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移住坂 神戸と海外移住(10)=渡航費は大人200円28年=乗船前夜、慰安の映画会
移住坂 神戸と海外移住 第三部として(10)から最終回(14)までを掲載します。1928年の国立神戸移民収容所開設当時の渡航費は大人200円だったとの事、我々は10万2千円の国の渡航費の貸付を受けて移住して来たのですが、最終的にはこの渡航費の貸付は支払い免状になりましたが私は、2年で大学を卒業するために一時帰国したためその時には一部渡航費を返却することが義務付けられており帰国手続きのひとつとしていくらかは覚えておりませんが返却しました。
国立移民収容所は、神戸移住教養所、神戸移住斡旋所、神戸移住センターとそれぞれの時代に沿って名前を変えて1971年のその使命を終えて閉鎖されましたが、その後も阪神大震災にも耐え忍びその英姿を留め、5年後の2008年には、ブラジル移民100周年記念事業の一つして国立海外日系人会館として海外に住む日系人の故郷として日本に於ける永遠の憩と集合の場所に生まれ変わろうとしています。移住坂の整備、移住者乗船記念碑とともにこの海外日系人会館の完成に向けて総力を集結して行きたいと思います。
写真は、移住者乗船記念碑「希望の船出」です。


移住坂 神戸と海外移住(10)=渡航費は大人200円28年=乗船前夜、慰安の映画会

7月2日(水)
 神戸又新日報の収容所レポートは続く。六日目の午後、海外興業の社員が収容所に来て渡航費の精算をした。同社の手配で入所前に移民宿に滞在していた移住者の宿代、雑費が細かく算盤ではじかれて家長に請求される。
 渡航費は、移住申し込み時支払済みの保証金五円を含めて大人二百円、十二歳以下七歳まで百円、七歳以下三歳まで五十円、三歳以下無料である。
 移民会社は、切符の手配など一切の手続きを代行する。既に全員の素行証明書、健康証明、写真、旅券をそろえて、ブラジル領事館に手続きを申請してあったので、査証も無事受けた。「さあこれでいけるぞ」と一同おおいに意気込む。
 夜は慰安の映画会である。「移民が神戸を出発する日」という映画では、移住者は、映画の主人公と、出発を一〜二日後に控えた自分の姿を重ね合わせ、拍手喝采を送った。次の「輸送船サントス港入港」では、ブラジルの収容所や食堂が写ると「こっちの方がええな」などささやく声が聞こえる。三番目の「コーヒー園の生活状態」では、コーヒーの実をちぎって袋に詰める作業を見て「血を沸かせ肉を躍らせているやうに激しい拍手が勃発」した。四番目の「独立の生活」では「悠長な日常生活を眺め平和な楽園の朝にあこがれをはせる」。最後に上映された「車夫の子」を主人公とした映画「運動会の日」では、「貧と涙と愛」のストーリーに「皆一様に涙をしぼった」。
 出発を明日に控えた六日目、移住者は乗船準備に忙しい。「収容所前にズラリと店を並べた靴屋さんも『今日は仕事になるよ』と、うららかな春光を浴びて針を運ばせながら微笑んだ」。家長会議で船室の割り当ても決まり、後は時のくるのを待つばかり。
 午後、東京・上智大学教授で「ローマ法王特派、移民保護代表」のへルマン・ホイフェルス師が「ブラジルの宗教について」一時間の講演をした。移住者は話の中身よりも「鴻毛碧眼」のヘルマン氏が流暢な日本語を話したことに驚いた。西洋人の話は英語に決まっていると思い込んでいたからだ。
 中嶋講師の最後の講話「ブラジルにおける本邦児童の教育」は移住者をおおいに喜ばせた。「『ブラジルは、国際私法による属地主義である。すなわちブラジルで生まれた子供は皆ブラジル国籍に入る。したがってどんな出世もできるのだ。ドイツやイタリーの移民のうちには既に上院、下院議員に当選しているものも少なくない。諸君も子弟に完全なるブラジル式教育を施し、進んでブラジルの学校に学び、大いに我が国威を発揚されんことを祈る』と結ぶや、彼らの目は希望と光明に燃えた」。
 あすは出発日、朝が早いので午後八時半に点呼を取ったところ二名の姿が見えない。十二時を過ぎても帰ってこない。結局、この二人「十九男と二十四女の 恋の道行きで大団円 出発間際に紛れ込んで涼しい顔」(神戸又新日報一九二八年三月十九日)、と派手に新聞の見出しを飾る羽目になった。

