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【日本人の血】 作家 柊 治郎さんの書き下ろし作品です。
作家 柊 治郎さんとは、HSLN(ハッピーシニアライフネット)という作家 柊 治郎さんとは、HSLN(ハッピーシニアライフネット=柿沼 實さん主宰)という 原則として50歳以上のシニアーの皆さん400人以上が参加しておられるメーリング リストを通じてお知り合いになりました。現在バーチャル座談会で『移民について語る!!』をテーマにしておりますが、皆さんに移民についての発言をMLを通じてお願いした所、多くの方からコメントを頂くことが出来、柊さんからは、メキシコへの榎本移民についての創作を進めておられるとの事でその構想と、世界各地に広がる日本移民、【日本人の血】について夜を徹して書き上げて下さった書き下ろし特別寄稿を送って頂きました。完全な失敗に終わったメキシコへの榎本移民35名の苦労話と400年近い昔に伊達政宗が送った支倉常長一行180名の多くがメキシコに住み着き日本人の血を残しているとのこと。柊さんの最後の章には、「一世として海外で日本人の意気を高らかに示しておられる人達、二世、三世、四世として、その国の人になりきりながら、その国の発展に貢献しておられる人達、そのいずれにも熱いエールを送りたい。」との暖かい言葉に熱く込上げて来るものを感じます。
先週、那須岳に登られた際に携帯電話で撮られた写真を一緒に送って頂きました。
柊さん有難うございます。


【日本人の血】
作家 柊 治郎

私の手元に「アフリカに渡った日本人」という一冊の本がある。国際協力事業団にお勤めの青木澄夫氏がお書きになった本で、私が十年ほど前にザンビアを訪問した時に事業団の方から頂いた。
氏は本書の冒頭で「明治時代は不思議な時代である。狭い日本に閉じ込められていた江戸時代の日本国民のエネルギーが、鎖国時代の殻を打ち破って、海外に向けて一気に爆発した」と書いておられる。
明治の時代にアフリカを旅して、明治四十三年に「阿弗利加一周」という“探検旅行記”を発表した中村直吉という人物がいる。青木氏はご勤務の傍ら中村氏の書いた本の内容を実証するような形で、独自の調査を進められたようだ。いまはタンザニアと名を変えているアフリカのザンジバルにすら、「からゆきさん」と呼ばれた日本人女性が進出していたという事実は、私を驚かせるに十分であった。アフリカの港町では、いまも日本人に風貌の似た人に出会うことがあるという。
危機管理コンサルタントという妙な職業のお陰で、私は世界中を旅する機会に恵まれた。南米のはてからアフリカの果てまで、地球をくまなく歩きながら、私はいつしか日本人移民の歴史に興味を持つようになっていた。
メキシコへも仕事の関係で何度も足を運んだ。そんな機会に、日墨協会関係者の方から「日墨交流史」(PMC出版)という分厚い本を頂戴した。ボリビアでも、日本人ボリビア移住史編纂委員会編の「日本人ボリヴィア移住史」、サンタクルスのサン・フアン日本人移住地を訪れた際に頂いた「サンフアン移住地三十年史」などの本が手に入った。ブラジルへも何度も足を運んでいる間に、明るいコロニアを考える会編の「拓魂百年」という本を友人から頂いた。
移民問題への私の関心が徐々に高まる中で、とりわけ私の興味を強烈に引きつけたのは、“榎本移民”である。榎本移民については、上野久氏の名著「メキシコ榎本植民」(中央公論社)に詳しく述べられている。
徳川幕府が鎖国政策を採る前には、ルソン、アンナン、カンボジア、バタビアなどへ日本から盛んに貿易船が出かけ、東南アジアの各地に日本人町ができていた。
大黒屋光太夫、ジョン万次郎、アメリカ彦蔵……など、漂流という事故によって、海外に暮らすようになった日本人も少なからずいた。しかし、国家の政策として行われた日本人の集団移民の草分けは、メキシコへの榎本移民ではなかろうか。
メキシコへは、榎本移民よりもかなり前に、日本人が集団で渡った史実がある。
有名な支倉常長一行である。
私は家人と二人で、日本の海岸線をすべて車で走破するという壮大な計画を実行しつつある。以下は、2001年4月に、東北太平洋岸を旅した時の旅日記であるが、少し引用してみる。

