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『遠くて近い国ブラジル』 一移住者が語る40年のブラジル生活(前編)
今回の訪日に際し日本ブラジル交流協会の主催のもとに9月4日(木)国立オリンピック記念青少年総合センターに置いて午後1時30分からブラジルにおける著名な映像作家岡村 淳氏のビデオ『40年目のビデオレター アマゾン編』の上映とブラジル講演会を開催できましたことは嬉しい限りです。講演の内容そのものは、私が常日頃感じている事、既に『私たちの40年!!』HPで述べている事の一部を簡略化したもので変わり映えしない内容となりましたが、平日の午後にも関わらず会場に参集頂いた方にお礼を述べると共に参加出来なかった方達にも読んで頂ければと思い寄稿集に掲載させて頂きました。写真は、当日会場に来られていた森若さんが撮って画像掲示板に貼り付けて下さったものをお借りしました。


只今ご紹介頂きましたブラジル生活41年になります和田でございます。お忙しい中、わざわざご参集ありがとう御座います。
私は、この種講演には通常原稿を書かず、会場の雰囲気、反応を見ながら勝手に進めるのですが、脱線しだすと長くなり後で女房からお眼玉を食らったことも度々で今回は、講演後にここに来られなかった人達にも『私たちの40年!!』HPを通じて読んで頂こうとの意向もあり原稿を書く事にしました。棒読みに成らず、且脱線せずに与えられた時間を消化出来ればと願っています。

第1部の『40年目のビデオレター』アマゾン編如何でしたでしょうか。皆さんは、移民あるいは移住というものにどのようなイメージをお持ちでしょうか?ここにお集まりの方々は、20歳から70歳前後の広い範囲に渡っており、年齢により受け止めかたに大きな違いがあると思います。今年は、戦後移住50周年祭、笠戸丸の第1回ブラジル移民から数えて95年になり、5年後の2008年には実に100周年を迎えることになりますが、ブラジルより前に明治初年のハワイ移民、メキシコの榎本移民、ペル移民等が先行しており、ブラジルは決して古い方ではありませんが、その移民の数字では断トッで移民、移住について語る場合ブラジルを避けては通れないと思います。
ビデオでも見て頂いたとおり41年前のあるぜんちな丸第12次航で早稲田の学生の時に移住船に乗り681名の仲間と共にブラジルに移住しました。移住者の一人として日本政府より10万2千円の渡航費の支給を受け東京都の呼び寄せ雇用農の資格を受けた潜り移民で数年前にあった同船者仲間の一人から『まだブラジルにいたのか?どうせ1、2年のブラション組で船内では一番移住者らしくなかったお前がまだブラジルにいるのが不思議だ』と驚かれたことがあります。
移住船あるぜんちな丸の船内では、船内新聞『さくら』を編集、管理し仲間にガリ版を切って貰い、謄写版で馬糞紙に印刷して船が寄港中も休まず発行し続けました。
40年が経過し子育て、自分自身の勉学、仕事も一段落しブラジルでの生活を振り返る余裕を感じる時期に入り、神戸高校の同級生の一人からメールを頂き、「ブラジルに40年を在りし人は、落ち葉踏む音恋しからずや」と問い掛けられました。落ち葉踏む音に象徴される残して来た日本の良さ、日本への思いが皆無であると言い切れない面もあります。私自身は、40年のブラジル生活を懸命に生き抜いて来たとの自負があるとは言え同じ船で一緒に来た仲間のその後の人生はどうだったのか一人一人に『落ち葉踏む音恋しからずや』と聞いて見たいとの強い気持から始めたのが『私達の40年!!』のHPの根底を流れる本流であり基本理念です。
