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『遠くて近い国ブラジル』 一移住者が語る40年のブラジル生活(後編)
使用ソフトが1編あたり1万語以内との制限が有り前編と後編に分ける事になりました。当日は、平日の午後でもあり120人も入る会場を用意して頂きましたが収容力の半分程度の入りでしたが第一部の映像作家、岡本 淳さんのビデオ【40年目のビデオレター アマゾン編】(78分)の上映も大型画面と側面テレビ2台で写し出され音響効果も抜群で私自身も始めて見るような気持で楽しめました。講演会後の質疑応答にも多くの方からビデオに付いての感想、質問が寄せられ岡村さんの映像による説得力の偉大性を改めて認識した次第で出来る事であれば継続してボリビア編、パラグアイ編、アルゼンチン編等ブラジル以外の国に移住された同船者のその後の動向を追って見たいと思いました。
写真は、画像掲示板に貼り付けて頂いた森若さんの1枚をお借りしました。大阪から態々来て頂いた井ノ口さんと講演後に撮って頂いたものです。


今年は、戦後ブラジル移住が再開されて50年の年に当たり『戦後移住50周年記念祭実行委員会』が組織され県連会長の中沢宏一さんが委員長となり多彩な記念行事を展開しております。ブラジル戦後移住50周年記念式典は、7月26日にサンパウロ州議会議事堂メモリアル・ホールで800名の参加者により盛大に行われました。『OBRIGADO BRASIL ありがとうブラジル』のスローガンは、私達を受け入れて呉れたブラジルへの感謝の気持でありそれを一つの形として残して行きたいとの願いから現在も日伯両国の親善を深め平和のシンボルである桜を育てつつ、より良い環境作りを目指す植樹キャンペンが続けられております。記念式典当日のプラグラムと植樹事業に付いての趣意書を協力者へのお礼の記念キイホールダと共に戦後移住50周年記念祭実行委員会よりお預かりして来ておりますので御収納下さい。
5年後の2008年には、第一回の笠戸丸移民から数えて100年になるブラジル移民史の大きな節目、100周年記念式典が計画されておりますが、この行事が実質的に日本から移住して来た我々一世が中心になって執り行われる最後の行事ではないかとの認識があり、この戦後移住50周年記念祭実行委員会が100周年記念式典への助走期間、推進母体として活動して行くことが期待されておりおります。一過性のその時だけの行事に終らせず今後5年、10年100年と受け継がれて行く植樹といった気の長い事業を展開し5年後の100周年祭には、日本の土を踏めなかった多くの日本人と地元ブラジル人の皆さんに桜の花を愛でて貰いたいとの崇高な事業にご協力頂けると戦後移住者の一人としてこれに勝る喜びはありません。
ブラジルの国花であるイッペーの色鮮やかな黄色い花が日本にも咲き初めております。今年の春には、神戸の移住センターのブラジル移民記念碑の横に植わっているイッペーが花をつけました。元町駅にもイッペーが植えられており近い将来移住坂と呼ばれている神戸の移住センターから歩いてメリケン波止場まで荷物を担いだといわれる坂道を整備イッペーの並木を作ろうとの計画があると聞いております。
皆さんは、演歌「神戸移住坂エレージ」と云う歌があるのをご存知ですか?甲南大学理学部の太田雅久教授の作詞・作曲になるもので2001年の4月、移民船乗船記念碑「希望の船出」の除幕式に紹介されたとの事です。是非今回、この曲を探して見たいと思います。
『故郷を捨てる思いを聞いた
異国に馳せる夢を聞いた
揺れ動く心の奥に秘めた願いも
港町神戸、小雪舞う移住坂』
是非日本でお世話になっている27万人と云われる日系ブラジル人の皆さんの手で『OBRIGADO JAPAO ありがとう日本』のキャンペンを展開してこの神戸の移住坂をブラジルの国花イッペーの花で埋め尽くして欲しいですね。もし具体化すればブラジルからも応援したいと思います。日伯交流協会で取上げて頂けないものでしょうか。今後の課題としてご検討下さい。

