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ペルーからの報告=フジモリ 待望論はあるか(6)―(10)後編
我々ブラジル移民より9年先輩の1899年に始まったペルー移民の歴史は、平坦なものではなかったことが伺われますが、1国の元首としての大統領を生みだし10年後の現職大統領のままの日本への亡命と数奇の歴史と2006年の次期大統領選挙を前に復帰を願う待望論と目立ちたくない、そっと生きていきたいという多くの日系コロニア人、現地に住まないと味あえない屈折した気持ち等が伝わってくる後編(6)−(10)を掲載して置きます。復帰を願う待望論者と帰って来て欲しくない「2度目はありえない」と明言する否定論者、今後どのような動きがあるのか目を離せない隣国、ペルーの現状です。写真は、最終回に掲載されていたフジモリ大統領の礼服姿をお借りしました。


ペルーからの報告=フジモリ 待望論はあるか(6)=「フジモリイズムは永遠に」=選挙支援事務所 今年二月に開設
4月30日(水)
 リマ、セントロ。コロニアル調の建築物を多く残すこの地域は現在、雑多な雰囲気で道行く物売りや車の往来でにぎやかだ。
 かつて偉容を誇っていたであろう重厚な作りの立派な建物群はポスターなどが貼られ、黒くすすけている。
 治安の面でいうと複数の少年たちによる強盗事件が頻発している。最近も防犯カメラで写された犯罪現場がテレビ放映され、リマ市民に衝撃を与えた。
 そのセントロの一角にあるビル。二階の窓に貼られている横断幕には大きく、「DONDE ESTAN LAS PRUEBAS?(証拠はどこにある)」と書かれている。
 市民団体によるフジモリ支援事務所である。この事務所は今年二月二十六日に開設され、デモ行進や集会などを地道に行っている。
 事務所に同行してくれたのは、ペルー在住のフリージャーナリスト、三山喬氏。朝日新聞記者を務め、ペルー新報に勤務後、現在、フリーでジャーナリスト活動を行っている。
 三山氏から元フジモリ派議員のカルメン・ロサーダによる同事務所の開設経緯などの説明を聞きながら、歴史を感じさせる角の取れた階段を上る。
 対応してくれたのはホアン・ゴンザレス氏。彼が集会の行われる日程などを説明してくれている間に、事務所開設時には五百人が集まったという事務所内を見渡す。
 「平和を与えてくれてありがとう、フジモリ」「昨日、今日、フジモリイズム
は永遠に」などといったフジモリ賛美の言葉が書かれたポスター。
 壁には大きなフジモリの顔が描かれている。彼の家族を祭った祭壇のようなものもあり、宗教的な雰囲気さえ感じる。
 偶然にもその日の夜に集会が行われ、三山氏と共に、再び同事務所を訪れた。
 「ペルー、日本、心はひとつ!」約百人のフジモリ信奉者がちょうど気勢を上げていた。司会者はマイクをつかみ、「日本人の記者が取材に訪れた」と告げた。
 大きな拍手と共に数人が我々を取り囲み、白髪の婦人がジュースを持ってきてくれる。参加者たちは盛んにフジモリを称賛し、「日本人はアミーゴだ」と親愛の笑顔を見せる。
 集会のコーディネーターであるロベルト・メンドーサ氏が席を設けてくれ、「私たちはフジモリに感謝している」と話し始めた。
 今の政権の無能さやマスコミの報道姿勢など批判し、フジモリ政権時代がいかに素晴らしかったか、ペルーの発展にフジモリの帰国が急がれていることなどを滔々と述べた。
 周りの参加者たちはあいづちを打ったり、拍手で彼の発言に呼応する。 
 「三月三日の世論調査では、フジモリ支持は三五パーセントの結果がでている」と、メンドーサ氏はフジモリ支持者が多いことを強調する。 