何故、40年なのかと不思議に思う方も多いのではないかと思いますが、10年前の30年では、まだまだ猛烈社員振りを発揮、懸命に仕事に打ち込んでいる時期であり誘われても果たして何所まで御手伝い出来たか疑問ですし、10年後の50年では当時20歳台の紅顔の美少年?も70歳を越しており何所まで動けるかが問題になり、多くの物故者を数えていることでしょう。移住40年の今だから出来る、今遣らなければ出来なくなるとの強い気持に駆られての動きとなりました。幸い船内新聞を一緒に発行していた仲間が殆ど健在で手伝って呉れる体制もあり昨年5月12日にサンパウロであるぜんちな丸第12次航の四十周年記念の会合を持つ事が出来ました。
ビデオにも紹介されているピメンタの里、トメアス移住地に住んでおられる90歳になられる海谷ことさんの長女海谷千栄子さんは入植後直ぐにマラリアに掛かり着伯後僅か2ヶ月であたら、うら若き20歳の命をアマゾンの土に捧げました。さぞや悔しかった事と思います。同船者の中で一番早い物故者です。681人の同船者一人一人に歴史があり、生き様があります。もう10年、20年もすると大半の同船者がこの世から居なくなり我々の事を語る人も居なくなってしまうでしょう。私たちが残したブラジル生まれの二世、三世がおじいちゃん、おばちゃん達はどうしてブラジルに移住して来たのか、ブラジルへの定着、苦難の道はどんなものだったのかその生き様とブラジルでの平穏でなかった定着の過程を自分達のルーツとして知りたいと思う時も必ずや来るのではないかと思います。その時に縁となるものが何もないというのでは寂しいだけでなく悔しいじゃないですか。我々の生き様を生きた証を何らかの形で後世に残して置きたいという切実な思いから『私たちの40年!!』のHPが生まれた訳です。40年後の船内新聞【さくら】の号外として出切れば本にして出版、保存を視野に入れておりましたが、手っ取り早く集まった寄稿、写真、情報をデジタル化してインタネットを通じて公開し皆で共有して行こうとの意向ですが、編集管理責任者の個人的なある意味では偏った編集方針、ブラジル南部のポルトアレグレに住むと云う地理的な環境等公平且普遍的な編集は望まれませんが、少なくとも一移住者、一同船者の目を通じての戦後移住の歴史の一部なりとも書き残して置こうとの主旨は達成していると思います。現在『私たちの40年!!』HPは、2万6千回近いアクセスを記録する同船者の動向だけでなく現代のブラジルを知る上での総合情報サイトとして日本の多くの皆さんに読んで頂き、画像掲示板を見て頂いております。
ここにお集まりの皆さんも一度は覗い事があるのではないかと思いますが、まだ見たことが無い方がおられましたら、お配りした自動車のギアに引っ掛けて車内ゴミ袋の役を果たすPPバックの下の方に『私たちの40年!!』ホームページのアドレス(URL)が記載されておりますのでアクセスして見て下さい。また知人、友人、家族の皆さんにも推薦頂くと共にご感想等を寄稿集に投稿頂くか画像掲示板等に直接書き込みをお願いしたい次第です。
これからブラジルに研修に行く候補生の皆さんには、ブラジルを知る為の格好の教科書としても役立つでしょうしポルトガル語のHPは、ポルトガル語の勉強教材としても大いに役立つと思います。

『私たちの40年!!』HPの紹介とPRが長くなってしまいましたが、ブラジルの現状に付いて簡単に触れて置きたいと思います。
7年前に矢張り女房同伴で訪日した時は、現在JETROの最高顧問をしておられ前エルサルバドール大使で当時サンパウロのJETRO所長をしておられた湯沢 三郎さんに勧められ廣島と高知でJETROのメンバーズ講演会の講師としてお話をさせて頂きました。その時はテーマが『メルコスール共同市場の中心地としての南部ブラジルの魅力』と云ったブラジルの政治、経済、貿易の話が中心でしたが今回は、『私たちの40年!!』という戦後移住者としてのブラジル生活が中心となり、政治、経済、貿易といった私の得意?とする分野の話に立ち入る時間が御座いません。