次に日本の明治以後から現在に至るまでの移住史をブラジルを中心に触れて見たいと思います。
明治元年にハワイ移民が日本からの公式の移民の始まりとされていますが、その後、1889年のペル移民、1897年榎本メキシコ移民等ブラジルより前に始まっています。『私達の40年!!』の寄稿集にもペル移民に付いては寄稿集232番目、メキシコ榎本移民に付いては作家柊 次郎さんの書下ろしの原稿を寄稿集238番目に紹介しております。ブラジル移民は、ご存知のとおり明治41年(1908年)に始まり、戦前に18万人が移住しております。戦後移住は、第二次大戦による領土の喪失、600万人の引揚者、ベビー・ブームと食糧難、経済の低迷等の状況の中昭和27年より再開されました。バケツの水が溢れ出すように日本からの送り出しを政府主導による移住促進策を生み出し、一方多くの引揚者、外地生活経験者が何処でもよいから日本を飛び出したいとの希望から昭和30年代初頭には、年間7千人以上がブラジル、ボリビア、パラグアイ、アルゼンチン等に移住しました。私達が乗船したあるぜんちな丸第12次航は、これらの戦後移住の最盛期を過ぎ凋落の一途を辿る東京オリンピックの2年前の1962年でした。その後日本経済の高度成長の継続、生活水準の向上、移住先国の移住者受入の厳選化を背景に中南米諸国への移住者が激減し移住船も姿を消し飛行機による移住等細々繋がってきていますが、最近では家族呼び寄せ等限られた形での永住ビザ取得以外は、ことブラジルに関しては殆ど永住査証を取得できず新しい血としての移住者を望めずブラジル日系社会の老齢化と先細りの問題と経済的な理由による戦後移住者のUターン現象、日系2世、3世の日本への就労等の新しい流れが生れ、出稼ぎ問題、日本に住む日系ブラジル人の滞在長期化、教育問題、犯罪者の温床と言った多様な社会問題も起きて来ています。1908年から33年掛けてブラジルに遣って来た戦前移住者18万人と戦後ブラジルに移住してきた5万人に匹敵する25万人以上が現在日本で就労していると云われており経済格差に基づくこの出稼ぎ現象をどのように位置付けて行けば良いのか難しい問題ですが、『ボーダレスになる日系人』を書かれたサンパウロ人文科学研究所長の宮尾 進先生は、出稼ぎ集団を新しい日本文化の担い手として位置付け、『日系社会の文化伝承、またその将来ということも、一にかかってこの現在の「出稼ぎ」という大集団をどうとらえ、どういう方向に持っていくべきか、その検討と対策の実施にかかっているのではないかと思うのであります。』と1993年に行われた「日系コミュニティーの将来」というシンポジュームで発言されております。

さて、私と日本ブラジル交流協会との繋がりは、玉井会長が交通遺児育英会の専務理事として海外研修大学制度で大学に行けない高校生に胸を張って実社会に旅立て欲しいとの願いを込めて短期間の海外での研修を大学卒業したのと同じ役割と効果を期待する制度で南のポルトアレグレにも学生を連れて行きたいとの事でその下見に来られたのが始めてでした。1978年、もう25年も前の事です。藤村理事長もその時、御一緒に来ておられポルトアレグレから初めてブエノスアイレスまで足を伸ばしておられたのを覚えています。その後、日本ブラジル青少年交流協会が設立され、現在の日本ブラジル交流協会に引き継がれて来ております。
若い頃に方々で多くの方達にお世話になった事へのお礼の気持から私より後に来る人たちへのバトンタッチの精神で順送りして行きたいと願っており、【近頃の若者は。。。】といった言葉が出て来ない内はこの順送りの世話を続けさせて貰うつもりです。数えて見た訳では有りませんが多い時は20%、一年だけ研修生ゼロの年がありましたがこれまでに全研修生の10%前後の研修生をお世話して来ました。今回は、その1期生としてポルトアレグレの名門サッカーチームで研修していた当時筑波大学の松田 浩君が現在J2のアビスパ福岡の監督をしており、陣中見舞いを果たす積りで13日に博多の森での川崎フロンターレとの試合を応援に行きます。4期生の山口事務局長とは、今日も顔を見せて呉れている蝋山はるみさん等同期生3人がブラジルの東北伯レシフェーを訪問した際に出迎えて呉れムケッカという魚の鍋料理を一緒に突いた事もありその他にも多くの元研修生が顔を見せて呉れており、嬉しい限りです。
