「私たちの40年!!」のHPに学ぶこと
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私たちのあるぜんちな丸第12次航より1年早い1961年に始まったブラジル工業者の集まりであるブラジル工業移住者協会は、吉田文彦さんが管理運営している「なかま」というHPを持っておられます。今回その「なかま」のメンバーである栗田 勝利さんから掲示板に投稿頂きました。是非寄稿集の一つに掲載して残して置きたいとの願いから栗田さんにお願いして「なかま」で撮った写真(2003年度の新年会)を送って頂き掲載させて頂く事にしました。時を同じくして「なかま」の管理運営をしておられる吉田文彦さんからも画像掲示板にマリリン・モンローの写真を付けてその撮影舞台となったジャスパー国立公園を訪問された時の事を書き込んで呉れておりますのでこれも一緒に「なかま」からの寄稿として掲載して置きます。写真の前列左端が栗田さんでその右隣のアンダシャツ姿が吉田さんです。 |
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「私たちの40年!!」のHPを開く度に、和田さんのこの大作の編集と管理に賭ける底知れぬ情熱と豊富な情報把握で益々精力的な活躍ぶりに感激を覚える一人であります。私が和田さんの此のHPを知ったのは、ブラジル工業移住者協会の「なかま」のHP管理者である吉田文彦さんの掲示板を介してであり、色々とご指導を願っておりますが、何分にもインターネットに対する知識が未熟な為につい御無沙汰致して居ります。最近のITブームに関する私事の思考の一編を記して見たいと思います。
私は工業移住者の一人として1964年にアフリカ丸で着伯しており、初期はよく勤務先を換えたものです。その後は只働く事(金を稼ぐ事)のみに没中してか時の過ぎるのも忘れ気が付いた時には60才を過ぎて「月給取り」一筋に30年近くも勤続した米国系の自動車会社を5年前に定年退職した結末であった。
パソコンが会社に導入さたのは大分以前からの事であるが、我々の部署にまで配置されたのは1985年の頃であり、初期は限られた社員だけで使用されており「ロット」のソフトを使っていた様でした。1990年の頃になると会社の経営も変り、仕事の管理は全てコンピューター化し驚く程の進歩で「Windows」のソフトに変り、操作も簡易になったものの、中高年に達している我々にはどうしても苦手な道具であった。私は仕事に最小限に必要とされる「Excel」と「Word」をどうにか操作が出来る程度でしたが、調査や報告書などの計算的な仕事は大変能率的に処理出来た事は確かでした。1998年の退社する頃には会社の組織と経営が一変し、社内間の情報や連絡は全ての国外に分布する工場間とのネットワーク組織で管理されており、各社員は独自で直接にメッセージを送信し常に受信の有無を確かめる必要があった。(タイピスト兼秘書等をする職員が不要となった訳である)。
働く事の一つの義務から解放された現在、仕事上の責任の重圧も取り去られると、私の日常生活が心身共にすこぶる快感になり、色々と外部からの刺激を覚える事で新たな人生の道が芽生え、小さな事にかけても再挑戦する精気が出て来た感じがします。
2000年に訪日した際には「KanjiKit」のソフトを買って来て、ブラジル市販の使用中のパソコンに接続し、ワープロ同様に日本語を書く事を覚えましたが、物事を母国語の文章で表現する事の難しさを改めて痛感しました。地方の一世仲間との集会では、同胞である吉田さんと逢う度に「インターネット」に関する話題が出て、彼の豊富な知識と経験に刺激され、私自身の劣等感を解消する為にも先ずホームページを開いて調査するコツをどうにか覚えました。又戸惑いながらもE.メールを打つ事も出来る様になったので今友人と交信を始めて訓練中であります。然し此の鈍感な頭脳では未だ未だ和田さんが構成するメンバー には合流出来そうもありませんので宜しくお願いします。
話題がそれますが、2年程前から私の先祖の歴史の一端を知りたい為に、父方と母方の代々からの戸籍謄本の原本のコピーを入手して、原本の筆跡を判読しつつ分析した結果、色々な語られなかった詳細な戸籍関係が判明しました。早速パソコンを利用して先祖の系列を年代順に整理.比較しつつ私のイトコ関係までを日本語で家系図を作成する事が出来たので、日本に在住の兄姉弟に拡大コピーにして配布しました。母方の只一人健在の叔父(1918年生れ)からも喜びの返事を受け取りました。然し先祖からの家系を年代順に系図にしただけでは余りに空洞的であると共に、私の親族の歴史を語る何一つの記録も無く、只ごく僅かに語り継がれて来た昔話しも序序に薄れて忘れ去られて行く事は大変寂しい事です。