移住坂 神戸と海外移住(11)=収容所第1期生の旅立ち=2キロを700人の隊列

7月3日(木)
 一九二八年三月十七日、ついに出発の日がきた。講話と予防注射に明け暮れた七日間だった。
 雨の中を到着した初日の身体検査、二日目の第一回チフス予防接種、三日目は午前の講習(一般的心得、外国における邦人の心得、伯国事情、歴史、社会事情、国際性及農業並びに移民事情)、午後ブラジル語及び衛生講話、四日目は種痘と講習、女子裁縫、五日目は代表者会議と荷物整理、六日目は第二回チフス予防注射、渡航費精算、七日目が家長会議、講習、ブラジル語。慣れないことばかりの連続であった。
 午前十時、移住者は収容所前の広場に整列した。この広場、当時は広かったが、後に前面の道路拡幅で削られ、現在はとても七百八十一人は整列できない。子供たちから「注射をする怖いおじさん」と恐れられた長峰医官が激励の挨拶をした。移住者は挨拶の中身よりも「これからは痛い注射とはおさらばだ」とほっとする。全員で万歳三唱し、収容所を後にした。
 「異様な洋服姿で 長蛇の列を作った移民たち 珈琲かほるブラヂルに新天地を求め 賑やかな鹿島立ち」(神戸又新日報 昭和三年三月十九日号見出し)。
 「城ケ口からアノ坂道を電車道へ下った。行李をかついだおやぢ、サイダ−をひっさげる若者、赤ン坊を背負った女房などの洋装ぶりは正に異様のいでたちである。それが延々として長蛇の列を作ったのだから街の人々の驚いたのも無理はない」(神戸又新日報(一九二八年三月十九日 原文のまま、以下同じ)。
 幅員六メートル足らずの城ケ口筋、穴門筋をまっすぐ下って、元町通りと南京街を右に、左手の前年開業したばかりの大丸百貨店と旧居留地の立派な建物に目を見張りながら、鯉川筋を抜け海岸通を経て、埠頭まで徒歩約三十分強の行程だ。
 神戸の町の山手から埠頭まで、二キロの道を荷物をかついで延々と下る七百人の隊列は、移住者になれている神戸市民にとっても始めてみる光景だった。
 というのは、移民収容所ができる前は、移住者は、海岸通、元町通りなども十数軒の移民宿に分宿しており、移民宿から埠頭までの距離も近かったので、乗船日に埠頭へ移動してもさほど目立たない。山手の収容所からこれだけの数の移住者がまとまって、神戸の中心部を隊列を組んで港まで下っていったのは初めてのことだので、このような記事になったのだろう。
 埠頭では大阪商船の移民船はわい丸(一万トン、輸送人員七百人)が停泊していた。「南米移民歓迎」のアーチが手すりに張られている。この船でインド洋、大西洋の荒波を越えてブラジルへ行くのだ。威圧感を与える大きな鉄の船体が頼もしげに見えた。午後四時、出航のどらが鳴る。「赤青黄のデコレーションも美はしく(中略)色とりどりのテープの交錯もいつもより多く、のどかな陽光にヒラヒラはためいた」。
 見送り人の中に神戸取引所常務理事の中村寅吉氏がいた。「『お江戸(中略)で鳴らした谷崎家(谷崎潤一郎氏の親族)が関東大震災でやられて南米に移民したので、僕は谷崎氏と取引の深かった関係からそれ以来ずっと移民諸君とは馴染を続けているのだ』と氏は語った。かくて移民諸君は氏から寄贈された『日本忘れぬ』の手ぬぐいを打ち振りつつ船出した」。歴史に残る、神戸収容所第一期生の旅立ちだ。
 忘れられない船だ。

