最後の移民船 にっぽん丸から30年=同航会で出航シーン再現=波瀾万丈な人生を語り合う=4割が出稼ぎや帰国
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私たちのあるぜんちな丸(2代目)が改修されてにっぽん丸となり戦後の船による最後の移住者285名を乗せて(その内222名がブラジルに入国)丁度30年前の1973年3月27日にサントス港に到着した。にっぽん丸は、豪華客船に生まれ変わり世界1周の旅の途中のサントス入港であった。10年前の20周年にも皆で集まり今回は2度目の同船者会とのことで34家族100人あまりが集いあった。当日の様子をニッケイ新聞は4月2日付けで掲題の見出しで大きく報道しています。
ジャーナリストとしてこの最後の移民船に乗り込んだ、現ニッケイ新聞の東京支局長・藤崎康夫著『母と子でみるブラジルへ%本人移民物語』(草の根出版)によると、にっぽん丸の見送りは約三千人に上り、乗客四百人のうち南米への移住者は計二百八曙ワ人を数えたと語られれており、その藤崎さんが撮られた多くの貴重な写真が紹介されたとの事ですがそのうちの1枚、同船者総出で甲板で撮った記念写真をお借りしました。
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二百二藷人のブラジル移住者を乗せた最後の移民船・にっぽん丸が、サントス港に着いて三月二庶オ日で三諸Nが経った。七〇年代の好景気で順調なスタートを切った彼らも、石油ショックや、民政移管後の超ハイパー・インフレなどに直面。慣れない異国の地で翻弄され続け、いまでは出稼ぎを含めその四割以上が帰国している。同三藷、リベルダーデ区の静岡県人会で開かれた、にっぽん丸同船者の集いを取材した。
「ただいま出港です。行ってきま〜す」
『ほたるの光』が流れる中、旅立ちの場面の再演に参加者は沸いた。
にっぽん丸は紙製だ。次々と五色のテープが投げ入れられる。乗船者は大きく手を振りながら、会場をかつて渡った大海原に見立てて一周した。
「いやー思い出すね」。はしゃぎ声がしきりに響いた。この日、顔をそろえたのは三庶l家族百人あまり。遠くはリオ・グランデ・ド・スル、ミナスからの参加者もあった。
ジャーナリストとしてこの最後の移民船に乗り込んだ、本社東京支局長・藤崎康夫著『母と子でみるブラジルへ%本人移民物語』(草の根出版)によると、にっぽん丸の見送りは約三千人に上り、乗客四百人のうち南米への移住者は計二百八曙ワ人を数えた。
ブラジル移住者の中には腕に自信を持つ技術者、アマゾンの大地で農業を目指すもの、そして写真でお見合いした夫の元へと向かう花嫁などがいた。
工業移住者三諸ェ人の一人、辻哲三さん(五九)は、「ブラジルの三諸N間の変化も大変というか、無茶苦茶というか、日本では考えられない状況だった」と出席者の気持ちを代弁。「家族も知人もなく、言葉も不自由ななかで(その変化を)乗り切ってきた。しかも、戦前の移民のようにブラジルに根が生えているわけではない辛さもあった」とあいさつの中で、その苦労を振り返った。
続き、日本からの祝電が紹介され、「日本で同じような生活を悶々と繰り返す暮らしで三諸Nを過ごすより、皆さんの三諸Nは刺激に満ちていたのでは」
家族紹介を通して、それぞれの三諸Nが語られる時間も設けられた。「船中の天国のような日々から一転、ブラジルでは波瀾万丈の生活が待ち受けた」などと、ここでも、移住した喜びと苦労が交差する感慨が度々漏れた。
一方で、陶芸家の生駒憲二郎さんを始め、フラメンコダンサー戸塚マリさん、歌人多田邦治さんなど、多彩な顔触れが見られるのもにっぽん丸同船者の特徴だと分かった。
会の発起人小池和夫さん(五六)のもとに先日アマゾンから同船者の現状を伝える名簿が届いた。帰国、帰国、帰国、死亡……。四庶O人が移住して、いまに残るのは八人のみに。それでも、同船者家族の集いをトメアスで開いたという便りが一緒に添えられていたのが救いだった。
「今度はサンパウロでの様子をあちらに送ろうと思っています。これまで同船者同士の交流は乏しかった。三諸N目を機会に交流を始めようと思っているところです」と小池さん。
「われわれは二曙ワ、六で日本を出た世代。もう還暦も迫っている。諸N後は難しいかもしれないから、次は五年後に集まりを開きたい」
会場入り口には藤崎さんが船中で撮った写真の数々が展示され、三諸N前の自分と仲間たちを前に、談笑する姿が絶えなかった。
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