先祖の戸籍謄本を分析して見ると又面白い事が見い出されます。1897年(明治30年)生れの私の父(1951年死亡)は戸籍上分家するまでは本家の家督相続人の戸主の戸籍に他の親族と共に合併.混同して登録されており、複雑な家族構成であった事も判明した。私の父の祖父は1826年(文政9年)生れであり、父の父(私の祖父)は1858年(安政5年)生れで1920年(大正9年)に62才で死亡していることからして当時としては長寿命であった様です。父は五男で、1878年生れの彼の兄(即ち私の叔父で1951年に父より2週間後に死亡)とは19才違いであり、半世紀余前の彼等の晩年を思い出す事が出来ます。
又177年前からの先祖の戸籍関係をじっと見つめていますと、今度は私自身のブラジルで生き続けて居る事実を記録的に立証して置かなければ、私の歴史は何一つ永久に親族に語られる事無く自然消滅して行く事の無念さを感じてなりません。この様な思いから、目下自分史に匹敵する過去の記録.経験をパソコンで執筆し始め、特に日本の甥や姪に伝えておきたいと新たに挑戦している所です。近い将来にはインターネット化の発展に便上して印刷物以外の方法で彼等に発信する事が出来ればと望みをかけています。
私の此の小さな挑戦も貴殿の「私たちの40年!!」のホームページから学ぶ数々の情報交流の重要性に刺激されたからに外ありません。貴殿の益々のご健闘を祈ります。
2003年7月21日 ピンダモニャンガバ 市 栗田 勝利
50年後の「帰らざる河」
ジャスパー市はジャスパー国立公園の真っ只中にある小さい街で高層建築はない。だから街のどこにいても周囲の山々が見える。町の目抜き通りを歩いていると写真店のショウウインドウにマリリン・モンローの白黒写真が飾ってある。丁度ヴィデオのテープがなくなっていたので、その写真屋さんで買うことにした。なぜ今ごろモンローなのかと思いながら中に入ると店の一番高い棚にリコー2眼フレックスが飾ってあった。私は懐かしさのあまり思わず手に取りたいという衝動に駆られた。子供の頃欲しかったカメラである。そのカメラの素晴らしさに憧れリコーへ入ったのだ。そこのご主人が若い頃愛用したとのこと。あの当時では解像力が素晴らしいカメラだったと言った。売ってくれないかという言葉が喉まで出たがやめた。おそらくnot for saleといわれるに違いないと思ったからだ。店を出るときにどうしてマリリン・モンローの写真をショウウインドーに飾っているのか訊くと、思いがけない言葉が帰ってきた。1952年マリリン・モンローは映画「帰らざる河」のロケのためジャスパー市に来たというのだ。この映画はアタバスタ川、サーモン川、ボー川で撮影されたというのだ。このため観光客がモンローのブロマイドをよく買うのだそうだ。モンローはロケ中に踵を挫きジャスパーの病院に一週間入院し、ジョー・ディマジオが見舞いに来たという。
映画の中に出てくるカースン・シティーはネヴァダ州に実在するので、私は「帰らざる河」は米国で撮影されたものばかりだとおもっていた。私はとにかく今来た道をアタバスカ川まで戻り河畔で車をとめた。その川は両側の山並みの麓の樹海の中を流れていた。夕日に照らされた河畔は映画と同じだとおもった。モンローが夕日で赤く流れる川面をみながら河畔に腰掛けているいるシーンを思い出した。西部劇では最初の総天然色映画だったと記憶している。アメリカ映画に出てくるものが何でも素晴らしいものに見えた時代にその映画の立体音響効果と共にスクリーンに映し出されたカナディアン・ロッキーの雄大な景色はまだ子供だった私に強烈な印象を与えた。その頃から雄大な景色に憧れを抱くようになった。川はゆったり流れる所もあれば、白くあわだつ急流もあった。˝Sometimes , it's peaceful and sometimes wild and free.”主題歌の通りだとおもった。川面を見ているとロバート・ミッチャムとマリリン・モンローが筏に乗って川を下るシーンが目に浮かぶようだった。モンローが歌う主題歌の“No return, no return...”のささやきが聞こえてくるようだった。
その雄大な景色は今確かに私の目の前にある。夢ではないのだと思った。
吉田文彦 7月23日(水)
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