移住坂 神戸と海外移住(12)=たびたび変った名称=収容所、歴史とともに

7月4日(金)
 「神戸移民収容所」(内務省所管)は、昭和三(一九二八)年三月の開業以来、七十余年にわたり、神戸の高台から町と港を見つめてきた。開業時、三千三百平方メートルの敷地に五階建の本館(延床三千五百六十四平方メートル)が建つのみであったが、移住者の激増で手狭になり、二年後の昭和五年三月には早くも増築を余儀なくされている。現在は、当時のままの姿の本館と、のちに増築された分館二棟、計三棟(延床五千九十四平方メートル)が四千平方メートルの敷地に建っている。
 神戸の移民研究家・黒田公男氏によれば、昭和六(一九三一)年、収容所は新設された拓務省へ移管され、「捕虜収容所を連想させる」として、昭和七年に「神戸移住教養所」と改称された。
 第二次大戦勃発により、移住事業は中断されることとなり、昭和十六(一九四一)年六月二十二日神戸出港のぶゑのすあいれす丸が戦前最後の移民船となった。大戦中、この建物は「大東亜要員練成所」として、東南アジアの日本軍占領地へ派遣する軍属の短期養成所となり、戦後は、戦災で家を失った県職員の仮宿舎、旧満州からの引揚者の仮宿舎、さらには神港病院などにも使用された。
 昭和二十七(一九五二)年、移住事業再開に伴い、外務省所管「神戸移住あっせん所」として生まれ変わり、その年の十二月二十八日神戸出港の戦後第一船・さんとす丸で再び移住者を海外へ送り出した。昭和三十九(一九六四)年には「神戸移住センター」と改称され、昭和四十二年七月の豪雨災害の際には付近住民の避難場所に使用されることもあった。昭和四十六(一九七一)年五月三十一日、移住者の減少により、移住センターはその使命を終えた。
 移住センター周辺には、かつて移住者相手の商店が軒を連ね、衣料品、鍋、釜、ドラムカン、石油ランプなどを売っていた。センター閉鎖後も、「移住者の店」、「渡航洋品店」などの看板をつけた建物が長い間残っていたが、阪神大震災でそれもすべて消滅してしまった。
 昭和四十七(一九七二)年四月、神戸市が土地、建物を買取り「市立高等看護学院」、「神戸市医師会准看護婦学校」、「看護婦宿舎諏訪山寮」などに使用したが、これも平成二(一九九〇)年には閉鎖された。平成七(一九九五)年七月には、この建物は阪神大震災で損壊した神戸海洋気象台の仮庁舎となったが、平成十一年九月移転に伴い閉鎖された。わが国移住史に残る貴重なこの建物、移住の歴史を語るのみならず、神戸を襲った戦災、水害、震災等の災害の歴史も刻んでいる建物でもある。
 広島県のハワイ移住者八百名が日本郵船・和歌の浦丸で神戸出航ハワイへ、熊本県のハワイ移住者三十四名が安治川丸で神戸に着き、新潟丸に乗り換えハワイへなど、明治以来、神戸はハワイ移住でも海外移住基地としても重要な役割を果たしてきたのである。