 署名運動などの準備もしていたが、フジモリからメールで「まだその時期ではない」と連絡を受け、「現在、待機している状態」だという。
 事務所に対して、いやがらせなどは一切なく「そういうことがないこと自体、フジモリ支持者が多い証拠。二〇〇六年の時期大統領選には分かるよ」と満面の笑顔で答える。
 会員もまだ少なく、日系人の参加者はいないというが、「日系人も応援してくれるはずだ」と自信たっぷりに答えた。
 一時間も話したころ、三山氏の提案により、彼らに一つの頼み事をした。
 「活動拠点である街に連れていってもらえないか」というものだ。
 「もちろんだ。大歓迎する」と彼らは首を縦に振り。握手を求めてきた。
 翌日、二万家族が住むという大貧民街、パチャクテを訪れることになる。 (堀江剛史記者)

ペルーからの報告=フジモリ 待望論はあるか(7)=フジモリ政権の遺産=捨てられた街パチャクテ
5月1日(木)
 「フジモリはいつ帰ってくるの?」「日本に帰って伝えてくれよ、俺たちは待ってるって」
 道端で話している人々などに話しかけると、笑顔で言葉を投げかけてくる。
 筵で作られた家の群れはなだらかな丘陵を描く砂漠のはるか向こうまで続き、かすんで見える。まるで核戦争後に生き残った人類が不毛な地にしがみついているようにも見えるー。 
 パチャクテ。二〇〇二年二月にパチャクテ地区パイロット・プロジェクトとして近隣の貧困地域の住人に土地を無償提供する、というフジモリが行った誘致政策の産物である。
 当初は六千家族を対象に行われたが、現在では二万家族に膨れ上がり巨大なスラムと化している。
 十一月にフジモリが日本に亡命して以来、この土地は忘れられた存在になっているー。
 支持者集会の翌日、事務所前で拾ったタクシーは、港町カジャオを越え、砂漠地帯を突き抜け、一時間半ほど北上した。海岸沿いにある魚粉工場から流れる独特の匂いが鼻をつく。
 「日本人をわがパチャクテに招待できるなんて、光栄だよ」と同行してくれたゴンザレス氏は興奮した面持ちで「ほら、あれを見ろ」と前方を指さした。
 『スサーナ・ヒグチ』『ケンジ・フジモリ』の標識。フジモリ政権時代にパチャクテと同様に作られた町やプエブロ・ホベン(不法占拠居住地域が後に正式に認められた町)に冠されたもので、学校などもフジモリ・ファミリーの名前がついているものも多い。
 舗装された道路からひどい悪路をひた走ると、捨てられた町<pチャクテが見えてくる。
 我々を出迎えてくれたフリオと自己紹介した老人は「道や公園、図書館なども建設される予定だったんだ。でも今じゃこの有り様だ」と嘆く。
 フリオ老人がふと視線をやった方向に目を向けると給水車が走っていた。ほとんどの家(と呼べるならば、だが)電気だけはある、という状態だ。
 トレド大統領はテレビクルーと共に一回視察に来て「この地に大学を建設する」とコメントした後、礎石を置いた、という。
 「しかし、現政権のやったことといえば、『プロジェクト名を変えたこと』『フジモリの支援ポスターをはがすこと』『フジモリが建てた学校の校門の色を塗り替えたこと』『半年ほど前フジモリ支持者を四人逮捕したこと』それだけさ」
 現政権の復讐だー。「パチャクテはフジモリが行った誘致政策の代表的地域だったがために、捨て置かれている」と住民たちは憤り、そして嘆くー。
 支持者たちの集会の帰り、ある家の前で所在なげに立っていた髭面の男性に話しかけてみた。
 「調子? 良くないね。家族は五人だよ。カジャオの工場に仕事に行ってる。仕事があるだけましさ。フジモリ? さあ・・・それより見てくれよ。ここに住んで一年半でやっとこさ、家をコンクリートにしたんだ」 
パチャクテに灯がともり始めた頃、待たせてあったタクシーでリマに向かった。始終無言であった運転手に、フジモリ支持者のことを尋ねてみた。