「目指すは、牡鹿半島。半島の曲がりくねった急坂道を30分ほど走ると、月の浦に出る。ここへは是非一度来てみたかった。山ばかりの半島の懐に抱かれたようにひっそりと佇んでいる小さな湾と小さな浜。月の浦には降りて行かず、道路脇に車を停めて、湾を見下ろす。山の上から月の浦を見下ろしていると、三百八十数年前の光景が目に見えるようだ。時は慶長18年9月15日(1613年10月20日)サン・フアン・バウチスタ号がひっそりとこの港を出て行った。伊達藩が建造した日本最初の西洋式帆船(500トン)が、これから向かう壮途を思えば、藩を挙げての盛大な見送りとなったはずであるが、当時の日本の国情を考えれば、ひっそりと出て行ったに違いない。徳川家康が幕府を開いて十年後である。
この船に乗っていたのは、伊達政宗の密命を受けて欧州を目指した支倉常長一行180人と、案内役の遣日大使ビスカイノと宣教師ソテロであった。
月の浦を、おそらくは夜陰に紛れて、出向したサン・フラン・バウチスタ号は、メキシコのアカプルコに着く。一行はそこに2ヶ月滞在し、メキシコ・シティ、ベラクルスを経由し、キューバのハバナを経てスペインに向かう。
メキシコ・シティの旧市街には、支倉常長が洗礼を受けた教会があり、私も訪れたことがある。支倉常長と共に欧州に向かったのは15人ほどで、残りはメキシコで一行の帰りを待つことになったのだが、5年後に一行が戻って来た時には、家来たちのほとんどは現地人女性と結婚して、現地に溶け込んでおり、日本に戻ったのは20余人に過ぎなかった。残りの侍たちは、メキシコの血の中に溶け込んで行き、今では子孫を探すよすがも無い。スペインには「ハポン」姓を名乗る一族が600世帯ほどいる。これらは支倉一行の子孫の末裔だといわれている。だが、スペインに残ったのはごく僅かな人数で、ほとんどの家来はメキシコに残った。だからメキシコには、数千ファミリーの子孫がいるはずなのだが、今となっては、詮索のしようも無い」

「夏草や、つわ者共の夢の跡」
メキシコ最南端の町タパチュラ。パンアメリカン・ハイウエイができて、首都から20時間ほどで行けるようになったが、ハイウエイができるまでは4日間を要したという。その少し北にアカコヤワという小さな村がある。アカコヤワは寒村である。そこに、こじんまりした公園がある。その公園の中に、その碑は立っている(そうだ。私は残念ながらまだその地を踏んでいない)。
芭蕉が詠んだ句とはほんの少し文句が違うが、この碑こそメキシコへの最初の日本人集団移民、榎本移民が存在したことを示す碑である。碑の正面には「榎本植民記念」の文字が刻まれている(写真で見ただけであるが)。
以下は、前述の書籍を参考にさせて頂き、私が書いた駄文の一部(創作、未完成)である。
 
 1897年3月24日、外務卿榎本武揚が興した日墨拓殖株式会社の契約移民として、米国船ゲーリック号で横浜港をメキシコに向けて、出港した。
ゲーリック号には、350人の中国人移民も乗っていた。彼らは、ある者はハワイを、ある者はサンフランシスコを、そして大半は中米のパナマを目指す移民たちだった。
日本人は70人乗っていた。榎本移民は、契約移民が29人、自由移民6人、それに監督の草鹿砥寅二の計36人で、残りは個々人でアメリカを目指す人たちだった。
ゲーリック号は23日の航海の末、サンフランシスコに到着した。榎本移民の36人は、そこでシティ・オブ・プラー号に乗り換え、4月19日にサンフランシスコを出港し、カリフォルニア半島沿いに南下した。榎本移民たちは、いずれも20代の血気盛んな若者たちだったが、苦痛に満ちた航海に、横浜を出た時の元気もしぼみかけていた。7日間の航海で、船はアカプルコに到着するが、移民の一人愛知県出身の山田新太郎が過酷な航海に体調を崩し、目的地を目前に死亡していた。
アカプルコで乗り換えたパラクタ号の航海は、さらに過酷だった。移民たちは船倉にさえ入れてもらえず、甲板で寝起きさせられたのだ。灼熱の太陽に身を焦がされ、バケツをひっくり返したようなスコールに打たれる過酷な航海であった。
半死半生の移民たちを乗せたパラクタ号が、目的地のチアパス州サン・ベニト(現在のプエルト・マデロ)に着いたのは、1897年5月10日のことだった。横浜港を出てから48日目である。移民たちは疲労困ぱいし、上陸の足取りも重かった。

