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産業開発青年隊10期生後期 64年8月15日サントス港到着の永井 勝次さんの帰国後に辿った道
今回の訪日の際に神戸新聞、中日新聞等で紹介された『私たちの40年!!』HPの記事が取持つ縁で身近な所に産業開発青年隊10期生後期で64年8月15日サントス港到着の永井勝次さんのお兄さん永井恒夫さんからのお便りを頂きました。3年有半のブラジル滞在を終え帰国されたのが68年の正月だったとか。その後京都の西山浄土宗本山「光明寺」で静養中に縁があり東洋大学を終え学校教員、僧侶を務めて3年前に肝硬変で亡くなられたとの事。永井勝次さんのお兄様は、私の入っているHSLN(ハッピーシニア・ライフネット)のメイ友 梅仙人@紀州みなべさん事、永井恒夫さんで次のようなお便りを頂きました。原文のまま勝次さんの同船者、開発青年隊の仲間にもご披露頂いて良いとのことですので寄稿集に掲載させて頂きます。
写真は、お兄様の永井恒雄さんより関係記事、ビデオテープ等と共に送って頂いたものの在りし日の永井勝次さんです。ご冥福を祈ります。



梅仙人@紀州みなべ です

この度、中日新聞を見せてて頂きながら懐かしく想いだしたことがあります。私の実弟(3年前に没)が開発青年隊の一員として朝霧高原の施設で測量等の訓練を受け満19歳でブラジルに渡りましたが、3年目で大怪我をして、やむなく大西洋周りで帰国したのでしたが、もう40年近く前の話となります。

横浜の埠頭から確かアフリカ丸?に乗船したかのように覚えています。ブラジル移民で渡って向こうの土になる気で行くのならと家族が渋々送りだしました。私は弟に気合を入れる為に、紀州から自転車で大阪に出て東海道をひた走り横浜埠頭まで野宿しながら見送りに走ったのが39年も前になるのかと感じいっています。

横浜訓練所?名前が間違っているかも知れませんが、そこに移民する方々が沢山集まって居られたように記憶しています。出航する船の横腹に「産業開発青年隊」と横幕が張られて、多くのの移民者と見送る人とを繋いだ色とりどりのテープが出航のドラの音と共に切り破れ大きな船が段々小さくなっていったのを想いだします。

ブラジルで頭に大怪我して意識不明となり命が危いと云われていたそうですが。その時にイタリア人が親身に代わる様な看病と手当てをしてくれたお陰で一命を取り止めたらしいです。昔の日独伊同盟”の話をして親切にしてくれ、元の健康に戻ったら母国日本に帰れ!とも勧められ多少後遺症の残っているのをキッカケに帰国してきたようでした。

それから57歳まで教職と寺の住職をしていて最後の死ぬ前の年などは、民放のテレビで和田アキコさんが司会している「幸せ家族」番組で108人の女性モデルの顔と名前を回答して300万円相当の賞品を頂いたのが最後になりました。

実弟と同じく移民された方々の中に今でも元気にブラジルに居られると思うと懐かしく新聞を読まして頂きました。今生きて居れば丁度60歳になります。
紀州みなべ梅仙人(永井恒夫) 9月26日第1信

梅仙人@紀州みなべ です。

早速のお返事ありがとうございました。弟の名前は確かに永井勝次です。帰国は大西洋周りでアフリカのケープタウンを廻って神戸港に着いたのは正月の寒い日でした。
それから京都の長岡にある西山浄土宗本山「光明寺」に知り合いの和尚が居りまして、静養がてら滞在さして貰うことになりました。そこで縁があり大学に進学させてもらい僧籍を頂き、その後上京させて頂き東洋大学を卒業させて貰った訳です。

その後、和歌山県有田市の中学に奉職していまして、そこで御縁があり有田郡吉備町のお寺の婿養子となり名前も 若宮(勝次)秀勝 として人生の再出発をしたのでした。
それから3人の子供にも恵まれ教職と僧侶を兼ねて地域の方々の中に溶け込んで寺院の活動などして檀家の皆様に親しくされていたようです。

しかし、肝臓に問題があるとの事で治療していたようですが、最後は肝硬変に追い込まれ再起は不可能でした。後に残された子供達3人は、長男の方は、教職と僧侶を兼ねていて、長女も結婚し、末っ子の女の子は、大学4年生になっています。その寺は明恵上人”とゆかりのある寺院で多くの方が来られるそうで、未亡人になっている奥さんの方も元気にお接待されています。

