第7回バーチャル座談会 移民について語る!!
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ブラジルサッカー、カーニバル等をテーマにして日本からも多くの皆さんに参加頂いたバーチャル座談会ですが、今回は、移民について語る!!をテーマに取り上げる事にしました。この移民というテーマは、『私たちの40年!!』の根幹に流れる永遠のテーマであり移民そのものについてその歴史、横の広がり(メキシコ向け榎本移民、ハワイ移民から始まりペルー、ボリビア、パラグアイ、アルゼンチン、カナダ等)、日本の皆さんの移民についてのイメージ、感じ方と接触、出稼ぎ現象、実際に移住された方々の証言等広範囲に皆で語り合って見たいと思います。写真は、私たちの乗った41年前に神戸港を出航するあるぜんちな丸第12次航の乗船記念のものです。
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和田:皆さんは移民という言葉からどのようなイメージを持たれるでしょうか?NHKでは移民という言葉は禁句になっており必ず移住または移住者という表現を用いるようにとの社内指導が徹底しているそうです。これに対してサンパウロの人文科学研究所の所長を長く勤めておられた宮尾 進先生は、移民という言葉に特別の愛着と誇りを持っておられNHKの取材中にも頑として移住者と言い換える事を拒まれ移民で通されたことが話題となり移民か移住者かの呼び方、その定義が話題になった時期があります。戦前移住者との表現はまず使用されず戦前移民がぴったりする。それでも戦後移民より戦後移住者という言い方が定着しつつあるようにも思いますが、たかが言葉の綾とは言い切れない響きを持っていると思うのですが、移民=棄民とつながる石川 達三の第1回芥川賞受賞作品である【蒼氓】の影響は大きい。お知り合いになってかれこれ半年近く経つことから香西さん、MASAYOさん、桐井さん等は、移民についても大分考え方、接し方が違って来ているのではないかと想像しますがその辺も含めて今回のテーマについて語って頂ければと思います。
香西:「移住」と「移民」の言葉を、あらためて聞かれるとなかなか難しいですね。少なくとも「移民=棄民」とは思いません。
日本が農業国であった頃、広い土地を求めて未開の地へ移住した人達は、大変なご苦労があったでしょう。生活も苦しかったと思います。
それを国策で行いながら、後のフォローをしなかったため、結果的に「棄民」と見ることも出来るでしょう。
あえて言えば、国が奨励し集団で移住した人が「移民」で、個人的に外国に移り住む人を「移住者」と呼ぶのかも知れません。
しかし、当事者が自分の夢と意志をもって他国に渡り、自分の道を切り開いたのですから、例えば、松井選手がメジャーリーグで活躍する夢を追求することと、基本的に変わらないと思います。「40年目のビデオレター」を拝見し、特にそのことを強く感じています。
アメリカ、オーストラリアの数代前の人々は、皆んな「移住者」です。
MASAYO:ブラジルへ移住される方の意識もその時代によってまったく違ってきていると思います。
初期の笠戸丸の時代はもう人生最大の決心をして移住されたと思いますが、時代が新しくなるにつれ、成功を夢見てチャレンジしてみたい、もしだめなら日本で出直そうという感じではないのでしょうか…と勝手に想像しております。
昔は世界中がもっと遠い国でした。神戸の移住センターで見たビデオなんですが(あれは昭和30年〜40年くらいの映像だったと思います)船に乗られるまでの皆さんの様子を写していました。若い方は夢一杯で希望に満ちた表情をしておられましたが家族と一緒に行かれるお年寄りの表情がとても印象に残りました。きっと次に帰国できるチャンスはもうないのではないかと思われているように見えたのでした。
和田さまの頃はどのようなものだったでしょうね。
お写真を拝見しますと希望にあふれ元気一杯、特に船内新聞を共に編集されていたお仲間の楽しげな表情が印象的です。