 「あいつらは自分たちで何をやろうともせず、政府に頼ろうとしているだけじゃないか」
 長い間待たされて気分が悪かったのも手伝ったのか、運転手は堰を切ったようにフジモリやその支持者たちの批判を始めた。
それはリマに着くまで途切れることがなかったー。 (堀江剛史記者)


ペルーからの報告=フジモリ 待望論はあるか(8)=亡命後 再燃する日系差別=「帰ってくるな」と語る2世
5月3日(土)
「この国には差別が厳然としてある。残念ながら、それは日本人、日系人に向けられることも多い」
 ある日系旅行社の代表ははっきりとした口調で話した。 
 ある意味で白人支配階級対有色人種の戦いでもあったともいえる九〇年の大統領決戦投票で、それは顕著に表れている。
 「日系人の入店を拒否する高級レストランや、順番を後回しにするような露骨ないやがらせをするゴルフクラブなどもあった」と、前出の代表は証言する。
 同時期に現地ルポを行った笹井宏次郎サンパウロ新聞社元デスクは「バルガス・リョサの選挙地盤地域の放送局であるミラフローレス放送が『フジモリが当選したら、日系人は一人ずつ殺される』などという発言を流したこともあった」と、連載記事の中で報告している。
 乱暴にいってしまえば、ペルーは白人を支配階級に置き、その下にチョーロと呼ばれる混血層、そして最下層には数千年の太古から、この地の主人公であったインディオたちー、というヒエラルキーが存在する。
 建設会社、フジタ組の深沢アウグスト社長は、「日系人はかつてその構造の外側にいた。しかし現在、経済的、社会的にも地位は低いものではない」と説明し、現在の様々な日系人攻撃を「我々に対する嫉妬ですよ」と冷笑する。
 ペルー在住のフリージャーナリストである三山喬氏は「暴力事件などの話はまだ聞かないが、『日本に帰れ』『あっちへ行け』などという暴言を吐かれたという日系人はフジモリ亡命当時多くいた」と証言する。
 同氏によれば、日本人、日系人を揶揄するような発言を垂れ流しするようなラジオ局も多いという。
 フジモリ亡命後には、あるラジオ局の放送で、日系人への悪意に満ちたある聴取者の意見がラジオの放送で流されている。
 「フジモリの引き渡し早期実現のために、(一九四〇年の暴動のような)反日運動を起こすべきだ」
 当時、日系人協会はフジモリ反対派のデモ隊に会館を取り囲まれ「フジモリを連れて来い」「金を返せ」などいうシュプレヒコールの最中に置かれていた。
 状況を重くみた日系人協会は、有力紙「エル・コメルシオ」(〇〇年十二月二十四日付)に「ペルーのためにー平和と統一」という意見広告を出した。 
 広告の内容を要約すると「日系人協会は政治団体ではなく、フジモリ問題に関して、日系人は無関係であり、フジモリが日本で辞職したことは認めがたい」というものであった。
 この意見広告を出すにあたっては、秘密裏に行われた日系人協会の幹部会議で決定されたという。
 地元メディアの取材に対しての想定問答集まで用意されたというから、幹部たちの苦悩はいかほどのものであったろうか。
 九〇年のフジモリ政権誕生時に日系人協会の会長を務めた池宮城アウグスト氏(写真上)に現在の状況について聞くと「ひどいものですよ・・」といって苦笑いするのみであった。
 この広告が掲載されてから、直接日系人協会に対してのデモなどはなくなったという。
 しかし、日本大使館には今も虚偽の政治団体やテログループの名を語った脅迫電話が入っているのも事実だ。フジモリ亡命後に大使館は、在留邦人を対象にした安全対策連絡協議会を開き、政治集会には立ち寄らないよう注意を喚起している。
 取材時に日系人協会の会長であった土亀エルネスト氏(現在今野ビクトル会長=写真下)にフジモリ問題についての意見を聞くと「政治の話はちょっと・・・」と事実上の取材拒否を受けた。