> 驚きました。いつもこのMLで紀州で梅を栽培しておられるとの便りを読ませて頂いて いる紀州みなべさまが永井勝次さん(南米産業開発青年隊10期生後期16名=1964年9月 18日サントス港到着「あふりか丸」三重県出身=青年隊40年史会員名簿より)のお兄様だったとは。それも永井さんが帰国後の様子なども知らせて頂き喜んでいます。私の乗って来たあるぜんちな丸第12次航(1962年5月11日サントス着)でも青年隊の仲間33名が一緒に渡伯しております。私たちより2年近く後に渡伯された永井さんと同じ時にサントスに着かれたお仲間が永井さんを含めて3名の方が帰国されておりますが13名の方はブラジルに残りました。物故者も出ているようですが皆さんお元気のようです。

そうですか!その方々の中に山口県山口高校出身の方だったと思うのですが、出発前に私の所に半月程滞在され、梅の収穫などを手伝って貰い青梅の出荷で農協の撰果場まで一緒に車で行っては、帰りにジュースを飲みながら帰って来たことを想いだします。同じ開発青年隊の何人かはみなべに来られたことがあります。

> みなべさまのこのお便りを『私たちの40年!!』の寄稿集に掲載して弟さんのお仲間
にも帰国後の様子等を知らせて挙げてもよいでしょうか。ご許可頂けるようであれば早速UPします。勝次さんは残念ながらお亡くなりになっているとのことですが生前のお写真等があればお願いしたいのですが。。。一応、南米産業開発青年隊関係の写真を使用して置きますが出来れば勝次さんのお写真をお願いしたいと思います。

有難いことです。写真や帰国後の様子を表すものがあれば送らして頂きます。和田さんの住所をお知らせ頂けることが出来ますれば郵便で送らして頂きます。

何とも嬉しい感動の夜になりました。有田郡吉備のお寺の奥さんや息子にもこの話を伝えることに致します。

和歌山県日高郡みなべ川村東本庄299  永井恒夫(梅仙人)9月26日第2信


梅仙人@紀州みなべ です。

ブラジルの和田様や 皆様のお陰で実弟(永井勝次)のことやその友人の消息が判り感謝致しております。早速に母(ぬい)や養子先に連絡を取りました所、大変懐かしく喜んでおりました。民放で全国に放映されました「しあわせ家族計画」で実弟が優勝した際のビデオテープと写真を4〜5日したら私の所に送ってくるとの事ですので折り返しブラジルの方に送らせてもらいます。

今、その当時の写真ブックを開いて見ますと「外務省 横浜移住あっせん所」と書いた看板の前でとか、「アフリカ丸」と書かれた船体の前で首にレイをかけた弟と私の写真が出てきたりして40年前にタイムスリップしています。

斜めに架かっている船橋をバッブを肩にして上っている弟の姿やら、大きな字体で「祝壮途 佐賀県 知事 海外協会長 池田直」と染め抜かれた大きな垂れ幕や、字がはっきりこそ読めませんが白地の垂れ幕が何本も写っています。おそらく各県や団体が贈った送迎のものでしょう。

> セツ子@東京です。おはようございます。
> > 梅仙人さんの若くてお元気な時代(今もお若いですが41年前)を良く覚えておられる
> > 方が地球の裏のブラジルにおられます。
> のお話、興味深く拝読しました。
> 私は、夫と一緒に梅仙人さん宅を訪ね、
> 母上にもお目にかかっていますので、
> 若かりし頃の仙人さんの様子を彷彿とさせるエピソード、
> さもありなんと思いました。

イヤー!楽しいような気恥ずかしいような気がしますが、そう云われれば、そんな事もあったかなと思い出しています。私の若い時代をご存知だと云う山口県出身の長田さんが話してくれた言葉を今でも何かの時に使っているのがあります。

「いまでも長州人は、個性ある優秀な人材と見れば、必ず大物の先輩が引き上げる県民性が残っています」 の話が脳の奥深く残っています。「眼差しは外に想いは内に」の山口県民性と合い待って仙人の憧れる精神と生き甲斐になっています。今思えばそのキッカケを作ったのが結局ブラジルに健在で居られるというさん長田さんだった様です。  ウワー! 懐かしいな!