桐井:かつての人びとは相当な思いや決意で移民をなさったことと想像します。ご当地でのNHK「素人のど自慢」大会からその片鱗がうかがわれます(特にお年を召した方の会話から)。不幸にして病気などで挫折した方もいらっしゃいますが、大半の方は成功しているように感じます。
ハワイやカナダなどに移民された方に関してもほぼ同じことが言えるのではないでしょうか。
和田:日本の皆さんのご意見を聞かせて頂きましたが、ブラジルに40年以上住んでおられる山下さんと15年程度の沢田さんとは移民あるいは移住者についての捕らえ方違うと思いますが、実体験を通じてのお話を伺いたいですね。
山下:私は1959年に渡伯で、もう45年にもなりますか。動機は神戸の御影の邸宅?に400坪ほどの庭があり、オヤジが毎週末に芝刈りをやらす。つつじの花もありまして、この花びらが毎日落ちる。機械は先をとばすだけだから、はさみでヤレと、腰は痛いは一週間経つとまた伸びてくるで、これがイヤで中学時代からどうすれば遠くへ家出できるかと考えておりました。
当時はアメリカなどにはビザが出ないで、行けたのは南米だけだったのです。
本当にこれが動機で移民論など語る資格も無い男です。
子供は2人いますが、日本国籍を持つと出稼ぎに行ったりするから、わざと日本領事館には出生届けを出しませんでした。2人は幼稚園からアメリカン・スクールで今上の子はアメリカにいますが、どちらも「日本語だめよ」で私は日本文化の継承者としても落第生です。
したがって第三者的に日系社会を見ております。さきほど文化協会の会長のなり手が無いなどと新聞に出ておりましたが、日本文化の伝承は日本人がやるべきで今まで苦労した移民にやらすのは間違っているという極論者です。
今日系社会のリーダーがいないなどと言いますが、日本文化の伝承、全日系組織の指導何か5つほど極めてだいそれた目的が定款にあるようです。そんなこと全部の出来るようなリーダーがブラジルにいるわけがありません。
名前は出したいが何もできない人が集まって喧々諤々となるだけです。私なりにこの解決方法はリーダーなんて偉い人を選ぼうとしないで、目的を5でも10でも分割してそれに最適な人材を2世3世から選出すれば一発で解決するというようなことを言うと嫌われますので止めておきます。
45年住んでブラジルは良いところです。45年前と基本的に何も進歩しておりません。何度も浮き沈みがありましたが、あまり厳格でなく融通の利く社会が自分の性に合っていて窮屈ではありません。
しかしながら、先日マイアミに行って運転しながら思いました。もし運転が出来なくなったら行動範囲が減って、外国での人生は急に面白くなくなるし、家内も子供も誰も面倒は見てくれないだろうなと確信しています。
沢田:私がブラジルに渡ったのは1986年の末ですから、かれこれ16年余りこちらに住んでいることになります。
私の場合は「ブラジルでたっぷりサッカーを見たい」という動機が最初にあり、サンパウロには日系人社会があって何とか暮らしていけそうな気がしたので、「自分が気に入って、しかも生活できそうであればしばらく住んでみよう」といった極めていいかげんな気持ちでサンパウロにやってきました。そして、こちらで結婚して家族ができ、またブラジルサッカーについて書くことを仕事にしたという事情もあって、結果的に現在までサンパウロに住み続けているというわけです。
従って、「移民」はもとより「移住者」という意識すら乏しく、「何となく選んだ場所にズルズルと住み続けている」というのが実情です。
桐井:沢田啓明さんの場合は、「自分が気に入って、しかも生活できそうであればしばらく住んでみよう」という軽いお気持ちのようで、あまり深刻な様子は受けません。このような動機は例外のように感じますが、いかがでしょうか。
もっと多くの人びとの動機や、その後の生活、また、現在、自分のことを日本人と思っていらっしゃるのか、あるいはブラジル人と思っていらっしゃるのか、祖国日本をどのように思っていらっしゃるのかなどなど聞いてみたく存じます。