 協会側としては、かなり慎重な立場を取らざるを得ないのが現在の状況といえるのだろう。 
 ある二世は語る。「九〇年の時、こうなる状況をみんな恐れて、フジモリの出馬に反対したんだ。次期選挙への出馬? とんでもない。もう帰って来ないでくれといいたいね」  
(堀江剛史記者)

ペルーからの報告=フジモリ 待望論はあるか(9)=フジモリが分らない―=戸惑いながら弁護する声も
5月6日(火)
今年三月三日付の『エル・コメルシオ』紙の一面をフジモリが飾った。彼が紙面を飾るのは珍しいことではないが、いつもの批判記事とは少々雰囲気が違っていた。
 フジモリがゲスト出演した日本のバラエティー番組を取り上げたもので、冷徹なイメージだった元大統領はパーマをかけ、増えた顔の皺はいささか生活の疲れを感じさせる。
 日本大使公邸事件の経緯を話すフジモリ前大統領。感心する共演者。最後には「常に強さを持って、前進することが大切」と視聴者に向かってメッセージを送った、と記事は締めくくっている。
 「ガッカリした」。多くの日系人が漏らした感想である。   
 「フジモリは何を考えているのか分からない。まるでスター気取りじゃないかー」とペルー新報スペイン語版元編集長の比嘉リカルド氏は憤りをあらわにする。
 約七年間、国会議員を務めた経験を持つ、松田サムエル氏(二世=写真)は、苦笑しながら話す。「写真を修正したのかと思った」
 このニュースは密かにフジモリを支持しているペルー国民を幻滅させ、軽率≠ネ前大統領が多くの失笑を買ったことは日系人の肩身をさらに狭くさせた。
 現在、国内はおろか国際的批判の矢面に立たされているフジモリは我々日系人を見捨て、日本でテレビに出て笑っているー。
 フジモリは『日本から』という個人のホームページに論文や意見を載せているがその多くが現在のトレド政権の批判であったり、自分の政権中の功績などに終始している。
 「メールは当局の検閲など不可能だ。なのに何故フジモリは説明しない?」比嘉氏を始め、誰もが口にする疑問である。
 フジモリは何を考えているんだ、わけが分からないー。
 フジモリの印象を多くの日系人は「よく分からない人」と表現する。
 日系人社会とつきあいが少なかったフジモリの素顔を知る人間と今回の取材で出会うことはできなかった。
 九一年に厚生大臣を務めた山本ビクトル氏はフジモリの甥や姪たちの主治医であった。その家族とつきあいもあったが、「彼は自分をださない人だったし、よく分からない」と首をかしげる。 
 フジモリの日系社会に対しての感情も誰にも分からない。松田氏も「彼とは、日系社会のことについて話したことはない。日系人を信頼はしていたようだけどもね」
 あるインタビューでフジモリは語っている。「自分は友人に特別のはからいを要求しないし、友人にもそんな配慮はしません」
 「フジモリは日系社会に何の恩恵ももたらさなかった」と非難するある一世に出会った。
 「日系の劇場に使う椅子を日本からの輸入した際、文化事業扱いにしてくれなかったため、多額の税金をかけられた」「日系団体に何の援助もしてくれなかった」などだ。
 この意見に対しては多くの二世がフジモリを弁護する。
 「そんなはからいをフジモリが取っていたら、状況は今程度のもので済んではいない」。
 日本のNGO団体が、「フジモリをペルーで裁判にかけさせるべきだ」とフジモリ帰国運動を起こしていることについても、多くの二世は否定的な立場を取っている。
 「日本人は何も分かっていない。この国で公正な裁判なんてありえないし、裁判はおろか、帰国したら、確実に殺される」
 そして、取材した全ての二世がはっきりとした口調で断言する。