> おばさまが、ブラジルで、財をなしたというお話を
> 梅仙人さんに伺っていましたので、
> どこかで、和田さんと繋がっているのではと、
> 実は、和田さんが登場なさった時から、思っていましたが、
> やはり繋がっていましたね。
> インターネットのすばらしさですね。

母の伯母が大正から昭和初期にカリホル二アに移民して幾らか稼いで郷里に帰り、その当時ならドルを円に替えれば日本では少々の山野、土地を買えていっぱしの生活が出来たそうです、その伯母はブラジルではなく北米でありました。

それにしてもインターネットの素晴らしさを痛感さして頂いた仙人でした。
紀州みなべ 梅仙人    9月27日 第3信

ブラジルの和田さま、 hslnの皆様  紀州みなべ 梅仙人です。
ここ2〜3日の紀州熊野地方は夏を思わせるような暖かさになっています。シンピジューム、オンシジュームのハウスにビニールを掛ける時期にはなっているのですが、余り高温になると花芽”が飛んでしまうので、目下、模様眺めと言う所です。
> お母様も86歳になられたのですね。サンパウロに住む弟さんと同期の長田 功さんは、そちらでお世話になっていた時に大黒柱として小柄なお母様が皆さんからぬい、ぬいと呼び捨てで親しまれていたのを今も懐かしく思い出すと語っておられますが、
元々、体が鉄で出来ているのかと周りから云われる位、達者な方だったのですが、3年前に軽い脳梗塞にかかり、それから歩行に少し無理がかかるようになっています。しかし家の回りで家族の為の野菜作りや身辺の事は自分でしてくれるので今のところ助かっています。
母に 長田功さんの話を伝えますと大変喜んでいました。「ぬい」〜〜と云う名前を40年前近く経ても覚えてくれているのにとても感激していました。  長田さんにお会いするような事がありましたら、そう喜んでいると、お伝えください。
> 勝次さんの幸せ家族で300万円を獲得された時のビデオ等を産業開発青年隊の集まりの時に皆で見ようと喜んでおられます。本当に有難うございます。若宮のご実家の皆さんにも宜しくお伝え下さい。
和田さまからのお話などは即時、若宮家にお伝えしていますが、とても喜んでおります。ビデオに中に出ている寺の檀家さんや総代さん達も「勝次さんのビデオがブラジルの仲間の方々に見てもらえる」と手を合わして感謝しているそうです。有難うございました。
> 勝次さんの事を掲載した寄稿集285番目の写真を送って頂いた写真に取り替えて置きましたのでご覧ください。
> http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=445
> 現在、送って頂いた『母と二人の息子』を大阪の妹にタイプアップするように頼んでおり40年近く前の梅仙人さんの勝次さんのお写真と共に寄稿集に掲載させて頂く予定です。
和田さんやhslnの皆様のお陰で、死んでいてもブラジルの昔のかっての仲間に再会さして貰える実弟は幸せ者です。hslnのメーリングが無かったら、この出会いが起こらなかったでしょうし。同じ釜の飯を食べた昔の仲間でも、お互いに閉じたままの歴史で終わっていたことでしょう。40年前の延長が回り廻って花開いた感じがしています。
> 私財を投じて無料の宿を営む村と都会を結ぶ「梅仙人」さんの所を今回の訪日で訪ねられなかったのが心残りとなりましが次回帰国時には何を置いても駆けつけたい場所の一つです。必ず伺いますので宜しくお願いします。
そんな大袈裟な山荘ではないのですが、東京の建築家が見えられた時に「狭さの安心感広さの開放感!  と云う建築の究極が、これだ!」  だと賞賛してくれた事はありますが。お上手言葉だと思うのですが、見晴らしの良い場所は場所だと感じています。
梅酒”達も地下倉でお待ちしていますので、訪日の折は是非お寄りください。
今夜も近所の人達が集まって明日の朝までパーテイだと寝具の用意もしていました。この月の中頃には神戸大学の先生などがツーリングで山にくるので2泊程お願いするとメールも入っておりました。オンボロ山小屋ですが宜しく〜〜〜〜〜。
紀州みなべ梅仙人。





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