和田:発言頂いた山下さん、沢田さんのご意見は桐井さんがおっしゃるように普通の移住者とは少し変わっていると思います。普通的な体験として私たちの同船者681名の一人一人に戦後移民としての実体験を聞き、語たり続けて行きたいというのが『私たちの40年!!』のHPの主旨であり、目的ですので多くの発言者を期待していたのですが、我々の40年は、未だ道遠し、安易に語り継ぐ程、消化していない生々しい却って触れたくない話題なのでしょうか、発言が挙がって来ません。今回はテーマの選択を間違ったのではないかと反省しているところですが、如何でしょうか。
MASAYO:今回のテーマが一番、興味があるものでした。
今、ブラジルで生活されている方々がどのように考え生活されているかなどのご意見を伺いたいと思っていたのですが、やはり皆様がおっしゃるように客観的にご自分たちの人生を語るまでにはいたってないというところでしょうか。
桐井:テーマの設定は決して悪くないと思います。和田さんのホームページのタイトルにぴったりのテーマです。しかし、おっしゃるようにまだ風化していない語りたくない生々しいテーマなのでしょうかね。
かつては移民をすると故国の土は二度と踏めないという悲惨なイメージが少しありました。現に年老いて故国に里帰りできなかった方もいらっしゃるでしょう。しかし、最近では交通機関の発達により事情も変わってきました。世界がとても狭くなりました。
御地もそうでしょうが、ハワイやカナダに移民された方々の子孫は繁栄し、良い生活をなさっている印象があります。(中には例外もあるでしょうが)
和田:途中で投げ出す事も出来ず、日本のハッピー・シニアー・ライフ・ネットというメーリング・リストの皆さんにご発言をお願いしたところ興味ある下記発言を頂きました。
山本:移民(国策による移住[旧満州国などへ植民地化]も含まれる)と言えば知る限り戦前の明治以降世界各地へ移民していったようですね、戦後混乱期で知る所の私は米国のハワイ・北米大陸とか南米の各国へ。戦前は経済的貧困、戦後は戦中戦火による国土荒廃で経済的な食糧難などで移住政策?。いま日本の現実は少子高齢化へ向ってあまり一億国民は危機観薄きの風土で益々若い世代の少子減少傾向で活力衰退化へ向うのではと思いつつ。
和田さんのブラジルで日系ブラジル人の老若の割合はどのような状態でしょうか?。若し、若い世代が多ければ、世界各地へ移民した日系人を日本へ呼び戻す逆移民させる国の施策が必要でありで、日系の若い世代が活躍する場が多く得られるかも知れませんね。
和田:ご発言有難う御座います。御質問の『日本から世界各地へ移民した日系人の総人口の中で今現在、老若の人口比率の情報を、知る範囲で分れば興味ありますね。』についてはこれと云った統計資料等見当たりませんがサンパウロの人文科学研究所に問い合わせて見ます。日本からは、山田長政の頃の【ジャガタラお春】から明治初期に始まったハワイ移
民、南米ではペルー移民から始まり、1908年のブラジル第一回【笠戸丸丸】移民から数えて1世紀近くの歴史があります。
1997年の7月19日付けのパウリスタ新聞の「土曜論壇」にサンパウロ人文科学研究所の宮尾 進所長が『高利化著しい日系社会』と題して1991年に発表された国勢調査のサンパウロ州の統計数字を取り上げられ通常は年齢が低い層程、人口が多いピラミッド型の人口構成が普通であるが日系人の場合一番多いのが35歳―45歳の年齢層でありそれから上はもちろんであるが、それからしたの年齢層も少しずつ減ってしまっており、日系人の間で少子化が進んでいる事を指摘しておられます。