榎本移民には、愛知県と兵庫県出身者が圧倒的に多い。それ以外には岩手県出身の自由移民2人と、宮城県出身の自由移民が3人いるだけだ。
自由移民は、榎本武揚がメキシコ国内に購入した土地を自己資金で購入して、耕作に当たった移民であり、契約移民は日墨拓殖株式会社に雇用され、一定期間同社から給料をもらって耕作に従事すれば、無償で土地がもらえることになっていた。
契約移民が愛知県と兵庫県出身者だけなのは、榎本の指示で移民募集に当たった人間が愛知県の出身であり、自分の故郷で手っ取り早く移民を募集し、足りない分を兵庫県出身の友人に集めさせた結果である。理想ばかりが先走る榎本の拙速主義が良く現れている。榎本移民の悲劇は、移民集めの段階で、いやそれよりももっと前の、計画の段階から決まっていたようなものだった。ろくに現地調査もやらず、いいかげんな調査結果をもとに、移民の送り出しを焦った結果だった。
ケンタロウ(註:私の駄文の主人公)の曾祖父、早川鉄太郎は1897年3月24日、外務卿榎本武揚が興した日墨拓殖株式会社の契約移民として、米国船ゲーリック号で横浜港をメキシコに向けて、出港した。
「榎本植民地トイフモノガ、メキシコニ創設サレタト云フ話ヲ聞イテ、余ハコレニ参加シテ、メキシコニ渡ルコトヲ決意セリ。募集事務所ノ説明デハ、月ニ七円ノ月給デ五年間契約ノ由。ソシテ五年後ニハ、五町歩ノ畑ガモラヘル。珈琲栽培ニ適シタ土地デ、五町歩デ時価十二万円トノコト」
 艱難辛苦の航海の末、榎本移民35人はサン・ベニト(現在のプエルト・マデロ)に上陸した。1989年5月10日のことであった。上陸はしたものの、植民地への入口になるタパチュラの町は、サン・ベニトから25キロも離れている。
一行は、寄港地のハワイで日本領事からもらった槍を先頭に、猛獣を警戒しつつ歩き始めた。折りからチアパスは乾季の最後の月であった。日中の気温は軽く30度を超え、道は乾ききって濛々たる砂埃が立ち上った。人家は一戸もなく、一滴の飲み水も持たない一行は、喉の渇きと空腹にさいなまれながら、亡者の群れのようによろぼい歩いた。
日は暮れたが宿を借りる人家もない。一行は夜通し歩いて、5月11日午前2時にようやくタパチュラに着いた。この行軍で3人が日射病に罹り、1人が脱水症状で倒れた。
病人が回復するまでの5日間、一行はタパチュラで休息を取る。
植民地はタパチュラから、さらに西に百キロ離れている。日中の猛暑を避けて一行は、5月16日午前2時にタパチュラを出発した。火事場跡の灰の中を歩くような行軍であった。一行は夜明けまでに30キロほどを歩いて、ウエウエタンに入り、翌日は午前3時に出発して25キロを歩き、ウィストラにたどり着いた。
「二ヵ処共ニ土人ノ部落ニテ、見ルベキモノナシ」
一行はさらに歩きつづけ、5月18日にエスクィントラ、翌19日に植民地に入った。そして彼らは、この5月19日を日本人入植記念日と定めた。
だが、日本から2ヵ月をかけた難行苦行の果てに榎本移民の一行が見たものは、月の光に照らし出された茫々たる岩山であった。
「青白キ月ノ光ニ照ラサレテ、果テシナク広ガル岩山ヲ前ニ、寂トシテ声ナシ。青白キ岩山ハ幽界ノ光景サナガラナリ」
珈琲栽培に最適の肥沃の土地との募集事務所の言葉は、真っ赤な嘘であった。榎本植民地には、事前に日本の技師が調査に入っている。彼の持ち帰った見本土が日本で分析され、希に見る肥沃の土地と判断されていた。事前調査に入った技師が日本に持ちかえった土は、大きな岩の陰に落ち葉がたまり、ほんの一握りできていた腐葉土だった。同じ土など榎本植民地には、ほかにはスプーン1杯も見当たらない。
「榎本武揚ノ無計画、無責任極マル植民計画ハ、天人倶ニ許サザル愚行ナリ。余、寂寞タル岩山ヲ前ニ、呆然ト立チ尽クスノミ」