「フジモリは金に関する汚職だけは、絶対にしていない」 
それは、そう信じることによって、日系人の築き上げてきた「信用」という砦を守っているようでもあった。  (堀江剛史記者)

ペルーからの報告=フジモリ 待望論はあるか(終)=不可能に近い復帰だが=なんでも起こり得る国
5月7日(水)
 今回の取材に応じてくれた全ての人に「もし、〇六年にフジモリが大統領選に出馬したら、投票しますか?」という問いを投げかけてみた。
 「する」「しない」と即答した人は、以外に少なかったというのが感想だ。
 「対立候補による」「まず疑惑を晴らしてからだ」などの条件をつける人、「分からない」と明言を避ける人もいる。
 フジモリは以前、毎日新聞のインタビューの中で、〇六年の大統領選挙出馬への意志があることを明らかにし、「(不正蓄財疑惑で九二年に亡命した)アラン・ガルシア元大統領も最近帰国し、政治活動を始めている。私にも可能性は十分ある」と発言している。事実、ガルシア元大統領が〇一年の選挙で、決選投票まで残ったのも記憶に新しい。   
 松田サムエル氏は「今回の様々な問題とは別に、フジモリの功績は正当に評価されるべきだ」と話しつつ、フジモリ復帰に対しては「二度目はない」と見ている。
 松田氏は個人的な意見だがー、と前置きしながら話す。「もうペルーの政治には期待しない。誰にも、もちろんフジモリにもだ。ペシミストかも知れないけどね」
 多くの日系人は、フジモリの辞め方にはこだわっている。それは日本的イメージを政治活動に利用し、アピールしてきたフジモリが最終的には日系人の価値を貶めた、と考えているからではないか。
 「フジモリは日本人、日系人が百年かけて培ってきた『誠実』『正直』といったイメージをぶち壊した」という声も聞いた。
 さらに二重国籍問題についても、日系人が抱く感情は複雑だ。いやしくも、ペルーの大統領であった人間が亡命し、「私は日本人です」はないだろうー。
 丸井ヘラルド氏は「次期選挙に出馬するうんぬんの前に、彼には何があったのか全てを説明する義務がある」と話す。それは取材に協力してくれた日系人たちに共通する意見でもあり、ペルー国民の声ともいえる。
 フジモリが帰国することに関しては「また様々な問題が起きるかも知れない」という理由で否定的な見方をする人が多いのもまた、その歴史から見て当然といえるだろう。
 ペルー民衆の中にフジモリ待望論は存在する。しかし、彼の大統領復帰は、政治的基盤のないことや様々な疑惑に対して、フジモリ自身が説明責任を果たしていないなどの状況から見ても、非常に難しいといえる。
 そして、日系人の心情は単純に推し量れないだけに複雑だ。取材中、ある二世が笑いながら語った言葉が印象に残った。
 「今の状況では、復帰は不可能に近いといっていいだろうね。しかし、ペルーはなんでも起こり得る国でもあるんだ」
     ■
 今回の連載に関して、いくつかの点を付け加えておく。
 フジモリに対する様々な疑惑などについては現在、はっきりとした証拠は見つかっていないが、そのことがフジモリの潔白を証明する材料にはなり得ない。
 そして、現在ペルーで展開されている、マスコミの反フジモリ一色のような論調を受け入れる一般市民は多い。
 連載八回目の日系社会に対する様々な攻撃などは、フジモリ亡命直後に集中して起きたことで、現在はそのような状況にはないことを確認しておきたい。
 従って日本人、日系人がペルー国を旅行したりする際に、フジモリ問題を理由として、不愉快な目にあうことも皆無に近い状況だ。
 なお、現地取材に際しては、三山喬氏に協力いただいた。 (おわり・敬称略=堀江剛史記者)



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