65歳以上の年齢層が全人口の7%を越える社会を高齢化社会と呼んでいるそうですが、ブラジル全体では4.82%のところ日系人社会では、平均9.29%、農村部では11.96%と殆ど12%に近い数字を示しており、高齢化社会と言われる日本の15%程度に接近している。この宮尾先生が挙げられている数字は90年のブラジル国勢調査の数字から皮膚の色が黄色(黄色人種)の数字を使用されておられ一部韓国、中国系も含まれているようです。既に10数年経った現在より一層の高齢化、少子化が進んでいるのではないかと想像しますが、山本さんが意図される日系ブラジル人(2世、3世等)が多くいるようであれば以前の「日伯移住協定」の裏返しになるUターン現象を捉えた「日伯出稼ぎ協定」と云った法制化?も可能ではないかとのお気持良く理解できます。有難う御座います。
柊:私は、移民問題に大きな関心を持っております。
メキシコへの榎本移民の資料を求めて出かけ、榎本移民の数奇な運命をメインテーマにした作品を構想中です。なかなか興味を示してくれる出版社がないので日の目を見るかどうか判りませんが、半分くらいは書いてあります。
ブラジル移民のことも調べたく、サンパウロで「拓魂百年」という日系人の団体で刊行された資料なども手に入れてきてあります。
ボリビアも移民(ペルーから移住した人が多いようですが)の多いところで、3度ほど出かけ、特にサンタクルスの沖縄開拓村とラパスでは、講演会もやり、日系人の方々のお話も聞きました。
パラグアイも移民の多いところで、アスンシオンに3回でかけ、そこで本当に数奇な出会いの糸口ができました。私は珍しい姓ですが、同姓の一族がイグアスの日本人集団居住地におられることがわかり、その一族のルーツを尋ねたら、私のルーツと基本的に合致しました。(親戚ではないのですが)その一族の五男が日本に帰国しておられ、私にメールして
こられ、以来親交が続いています。
和田:移民問題に大きな関心を持っておられるとの事、お仕事柄とは言えブラジル移民だけでなく、ボリビア移民、パラグアイ移民等私達の同船者がいる国々の調査にも出向いて来られているとの事で特に、イグアスの日本人移住地に同姓の一族が住んでおられるとの事、地球は、どこかで何らかの形で繋がっているのですね。イグアス移住地の新しい日本人会長さんの紹介記事、イグアス農業共同組合のHP等もリンク集に掲載しておりますのでご覧ください。
榎本移民の数奇な運命をメインテーマにした作品を構想中との事、楽しみですね。是非完成させてください。お時間のある時に柊さんの移民問題との関わりや、エピソード等をお書き下さい。『私たちの40年!!』HPの寄稿集に掲載させて頂きたいと思います。
石田:私は和歌山県のカルフォルニア移民の多い村で育ちました。すぐ南の村はカナダへの移民が多い村でした。戦後は教室の表示が英語だったし、対外試合するときには
英語でしゃべるのでサインはいらないといった状態でした。アメリカ村と言われていました(実際には三尾村でした)。
私の祖父母はカルフォルニア移民で農場を経営していましたが、生まれた子供が5人とも女子。跡取りがいないと戦前に帰って来ました。
私がカルフォルニアでトラクターの売り込みで訪れたお店で、その話をすると、なんと祖父のことを覚えていて、あの丘の向こうで大きな農場をやっていたと聞きました。世間は狭いと思いました。
私はそんな雰囲気で育ったので、中学、高校と移民したく、アメリカを狙ったのですが、米国生まれの母は戦後アメリカ国籍を放棄していて、無理。で当時移民が盛んだったブラジル移民を希望していました。
ところが体が弱く、ジャングル的なところの開拓は無理と父母に言われ、当時技術移民を認めていたカナダを狙いました。父母は大学を出てからにしろということで、体の弱かったのでそうしました。
その後今の奥さんと出会い、結婚しましたが、移民の話をするとぜんぜんで、国内に根付いてしまいました。子供の頃の環境で生き方も変わりますね。
ある意味で和田さんがうらやましいです。
和田:同じ頃、日本で青春を過ごした者としての親近感を感じます。和歌山県は、海外雄飛の士気が盛んな県でブラジルにも相当数の移住者が来ております。紀伊国屋門左衛門の血を引いているのでしょうか。カリフォルニア移民、カナダ移民等の皆さんが海外で成功して日本に錦を飾った人たちの集団で住む村があったのですね。野球をするのに英語で声を掛け合える程、多かったのでしょうか?