今年の1月に労働党のルーラ大統領が就任した事は、幾らかでもブラジルに関心を持っておられる皆さんは、ご存知の事と思います。社会学者で大学教授、外交官としても名の売れていた前エンリッケ・カルドーゾ大統領と正反対のブラジル歴史始まって以来の初等教育しか受けていない元金属工、11歳まで靴を履くことができなかった東北伯出身でサンパウロ州知事、大統領選挙と過去4回敗退の不死身の労働党員で決戦投票で5200万票を獲得、1億7千万人の希望と不安を背に第36代大統領に就任した56歳の若き指導者ですが、旋盤工として作業中に指を失った職工、労働運動の闘士、髭面のルーラの出現に世界中が驚きました。一部メガ投資家からルーラが当選すればブラジルは、デフォルトを宣言、1ドルが5レアイスを越し国は混乱を来たすと恐れられていましたが、大臣にテクノクラートを据え中道の穏健な政策を実施しており多くの彼を支持した左派階層の不満が募る中、ブラジルの大多数の支持の基、前大統領がなし得なかった公務員年金制度の改革等を遣り遂げている手腕は高く評価すべきでしょう。
8月14日にルーラ大統領自身が就任7ヶ月の実績をテレビ・ラジオで10分間の演説で説明しておりますが、「短期間の内に高率インフレを沈静化方向に転換させ、社会保障制度(公務員年金制)改革案を下院第一回投票で可決させる事が出来たのでこれからは金利を引き下げ健全な経済成長入りの条件が整った」と強調しています。一方、全国的に見られる土地なし運動組織とそれに対抗する農場主らの姿勢に大きな憂慮を示し、すべては法律を字義通り適用することで事態を収拾する、と政府方針を明確にして農地紛争地帯で緊張をもたらしている当事者らの軽挙盲動を諌めている。ルーラ大統領は、長らく引きずって来ている国内問題を健全な形で根本から改革して解決するまでには相応の時間が掛かるとして国民の理解を求めています。
この大統領の演説後、ブラジルの中央銀行が出す年間基本金利率が8月20日には現行の24.5%から2.5%引き下げられ22%にFIXされました。これは前大統領から引き継いだ年率25.5%より3.5%低い金利であり、インフレを抑制しつつ経済成長を促す大きな基本条件となり産業界、特に消費者金融を利用する商業界から好感を持たれ経済の活性化に役立つと期待されています。この中央銀行が決めた公定歩合22%ですが日本の皆さんには理解するのが難しいのではないかと思います。この年間金利から年間のインフレ率を差し引いた実質金利は、7,3%相当になるとの事でこれは18,5%の年間実質金利予想のトルコに次いで世界で2番目に高い年間金利になります。反対に云えばデフレ基調の日本にお金を置いて置かず安心できる形でブラジルに預金を移せるのであればブラジルで運用した方がずっと得する計算が成り立ちます。それが世界中からブラジルに直接投資または一時的なドルの流入を促し、メガ投資家のみならず小口個人投資家にと取っても魅力のある投資市場として注目される所以であり、国債購入、株購入等が活発化しているのが現状です。但し直接投資、新規案件としてブラジルにドルまたは円を持ち込むと現地通過ではそこそこ膨れ上がり利益が計上されますが、投下資本金を為替レートで割り返しドルまたは円に換算すると必ず目減りが発生し回収するには大きな為替差損、損害を計上する事になり広く大きなブラジル市場に腰を落ち着けて投下資本の本国での評価より現地での生産会社としての堅実さ、堅固さに基づく会社経営を目指す必要があると思います。
更に8月22日には下院で検討中の税制改革検討委員会で27-11で税政改革案が委員会で可決されました。現在各州が独自に法制を州議会で決めているICMS(商品流通税)の規定を全国統一する目的で連邦議会に移行する事が決められ各州の企業誘致を目指した熾烈な競争、不公平が是正されることになります。