移住坂 神戸と海外移住(13)=01年乗船記念碑が完成=留学生、就労者ら見学に

7月5日(土)
 全世界二百五十万人の日系人代表が一堂に会する国際会議「海外日系人大会」が、毎年一回、東京で開催される。海外日系人と祖国日本の連帯を図り、日系人が直面する諸問題を議論するこの大会も、一世が老齢化し、三世、四世など日本語が不自由な世代の参加者が増加したため、昨年から、会議を日本語だけではなく、英語、スペイン語、ポルトガル語で行うようになった。
 二〇〇一年の第四十二回海外日系人大会は、十月二十三日から二十五日まで開催された。皇族もこの大会を重視しておられて、一九九九年大会には天皇皇后両陛下が臨席された。二〇〇〇年大会は紀宮殿下、二〇〇一年大会は常陸宮殿下ご夫妻が臨席され、海外日系人をねぎらわれた。
 二〇〇一年大会は、大会終了後、同年神戸メリケンパークに建立された「神戸港移民船乗船記念碑」を訪ねるツアーが催された。
 二〇〇〇年の大会のハイライトは、海外から参加した日系婦人達が、紀宮殿下に花束を贈呈し、祖国への思いを述べる場面であった。二十四歳のときブラジルに移住した岩手県出身の小原彩さん(当時七十九歳)は、「今回の訪日が最後になるかもしれない。日本に三週間滞在する予定で、その間、岩手へ行き、兄の墓参りをして、その後、神戸に行って、日本を立つ前に滞在した神戸の移民収容所を見るのを楽しみにしている」と挨拶し、筆者をいたく感激させた。
 なにしろ、八十歳近い老婦人が、旧神戸移民収容所を再訪するためだけに、わざわざ神戸に来るのだ。海外日系人の心のふるさととなっているこの建物を、わが国移住史の生き証人として、また、神戸に熱い思いを寄せるこの人たちのためにも、後世に残さなければならない。
 アーサー・ヘイリーの小説「ルーツ」は、アフリカから奴隷としてアメリカに連れてこられたアフリカ系アメリカ人の子孫が、自らのアイデンティティを求めて、アフリカまで旅して苦難の末ルーツを探し出す、という感動的なストーリーで、テレビ映画化され人気を博したので、見た方も多いと思う。かつて、多くの移住者を新大陸に送り出したアイルランドには、いま、アメリカ、オーストラリアなどから、移住者の子孫によるルーツ探しの訪問者が多く、その人たちのために「ルーツ探しの代行業」もあるという。
 名前、出国日、移民船名、役所、教会の記録などをもとに、ルーツを探すようだ。ちなみに、アイルランド、スコットランド人に多いオコーナー、マクドナルドなど、名前の前にO'やMacがつく名前の人が多いが、O'、Macは「〜さんの息子」という意味だ。
 ブラジルの邦字紙、サンパウロ新聞社とニッケイ新聞社が、二〇〇一年四月に、神戸港移民船乗船記念碑完成とタイミングをあわせて、共同企画で、サンパウロ、ベレン、ロンドリーナの三都市で、写真展「20世紀の残像〜戦後移住者船出の瞬間〜この中にあなたはいませんか」を実施した。展示された写真は、神戸移住センター前で写真館を営んでいた飯沼正秋氏(故人)の遺族が提供したもので、その写真をもとに「尋ね人」を実施したところ、一千百人が来場し、移住者が写っている写真百二十四枚のうち、三十八枚の写真の移住者が特定された。
 メリケンパークの「神戸港移民船乗船記念碑」は、祖国日本を象徴する記念碑として、世界中二百五十万人の海外日系人が熱い視線を寄せている。記念碑を見るために神戸にくる日系留学生、就労者も多い。いつの日か、この神戸で、旧海外移住センターで、世界中の日系人が集う「海外日系人大会」が開催されることを願っている。

移住坂 神戸と海外移住(終)=旧移民収容所を活用=海外日系人会館建設へ

7月8日(火)
 神戸で今進めている海外移住者顕彰事業は「神戸港移民船乗船記念碑」、「移住坂」、「海外日系人会館」の三事業(「神戸移住三点セット」)。神戸のまちを上げて、広報、啓発事業を実施し、海外日系人と祖国日本を結びつけるための町としたい。
 その最初の事業、移民船乗船記念碑が、二〇〇一年四月、メリケンパークに完成し、続いて、かつて、移住者が埠頭の移民船に徒歩でむかった歴史的坂道「移住坂」の整備が、神戸市の手で進められている。
 トアロードのひとつ西のこの坂道、諏訪山山麓の旧国立移民収容所から、城が口筋、鯉川筋、穴門筋をまっすぐ一気に港へと下る。神戸の海外移住の歴史を刻むこの坂道は、石川達三『蒼氓』にも登場している、世界に通じる坂道だ。
 移住坂の中間点、JR元町駅東南口広場には、平成十三(二〇〇一)年十二月、「移住者が歩いた道」モニュメントが建てられ、ブラジルの木イッペーが植えられた。ここに建設された交番も、ブラジルの教会をイメージしたデザインとなった。
 今後、移住坂には、神戸の移住の歴史を紹介する案内板、海外移住者が祖国への思いを寄せた句碑などが整備され、国際都市神戸の歴史を象徴する坂道となり、山手から港まで真っ直ぐ下る、新しい観光ルートにもなるだろう。
 次の目標は、いよいよ、「海外日系人会館」だ。旧移民収容所を活用し、世界中の日系人の祖国・日本の拠点となる会館とすることをめざしている。目標年次は二〇〇八年、「第一回ブラジル移民船・笠戸丸神戸出航百年」という節目の年である。乗船記念碑の完成で、世界中の日系人の目が神戸に集まっている。記念碑建立運動を通じて培った海外日系人との人脈・連帯感もあり、外務省も注目している。地元の力を、次の目標・海外日系人会館の実現に向けて結集し、国に実現を働きかけていきたい。
(おわり)



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