祖父母さまがカリフォルニア移民だったとか、現在も伯母様他親類の方が多く海外に住んでおられる環境でもあり、ご自身がアメリカ移住、ブラジル移民等を視野に入れて青春を過されたとの事、強い連帯感を感じます。人生のやり直しが利けばブラジルで合見えることもあったかも知れませんね。青春との邂逅ブラジルに来て見られませんか。出来たら石田さんの移住への夢?に反対しておられた奥様とご一緒に。歓迎しますよ。
カナダの笠原さんからもご発言頂いております。
笠原:私は今、カナダ日系移民の歴史を博士論文のテーマにする女性の資料解読の手伝いをしているのですが、彼女が被差別部落からの北アメリカへの移民について興味をもっています。この人たちが、日本の差別を逃れ、新たに白人からの差別を受けた時、どう対応したか、というのが興味の焦点です。
和田:笠原さんは、カナダにお住まいなのですね。移民、移住とは関係のないご自分の選択でのカナダ住まいと思いますが、海外に住んでおられる笠原さんのお話も聞かせて頂きたいですね。同じ海外組みとして。
カナダ日系移民の歴史を博士論文のテーマにしておられる方の資料解読を手伝っておられるとの事、カナダ日系移民の歴史も是非知りたいと思います。
被差別部落から来た北アメリカへの移民についても調べておられるとか、島崎藤村の夜明け前の小説の題材だけに存在する問題かと思っていたのですが、矢張り現実にそのような形の移民もあったのですね。大いに興味をそそられます。
ブラジルでも人種差別が全くないとは言い切れませんが、多くの場合これは階級差別に属するもので先輩移民の皆さんが苦労されたのは、農村、低下層階級に属していたが為の階級差別による辛い思いを経験されたのではないかと思います。ブラジルは、移住者を受け入れて来た【人種の坩堝】と言われる混血社会でアメリカにおけるピリグリムファーザーの清教徒のアングロサクソンによる家族移住と違い血の純潔をそれ程重んじないポルトガル人、スペイン人のならず者、貴族の極道息子?冒険者等の単身移住者が在留民のツピー・グラニー族との混血から始まりアフリカからの黒人奴隷の導入、奴隷制度開放後のコーヒ園での労働者として日本からの移民が導入されました。従い初期の移民は、日本も貧しかったとは云え多くのおしん的家族が移民して来て苦労されたようです。現在のブラジルに置ける日系社会、日本人への評価等は、多くはこれらの無名の初期移民の人達とその子孫が営々として築いてきたものの上に立脚していることを忘れては成らないと思います。
今回のバーチャル座談会は、ブラジル側の実体験に基づく日本の皆さんが期待された発言が見られませんでしたが、【移民について語る!!】は、『私たちの40年!!』HPのメインテーマでありこのHPが継続する限り語り継いで行く話題です。これからも一つ一つ拾い集めて行く積りです。身近すぎて却って開き直っては、語り辛い話題だったようです。
発言者の柊さんからは、明治初期のメキシコ榎本移民に纏わる書き下ろし短編【日本人の血】を送って頂き、寄稿集に掲載させて頂きましたしカナダの笠原さんからも感想文を頂きました。別途寄稿集に掲載させて頂きます。ご協力有難う御座いました。
5月は、着伯41年記念、『私たちの40年!!』HP開設1周年記念としてこれまでの1年を振返りご支援頂いた皆さんより『HP開設1周年に寄せて!!』と題してご発言頂きたいと思います。
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