社会保障制度の審議続行、税政改革、土地なし農民運動、公定歩合の引き下げ、為替レートの維持とインフレを抑えての経済成長、彼を大統領に押しやった左派労働者階級の不満をどう抑えるか、公務員のスト、都市部の治安維持等の問題山積ですが、少なくともインフレ抑制、貿易の入超基調の維持と年間200億ドル近い黒字、年初より18%と世界で一番貨幣価値が増えた貨幣としての評価を受けているレアル通貨の為替レート維持、正直云って出来過ぎている感が強い現状ですが、まだまだ予断を許さないのがブラジルの現状です。
出発前の8月25日には、中央銀行の基礎金利の引き下げにも拘わらず中銀の週間経済予想では、今年度の経済成長率を1,5%から1,4%に下げており、2004年の年間予想はそのまま変わらず3%をキープしております。2003年度のインフレ率も9,74%から9,63%に下方修正し公式年間インフレ目標の8,5%に近づいて来ております。年末の為替予想も1ドルR$3,17からR$3,15に下方修正し2004年度末の為替予想もR$3,41からR$3,40に修正されています。年間貿易収支は、7月末現在で180億ドルを記録しております。
具体的な質問等があれば後ほど賜るとして次の話題に移りたいと思います。

私は、地理的にもブラジルの最南端のリオグランデ・ド・スール州の州都ポルトアレグレ市に長年住んでおります。ポルトアレグレ市は、人口が、145万人近郊23都市を含めた大ポルトアレグレ圏、メトロポリタン圏としては270万に達します。州人口の1000万人の30%近くが集中しているメルコスール市場の中心都市として栄えております。国境をウルグアイ、アルゼンチンと接しパラグアイにも近く正にメルコスール市場のブラジルに置ける中心地としての役割を果たしています。リオグランデ・ド・スール州の経済力は、パラグアイとボリビアを足した経済力、あるいはチリ一国に迫る経済力を有し、ブラジルの輸出の12%以上を占めサンパウロ州に次いで2番目の輸出州となっています。ブラジルの穀倉地帯と言われる、大豆、小麦、米、玉蜀黍、タバコの葉、玉葱、葡萄といった農産物だけでなく州民一人に牛の数が1,3頭といわれる牧畜大国でもあり、羊、豚、鶏肉の家畜数でも国内有数の保有量を誇っております。第3ぺトケミセンター、ゲルダウグループの特殊鋼製鉄所、ユウカリのパルプ工場、ぺトロブラスとイピランガの精油所、最近ではGMの自動車工場等の輸出を可能とする工場が設置されていますが、これは下支えする基礎産業としての下請け工場の存在、特に機械加工、自動車部品工場の存在が大きく寄与しており、先端産業のエレトロニックス部門でもモトローラの協力の基に南半球で唯一のチップス生産が2005年から可能となることから電子産業の一大拠点として注目される可能性が出て来ています。ラ米最大のタバコ工場、大型皮革なめし工場とそこから出てくる皮革を原料とした対米輸出婦人靴を中心とした靴工場、漁業を含む食品加工工場と伝統産業と近代的先端産業のバランスの取れた発展を遂げており、サンパウロ、リオ、ミナスのブラジルに置ける3脚経済圏以外にもリオグランデ・ド・スール州という南部ブラジルにも一つの経済圏、投資市場があることを強調して置きたいと思います。
私は、この南伯ポルトアレグレに35年近く住んでおりますが『住めば都』自分の住む町には、大きな愛着を持っており、お国自慢の一つもしたくなるのは、人情と言えましょう。ブラジルでの牧畜を夢見て現在のトカンチンス州(昔のゴヤス州)に牛飼いとして50ヘクタールの土地を購入し24頭の牛を飼っていましたが300km四方に日本人がおらず自分がその中心になって周りに日本人が集まってくるまでパンツ一枚でバナナとマンジョカの芋にピラルクの干し魚を食っても土着するとの意気込みは立派だったのですが、僅か2年で挫折、ブラジル社会で通用するドトールの資格を得、弁護士としてこの地に戻るのだと自分自身を納得させて24頭の牛と別れリオに出ました。