色々話して来ましたが、折角の機会ですので日本ブラジル交流協会の来年度の研修生としてブラジルに行く候補生の皆さんに一言送りたいと思います。41年前に私も皆さんがブラジルに架けている思いと同じものを胸に抱き東京都の農業移住者としてあるぜんちな丸第12次航に乗り込み大学を2年間休学して中南米7ヶ国を歩き周りましたが、当時は皆さんが選んだ日本ブラジル交流協会といった格好のよい名前と組織がある訳でなく日本学生移住連盟とか早稲田大学海外移住研究会といった泥臭いサークルの一員としての渡伯でした。多くの現地在住の皆さんにお世話になり励まされての2年間でしたがやはりこの現地での経験が私のその後の人生を決めたと云っても過言ではないと思います。赤い絨毯に憧れ早稲田の政経の政治学科に入学、雄弁会、政治学会等に席を置き、デモと早慶戦に現をぬかしそのまま大学を卒業しておればその後の人世がどうなっていたのか遣り直しが利くのであれば遣り直して見るのも面白いと思いますが、港神戸に多感な青年時代を過ごした者としてもう一度選択のチャンスを与えられたとしても矢張り同じブラジルでの人生を選択すると思います。
『男子至る所に青山あり』と言われ戦前の若者は『俺も行くから君も行け狭い日本にゃ住み飽きた』と満蒙開拓に憧れ大陸指向が強く支配していましたが、皆さんがブラジルを選んだ理由は、何なのでしょうか。幾つもの選択枝が用意されている春秋に富む皆さんの人生にこのブラジルと言う選択が果たしてどう転がっていくのでしょうか。日伯の架け橋的な人材を育てる目的で貴方達は第24期生で既に四半世紀に渡り700名以上の研修生を送り込んでいる日伯交流協会の研修制度は、移住といる観点からは、殆ど門戸を閉ざしているブラジルへの数少ない学生ビザによる渡伯チャンスです。一年のブラジル研修後の貴方達の人生がどの様な方向に向かって行くのか興味あるところです。多くの貴方達の先輩OB、OGの皆さん一人一人の経験が蓄積されその上に貴方達の新しい歴史が積み重ねられて行くのです。先ほども触れましたが5年後の2008年には、ブラジル移民100周年記念を迎えますが私達のブラジルでの歴史も46年に達します。681名の同船者の動向を記録して行く作業も一段落するでしょう。それまでは出来る限りこの地味な作業を続けて行きたいと願っています。
最後に既に異郷の地で亡くなられた多くの同船者を悼む気持を込めて学生時代に新宿の歌声喫茶で覚えた反戦歌の一つ『大砲としゃれこうべ』の歌をお聞かせしましょう。4番は私の気持を歌ったものです。
1 大砲の上に しゃれこうべが
  うつろな目を ひらいていた
  しゃれこうべが ラララいうことにゃ
  鐘の音も 聞かずに死んだ
2 雨にうたれ 風にさらされて
  空のはてを にらんでいた
  しゃれこうべが ラララいうことにゃ
  おふくろにも 会わずに死んだ
3 春が来ても 夏が過ぎても
  誰も花を たむけてくれぬ
  しゃれこうべが ラララいうことにゃ
  人の愛も 知らずに死んだ
4 ブラジルに来て 早四十年過ぎ
  夢かなわず 故郷を思う
  しゃれこうべが ラララいうことにゃ
  祖国の土も 踏まずに死んだ
故郷を思いながら異境の地で死んでいった多くの同船者、ブラジルの土に返る私自身の思いを込めて鎮魂の歌をお聞きかせしました。ご清聴有難う御座いました。



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