あるぜんちな丸調理員、宮路 伸佳さんよりの寄稿文。
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あるぜんちな丸第12次航が初航海で当時23歳の新進気鋭の調理員として私たちと同じ船に乗りクーラの無い40度の船室での苦行?を共にされた、現在神戸市にお住まいの宮路さんから貴重な写真と共に(別途掲載)次のようなお便りを頂きましたのでご紹介しておきます。写真は、あるぜんちな丸の神戸出航風景です。 |
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私達の40年 編集委員会連絡事務所
代表 和田好司様
神戸市須磨区板宿町3−10−8
第12次航あるぜんちな丸
乗組員 宮路伸佳
あるぜんちな丸第十二次航回顧録
私達の40年発刊、おめでとうございます。
一言に40年と申し上げることは簡単ですが、移住者全員が幸せに又成功されて居られるとは思われません。
途中志半ばで挫折し帰国された人、苦難の日々を送り亡くなられた方々、其の心中、
お察し申し上げます。思い起せば赤道直下のアマゾン川河口ベレンで下船された幾家族、
小さなハシケに乗り換え1ヶ月近くも費やし奥地に向かわれたご家族を見送ったあの日のことは、今でも心の奥深く焼き付いています。
空調設備も無い「あるぜんちな丸」、乗組員室はもちろん、船客室にもありません。ロスアンゼルスを出港し南下、パナマ運河を通過し大西洋に入り船内は連日40度を越す暑い日々、今では空調も整い快適な船内生活が送れますが、船客のみならず乗組も大変でした。
私、第12次航海に23歳の新鋭調理員として乗船し40年過ぎた今、あの頃の記憶を思い出させる機会を与えてくださったことを感謝いたします。
当時海外移住が盛んで毎月、神戸港・横浜港より盛大な見送りを受け、大きな希望を胸にドミニカ、ブラジル、パラグアイ、アルゼンチン等へ渡航された方々に決して平穏な生活が待っていたとは思われません。ジャングルを開拓し田畑を作っても、2年や3年で作物が実る訳ではありません。其の苦労たるや想像もつきません。テレビのドキュメンタリー番組で今では放送され見る機会もありますが、この苦労たるや筆舌に表すことは到底できません。本当にご苦労さまでした。
さて、船内生活を振返れば、当時花嫁移住者が毎航海10数名程度乗船していました。
写真一枚での見合いで、本人と会ったことも話したことも無く、遠く離れた異国の男性の元へ嫁ぐその気持ちは不安の毎日だった事と思います。四十年も昔のことですので名前を思い出すことも出来ませんが、朝早くから調理場に手伝いに来て五十度を越す調理場の暑さの中で大粒の汗を流しながら、未だ見ぬ未来の旦那様のため一品一皿でも多く料理を覚えようとしていた姿、私達も少しでもお役にたてばと毎日特訓したことを思い出します。
其の時の花嫁さん達、如何しているのでしょうか。あれから四十年、お孫さん達に囲まれ幸せな楽しい生活を送っておられることでのでしょう。
楽しかった事、苦しかった事、走馬灯のように思い出します。
出会いに始まり、約1ヶ月の乗船でしたが別れる時の辛さ悲しさ、南米航路三十数回経験しましたが毎航海この気持ちは同じでした。
本特集の第12次航ではありませんが、この6〜7航海後に幼い娘さんを連れて乗船されサントスで下船されました婦子2人が、その後スサノ地区で花屋さんをされていて家庭に
招待していただき親切にもてなされたこと、その娘さんが岡山大学の医学部に留学されて
いたようですが、名前を思い出せず失礼致しております。その後如何お過ごしでしょうか。
又、同時期ブエノスアイレスで下船された五十嵐さんも、その後同市内から車で30分位の地区で花屋をされており、家庭に招待していただき親切にもてなされた思い出は終生、私の記憶に残ることでしょう。
当時の移民船、あるぜんちな丸・ぶらじる丸・さんとす丸は現存しません。
代わりに、移民船時代の運航を引き継いだ商船三井客船株式会社が、にっぽん丸・ふじ丸の2隻を純客船として世界の海で運航し活躍しています。
私も現在は退職し、船に係わりのある仕事で頑張っています。
最後に、「私達の40年」編集委員会の益々のご発展と、代表和田好司様はじめ委員皆様の御健勝と御多幸を祈念いたします。
平成14年3月6日記す。
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