リオの石川島播磨造船所で1年働き夜間の予備校に通いブラジルの高等学校卒業検定試験を受ける準備をしましたが、造船所では、大学受験を諦め猛烈社員振りを発揮して頑張るか会社を辞めて受験に注力するかの二者選択を迫られ結局1年後の休暇時にサンパウロでポルトアレグレ総領事館の政治経済移住担当の現地補助員募集の新聞広告に応募、8月の寒い頃にリオからバスでポルトアレグレに赴任しました。これが35年前の1968年の8月でした。それ以来ポルトアレグレに住み着いております。1974年1月にブラジル経済ブームにのり日本商社丸紅が出張所を開設するのに合わせ現地職員として丸紅にジョインしました。日本でのサラリーマン生活を嫌いブラジルでの牛飼いを目指した私の唯一の心残りは、私が日本を出るときに港にも送りにこられず床に臥していた母が、『そんなにブラジルに行きたいのであれば行っても良いが兄が勤めている丸紅の入社試験でも受けて派遣員として行くかそれが嫌なら私が死んでからにして欲しい。』との願いを振り切って遣って来て置きながら母の望んでいた丸紅に現地社員としての入社は、皮肉なものでした。総勢5名程度の小さな出張所ですが入社4年目にポルトアレグレ出張所長に任命され心引き締まる思いで就任しましたが数年後に聞いた話では、丸紅ポルトアレグレは、閉鎖するが直ぐには難しいので和田に暫くやらせて2-3年で閉鎖すれば良いとの社内方針だったとか。裏の事情を知らされていない私は、それこそニンジンを馬の鼻面にぶら下げられて走らされる如く必死に社業に打ち込みお前が頑張りすぎるので出張所を閉められなくなったとTOPを嘆かせ?丸紅の海外拠点主管者としての最長在籍記録を塗り替え17年間、そのうち最後の4年間は、丸紅ブラジル会社の現地役員を勤めさせて頂きました。
事情があり1995年に21年間お世話になった丸紅を退職し55歳にして独立現在の『さわやか商会』を設立しました。さわやか商会設立にあたっては、できれば資格社会であるブラジルでそれなりの苦労をして得た弁護士の資格を生かし弁護士事務所を開業することも考えたのですが、女房が弁護士を開業するのであれば最後まで丸紅の現地役員として勤め上げその後であれば好きなようにしてよいが、まだ娘3人が大学に行く年齢の今、丸紅を退職して独立すると言うのであれば弁護士として独立するのでなくこれまでやって来て実績もあるし皆が協力して呉れるであろう貴方の得意な『売った買った』のビジネスの世界で家族を養えるように頑張て貰わないと家族が路頭に迷う結果を招きかねないと反対され、丸紅当時の業務を個人会社で継承する形で『さわやか商会』を設立しました。社名のさわやかは、健康食品でも売る会社ですかと当時聞く人もいましたが、これは娘3人の頭文字の小百合、弥生、茜、の三文字‘さやか`にファミリーネームのWAを加えSAWAYAKAとした次第です。和田ファミリーの会社であるとの表示以外にも丸紅とは事を構えない、第2の人生を爽やかな気持で遣っていきたいとの願いを込めての命名でした。事実会社は、和田家族全員と女房の妹を加えた男一人に女性5名の出資会社となっています。丸紅当時に私自身が開発した仕事等も現在も継続してワークしているビジネスもありますが、本来のダボ鯊精神が旺盛で何にでも喰い付く習性があり地理的にサンパウロから離れているという欠点もありますが、それだけに競争が少なく色々の仕事が舞い込みこの10月で9年目に入りますがお蔭様で忙しくストレスを貯めずに自分の裁量と判断で仕事を進めており有難い事だと感謝しております。本日は、態々高知から日帰り、大阪からも日帰り、広島、茨城からは1泊でこの会場に駆け付けて下さっているお客様もおられます。感謝の念に絶えません。
これからは肩の力を抜き、『私達の40年!!』のHP更改作業でもしながらゆっくり過ごしたいと願っているのですが、かえって仕事の方から飛び込んで来て丸紅当時より忙しい思いをしておりますが健康と気力が続く限り生涯現役で頑張って行きたいと願っております。(続く)




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