「シンタラパ川ノ辺ニ掘立小屋ヲ造リ、雨露ヲ凌グ。食スル物ハ三食握リ飯ト味噌ト梅干ノミ。コレトテモ、残ルトコロ僅カトナリタリ。寺井君ガ土人ヲ真似テ、“ペイテ”ナル餅ヲ作ル。唐黍ニ石灰ヲ加ヘテ煮立テタ後、皮ヲ脱シ機械ニテ磨リ潰セシ物ヲ、“オハ・ブランカ”ナル草ノ葉ニ包ミテ煮ル。美味トハ云ヘズトモ常食ト為ス事トス。蛋白源トシテハ、農作業ノ合間ニ、“パポ”ナル孔雀ニ似タル鳥ヲ狩リテ、ソノ肉ヲ当ツ。酷暑ト、スコールノ繰り返シニテ、マラリアニヨル高熱ニ苦シム者少ナカラズ」
移民たちは、僅かばかりの耕作可能な土地を切り拓き、トウモロコシや野菜の種を蒔いた。痩せた土地である。トウモロコシも野菜類も、頼りなげにひょろひょろと風に揺れていた。穂が付こうかというころには、付近の牧場から牛や馬がやって来て、食べてしまう。
移民たちは、当初の目的であるコーヒー栽培を試みようとした。だが、チアパスではコーヒーの苗の植え付けは、すでに終わっており、苗が手に入らない。
雨季に入っていた。毎日毎日雨が降りつづける。移民たちは小屋の中から為すすべもなく雨脚を眺めるのだった。
「日墨拓殖株式会社ヨリ送金予定ノ開拓資金未ダ届カズ。準備金モ漸ク底ヲツク。毎日“ペイテ”ニテ三食ス」
移民たちは、苗を買おうにも金はなく、契約移民に支払われるはずの給金も一銭も支払われない。ペイテの材料となるトウモロコシを買う金にすらも不自由し始めていた。
監督として植民地に入っていた草鹿砥技師は、コーヒーの苗木を買いつけるべく、なけなしの準備金を持って、グアテマラに向かう。だが、グアテマラでは東洋人排斥法が施行されており、即時退去を求められる羽目となる。草鹿砥はタパチュラまで戻ってくるが、植民地に戻ることなく、榎本に資金援助を仰ぐといい残し、そのまま一人で日本に帰ってしまった。
「草鹿砥技師帰朝ノ暁ニハ、必スヤ送金アルベシト心頼ミニセシモ、終ニ何ラノ音信モナシ。草鹿砥ハ、植民地監督ノ責任ヲ免ルベク、金策ト偽リ祖国ニ逃亡セシモノト判明セリ」
榎本移民たちが血を吐く思いでひたすら本国からの資金送金を待ちわびている時、肝心の榎本武揚は、とっくの昔に植民計画を放棄していたのだった。
かくて日本人最初の集団移民、榎本移民の入植地はわずか3ヵ月で瓦解した。
「榎本植民計画ノ失敗ハ、偏ニ榎本子爵ラノ植民ニ対スル赤誠ト忍耐トヲ欠クニ原因シタルハ勿論ナリ。失敗ノ第一原因ハ、榎本ラガソノ口吻トハ裏腹ニ、最初ヨリ真面目ニ植民事業ヲ行フ意志ヲ有セズ、タダ移民ヲ送リテ最モ有利ト称セラレタル珈琲栽培ニテ、濡レ手デ泡ノ利益ヲ貪ルツモリデアッタコトナリ……」
外務卿榎本武揚は、そのもっともらしい広言とは裏腹に、日本人をメキシコに送り込んでコーヒーを栽培させ、一儲けを企んだに過ぎなかった。現地の実状もろくすっぽ調査せず、ただ金もうけを狙っただけの植民計画が成功するわけがなかった。
こうして35人の日本人移民は、メキシコ人の血の中に溶け込んで行き、その子孫を探すよすがもない。しかし、メキシコには、間違いなく体内に日本人の血が流れている人達がいる。それだけで十分である。
いまや世界のどんな国にも、日本人が住んでいない国はないといえる。一世、二世、三世、四世……世代を追うに従って、それらの日本人はその国に溶け込んで行く。人類の歴史は、移住と混血の歴史であり、そこから文化の相互影響、相互発展も生れた。
一世として海外で日本人の意気を高らかに示しておられる人達、二世、三世、四世として、その国の人になりきりながら、その国の発展に貢献しておられる人達、そのいずれにも熱いエールを送りたい。





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