地の特産品にしようと努力した人もいました。種を播いて発芽後田んぼに水を張る直播湛水方式では、赤米が増えて不純物として混じり品質を落とすことから、田植方式によって赤米対策をしようと、日本から田植機を導入しました。赤米対策には成功したのですが、田植機の能力は低く、1日中仕事をしてもわずかしか植えられません。日本と違って1人の農家が10ヘクタール以上植えるブラジルでは、3ヶ月以上にわたって田植えが続きます。水を張って代掻きをし、池のようにしては、田植機で稲の苗を植えてゆきます。それがいつか鴨の知るところとなり、何百何千羽という鴨が、月の光で鏡のように光る田んぼに舞い降り、折角植えた大切な苗を引き抜きました。案山子や鐘の音では何の役にも立たず、廃油を燃やし花火でおどしても、向こう側に移動するだけで相変わらずです。最後に農薬をまぶした籾を食べさせ、毒殺しようとしましたが、森林警察の知るところとなり、起訴され裁判にかけられてしまいました。最盛期には3万俵以上あったお米の生産も、現在では3千俵以下となり、殆どの田んぼは放牧地になりました。鳥害といえば、野鳩が大豆栽培の発芽時に、数百羽の群れをなして飛来し芽を引き抜くこともあります。
 グァタパラ移住地内の植林には次のようなものがありました。ユーカリや竹などの有用樹を植林し、用材を鶏舎や蚕室の建築材料とトマトやキュウリの支柱に使うもの、ミカン アバカテ、マンガなどの果樹栽培、黄色や紫、白のイペー、クワレズマなど、きれいな花の咲く木を庭木として植えたもの、鶏舎やハウスを突風から防ぐための防風林、自然林を育てるための植林に分かれます。かって開墾間もない農家には木らしいものは何もなく、ひたすら仕事しか考えるゆとりがありませんでした。ようやく庭を作り木を育て始めたのは、入植10年を過ぎてからで、植えた木が屋根よりも高くなり、遠くから見ても緑に覆われて見えるようになったのは、40年たったこの頃のことです。
 入植15年目には、笠戸丸以来の移民先亡者の遺骨を収集し、拓魂碑を造りました。その時、記念に植えた黄色いイペーの苗が、墓地の前や村のあちこちに育って大きくなり、見事な花をつけるようになりました。毎年8月には青空を背景に、黄金を散りばめたような風景がひろがります。その当時イペーの苗を植えた人の多くは亡くなりましたが、植えられたイペーは毎年花をつけています。
 自然林の植林など、開墾当時は夢にも考えなかったことです。1987年にモジグァスー川の護岸工事現場で倒した木の代わりに、300本の植林を義務づけられたのが、自然林の植林の始めでした。第1期と第2期工事の時は、植えたままで管理もせず、いつの間にか木の芽が出て育ち、1年も経つと自然に再生してくれました。第3期工事は、8基のガビオンという蛇籠を30mおきに設置し、砕石だけでもダンプカー200台以上を使用した大工事でした。3300本の植林をしましたが、苗が小さかったのとモジグァスー川が雨季に増水して苗が水をかぶったため、大半が枯死して再度の植林を余儀なくされました。大きくなった後でも2年後に野火が入り、部分的に焼けてしまいました。植林して育ってからも火が入らないように、管理を続ける必要があります。
ボトランチン製紙会社の呼びかけで始めた、野球場グラウンドの周り1ヘクタールの植林は、青年会員が中心になって整地作業をし、地域住民に呼びかけて2000本の苗を植えました。7年後の今日、立派に成長して西日をさえぎり、野球がしやすくなると共に、地域住民の憩いの場となっています。それまで何回植えても、サウーバと雑草に負けて育たず、日陰の無いグラウンドでしたが、今では緑に囲まれた場所に変わりました。森のわきにはサッカーのミニコートが作られ、見物客は木陰から応援しています。大きいサッカーコートの周りにも、地域住民が自発的に木を植えるようになりました。
市街地計画がグァタパラ市役所から正式に承認されて3年、地域住民の憩いの場とするために、入植40周年を記念してモンブカ湖畔公園を作ることになり、南米産業開発青年隊の方々と共に、今年7月に記念植樹をしました。小学校や日本語学校の生徒にも参加してもらい、地域ぐるみで大人から子供まで植樹をし台帳に植えた人の名前を記入しました。住民の中にはサウーバ退治に協力したいと申し出をする人もいました。日本からの使節団の方は、いつか又ブラジルに来る時まで、自分の植えた木を枯らさないようにと、頼んでゆかれました。
 入植して40年、グァタパラ移住地の鶏卵生産量はブラジルの1.5%を占めます。みなさんの食卓にでる卵も、グァタパラの鶏が産んだ卵かもしれません。お米やレンコン、にんにく、きゅうり、ウズラの卵、はちみつ、アガリクスなどいろいろな農産物を町の人に届けています。かっての雑木林と低湿地が耕地に変わり、農業生産を上げるまでには、開拓にうち込む農民の絶え間ない努力がありました。お金を出せば何でも買える世の中ですが、食卓を家族で囲む時、生産者とその家族のことを、少しでも思い出して食べ物を大切にして下さればありがたいと思います。木を植える心は自分だけ、今だけよければ良いという気持ちとは違います。思いやりと助け合いの心を子供達に伝え、土を愛する農業の形を求めながら、訪れた人を暖かくもてなせる、そんな緑と花に包まれた村作りを、これからも目指してゆきたいと思います。
ありがとうございました



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